第6話 三芳町にて 前編
僕は三芳という埼玉県の南部に位置する村で生を受けた。昭和三十年代の中頃になると流れ込んでくる転入者たちによって村民が増えていき、村から町へ昇格したのが昭和五十一年、西暦で言うなら1970年になる。このとき、村民たちはお祭り騒ぎをして、木製の茶色く焼かれた電信柱のいたるところに『祝 三芳町』と書かれた提灯を掲げたことを覚えている。
この祭り騒ぎの数年前、両親は東京の板橋にあった平屋の借家から引っ越してきたんだ。あの頃は確か与党の奨める国民、皆マイホーム計画が掲げられ、僕の両親も時は今、とばかりに小学校への入学を目前にした姉を伴って新築物件を探し始めたそうだ。姉の話だと、たった二件目の内見で契約したらしいが、そこは袋小路の道路を挟んで全部で十五区画に分譲した建売り物件だった。ひと区画あたりの坪数が二十坪あるかどうかという低価格のお手頃さを優先させたものであった。
当時はお登りさん達が夢のマイホームを手に入れるため必死で働いていた時代だ。いわゆる団塊の世代ってやつだな。下水は路の両端にU字溝として備え付けられていて、いかにもにわか造りで新参者たちを受け入れる準備をしたのであろう。
家が建つ袋小路は坂の途中にあって下ると大きな雑木林が自然のままの形で、そこだけは決して住宅地にはさせないぞ、って言わんばかりにクヌギやコナラや松の大木が生い茂っていた。雑木林といっても小高い山みたいになっていて、深く深く分け入ると一軒の農家があったから、きっとこの雑木林すべての所有者の住居だったのだと思う。
雑木の山の入り口一帯は平地になっていて漆の木が十数本、並ぶように立っていた。その根本にはノビルや土筆、イヌフグリの青が鮮やかに春の到来を教えてくれるような所だった。そうだ、江川という小川も流れていて、川辺には山桜も、そりゃあ美しく咲き誇っていた。江川は雑草に覆われた奥の奥の低地に流れ込んで池を作っていた。たしか五円池ってみんなが呼んでいた。
名の由来は池の中央部分だけ半径三メートルくらいの整った円形型の丘になっていて、そこに松の大木が斜めに傾きながら一本だけあり、まるで巨大な盆栽を見ているようだったからだ。新参者たちがこの五円池を訪れると必ず感嘆の声を上げていたっけ。残念なのはいつの頃か、池の水は枯渇してしまい子供達がクルクル回って鬼ごっこができる広場になってしまった事だ。
ところがある日、水道管が破裂したんだ。下水なのか、上水なのかは判らないが大量の水が低地にある五円池に向かって流れ込んでいった。その水量は人間が制御できるようなものじゃあなかった。雑木はすべて飲み込まれて、きっともぐらたちの巣も水没しただろう。
誰かがお祭りですくい上げた金魚を放ちて一匹だけでうれしそうに泳いでいた。
この時、僕はあるべき姿の五円池の美しさを初めて見ることができたんだ。自然が持つ美って言うのだろうか。あるがままの美しさをこの時、この僕の両目に焼き付けたんだ。
僕の人生の中であれほど美しい風景はない。
物心が付くって言う言葉があるが、おそらく僕にとってのそれは三歳時か四歳時の頃だったと思う。自宅のすぐ近くにあったさつま芋畑が整地されて幼稚園ができた。人口の急激な増加により新しい小学校が建てられ、当たり前のことだが、続けざまに中学校も建設された。僕は小学校も中学校も第一期卒業生になっているんだ。
近所に六〜七歳位、年上のお兄さんがいて、幼児の面倒をみるのが好きな人だった。よく遊んでもらったなぁ。数ヶ月前に生まれたばかりの赤ちゃんもいたっけ。みんな、この子の事を本名じゃあなく「アカ!」って呼んでいた。
年長者が「栗拾いに行くぞ!」って号令をかければ、その日はみんなで雑木林に行って栗の木を揺さぶってはイガを落とし、靴の底でイガの割れ目を左右に踏みつけ実だけを剥がしては山分けにした。ジャンケンをして勝った者から順番に大きい栗の実を自分のものにできる。
家に帰って母に渡すと「今日の山栗は大きいねぇ。」と言って「八百屋で売っている栗より山栗の方が美味しいのよ」と教えてくれた。
母が茹でてくれた山栗を前歯だけを使って割って食べようとすると、よく白くて小さな虫が喰っていたものだ。あれこそが自然からの贈り物ってやつなんだろう。そうだ、クルミの木もあったけれど、あれは取ってきても食う事はできない。実が朽ちて種の部分だけになるまで土に埋めておくのだが一週間も経たないうちに、どこに埋めたか忘れちまうんだ。
カブトムシだろ、クワガタムシ、山栗にクルミ、アケビも雑木の山にはあったなぁ。みんな平等で山分けがルールだった。