誠の1日① 誠と悪友
ここは日本のどこかのある閑静な住宅街。その中の一軒の家にとある少年がいた。
(ジリリリリリ!)
「うーん、間宮……」
この少年の名前は朝日誠。高校一年生だ。布団の中で誠は寝言を呟いていた。彼にとっての睡眠は一日を始めるうえで最も重要なもので、これによって一日の体調が左右されると言っても過言ではない。しかし、誠のそんな幸せな時間はいつまでも続かなかった。
「ちょっと誠、もう八時よ! 早く起きなさい!」
彼の母親が熟睡モード真っ最中の息子を起こしに来たのである。母親はこう言って誠の部屋に入り、布団を引きはがす。しかし、
「俺はお前を幸せにしてみせるぞー……zzz」
誠は深い睡眠に入ってしまっていて、とても今すぐ起きる気配はない。
「……仕方ないわね」
母親はため息をつきながら最終手段に出た。
「あら、あそこに間宮さんが……」
「えっ、間宮!?」
誠は恐ろしい勢いで飛び起きると、窓ガラスに手をかけ、外に顔を出してその少女を探す。彼にとって、睡眠よりも優先されることがあるとすれば、それがこの間宮と呼ばれた少女だろう。その彼女の名前は間宮夏穂、と言って、誠とは小学校から学校が同じ同級生だ。彼は彼女のためならどんなことでもしてやる、というほど彼女のことが好きなのだ。いわば、「恋」である。もちろん、実際は仲が良い訳ではなく、せいぜい用事のある時にたまに会話をするだけのただのクラスメイト、という程度なのだが。
「だましたな、お袋……」
水色のパジャマ姿の誠は心底がっかりした様子で床に手を付きながら母親に文句を言う。しかし、母親は息子のそんな様子など気にも留めずさらりと言う。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。あんた、今日から新学期じゃなかったの?」
「バカだなぁ、今日は八月三十日……って月曜日!?」
誠の顔が青ざめる。
「今何時だよ……って8時過ぎてる!?」
誠の顔がさらに青ざめる。
「お袋、何で起こしてくれなかったんだよ!」
「私は何度も起こしたけど、あんたが起きなかったんじゃないの。ほら、早く準備しなさい。今日は食パンにジャム塗っといたから、口にくわえて走れるから」
誠は母親に対して文句を言うが、彼女はさらりと返す。
「うっわぁ、遅刻だー!」
朝の住宅街に、哀れな一人の少年の絶叫がこだました。
その後Yシャツを着てスラックスを履き、ありえないスピードで準備を終えた誠は8時10分に家を出て、食器皿から引っ掴んだ食パンを口にくわえると、さながらフルマラソンでラストスパートをかける選手のようなスピードで必死で走り、どうにか時間ギリギリで学校に到着した。大急ぎで自分の席に向かうと、自分で持ってきたカバンと黒い手提げ袋を机の横に付いているフックに引っかけて席に着く。すると、
「……で、そんなこんなで夏休みのせいで自堕落な生活を続けていて寝坊癖の付いてしまった少年、朝日誠は身嗜みを整えることもできず、ただ食パンをくわえて必死で高校まで走って、どうにか登校時刻である八時半に間に合ったのであった」
「お前は誰に解説してんだよ……。しかも説明が間違ってないのがムカつく」
自分の席の真横にいるYシャツにスラックス姿の友人、相原真悟がこんなことを言ってきたので、呆れながらツッコんだ。真悟は先ほど誠の夢に出てきた間宮夏穂と同じように小学校からの付き合いで一応親友である。しかし、小学生の頃から窓ガラスを割ったりピンポンダッシュをしたり、といったようなことばかりしてきた間柄なので、どちらかと言えば悪友だろう、というのが誠の正直な感想である。
「いつものことだろ? 一応付き合いは長いからな。さすがにそのくらいは分かってるつもりだが。それで、最初の質問の答えについてだが、それはもちろん俺が一番好きな、というかこの人さえいれば他に何もいらない、と言っても過言ではない……」
「ああ、分かった。春野雨な。って何でお前は毎回俺に見ず知らずの芸能人のことを説明してんだよ……」
誠は慎吾のヒートアップする説明が始まる前に先手を打った。真悟は大がつくぐらいでは済まないほど春野雨という芸能人が好きなのだ。そして、放っておくと何を言っても全く無視して春野雨のことについて語りだすため、面倒な時には誠は今のような態度をとるのである。
ちなみに春野雨というのは、ある雑誌調査で一番好きな女性タレントに選ばれた今一番人気があるといっても過言ではない芸能人である。十七才でありながら、そののんびりとした口調が作り出している独特の雰囲気はもはや神の領域、とまで一部で称されている。一応彼女はモデルなのだが、前述の理由で男女ともにファンも多く、彼女が出る番組は大半が視聴率20%台をたたき出すこともしばしばで、彼女の出た番組が視聴率ランキングの上位を独占してしまうことも決して珍しくない。
「なっ、俺の唯一の趣味を……」
「こんなぐったりしてる時までお前の春野雨トークなんか聞いてられるかっての。俺がどんだけ頑張ってここまで走ってきたと思ってんだよ……」
真悟はショックを受けながら絶句するが、誠は誠で真悟の話を聞いていられるほどの余裕もない。本当は彼の通学路にはアキアカネが飛んでいたり、多少の温度変化で寒さが身にしみたり、といったような秋の訪れを感じられる要素がそこそこあったはずなのだが、遅刻寸前の彼にはもちろんそんな情景を味わう暇などあるはずもない。くわえたパンを飲み込みながら走ることで精一杯だったのだ。誠はあまりの疲れで机にぐったりと突っ伏してしまっていた。
「も、もう無理だ……」
そんな言葉が平気で出てきてしまうほど、誠はやりきった、といった感じで呟く。その証拠と言っては何だが、彼の椅子からは彼の体から噴き出た汗がわずかについていたし、Yシャツの下に着ていたTシャツはロゴの部分まで完璧に透けてしまっていた。
「しかし、お前と会うのも久しぶりだよなぁ」
「いや、三日前にも会っただろ、っていうか遊んだよな? あれを忘れたとは言わせねーぞ?」
空とぼけた様子で白々しく言ってきた真悟に、誠は突っ伏した上体を起こしながら聞く。彼の言う三日前というのは、二人でゲームセンターに行き、その店のUFOキャッチャーをほぼ壊滅状態に追い込んでしまったという、簡単に言えば悪質な遊びである。
「ああ、あんなに取れるとは思ってなかったけど」
一方の真悟は特に悪びれる様子もなく軽い調子で言う。
「嘘つけ、絶対最初からそれが目的であのゲーセンにしたんだろ?」
「あ、やっぱばれたか。あのゲーセンは俺の知る限りでアームが一番強いからな」
誠の指摘に、真悟はグーサインを作って答える。壊滅状態に追い込んだのは確かだが、実質的に商品を全て取ってしまったのは真悟で、誠はアニメキャラの箱入りフィギュアを2つ入手しただけだからである。
「何がグーだよ! お前のおかげであの後運ぶの結構大変だったんだからな! 普通取った本人が責任もって全部の商品自宅に持ち帰るのが筋ってもんじゃねーのか? なんで俺が半分も自宅に持って帰んなきゃいけねーんだよ!」
「いやあ、立ってるものは親でも何とやら、って言うだろ?」
「そこまで言ったなら最後まで言えよ! 中途半端にも程があるわ!」
わめく誠だが、この分だと今の真悟には何を言っても無駄なのは目に見えていたので、話題探しに横目で真悟の机を見ることにする。すると真っ先に普段ならありえないものが目に付いた。
「……そういや、その机の上の新聞は一体何なんだ?」
「ああ、これか? これはだなぁ……」
急に上機嫌になった真悟は新聞を開くと、誠の机の上に置いた。この様子だとどうやら元々誠に見せようと思って持ってきたもののようだ。
「……何だよ?」
「これだよこれ! 春野雨、CDデビューってやつ!」
事情の飲み込めていない誠に真悟は芸能面のある一点を指差した。誠がそれを見ると、そこには『国民的モデル、ついに歌手デビュー!!』という記事が新聞の一面を飾っているのが見えた。しかし、誠はその記事よりもその隣の『クッキーに下剤混入、従業員逮捕』という小さな見出しのほうが気になっていた。何でも人気ソーシャルゲームのお菓子に下剤を混ぜ込んだ人間がいるらしく、それが騒動になったのだという。
「ファーストシングルのタイトルは『4月の雨模様』っていうらしいんだよなぁ。俺今から楽しみで楽しみでさあ!」
しかし、真悟が話し出してしまったので、仕方なく顔を上げて彼の話を聞くことにする誠。自分で聞いてしまった手前、先ほどのように突き放すようなこともできなかったのである。そして、それとは別に誠にも気になることがあった。
(もうそろそろ九月なのに、なんでそんな時期外れなタイトルを付けたんだ?)
本気で首をひねるが、そんなことを真悟に言えるはずもなく、誠は話題がずれない程度に別の話題を持ち出すことにした。
「まあ、歌手デビューしたのはすごいわな。確かつい最近グラビア写真集も出したんだっけ?」
「ああ、これのことか?」
誠の発言に合わせて真悟はその写真集を取り出した。ちなみに『乙女も恥じらう黒歴史』という、もはや絶対写真集ではないだろう、というようなタイトルがついていたのが見えた。この人のセンスは常人には理解できないんだろうか、と真剣に考えてしまう誠である。
「……お前、学校に何しに来てんだよ?」
呆れて物も言えなくなる誠。
「まあ、肌身離さず持ち歩いてないと気が済まないんだよ。しっかし、CD代が足りないのは本当に痛いなぁ……」
「CD代?」
いきなり話が巻き戻ったので聞き返す誠。
「ああ、だいたい1200円するらしいんだけど、俺こないだお金だいぶ使っちまったからもうほとんど残ってないんだよなぁ……」
「なるほど、あのツケはちゃんと自分に返ってきてるわけだな」
誠は今の真悟の言葉で少しホッとした。彼のお小遣いは無尽蔵なのではないかと本気で信じてしまってもいいほどには真悟がお金を湯水のように使っているのを知っていたからである。
(この分だと来月の遠足でもこいつ金に任せて遊び倒すんじゃないかとか思ってたからな。真悟にもちゃんとお金の限度があったんだな。……あ、思い出した!)
そこまで考えていた誠は、唐突に真悟に聞こうと思っていたことがあったのを思い出し、
「あ、そういやさぁ……」
そう聞こうとした。しかしその時、始業のチャイムとともに担任の先生が入ってきたので、誠と真悟はひとまず話題を打ち切り、出歩いていた生徒たちは「はい、席について!」の声で、蜘蛛の子を散らすように自分の席に戻っていった。