第3話 居酒屋 たぬき 前編
武蔵浦和駅に着くと初老人の歩と調和して左右に振られる白杖のリズムは早くなり、私が道案内をされる立場に変わってしまった。
改札を出て南口に誘導されていると、先ほどと同じように「左側にエスカレーターがある」とだけ言って私の腕を左に引っ張る。
「銀行を過ぎたら信号を右だ」と言って、今度は右に引きずられていく。
「この街、初めてかい?」
夏の暑さのせいもあったのだろう。初老人は少し歩調を緩めながら聞いてきた。みどり色した銀行の看板を見つめながらこの駅の記憶を探ってみたが見つけ出すことはできなかった。
「武蔵浦和駅は通過駅ではあるのですが、降り立ったことはないと思います」
「そうか、途中下車も良いものだ、僕にはできなかったが・・・」
ポツンとした声というのはこういうものなのだろう。初老人は杖でアスファルトの歩道をコツコツ叩きながらも、いったい何が目安になっているのか理解できないでいる私にお構いなく歩を進め「ここだよ」と言って立ち止まった。
杖先を右に向けて二回ほど居酒屋らしき店前の歩道をコツコツと叩いた。見ると赤一色の暖簾に白抜きの文字で『たぬき』という屋号が読み取れる。平仮名で『たぬき』である。
ところどころに黒い油汚れらしい痕跡があり、きっと開店以来、一度も新調せず洗うことも放擲され、使い続けているであろう布を初老人と二人でくぐり、薄いガラス戸をガラガラと滑らせると「いらっしゃいませ」と女性の声が私たち二人を招き入れた。
店内に先客はおらず、ただラジオからの声だけが話し相手になっていたらしい女主人の言葉に操られるまま、私と盲目の初老人はカウンターに並べられている椅子に座らされた。
いつもの事なのだろう、初老人はカウンター下に伸びている黒ずんだ止まり木に左の足を乗せると、右手に持ったままだった白杖を小さく三分割にたたみ始めた。白杖の中は空洞になっていて、白いゴムが先端から手元の部分まで繋がっている構造らしく、ヘラ竿の如く三分の一の短さまで折りたためるのである。
「ビールでいいかい?」と初老人に聞かれて「はい」とだけ返事をすると「ビールを中ジョッキでひとつと、僕には冷えたウーロン茶をグラスじゃあなくてジョッキでくれないか、喉が渇ききった。」と言って注文した。
女主人の「あれ、ウーロン茶でいいの?」という言葉に初老人は盲人ならではの言葉を初めて口にした。
「ここを出たあと、自宅までひとりで帰らなければいけないからアルコールはやめておくよ。」と告げたのである。
女主人は私の顔を刺すかのように凝視して「いつもの人じゃあないわね」と初老人に言うと「通りすがりのおひとよしさんだよ」と私の事を紹介した。
この言葉がきっかけとなり、今朝の電車内から始まった出来事の一部始終を話し始めた初老人の悲劇なのか、喜劇なのか判らない状況を聞き終わった女主人の頭の中では鮮やかな映像が出来上がっているようで「まるでチャップリンの映画みたい」だそうだ。
「いっそのこと、このおひとよしさんに自宅まで送ってもらっちゃいなさいよ。そうすれば一期一会の飲み友達っていう事でいいじゃあないの」と私の目から視線を外さずに言い放った。
初老人の顔を見ると、見えぬ眼球を私に向けてきて「いいのかい?」と遠慮がちではあったが、確かに送ってもらいたい感情を声に乗せている。
「いつもはねぇ、ボランティアの人を頼んで飲みに来るのよねぇ、飲み代も払ってあげてね。ボランティアって言ったってタダじゃあないのよ。付き添い代金を払って、飲ませてあげてる優しいおじいちゃんだものねぇ」
女主人の言葉に盲目の初老人は赤茶けた顔をさらに赤らめて、額の汗はとまるどころか、さらに額を濡らしていった。
この居酒屋の店内に備え付けられた古い時計の針は十五時を少しだけ過ぎた時刻を差していた。
「二時間くらいならご一緒させていただきます。」と私が応えた。そして初老人の住むご自宅までの簡単な経路を聞いたのだが、土地勘が無い私には言葉だけでの説明では理解ができなかった。
私の心情を察したのか初老人は「やっぱり、酒はやめておこう」と言い出したが、今度は私と女主人が引き下がれなくなってしまった。押し問答などはしないが初老人とのやり取りに決着を付けたのは泡で満たされ、滴り落ちてくる冷えきったふたつのビールジョッキであり、ウーロン茶ではなかった。