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第4話 居酒屋 たぬき 中編

 私が初老人の右手をジョッキの取っ手まで運ぶと人差し指と中指だけに自然と力が入っていくのがわかる。初老人は自らの口の方をジョッキに近づけていき、唇の感触を頼りに淵をみつけだして、ゆっくりとジョッキを傾けながら持ち上げた。少しだけ猫背になっていた姿勢を正すようにして、泡で満たされていたビールが喉を通過していくのがはっきりとわかった。


 「私の飲み代は自分で払いますから」ときっと気にしているであろう言葉を私が言うのと同時に「ぽわぁ〜、うまい!」という初老人の声が重なりあった。


 「今日は暑かったから、最初の一杯、いや一口目は最高だぁ。あっ、おひとよしさんと乾杯するの、忘れちまったなぁ。まぁ、いいかぁ」


 初老人は自分で自分に話しかけて自分自身を納得させていた。


 「おひとよしさんも飲んで、好きなもの頼んでくれ。僕に気遣いは無用だ。ただし、帰路はお付き合い願うぞ。」


 好きなものを注文しろと言われて「ではホッケを・・・」と注文したらどうなるのだろうか。私には盲人の食事の介助などまったく経験がない。いちいち小骨を取ってから初老人の口まで運べばいいのだろうか。そうでないとするならば、この『居酒屋 たぬき』の女主人が盲人の介助に手慣れていて、骨抜きから小皿分けまでおこなってくれるのだろうか、そんな私の不安は顔に出ていたらしく隠せてはいなかったようだ。


 「大丈夫よ、このおじいさまは自分の事は自分ですべてできちゃうから、余計な心配しないで注文しなさいな。」


 女主人に完全に見抜かれていた。


 「はい、とりあえずお通しね」

 

 そう言われて目の前に並べられた器は長方形の瀬戸うつわが三分割に区切られたもので、左側からイクラの醤油付けにきゅうりと柚の皮をあしらった一品、真ん中のうつわにはサイコロ状に形成された厚切りハムの上にチーズを乗せてバーナーで炙った一品、一番右端が蛸とワカメの酢の物だった。どれも手の込んだものであり、場末の居酒屋らしくない小料理屋の先付けのようであった。


 初老人にも同じ先付けが同じうつわで置かれたのだが、箸を使うことなく手で摘めるように薄くて白いパンの上にイクラもハムも水気の多い酢の物でさえも乗せてある。パンのヘリをうつわの端にちょっとだけ飛び出させてあり、全体にやや女主人の方を低く傾かせて乗せている。それを初老人が右手の人差し指で探り当て、はみ出しているパンの部分を確認するとうつわから持ち上げて口に運ぶのである。


 「それはボンレスハムとチーズよ、とろけるってやつね」


 女主人は初老人が口に運び込んだ食材を説明付きで伝えながら「パンと一緒に口に入れるからハムサンドってことね。右がイクラ・サンドで、もう一つが酢の物サンド」と言って大笑いした。


 「ふだんからこういうふうにおつまみを出しているんですか?」と女主人に聞くと「この出し方で慣れちゃっているのよ。クラッカーじゃあダメなのよね。ねぇ、総入れ歯だもんねぇ」


 口の中にハムと食パンを入れたまま盲目の初老人は口を上下左右に回転させながら咀嚼して飲み込んだ。


 「歯はいらん。人工物の方が手入れが楽だ。それと、これ、いつものケーキね。秋津の店のだ」


 「いつもありがとう。このお店のモンブランは最高よ。おひとよしさんにもひとつ上げてもいいかしら?」


 女主人からケーキのおすそ分けのお誘いをいただいたが、すでにビールを飲み始めた口に生クリームはご勘弁願い出て、丁重にお断りした。

 初老人は『お通し』の三種を食パンと一緒に食べ終えると、再びビールジョッキの取っ手を探し始めた。先ほどと同じように私が手を添えて場所を教えると「ありがとう」と小さい声で伝えてくる。口元にはパンの破片がこびり付いていて、女主人の「口の周り!」という容赦のない指摘に、せっかく持ったばかりのジョッキから手を放して口元をおしぼりで拭った。


 もう一度、手を添えてジョッキまで初老人の指を導くとまた「ありがとう」と言い「あの宇都宮に行った青年はきっと祖国に帰ったら、日本人は優しいって、ご近所に触れ回るだろう」と付け加えた。

フィリピンから来た青年の目的地が宇都宮から小山駅に変わったことを初老人に話し忘れてしまっていたが、まぁいいだろう。 初老人はビールを口に運ぶ度に泡を口元いっぱいに飾り、その都度拭う。そして私が手を添えてジョッキの場所を教える。


 ジョッキの中のビールが半分くらいになった時、注文はしていないが、私のカウンターテーブルの前に肉じゃがの小鉢とシシャモが並べられ、初老人の前のカウンターテーブルにはサンドイッチが置かれた。


 なぜ酒の肴がサンドイッチなのか理解できていなかったが、注文をする前に並べられていく一品料理たちはきっと常連である初老人にとっては「いつものやつを頼むよ」という暗黙の了解があったのだろう。


 切り口を上方に向けて不揃いの高さに並べられているサンドイッチには、俗にいうパンの耳の部分も切られずに付いたままで一見すると手間を省いたようにも見える。


 「いつものをいつものように置いておくね」という女主人の言葉に「悪いね」とだけ返事をしてから初老人は左手でサンドイッチの置かれた場所を探し始めた。

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