図工は地獄(手記1)
片鱗は、幼稚園のころから顕れていた。
いまとなっては、ほとんど思い出せない。いや、記憶から追い出していることだが、あの時分はなにかと手作業が多かった気がする。
つくったり。描いたり。組み立てたり。織ったり。
工作、というほどしっかりとしたものでもない。
手遊び、というと、あや取りやらお裁縫やらをぼくは思い浮かべてしまうので、それもしっくりこない。
お受験をしなきゃ入れないエリート幼稚園――おかしな表現に聞こえるが、ほかに適当な語彙を思いつかない――などではない、ごくごくふつうの地元の幼稚園だ。勉強などした記憶はない。歌ったり、走り回ったり、つくったり。
中学・高校でいうところの、副教科的なことばかりさせられていた。
ぼくは、当時もいまも、その手のことは得意ではない。不器用だからだ。
丁寧にやっているつもりでも、
「雑やなあ」
といわれる。否定するのもめんどうなので、そういうことにしておく。
がさつな男であるということにしておく。ほんとは全力でやった結果なのに。
折り紙、ダンボール、画用紙。
なにを書かせても、なにをつくらせても、最終的には先生のお世話になっていた。これは小学校の低学年でもおなじだった。
自己弁護するわけではないけれど、いまから思えば、それはある程度しかたのないことだったのかもしれない。
ぼくは三月生まれだ。大人になれば、一歳の差などあってないようなものだが、幼稚園や小学校一年生などではそうもいかない。
発育に明確な差がでるのだ。
ぼくは、同級生より幼かったのだ。当然、おなじ作業をしたとしても、そのできに差が生じる。気にしなければよかったのかもしれない。我関せずと、己の道を驀進しておけばよかったのかもしれない。幼稚園のころはまだそれができていた。明確な自我が発生していなかったからだ。他人と比べてじぶんはどうこうなどと、もとより気にしてなどいなかったからだ。ある意味でそれは幸福なことだったのだろう。
だが、手作業全般にたいする苦手意識は潜在的に残る。だから幼いぼくは無意識のうちに、そういった作業を避けていたのだろう。
しかし、なにごとにおいてもやらねば上達しない。逃げていると、それを好んで行う子どもたちとの実力差は広がっていくいっぽうだ。このことがけっきょく最後まで尾を引いた。この時点でぼくは大きく水をあけられていたのだ。知らず知らずのうちに。
さらに小学生になると、完璧ではなくとも自我の片鱗みたいなものが勃興する。じぶんというアイデンティティが生まれ落ちる。
結果ぼくは、羞恥心を覚えた。恥ずかしいという感情は大人への第一歩なのかもしれない。だとしたら、人間は大人になればなるほど劣化していくのだろう。恥ずかしがることがプラスに働くことなど、ほぼほぼないからだ。
ともあれぼくは恥ずかしいという感情を覚えた。覚えてしまった。うちに眠っていたその意識に気づいてしまった。
――そしてじぶんが不器用であることを知った。明晰に、自覚した。
コンプレックスというには大げさすぎるかもしれない。だが、自意識にわずかながら屈折が生まれたことは事実だ。
できないという自意識は厄介だ。できないからやらない。ますますできなくなる。相対的に劣等になっていく。ますます劣等感をもつ。
逆からみれば、それは「自信がない」ということになるだろう。
自信というのは、案外、バカにできない。自信家は往々にしてきらわれるが、自信がないやつより、自信満々のやつのほうがおなじ能力値でもはるかにパフォーマンスをえることができる。
自信というのはパフォーマンスを高めるニトロ。
おれはできると信じられるやつは、遅かれ早かれほんとうにできるようになるのだ。
コンプレックスや劣等感と称される感情は、つまるところ、自信とは逆の効能をもつ。
できないと信じるやつは、ますますできないようになる。
――美しき悪循環。
サンプル見本のようだ。
そこまで明晰に意識するようになるのは、もっとあとのはなしだが、ともかくぼくは小学生になってから、図画工作が徐々に憂鬱な時間になっていった。
担任の先生と、ぼくに付きっきりにならざるをえない副担任の先生の困った顔をみたくなかった。
クラスメートは図工の時間が来るのを楽しみになっていたが、ぼくには理解できなかった。いや、わかってはいた。ふつうは楽しみなのだろう。漢字や算数を机で勉強するより、はるかに楽しい時間のはずだ。ぼくが例外だったにすぎない。レアケースはぼくのほうだ。
だがこのときはまだ、できないことにたいする嫌気が恥ずかしさに勝っていた。つまり、周囲からできないやつであると思われることにたいして、まったく気にかけないわけではないにしろ、そこまで敏感ではなかったのだ。
あくまでじぶんだけの問題だったのだ。他人がどう思うと関係ない。できないじぶんがいやなのだ。それはまだギリギリ健全と呼べる感情だったのやもしれない。
嫌悪感が羞恥心を上回っていた。
だから、たしかに芽生えた恥ずかしいという感情は、まだそこまでむき出しにはなっていなかったのである。はっきりと自覚していなかったのである。
だから相対的にはまだ幸せな期間は続いていたといえるだろう。
しかしながら、それにも終わりが来る。
羞恥心が嫌悪感を上回るときがかならずやってくる。
小学校の高学年。
思春期の入り口に立ち。
アイデンティティの完成を目の前に。
ぼくの自意識は、完璧に屈折した。見事に折れて曲がった。
図工の時間がますます嫌いになっていった。苦手意識とヘタクソであるという自意識は手がつけられないほどに肥大化していた。
そのくせ先生の助けを借りることにいっちょまえの羞恥心を抱くようになってもいた。こうなると最悪である。みんなが順調に作業を進めていくなか、ひとり真っ白な画用紙。だいぶ経ってから先生が気づき、
「なんで進んでないの!」
と叱られる。クラスメートは遠巻きにしてクスクス笑っている。そういうことで事態は、年を重ねるにつれて、どんどん悪化していった。木曜日の二時間連続のその時間が、なにかの罰ゲームかぼくをいじめるしかけのように思えた。
当日は朝から腹の調子がおかしくなり、学校にいきたくなくてしかたがない。母親にグズる。が、父親に叩きだされ、しぶしぶ学校にむかう。
だいたいの子どもは、体育や図画工作の時間を一日のなかで「楽な時間」やら「ご褒美」と認識しているようだが、ぼくにとってそれは「地獄」でしかなかった。
母親はそんなぼくをいつも優しく励ましてくれた。父の手前、学校を休むことを許してはくれないが、
「なにかいやなことでもあったの?」
と心配してくれる。ただ、頭ごなしに怒鳴るだけの父親とは大違いだ。
そんな母とのことで、よく覚えているできごとがある。
母がぼくとひとつの兄にハンカチを買ってきてくれたのだ。ぼくが小学校五年生。兄が六年生だった。
「ハンカチを持つってことは、一人前になった証拠なの」
母はそういってぼくと兄にまったくおなじデザイン、まったくおなじ色のハンカチを渡した。
「一人前?」とぼくが首をかしげる横で、兄はちょっと気恥ずかしげな笑みを浮かべていた。
「そう一人前。立派な大人ってこと」
「ぼくたち一人前なの?」
ぼくの疑問符を聞いて、母は柔和に笑う。
「そうなってほしい――というお母さんの願いよ」
ぼくたちの家族はうまくいったとはいい難いが、少なくともその思い出だけは、僕と兄と母にとってまちがいなくいい思い出であった。
このときから四年後、兄は高校生になり、まもなくクラスメートの女子生徒を妊娠させたとかで学校側と揉めて、高校を中退した。子どもは結局、おろしたそうだ。もちろん、父は激怒。はなし合いの余地すらなく、家出同然で兄は家を飛び出し、そのときから戻って来ていない。