満月と夢
そこからミアは、私の衣服や部屋を整えてくれた。
私にぴったりの服と髪を覆う布を用意して、
「記憶もない、行くところもない、先立つものもない。
私は病気を抱えていて裕福な家庭ではないけれど、マリナ一人増えたって大丈夫。
うちで暮らしなさい」と提案してくれた。
私はシャフィの家の居候となったのだ。
小さなコミュニティだから、私の存在はすぐ街の人に知れ渡ってしまう。
「マリナは異国からやってきたお手伝いだ」と周囲に説明した。
異国人のメイドを雇う事はよくあるらしく、誰も疑わなかった。
おかげで私は人目を気にせず、近所へ出かけることもできる。
ただ髪の毛だけは隠せ、と二人から念押しされた。
赤みの強い茶色に染めているだけなんだけど、シュメシュ人からすれば
とんでもなく刺激的に映るようだ。
自分がどこから来たのか、何のためにここへ来たのか考えない時はない。
夜になれば不安で眠れない事の方が多い。
もう自分がいた場所には帰れないんだと絶望する。
目覚めた時に名前まで忘れてしまってるんじゃないかと怖いのだ。
寝床では「私は多田真梨菜」とぶつぶつ繰り返し、自分の存在を確認した。
シャフィとミアの優しさは、私の心の支えになった。
シャフィの家の朝は早い。
夜明けとともにシャフィは叔父さんのレンガ工房へ向かう。
ミアはシャフィの出勤より早く起きて朝食の準備をする。
「今日は体調が優れないわ」という日でも、必ず朝食を食べさせて彼を送り出す。
シャフィが仕事に行ってしまえば、ミアは家事をする。
私が来てからほとんどの家事は私がするようになった。
病気を抱えるミアの代わりに買い出しも行ける。
シャフィの馬の飼い葉を補充したり馬屋の掃除だってできる。
でも料理はダメ。ミアには敵わない。
日が暮れてシャフィが帰ってきたら、みんなで夕食を食べた。
時には近所の人も一緒に集まって、大勢で食べる事もある。
私が玄関先で用事をしていると、子ども達が近寄っておしゃべりを始める。
子どもの扱いが苦手だったけど、メーレの子ども達のあたたかさ
純粋さに癒され、いつの間にか子どもへの苦手意識もなくなった。
私は、パンプスもはかない、髪は覆って肌も出さない
ここの暮らしが心地よかった。
ある晩、また帰りたいという思いに駆られなかなか寝付けなかった私は
少し外で落ち着こうとこっそり外に出た。
すると、玄関先にはシャフィが腰を下ろしていた。
(先客いるじゃん)
私も黙って彼の隣に腰かける。
シャフィはちらっと私をみて、
「こう暑くちゃ眠れないよ。明日は休みでよかった。
寝不足じゃ仕事にならない」と笑った。
私は微笑んで頷いた。
「今日は満月だね」
シャフィの顔は月明かりに照らされ、神秘的だ。
しばらく沈黙が続く。
馬がゴソゴソと動く音しか聞こえない。
シャフィがおもむろに口を開いた。
「親父は戦で死んだんだ」
それまでシャフィは父親のことを私に語らなかったし、
母と息子の二人暮らしだという状況から見るに
何か事情があると察していたから、私もなにも聞いていなかった。
だから、今このタイミングでシャフィがお父さんの話を始めた事に正直驚いた。
「親父は王に仕える兵士で近衛隊長だった。
本来平民が近衛隊長になんてなれない。
でも類まれなる才能と、王への忠誠心をかわれて
地位をいただいた。異例の出世だ。
叔父もそうだけど、祖父もレンガ職人だったし
うちは職人の家系で兵士を出してる家じゃない。
叔父も祖父も、親父が兵士になる事には反対だった。
身内に反対されても、親父は「お側で王をお守りしたい」と
自分の意志を貫いて兵士になったんだよ。
親父が近衛隊長になって、
母さんは前皇后……当時の王妃付きの侍女になった。
王からの厚い推薦があったと聞いている。
まさかと思うだろ。
両親はかつて王宮で働いていたんだ」
シャフィの家族の過去が明かされていく事に
驚きはしたが納得もしていた。
ミアは病気があるとはいっても、家事を効率よくこなす。
雑ではなくいつも完璧な仕上がりだ。
他の平民と比べても仕草や言葉は上品で丁寧。
そして決断する時、独特の強さを感じる。
私がこの家に来た日もそうだった。
最初は動揺していたがすぐに切り替えて私を受け入れる準備を整えた。
王宮で王妃のために働いていたと言われても理解できる。
「親父は俺に馬の扱いと槍の扱いを鍛え込んでくれた。
俺は今レンガ職人なんてやってるけど、兵士になろうと思ってる。
シュメシュは砂漠に囲まれた王国だ。にもかかわらず、メーレの街は
豊かで貿易の中心地。常に諸外国から狙われているんだ。
俺はシュメシュを、親父の様に守りたい。
戦で闘い、死ぬのが夢なんだ。
母さんだってきっとそう望んでる。
俺が親父のように王へ、
この国へ、身をささげる事をね」
シャフィは夜空に輝く満天の星々と同じように
瞳をきらきらと輝かせ、語った。
この美しい少年の描く夢は「華々しい死」だった。
理解ができない。
「は?……何言ってんの?
死んじゃったらなんにも残らないんだよ!
お母さんがそんな事望んでるわけない。
お父さんが戦で命を落としているのに。
シャフィまでいなくなっちゃったらどうするの!?
あんたいなくなったらお母さんは病気抱えたままで…
一人ぼっちになっちゃうんだよ?」
私の剣幕にシャフィは目を丸めて苦笑した。
「王に忠誠を誓う事は当然だし、御身の為に尽くし死ぬ。
この国の男子としてこれほど名誉なことはないさ。
……異国からやってきたマリナには、分からないのかもね」
困ったような笑顔を作って、シャフィは家の中へ戻っていった。
シュメシュ王国は砂漠に囲まれた厳しい気候であり作物は育たない。
歴代の王たちはシュメシュの地の利を活かし、貿易に力を注いだ。
周辺国との貿易の中心地となった都メーレは商人たちの往来がやむことはない。
そもそもは小さな王国であったが、
戦に優れたかつての王は諸外国を攻め侵略し領土を拡大していった。
四方を砂漠に囲われるこの国は、常に他国からの侵略を恐れている。
「殺られる前に殺れ」という信念は人々に根付いた。
今も「血を以って国を潤す」という国家の価値観は変わる事がなく、
シュメシュは軍隊の増強に余念がない。
数ヶ月この地で暮らし、シュメシュという王国についていくらかの知識は身についた。
シュメシュの豊かさは貿易での成功と、流れた血の代償だ。
国の為に戦う事が正義だと教え込まれた若者は、
当然の様に命を投げだそうとしている。
私にシャフィの夢を応援する事は一生できない。
そのまま私は玄関先で声を殺して涙を流しながら夜を明かした。
馬が草を食む音が響き、満月だけが私の泣き顔を見ていた。