やればできる子、やらない子(手記3)
図画工作が苦手な一方で、勉強はそれなりにできた。
勉強、といっても、国語・算数・社会・理科などのことである。もちろん、副教科は、どれもこれも苦手だ。
だから、そちらをがんばる。勉強らしい勉強をがんばる。
当然、成績はあがる。もっと楽しくなる。
国語が得意だった。基本的に怠惰なので、漢字を覚えたりするのは、嫌いだが、文章問題を解くのは好きだった。
小説や説明文――中学、高校ではおなじものを「評論文」と呼んでいた――はわりと楽しく読めて、なおかつ、成績もまずまずわるくなかった。
一方で、副教科はますますダメになる。そちらもがんばれば、それなりになんとかなったのかもしれないが、いかんせん、初期パラメータが低すぎるのである。だれも育成しようなどとは思わない。と幼稚園のころから意識的にしろ、無意識的にしろ思い続けていたのだ。もはやいかんともしがたい。そうなると、どんどん周囲との差がつく。もはや追いつけないレベルになる。周回遅れだ。
そこまでくると、「ガリ勉」というありがたいあだ名を拝命するのも、すぐそこだ。実際どうであるかはどもかく、そういうレッテルを貼られると、クラスにおけるただでさえ低い僕の立場はさらに低下する。
ただの目立たないやつから、いじめられっ子までの距離は、実はかなり近い。お隣さんである。運がわるければ、あっという間にいじめのターゲットにされる。
そしてぼくは、運がわるかった。つまり、ヤンキーに目をつけられたのである。
中学一年生のころである。きっかけがあり、均衡が崩れた。
体育の時間だった。副教科である。予想通り、ぼくは運動神経が極めてわるい。副教科にたいする苦手意識に例外などないのだ。
サッカーをやることになった。
集団競技は、個人競技よりきらいである。なぜなら、周りに迷惑をかけるからだ。
個人競技ならば、クスクスと笑われることはあっても、だれかの迷惑になる確率は低い。しかし、集団競技ならそうはいかない。
かならず巻き込み事故に発展するのだ。
だから、ぼくはバスケットボールであれ、サッカーであれ、なるべき目立たないというじぶんなりの処世術を行ってきたつもりだった。コートの隅っこでひっそり。こっそり。だれも巻き込まないために。しかし、いかんせんボールはイレギュラーにこちらに転がってくることがある。
無視したいところだが、それはより都合のわるい結果を招く。
ヤンキーは例外なくサッカーが好きだ。
だから、ふだんの授業はまともに受けないくせに、サッカーだけはまじめにプレイする。まじめということはつまり、真剣だということだ。本気である。本気である。
勝ちにいく。そのときに、こぼれ球を無視するチームメイトがいたらどうだ。彼らは激怒する。その怒りはヤンキーにしては至極まっとうであるといえるだろう。
だから、ぼくはボールをパスとまではいかなくとも、とりあえずは正面にけり出そうとした。
結果は、から振り。
この場合の「から振り」とはなにもうまくいかなかったことの比喩ではない。そのまんまの意味である。ぼくの足が空を切ったのである。
「なにやってんだ!」
ヤンキーの罵声。怒声。
いまだに脳裏にそのときの怒鳴り声は焼きついている。
笑われるのだったらまだいい。慣れている。
しかし、ヤンキーのリーダー格は、怒った。
ぼくがふざけていると思ったのだ。ふざけるわけないのに。わかるだろそれくらい。ふざけているのはそちらだ。もちろん、そんなことはいえない。いえるはずがない。
運動神経に恵まれている彼からすれば、奇怪な挙動でサッカーボールをから振るなど、わざとやっているとしか思えなかったのだろう。
ぼく自身、あんなに大きな球っころをから振るなど、さすがに思いもよらなかった。しかし、びっくりしている場合ではない。なぜなら。
「ふざけんな。シバくぞ!」
ヤンキーリーダーは怒鳴った。おない年のそれもじぶんより頭のわるい(と思っている)輩に怒鳴られるなど、みじめ以外のなにものでもなかった。が、それが公立中学の仕組み(ルール)だ。狭い中学社会での序列のなかでは、ぼくはバカなヤンキーより明確に――下なのだ。
「――ご、ごめん」
か細いとかいうレベルではない。蚊の鳴くような声でぼくは謝った。
ワザとではないと申し開きをすることはしなかった。もはやそれは大した意味をもたないと思ったからだ。
この一件で、ヤンキーはぼくという人間を認識した。判別したといったほうがいいかもしれない。陰気なクラスメートが名前をえたのである。
つまりそれはいじめる対象として認識したということだ。ロックオンである。
それ以来、ぼくはヤンキー族のターゲットとなった。彼らも情報共有する。
あいつはいじめてもいい、と。かくして、ぼくはヤンキーのイジメの目標物になったのである。
彼らの理不尽極まりない暴力の雨あられに対して、ぼくは反撃するすべを持たなかった。実力行使をもって対抗することはおろか、言葉でいい返すことすらできなかった。
(気にするな。気にするな)
ぼくは、彼らを自然災害と認識することにした。台風や地震をまえに、人為など取るに足らない。だから、過ぎ去るのを待つしかない。
もしくは、彼らは空襲であると考えた。あまりに強大すぎて小市民にはなすすべがない。さすがに竹やりでB29や自動小銃を持った相手に立ち向かおうとは思わない。だから、こちらは悪夢が通過するまで防空壕に隠れて震えるしかできない。
(気にするな。気にするな)
いい聞かせることで、心にプロテクトをはっていた。
そして、心のなかでこう思うことでじぶんのアイデンティティを保っていた。
――あいつらは馬鹿である。ぼくは賢い。
――あいつらの将来は暗い。ぼくの未来は明るい。
後者などなんの根拠もない。が、そう信じることで、ようやくじぶんを支えることができた。しかし、けっきょく、その逃げ場はまもなく喪われることになるのだが。
そのときが来るのは、はやかった。意外にも――とはいうまい。それは必然であった。予想された物語の帰結だった。自覚もあった。じぶんを支えていた足場が崩れていく感覚。最終防衛ラインが突破される予感。高校生から、いや、正確には中学の途中からうすうす感じていた。あくまでなんとなくいやな感じという曖昧模糊としたものでしかなかったが。
勉強はできると書いた。が、べつに神童というわけではない。副教科が苦手すぎて、まだなんとかなる「本教科」(そういう表現が適切かどうかはわからない)のほうが楽しく感じるだけだ。相対的な問題なのである。
当然、高校生になると、息切れする。
ごくまれにそのまま大学受験まで突破してしまうほんとの神童がいるそうだが、ぼくはそうではなかった。
それだけのはなしである。
ぼくは天才ではなかった。ぼくの才能(というほど大層なものでもなかったのかもしれないが)は、大学受験というひとつの到達点までもたなかった。息切れしたのだ。シンプルな結論。だれにでも容易に想像がつく、どこにでも、どんな時代にでもあるありがちな挫折経験。やはり、ぼくはどうしようもない凡人だったのだ。
べつに最初から勉学の才能があったわけではない。繰り返すが、まだマシだっただけである。
そんな後ろ向きな理由で通用するほど、高校数学・英語そのほかは甘くない。さりとて「ガリ勉」になれるほど熱意もない。副教科でがんばれなかった輩が、本教科で苦しくなったときにがんばれるはずもない。
そういうわけで、ぼくの成績は乱降下した。
得意だった国語も、古文や漢文がでてきてもうダメだった。ミニバブル崩壊である。
――なにもできなくなったのだ。
長所なし。短所すべて。
なにに頼ればよかったのだろう。当時、もしだれかに相談していたとしても、
「君にいいところはあるよ。大丈夫!」
という根拠のないおためごかしを聞かされるだけだろう。
どこに? なにが?
当たりまえな疑問を口にしても、答えてくれる人はいない。
「それをいまから探そうよ! きっとみつかるよ」
ウヤムヤ。逃げ。
そりゃあそうだろう。そういうことをいう輩はだれにでもおなじことをアドバイスしているのだ。だれにでもいいところがあると、まさか本気で信じているわけではないだろう。
むしろ、そうやって親切なじぶんを演じることで気持ち良くなれるのだ。ぼくの実存的な悩みは、そんな自意識オナニーに浪費されて終わりだ。
ならば最初から相談しないほうがいい。
それがまちがいだったのかもしれない。もしかすると、
「君のいいところ? えっと、あれとあれと」
「おまえのいいところ? ねえよバカか! というか、そんなのじぶんでわかるわけねえだろ。悩むだけムダだ」
といって、一蹴という方法であっさりぼくに「救い」をもたらしてくれる人がいたかもしれない。
しかし、そうは思えなかった。いまさら嘆いてもしかたない。後悔先に立たず、である。
ともかく、ぼくの寄る辺は喪われた。
アイデンティティは支えを喪った。
グズ、の完成だ。いっちょうあがり。笑えない。
けど、ぼくはたぶんどこかでそれを認めていなかった。
なんせ、中学までは勉強はそれなりにできたのだ。高校に入って、成績が急落したのは、ぼくが中学のノリのままでまじめに勉強をしなかったからで、ちゃんとやれば結果はでる。
きちんと勉強すれば、成績なんてすぐあがるさ。ハハ。しかも、受験には体育や音楽や美術はない。大丈夫。やればできる。ぼくは頭がいい。なにも心配はいらない。すぐに取り返せるさ。
――そうして、ぼくは大学受験に失敗した。
まったくもって、笑えないないよな。
けれど、自意識というのは厄介なもので、それでもまだじぶんの寄る辺を守ろうとする。そんなもの、とっくに失われているのに。捏造してまでも、じぶんになにかできると信じさせようとする。
――大丈夫、大丈夫。一年浪人すれば受験なんて余裕さ。副教科はないんだから。予備校? いらない、いらない。家で参考書にとり組めば十分さ。ぼくは勉強ができるんだから。
必死でいい聞かせた。
――そうして、ぼくはふたたび大学受験に失敗した。
ここでもぼくはありがちな失敗のコースをたどったのだ。
だれにでもよくある、ゆえにだれが経験しようと一般化できるような失敗談。量産型の挫折経験。ぼくはただの――できのわるいモブキャラであったのだ。
そう。ぼくは天才はおろか、市井の村人Aにすらなれなかった。そのはなしは、もう少しあとに語ることになる。
はなしがそれた。ぼくがそれからどのように転がり落ちたのか。いや、もともと落ちるほど登ってはいなかったのだが、ともかくそのつづきを聞いてもらうこととしよう。
どうせ浪人したんだから、志望校にいきたい。そう思ったぼくは、すべり止めをろくに受けなかった。志望校とほぼおなじランクの大学ばかりを受験した。それじゃなにかあったとき止めてくれるはずもない。転がり落ちるときは、みな一緒である。とんだ一億総玉砕の精神だ。
親は反対したが、無視した。高卒の両親に大学受験のことなどわかるまい。口をだすな。すっこんでろ。たぶん暴言も吐いたことかと思う。
結果、すべての大学に落ちた。
とんだお笑い草である。まったく、笑えないが。
両親は息子のことを、当の本人より、よくわかっていたのである。
父は激怒した。
「もう社会に出て働け」
といった。
父としては、怒りにかられてついこぼれでた言葉だったのだと思う。ぼくが反省していれば、もう一年浪人させてくれたであろう。予備校にも通わせてくれたかもしれない。
が、ぼくは売り言葉を買った。
「ああ、働いてやるよ。働いて、こんな家、でて行ってやる!」
ガキまる出しである。そんなことしても、損をするのはぼくだ。わかってはいたが、一度言ってしまった手前、あとに引けなかった。そういうところが、ガキなのだ。
かくして、ぼくは実家を飛び出し、一人暮らしをはじめた。けれど、けっきょく済む家は、実家から大して離れてもいないワンルームのアパート。
いざとなったら親に泣きつける。そんな打算(甘え)が、無意識の内にあったのだろう。中途半端に知恵をつけたからはなしが大きくなっただけで、それは子どもが親に怒られて家出するのと、本質的にはなにも変わらない。
そんなことに気づけない恥ずかしいぼくは、ひとり暮らしをはじめることで一人前の大人になったような気がしていた。
(これでぼくも立派な社会人だ)
まったくご立派な自負である。
引っ越しにかかる初期費用のなんやかんやを母に、負担してもらっていたのだから、そもそも「ひとり立ち」ですらないのだけど。
ひとりで歩くことすらできない。いうならば、ハイハイができただけで、いっちょまえになったと錯覚しているようなものだ。
とにかく、それが欺瞞であれ錯覚であれ、一人前の大人になったと思ったぼくは、アルバイトをはじめた。ひとり暮らしをしたうえで、じぶんでお金を稼げば、もう立派な大人だ。
いま思えば、失笑ものの論理というほかないが、当時のぼくは本気でそう考えていた。