夏穂の違和感と悪魔のささやき
そして午後七時、
「じゃ、そろそろ帰るわ、また明日な」
「おう」
誠は真悟と別れ、帰宅の途につくこととなった。家を出た誠は外の暗さに感嘆する。もう九月も近いというのに外はまだわずかに明るかった。しかし、夕日は既に暮れる寸前まで来ていて、やはり秋が近づいているのだなぁ、と分かるような空の色となっていた。そんなオレンジと黒が混ざったような微妙な頭上の風景を目に映しながら、誠は歩き出した。外のコンクリートには彼の靴音だけがカツカツと響く。周りが住宅街であるせいか靴音だけが妙に存在感を持って聞こえてくる。
(こういう時ってやけに何か出そうな雰囲気があるんだよな……)
どこか不気味な感じを覚えながら誠は尚も歩き続ける。何も出るわけない、と頭では分かっていても、どこか不安を覚えてしまう。そんなことを考えながら足を進めていると、ゾワッ、という気配を後ろの方に感じた。
「誰だ?」
誠は振り返ってそう声を上げる。しかし、もちろん後ろには誰がいるわけでもなく、薄暗い夜の空が映し出されているだけだった。
(気のせい……だよな)
そう思い再び前を向いて歩きだそうとすると、今度は首にヒヤッとした感覚がきた。それと同時にこう声がする。
「……声は出すな。動くと貴様の命はないぞ」
いきなり首筋に何かを当てられた誠は突然のことで何もできない。そもそも先ほどまで自分がいたのはごくありふれた世界だったはずだ。一体何がどう狂って今自分は脅迫まがいのことをされているのか、誠には何が何だか分からなくなっていた。すると再び声の主は誠に話しかけた。
「私の気配に気付いたのはさすがと誉めてやろう。逃げられると厄介なので少々手荒な真似を取らせてもらった、許せ」
すると今度は首筋のヒヤリとした何かが首から外された。それで多少冷静な思考を取り戻した誠はその正体を見ようとゆっくりと後ろを振り向いた。しかし、そこにいたのは彼が全く予期していなかった人物だった。
「おい、嘘だろ……」
誠は驚きのあまりただただ絶句するしかなかった。黒いストレートのロングヘア、スラリとしたモデルのような細く長い脚、そして何より見事に校則通りの制服の着こなし、どれをとっても誠にこの人物の心当たりは一人しかいなかった。
「間宮……、なのか?」
そう、そこに立っていたのは紛れもなく間宮夏穂だった。
(何で、何で間宮が……。確かに声はそうっぽいかもとか思ったけど、これは予想外すぎるぞ……?)
誠の思考は夏穂が目の前に現れた時点ですっかり止まってしまっていたが、それでも必死に考える。なぜ彼女がここにいるのか、どうして誠に脅迫まがいの行動をしたのか。そんな誠の様子を見た彼女はフッと笑みを浮かべ、誠を見つめる。
「な、何がおかしいんだよ」
困惑した誠は声を上ずらせながら夏穂に聞くが、
「いや、貴様のその困惑した表情が私の支配欲求を掻き立てるのでな。貴様を服従させたら楽しいのだろうな、と考えただけだ。別に気にすることではない」
「あのなぁ……」
夏穂のあまりにしゃあしゃあとした様子に、誠は呆れたように何か言いかける。おかげで誠が先ほどまで持っていた寿命の縮むような緊迫した空気というものは幾分か消えた。そのせいだろうか、彼の頭に冷静さが戻ってきた。
「そういや、そのクナイはどうしたんだよ?」
「これのことか? これはその辺りに落ちていた木の棒を削って作ったのだ。どうだ、なかなかよくできているだろう」
自慢げに話す彼女だが、もちろん誠にクナイの出来など分かるはずもない。そもそもこいつは誠の知っている間宮夏穂とはどこか違って見えた。
「確かにそのクナイ、俺の知ってるものにずいぶん近いと思うけど。何で間宮がそんなものを……」
相手に会話が通じると分かった誠はそのまま質問を続けようとした。だが、彼女は誠が話そうとしたのをそのまま遮り、
「おっと、私には貴様とのんびり話している暇はないのだ。早く元の世界に戻らねばならぬのでな」
こんなことを言った。元の世界? と誠が再び聞こうとしたその時、夏穂は再び口を開いた。
「まぁ、せっかく貴様を呼び止めることができたのだ、一つ単刀直入に聞きたい。先ほどもちらと聞こえたが、貴様にはやはり私が間宮夏穂という人間に見えているのか?」
誠ははぁ? と首を傾げる。
「……何言ってんだお前? お前が間宮じゃなかったら一体誰だっていうんだよ?」
すると、夏穂はわずかに納得した様子で、
「やはり、か。先ほどの貴様の反応を見てもしかして、とは思っていたのだがな。どうやらこれは困ったことになった」
夏穂は少し考え、頭を抱えている様子だ。
「……どうしたんだよ?」
「いや、これ以上見ず知らずの人間を巻き込むわけにもいかぬ。私は何とか自力で元に戻る方法を探してみることにするよ」
「おい、見ず知らずってどういう……」
しかし、誠が聞こうとした頃には彼女は既に誠の方を振り返ることなく、ものすごい跳躍力で誠の真横の家の屋根の上に音もなく着地していた。
「それではな。協力には感謝するぞ、少年」
「待てよ間宮!」
今何が起きたのか、それすらも分からないまま、とにかく止まれと叫ぶ誠。だが、夏穂は一度も誠の話を聞くことなく、屋根から屋根へと飛び移り、そのまま夜の闇へと姿を消した。
「ちくしょう、一体何だったんだよ……?」
その場に一人残された誠は訳も分からぬまま、茫然とその場に立ち尽くすのだった。
次の日、
「……結局眠れなかった」
寝不足の体を無理に起こし、誠は布団から出た。時刻は午前六時、家事でもしない限り家が学校のすぐ近くにある誠にとって、起きるにはまだ早すぎる時間である。あの後すぐに家に帰った誠は深刻な顔で晩ご飯もろくに喉を通らず、両親にすら『あんた今日どうしたの?』と聞かれる始末であった。何でもない、とごまかした誠は夜九時ごろにそのまま布団に入ったのだが、首にヒヤリと何かを当てられた感触、どこか様子のおかしい夏穂、結局彼女に何ひとつ確かめられなかった自分のもどかしさ、このすべてが重なり、一睡もできなかったのである。普段なら寝られなかったから調子がどうとか文句を言いまくっている頃だが、今日に限ってはそれもなく、たった一つのことだけが頭の中にあった。
「間宮、昨日は何があったんだろう……?」
何も分からぬまま、ボーっとする頭で考えることしかできない自分のふがいなさを身にしみて感じながら、誠は学校へ行く準備を始めることにしたのだった。
「……まぁ、誰もいるわけないわな」
三十分後、学校に着いた誠は自分の席に座ると、再び考え始める。まず彼が最初に思い浮かべたのは、当然と言えば当然のことであった。
「事の発端は片桐のあの一言、だよな」
誠は昨日のさつきの発言を思い出す。
(今日あたし朝たまたま夏穂に会ったから、一緒に学校行こうと思って声かけたんだけど、『ゴメン、今日はちょっと……』って言われたの。夏穂が断るなんて珍しいから、ちょっと気になってね)
「思えば、あの発言がきっかけで、俺は何だか間宮の様子がおかしいんじゃないかと思い始めたわけだ」
最初は気にしない(と言いつつ、最初からかなり気にしてはいたが)という立場を取っていた誠ではあったのだが、その後夏穂らしき人物を見かけて声をかけたのにいきなり消えてしまったことが、誠が夏穂を気にかける理由となっていた。そして、極めつけは昨日のあの夏穂との一件、屋根の上に一回のジャンプで上がってしまうほどの身体能力の高さである。とはいえ、もっとも誠が一番疑問に思っていたのは夏穂のあのおかしな発言と口調であった。
(貴様にはやはり私が間宮夏穂という人間に見えているのか?)
(早く元の世界に戻らねばならぬのでな)
「あれじゃあ、まるで……」
「夏穂じゃないみたい?」
とその時、後ろからいきなり声がした。
「のわっ、びっくりした…… いつからそこにいたんだよ、片桐?」
誠の発言に割り込んだのは、片桐さつきであった。
「マコが教室入るのは見えてたよ。あたし学校来るの早いから。ついでにマコが言ってた独り言も全部聞いてた」
気にすることもなく、さつきは誠の隣の真悟の席に座った。
「で、どうしてマコは夏穂がおかしいと思い始めたわけ? 昨日あたしには詮索するなって釘刺してたじゃない。ま、止められたくらいで諦めるさつき様じゃないけどさ」
「そんなことだろうと思ったよ。 ……しょうがない、お前に隠すと面倒だからな」
そう言って誠はさつきに昨日の出来事を全て話した。下校途中に見かけた夏穂が突然消えてしまったこと、真悟と遊んだ帰りにいきなり脅されたこと、口調と発言が明らかに普段の夏穂ではなかったこと、常人離れした身体能力etc…。さつきはその話を聞くと、すべて納得がいった、というように頷く。
「……ふうん、それは確かにマコじゃなくてもおかしいと思うのが普通よね。よし、じゃ、あたしに考えがあるんだけど、乗ってみる気、ある?」
普段なら確実に乗らない魔の誘惑ではあったが、今の誠はその誘いに乗ってでも彼女が何故そこまでおかしくなってしまったのか、その理由が知りたかった。
「……乗ってやろうじゃねーか。その考えってやつに」
そんなこともあり、誠はさつきの作戦に乗ることにした。
「うむ、素直でよろしい。じゃ、今から説明するね。元々一人じゃ厳しいと思ってたところだったの。実行は放課後、集合は授業終わりに昇降口ね。で、その方法っていうのは……」
さつきは誠に説明する。実はさつきは元々考えがあって相談しようと思っていたので誠にスラスラと説明ができたのだが、それに気付けるほど今の誠は精神的に余裕があったわけでもなかったので、それをおとなしく聞いていた。それを一通り話し終えたさつきは、
「じゃ、放課後よろしくね♪」
と言って、自分の教室へと戻って行った。さつきがいなくなった後、誠はボソッと呟く。
「何があったのか、必ず解決してみせるぞ、間宮……」




