皿が洗えない(手記5)
つぎにはじめたアルバイトは居酒屋だった。居酒屋といっても、ホールで注文をとる仕事ではない。裏方――キッチンである。接客業がダメだったので、居酒屋チェーンでキッチン担当として働きはじめたのだ。そこでぼくは意外な再会を果たした。
キッチンのスタッフならば、レジをうつことはほとんどない。それならば、と思いぼくは働きはじめたが、結果的に、こちらのほうがより悲惨だった。
居酒屋のピーク時間の忙しさは、レンタルビデオ店の比ではない。
戦場――という比喩がこんなにしっくりくる状況を、ぼくはほかに知らなかった。
だから、ちょっと多くの注文が入るだけで、脳がまっしろになり、なにがなんだかわからなくなる。
頭がパンクするのだ。そうなってしまうと、戦力どころか、邪魔者だ。
ガラのわるい軍隊では、助からない傷病兵は捨て置くというが、ぼくも捨てられた。こいつ(の人生)はもう助からない――戦力になることはない――と決断されたのであろう。
ベテランバイトは、ぼくに、
「邪魔だからどっかいってろ」
といった。皿すら洗わせてもらえなかった。あれはあれで、むずかしいそうだ。それがアルバイト三日目のことである。その後、ベテランバイトに三行半をつきつけられた。
それは、完璧なまでの戦力外通告だった。
「オレも、いろんなやつに仕事教えてきたけど、おまえほど飲み込みわるいやつは、はじめてだよ」
あいつは、冷笑しながら、そういった。
あいつも所詮、アルバイトなのだから、ぼくの首をどうこうできる権限なんてない。だから無視してしまえば、それでいいといえばいい。だが、バイト先のベテランに目をつけられるなど、それはそこでのじぶんの居場所がないと宣言されるに等しい。事実上の、死刑宣告だ。
そうして、ぼくはふたつ目のアルバイトを辞めた。五日目のことだった。
その後のアルバイトは、レンタルビデオ店や居酒屋チェーンとおなじか、それ以下の日数しか続かなかった。
接客や飲食はどれもこれも似たようなものだ。さすれば、辞める理由もおなじになる。ぼくは、これらのアルバイトを諦めた。
さりとて、引っ越し屋や倉庫仕事もぼくには務まらない。なんせ、体育の通知表は「一」だ。
BPMが二十をはるかに下回る虚弱体質の僕に、重いものなど持てようはずもなかった。
引っ越し屋の面接官も、そんなやつがノコノコやってきても、扱いに困るだけだろう。ぼくは、そういう迷惑はかけたくない。
「そういう迷惑」って、どういう迷惑だ。
そうこうしているうちに、財布が淋しくなってきた。決して、心が淋しくなってきたわけではないが、いちど実家に撤退しようかなどと考えはじめた。
ホームシックなどでは断じてない。当時のほんとの気持ちがどうであったかなんていまとなっては、じぶんでも及びもつかないが、少なくとも若いぼくはそう信じていた。
しかし、そろそろほとぼりも冷めているだろうと、じぶんのせいで、それも自発的に飛び出したことなどとうに忘れていた。いや、忘れてはいない。忘れたふりをしていただけだ。
『いつでも帰ってらっしゃい。お父さんには、あたしからいっておくから』
母は電話口でいった。仕事のことなどまったく尋ねてこなかった。急に実家に戻るといいはじめたので、なにがあったかをおおむね察していたのだろう。
電話をしたつぎの日、ぼくは実家に帰った。ちょうど日が変わったころで、仕事で朝が早い父はもうすでに眠りについていた。母はダイニングでひとり、テレビをみていた。手もとの湯には、でがらしのように薄い番茶が入っていた。
「おかえんなさい」
ただいま、とぼくはいえず、無言のまま二階のじぶんの部屋だった場所にむかった。そこはまだ、ぼくの部屋だった。
物置きに改造しようとした父を、母が必死になって止めたそうだ。こうなることを、あらかじめ見越していたのかもしれない。
ということは、母は父よりも、ぼくのことを信用していなかったことになるが、そのことについてはなにもいわなかった。
だって実際、母が思うようになったのだから。同時にそれをいちばん望んでいなかったのが、母であるとぼくは信じたいが、それは都合のいいはなしなのかもしれない。
ぼくは実家に帰ってきてからも、まともに仕事を探そうとはしなかった。母には、ネットで探していると適当なことをいっておいたが、インターネットに弱い彼女は、
「ああそうなの。がんばって」
と励ますだけだった。父はもう、なにもいわなかった。なにもいってくれなかった。