第29話 転機 〜音声コード〜
1980年代に入ると画期的な点字が発明された。婚約中だった姉が会社の同僚から聞いて、さらに実践までおこなってから僕に伝授したんだ。
「良雄、お姉ちゃんの部屋にちょっときてくれるかな、やってみたい事があるの」
きっかけは唐突な姉の言葉から始まる。
「点字をね、音で表現できると思うの、神戸に住んでいる母子がね、指点字っていうものを思い付いたんだって」
僕は十八歳までは晴眼者だったから一般的な点字と手のひらに文字を書きなぞってもらう『指文字』や『触手話』でも意思の疎通はできる。
「両手のね、人さし指、中指、くすり指の組み合わせが点字になるんだって」
左手の人さし指、中指、右手の人さし指の三本の組み合わせが母音となる。左手の人さし指だけなら母音はア音、人さし指と中指の二本が母音のイ音、両手の人さし指二本の組み合わせでウ音となる。残りの指は子音となっていて行を表す。
カ行は右手のくすり指一本、サ行は右手の中指とくすり指であらわす。
目は母音がエでマ行だから母音三指、子音も三指で表現できる。この指一本一本の動作に音を付けていくとギターコード、ピアノのコードと同じ原理になる。気付いて欲しいのは指文字もギターの弦も六本であるということ。さらにコード自体は無限に存在するので擬音でも破裂音でも指文字を音声変換できるのである。
「お姉ちゃん、これって画期的な発見じゃあないの」
僕は姉の着眼点に感心した。指文字自体はのちに東京大学で教壇に立つ方のお母様の発案だが、これを楽器のコードに当てはめて変換するアイデアを生み出したのは姉である。
「うん、やってみないとどうなるのかわからないけれど、おねえちゃん、良雄と一緒にこの音声コードを作り上げてみたい」
「じゃあさぁ、姉ちゃん、Fメジャー7だったらナ行イ段だから“に”になるね。僕、このコード好きなんだ」
姉はエレクトーンを使ってFメジャー7のコードを弾いて聴かせてくれた。
「うん、そうだね。お姉ちゃんもこのコード好きだよ。切ないっていうか侘しい感じがするものね」
僕ら姉弟が考え出したコード文字変換へのチャレンジが始まった。この作業の進化形が現在に至る盲人用音声変換ソフトに役立っているのかどうかはわからないけれど、この作業は僕と姉の人生の中でかけがえのない時間を築いた。
楽器が奏でるコードそのものが文字になり、そのコード進行は音楽となって会話になるんだ。映画のワンシーンのような、そうだ、あの名画『雨に唄えば』みたいな感覚にまでなってくれたら目いっぱいの幸せを感じられるだろう。そんな予感さえしていた。
でもね、現実は決して有頂天を許してはくれない。




