第57話 : 泥水に響く笑い声
翌朝。朝靄が晴れかかったスラムの広場に、木材の擦れる乾いた音が響いた。
「……これ、お前らの分」
ボソボソとした低い声と共に、ゴトッと重い音を立てて木箱の上に置かれたのは、不格好だが整然と並べられた十個の『初期型そろばん』だった。
前髪が長く伸びて目元を隠した十四歳のニコが、目の下に濃い隈を作りながら立っていた。
彼のダボダボの作業着は木屑にまみれ、煤で汚れた指先には無数の小さな切り傷と、血が滲んだ跡がある。
一晩中、レオンの工房の隅で廃材を削り、竹ひごを通し続けた証だった。
「ニコ……お前、これ全部一人で……!?」
短く刈り込んだ赤毛のザックが、信じられないものを見るように目を見開く。
ニコは見様見真似でレオンの作った道具の構造を再現し、孤児たち全員に行き渡る数のそろばんを、たった一晩で作り上げてしまったのだ。
「す、すげえ……! ちゃんと珠が動くぜ!」
キャスケット帽を被った明るい茶髪のジャンが、興奮気味に木枠の珠を弾く。
金髪ツーブロックのリオも「俺の分もある!」と跳ねて喜んだ。
「ニコ、ありがとう……。手が、傷だらけじゃない」
栗色の長い髪を三つ編みにしたマリアが、痛ましそうにニコの指先をそっと包み込む。だが、ニコは少しだけ照れくさそうに顔を背け、「……いいから、使えよ」とだけ短く呟いた。彼にとって、仲間たちが自分の作った道具で目を輝かせているこの瞬間こそが、何よりの報酬だった。
配られたそろばんに、最も強烈な反応を示した者がいた。
濃い茶髪を七三に分け、ヒビの入った丸眼鏡を紐で固定している八歳の少年、マルコだ。
彼は痩せぎすな手で自分の分のそろばんを受け取ると、まるで呼吸をするように自然に珠を弾き始めた。
パチッ、パチパチッ!
「あはは! 面白い音!」
隣で泣きぼくろが特徴的な黒髪ボブの九歳、クロエが、木の珠が当たる小気味良い音に無邪気に笑い声を上げる。
だが、マルコの理知的な焦茶色の瞳は、音ではなく、その『盤面に示される論理』に完全に魅了されていた。
「なるほど……五の塊と一の塊を目で見て分けることで、数が大きくなって桁が上がる時の規則が、指の動きと一緒に頭に入ってくる……。レオン先生の作ったこの道具は、頭の中の数字を形にして見せてくれるんですね」
八歳とは思えない大人びた口調で呟きながら、マルコは異常な速度で珠を弾き続ける。
昨日シルヴィアが黒板に書いた複雑な計算式を、彼は次々と暗算で解き明かし始めた。
頭の中の数字が、そろばんの珠の動きと完全にリンクし、彼の脳内で爆発的な演算速度を生み出していく。
「すごいよマルコ! もう昨日の復習、全部終わらせちゃったの!?」
アッシュグレーのボサボサ髪をポンチョで覆ったアニータが、驚愕の声を上げる。
マルコは眼鏡を中指でクイッと押し上げ、得意げに鼻を高くした。
スラム一の計算の天才が、ニコの作った道具によって完全に覚醒した瞬間だった。
* * *
それから数日が経ち、孤児たちの間で『論理』という新しい概念が、日常の中に少しずつ根付き始めていた。
ある日の昼下がり。
ガストン商会から支給された食事の配給時、広場の端でちょっとした揉め事が起きた。
配られた芋と豆のスープの量が、よそい方の誤差で、ティムの器とリオの器でわずかに違っていたのだ。
「俺の方が少ない気がするぜ! ティム、ちょっと交換してくれよ!」
「やだぞ! これは僕のなんだぞ!」
常に鼻水を垂らしている七歳のティムが、自分の器を両手で隠すようにして抵抗し、十歳のリオがそれを不満げに覗き込んでいる。
スラムのこれまでの常識であれば、力の強い年長者が無理やり奪い取るか、声の大きい者が勝つだけの、弱肉強食の諍いで終わっていた。
だが、今の彼らは違う。
「ちょっと待ちなさい、二人とも。喧嘩は駄目よ」
マリアが落ち着いた、包み込むような母親の口調で割って入った。
彼女は手早く二人の器と、予備の空の器を並べた。
「いい? 不公平だと感じるなら、全体を一度合わせてもう一度均等に分ければいいのよ」
彼女の提案に、リオもティムも渋々ながら頷いた。
「待ってください、マリア姉さん。感覚で分けるのはまた争いの元ですよ」
そこに、ひび割れた丸眼鏡を光らせたマルコが進み出た。
彼は片手にニコの作った初期型そろばんを構えている。
「芋の大きさをだいたい同じだとします。リオの器には芋が四つと半分、ティムの器には五つ。合わせて九つと半分。これをきっちり二つに分けるには……」
パチッ、パチパチッ!
マルコが一瞬でそろばんの珠を弾く。
「一人当たり、芋四つと四分の三というわけですね。ほら、これで見た目の大きさも、手に持った重さも完全に平等ですよ」
マルコの指示に従い、マリアがナイフで芋を正確に切り分け、二つの器に均等に配分した。
「……ほんとだ。全く同じだぜ」
「うん、おんなじだ!」
リオとティムが顔を見合わせ、納得したように笑顔でスープを飲み始めた。
「よし、喧嘩にならなくてよかったな!」
ルカが、ホッとしたように笑いかける。
その足元では、水玉模様のレッグウォーマーをつけた魔道犬のバディが、「ワフッ」と同意するように尻尾を振った。
大人や暴力に頼るのではなく、自らの『知識』と『論理』で不満を解消し、平和的に解決する。
それは、スラムという無法地帯において、子供たちだけで成立させた小さな、けれど極めて偉大な『自治』の瞬間だった。
その日の夕方。
シルヴィアの読み書きの授業が終わり、短くなった白墨の欠片がいくつか孤児たちに分け与えられた。
「これ、地面にも書けるんだぞ!」
誰かが言い出し、広場の端っこの乾いた土の上に、子供たちが這いつくばって思い思いの絵や文字を書き始めた。
ルカが懸命に覚えた自分の名前を地面に刻み、ニコが歯車の絵を描く。
クロエがニコニコしながら花を描き、透き通る金髪の巻き毛を揺らすリリィが、得体の知れない丸い生き物を描いていく。
広場の一角が、白墨の粉で真っ白なキャンバスのように埋め尽くされていく。
「おっ、俺の名前、上手く書けただろ!」
ザックが自慢げに振り返った、その瞬間だった。
「バフッ!」
子供たちが集まっているのを見て、遊びに誘われたと勘違いしたバディが、嬉しそうに駆け寄ってきた。
そして、彼らが一生懸命に描いた白墨のキャンバスのど真ん中にドスッと座り込み、極太の尻尾をバッサバッサと床が抉れるほどの勢いで振り始めたのだ。
ザサッ、ザササッ!
「ああっ!? 待てバディ、俺の力作が!」
「ルカ兄ちゃんの名前も消えちゃったぞ!」
バディの尻尾が、地面に描かれた文字や絵を、消しゴムのように見事なまでに全てかき消していく。
「キュゥ?」
何事かと不思議そうに首を傾げるバディの尻尾は、すっかり白墨の粉で真っ白に染まっていた。
「あーあ、全部消えちゃったわね」
マリアが困ったように肩をすくめる。
一瞬の静寂。そして――。
「あははははっ! バディの尻尾、真っ白だぜ!」
「もう一回書き直しだー!」
ルカが吹き出し、ザックが腹を抱えて笑い転げた。
クロエもアニータも、マルコもティムも、全員が地面に転がって大声で笑い合う。
誰も怒らない。
そこにあるのは、明日の命に怯えるスラムの泥ネズミたちの悲壮感ではなく、年相応の無邪気で平和な『子供たちの笑い声』だった。
少し離れた場所で、レオンは木箱に腰掛け、クロの首筋を撫でながらその光景を静かに見守っていた。
隣に立つシルヴィアが、眩しいものを見るように目を細める。
「彼らは、信じられない速度で知識を吸収しています。まるで、乾ききった砂漠が水を飲み込むように」
「ええ。無知という鎖から解き放たれた彼らは、やがて誰にも縛られない確かな力を持つようになる」
レオンの黒曜石の瞳が、沈みゆく夕日の中で笑い合う子供たちを映し出していた。
泥水の中で必死に息をしていただけの子供たちは、今、知識と論理という『最強の武器』を手に入れた。
スラムに響くこの無邪気な笑い声が、やがて特権階級の腐敗した常識を食い破り、大人たちの世界を根底からひっくり返す脅威となることを、スラムの外の人間はまだ誰も知らない。
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