第2話 新秋津駅にて
私の目的地は東村山市の久米川駅である。
午前中のみの仕事であり、この日は気が楽で『午後はなにも予定が入っていない。たまには自宅でのんびりしよう。』という気分で三時間だけの業務をこなした。仕事といっても別段、何かをおこなう訳ではない。ただ、いれば良いのだ。三時間だけ、この街にあるクリニックのレントゲン室にいて、いつ来るかわからない患者を待っていれば良いだけの職場である。
実に暇な職場なのだが、それ故にいつ「もう、来週から来なくていいよ。」と言われても不思議ではなかった。この日も三時間だけの勤務中に私が相手をした患者さんは三名だけであった。実働時間だけなら十分にも満たないだろう。それでも交通費別で一万円も頂けるのだ。
自分が必要とされているのかどうか半信半疑であるが高報酬であることは確かなので、勤め先から言い出してこない限り「仕事が無いようなので、もう辞めます。」とは口が裂けても言わない事にしている。
十二時を二、三分ほど過ぎた頃合いを見計らってトイレに行く。別に用を足したいのではなく、私の存在を思い出してもらうために行くのである。こうでもしないと「外来診察が終わりました。帰ってもらっても大丈夫ですよ。」と言ってもらえなくなる。
別に早々と帰宅する必要はないのだが、無意味に時間を経過させる事はあるまい。まして帰路のほうが乗り換え電車の本数が少なく、乗り換えの連絡も悪いので十二時十六分に久米川駅を出る電車に乗り込みたかった。この電車に乗れれば所沢駅での乗り換えも、新秋津駅での待ち時間も少なくて済む。
携帯電話の時刻数字が十二時に迫っているのを確認してから、荷物を赤いモーブスのバッグに仕舞い込もうとした時だった。クリニックの自動ドアが開いて「あのぅ、今からでも診てもらえますか、初めて来たのですがいいでしょうか。」という声が聞こえてきた。
声の持ち主は中年女性で腹痛らしい。こうなると終業時間は未定になってしまう。私の中の心の声が喋り始める。
➖腹が痛むんだったら、もっと早く来ればいいのに。この時間から問診して、レントゲン撮影して、その結果は二、三日、様子を観ましょう、お薬は出しておきますね。➖
この定型分が終わるまで、まったくもって無駄に時間を取られるだけだ。
私のお決まりの文言なのである。
レントゲン撮影だけを終えると私はこの女性の診察結果を待たず、自動ドアの前にいる受け付けの女性ふたりに「お先に失礼致します。また来週もよろしくお願い致します。」とだけ言って外に出た。
初夏らしい陽射しにさらされながら空堀川という水が一滴も無い川の橋を渡り切って久米川駅に向かう。
空堀川はかつて下水路も兼ねた一級河川なのだが、今では雨が降らないと水の流れはない。名の所以らしい。この日も水は全くなく、川底でなければいけない場所で野良猫が二匹、戦っていた。けたたましい声を上げて威嚇しあっていたので、よくよく見つめていると私が立っている橋の欄干の鉄柱の溝に雌猫がいた。
この三毛を奪い合っているのだろう。
十二時十六分の電車には間に合わず、次に久米川駅に来る十二時二十六分の電車に乗り込んだ。二駅先の所沢駅で西武池袋線に乗り換えて、さらに一駅先の秋津駅で下車する。
商店が立ち並ぶ幅四メートルの道を朝とは逆方向に進む。商店のシャッターはすべて開いていて、どの店も人の呼び込みに成功していた。すれ違う集団に中にプロ野球のユニフォームを着た者たちを見かける日は西武球場でデイ・ゲームがあるのだろうと予想が付く。
新秋津駅に向かうには洋菓子店の前の路を左に曲がる。有名な店なのかどうかは判らないが二、三人の客が店内にあるショーケースの前に立ったまま、どのケーキを買おうか悩んでいるようだ。
私は歩を止めることなく店内の様子を見ながら通り過ぎようとしていると客の中に朝、出会った盲人らしき人の背中があることに気が付いた。
うしろ姿だけであるが似ている。白杖もしっかり握っていたから多分、あの『ハムサンド』と奇異な言葉を発した初老の盲人に違いあるまい。
盲目の初老人はすでに購入するショートケーキを決めたあとらしく、店員が箱詰めするのを立って待っている。ズボンのうしろポケットに右手を回して財布を取り出すと、おそらく千円札を三枚抜き出したのだろう。店員の女性が多過ぎたらしい一枚の千円札を返していた。
初老人はお支払いを済ませると右手に白杖、左手にはケーキが入っている四角い化粧箱を持って、新秋津駅に向かう進路通りに歩を進めるため洋菓子店の扉を出てきた。
➖間違いない、あの電車のドアに両の頬を同時に挟まれた盲人だ➖
私と同じ電車に乗って、この秋津の駅で下車していた事に確信が持てたのはお顔を拝見できてからだった。私は盲目の初老人をまるで尾行するかのように数メートルうしろを歩いて駅へたどり着いた。
新秋津駅の改札の天井には時刻表の電光掲示板があり、それと並んでアナログの針時計も設置されている。初老人は一番左にある改札から駅構内へ入っていった。私が乗ろうとしている西船橋方面行きが到着するまで、まだ五分以上も余裕があった。
初老人もきっと同じ電車に乗るだろう。
杖をコツコツと叩きながら左に曲がり、右手にある2番線ホームに降りていくエスカレーターに向けて身体と杖の先を変えようとしていた時だった。
「エレベーターは逆、逆方向よ、。こっちには階段しかないみたい。」
声を発した女性には階段と並走するエスカレーターが見えていないようで、初老人の右の二の腕を掴むとエレベーターのある階段とは真逆の方向へ誘導していった。
不意の優しい介助の言葉に初老人はただ、「あっ、はい。」とだけ言葉を発してエレベーターの扉の前に身を引かれていってしまった。
「あ、あのう、エスカレーターの方が良いのですが・・・」
付け加えられた初老人の声は女性には聞こえていなかったらしい。
「はいはい、もうすぐ昇ってきますから・・・」と無頓着な返事をしてドアが開いたエレベーターの中に初老人を押し込めると中年女性はその場を離れて府中本町駅へ向かう1番ホーム側へ踵を返して行ってしまった。
私はこの光景を数メートルだけ離れた場所から眺めていたのだが、二人の会話は聞き取れていたし些細な間違いにも気が付いていた。
私は根っからの人間観察好きなのである。
言われるがまま、されるがままに女性の誘導に従い、エレベーターに乗り込んでしまった初老人であったが、ドアが閉まる直前になって思い返したのだろう。エレベーターから出ようと白状でドア部分の方向を確認し、歩を進めた瞬間だった。エレベーターのドアが時間制限に達したらしく閉まり始めてしまった。
今朝見た光景とまったく同じように初老人の両頬をエレベーターのドアが挟み込んだその瞬間である。
「ハムサンド!」
初老人は朝の通勤時と同じ言葉を唐突に発したのである。
私は駅の中にいる周りの人たちの反応を見渡したが誰も気に留めている様子はなく、もう数分で到着する西船橋行きの電車が来るホームに急いでいる人ばかりであった。
私は盲目の初老人の傍に行き「下のホームまでご一緒しましょうか。」と声を掛けてご同行する事にした。
「エレベーターは使った事がなくてねぇ、ホームのどこに自分が降りたのか解らなくなりそうだから引き返したんだけれど、ドアに挟まれちまった。」と仰られる顔は親しみやすく、ちょっとだけ笑っているようにも見えた。
「ここから、あと三歩でエスカレーターがはじまりますから気を付けてください。」
そう私が言っても、いちいち白杖で前方確認をおこないながら手すりには頼らなかった。きっとそれが習慣となっているのだろう。
エスカレーターはゆっくりと地下ホームに向かって動いていく。もう少しで傾斜が緩やかな水平になる頃合いを見計らって「降り切りますよ、最後部の車両の位置にお連れすればいいのですか。」と聞いてしまった。
「なんで君は僕の乗車位置を知っているんだ。」
盲目の初老人は尋ねてきた。余計な言葉を言ってしまったが聞いてしまったのだから今朝、私が見た光景を洗いざらいに話さざるを得ない。
「武蔵浦和駅で今朝、電車のドアに挟まれたのを偶然、見ていました。同じ車両に乗り合わせていましたが、その時もハムサンドと仰りました。サンドイッチ屋さんだったのですか。」
確か、秋津駅をまっすぐ志木街道に向かう途中、サンドイッチの専門店があったはずだが、その記憶からも三十年以上は経っている。
「いえいえ、そうじゃあないんです。サンドイッチなんて作ったこともない。食べる専門ですよ。」
初老人は杖を左右に振っては駅のホームのコンクリートを叩きながら歩を進めた。
「済まないが私の腕を掴まれるよりも君の腕を掴まさせてくれないか。」
「あっ、はい、どうぞ。」
盲目の初老人は私の右の腕の上腕部を柔らかく握った。
「この方が安心するんです。」という言葉と同時に白杖を叩くのをやめ、ケーキの入っている箱を右手に移し換えた。
「ハムサンドなんて、なんで言ってしまったんだろうねぇ。まぁ、サンドイッチの中ではタマゴサンドの次に好きだけれどもねぇ。」
初老人は口角を少し上げて笑顔で話された。最後部車両のそれも一番うしろのドアを待つ駅の最後部まで二人で進み、コンクリート製の床にペンキで書かれている案内文字まで確認してから「前に二人立っています。」と私が伝えると初老人は言葉を続けた。
「さっきのエレベーターには参ったよ。親切心から言葉をかけてくださったのは解るんです。だから間違った方向に進んでいることもわかっていたんだけれども言えないよねぇ。」
笑顔をよりいっそう鮮明にした初老人の額を汗が流れていた。
「エレベーターでホームに降りてしまうと方向を見失いそうで、まずい事になるかもしれないと思って、とっさに出ようとしたらまた挟まれちまった。こんなこと、今まで一度もないんですよ。」
西船橋行きの電車がもうじき到着するアナウンスが聞こえ、私と盲目の初老人は途中駅である武蔵浦和まで一緒に向かうことになった。電車に乗り込み、車両が動き出すと話の続きが始まり「ハムサンドなんてなんで言っちまったんだろう。光を失って、もう結構な時が過ぎているがドアに挟み込まれた経験は初めてだ。きっと笑い者になっていただろうね、まぁそれでも良いが・・・」とさっきと同じ言葉を繰り返した。
ハイともイイエとも答えづらい質問に私は「もうちょっと大きい声でハ・ム・サ・ン・ド」って怒鳴った方がウケたかもしれません。」と言い返した。
「ウケたくて言った言葉じゃあないし、君みたいに朝の光景も知っていての二発目だったら面白かったかもしれないけれどね。同じ日に同じ人に会うなんて滅多にない、それに二度もドアに挟まれることなんてもっとありえない事だよ。」
「えぇ、確率なら天文学的な数字になるでしょうね。おそらく人生で一度あるかないかでしょう。」
私は本心からそう言い返した。
盲人に電車で会う。それも同じ車両に乗り合わす。同じ日に同じ人に偶然、再会する。さらにその出会った盲人が二回もドアに挟まれる、それも両の頬をだ。もっと言えばその盲目の初老人はユーモアがあり、自らに降りかかってきた災難めいた現象に「ハムサンド!」と声を発して、その二回の偶然の出来事に私という者が出くわしたのだ。
「笑いが欲しい言葉だったかぁ、そうだね、それもあるかもしれないね。でもね、それだけじゃあないんだ。僕はね、どんなに電車の座席が空いていても座らない。譲られても断るんだ、自分のいる場所が判らなくなるからね。やんわりとご親切を断るのって結構、面倒なものだよ。」
新秋津駅から初老人が下車する武蔵浦和駅までは五駅あり、およそ二十五分程度かかる。この二十五分間、私は初老人のはなしを聞く事に決めた。
「乗り込む時はいいんだ。でもね、いざ降りようとする時に周りの様子がつかめない。そりゃあ、ある程度の判断はできる。混んでいる、空いている。言葉にすればこのふた通りになるな。座席に座っちまうと降りるときにドアまでどれだけの人にぶつかるのか判らん。だったらドア横の手すり棒に寄りかかっていた方が賢明だろう。」
そう言うと白杖の先で電車のドア横の壁をなぞるように動かし始めた。
「このエリアには乗客はおらんよ。最後部と先頭車両の端には三人掛けの座席が無いからね。乗客がいれば内壁にもたれ掛かっているはずだ。そうしない乗客は話好きの女学生くらいなものだよ。これは声で判る。」
言われてみれば周りにいる乗客たちは皆、内壁に背中を当ててもたれ立っている。車両の中央部分の吊り革が並んでいるところにいる者は一人しかいなかった。北朝霞駅から乗り込んできた茶褐色の肌をした若い男性だけが貼り紙広告が並んでいるJRの路線案内図を見上げていて、吊り革にも手すり棒も頼りにしていなかった。顔の色が赤茶けていて、ひと目で東南アジア系の国から出稼ぎに来たのだろう事が予想できた。
「この時間帯の電車ならいつもこんな感じで人を頼らなくても大丈夫なんだ。ただ、杖さえあればだけれどねもね。方向を失うことが一番怖いんだ。」
鉄でできた電車の車輪が鉄橋の線路上に差し掛かり、それまでの心地よいリズムと揺れが一変して大きな轟音となる。荒川鉄橋を電車が通過している時だけ初老人は言葉をとめた。鉄と鉄がぶつかり合い、摩擦するガーガーという音の長さが鉄橋の大きさ、あるいは荒川の川幅の長さを教えてくれている。
轟音の中「この先、電車が大きく揺れますので、お立ちのお客様は吊り革か手すりにお掴まりください。」というアナウンスが流れて、それに続いて車両は大きく左に揺らされ、さらに続いて右に揺り戻される。貨物列車が使う線路との切り替えポイントがあるのだ。
「フン!」
初老人が鼻を鳴らした。左右に揺られるカーブに身を任せ、脚だけでバランスを取り、吊り革にも手すりにも、そして白杖にも頼らず、立ったまま通り抜けられるかのチャレンジをしていたのである。
「今日も絶好調だ、膝だけでバランスを取っていたんだ。」
およそ三分かけて、オレンジ色の車両は鉄橋を通り抜け、轟音から解放されると西浦和駅に到着する。この駅で乗り合わせていた東南アジア系らしい青年が一旦、下車したのだが、ホームに降りても歩みは進めなかった。
あきらかに迷っている。電車のドアが閉まる直前になって意を決したらしく再び乗車してきた彼の目と私の目が合った。青年は私と盲目の初老人に助けを求めようと近ずいてきて、何かを言ったのだがその言葉が英語なのか、タガログ語なのかベトナム語なのか聞き取れずに返答に窮していると初老人が「ネクスト・ステーションだね。」と伝えた。
青年の手にはスマートフォンが握られていて沿線案内が表示検索されていた。
「パーポーズ・ステーション・ネーム・プリーズ」
初老人が英語で質問すると青年は日本語で「ウツノミヤ」と答えた。
「宇都宮駅かぁ、教えるのにちょっと厄介だ、君、ちょっと教えてやってくれないか。」と初老人は私にバトンを渡してきた。
「あのう、いったい何語を使えばいいんでしょうか。英語で話されている部分があるのは判るんですが・・・」
私は初老人に聞いた。
「はなっから日本語だよ。解りやすく英語が混ざっているだけだ。」
初老人が下車する武蔵浦和駅まではあと一駅、四分足らずで到着する。
武蔵野線から宇都宮へ向かうのは大宮駅にまず出なければならない。初老人が下車する武蔵浦和駅で埼京線に乗り換えれば終着駅が大宮である。もう一駅先の南浦和駅で京浜東北線に乗り換えても終着駅は大宮になる。大宮駅からはJR宇都宮線に乗り換えれば良いのだが、この乗り換えが厄介だった。
宇都宮行きのホームに高崎行きの列車も入ってくる。しかも車両のデザインが全く同じで、行き先掲示板以外に区分できるものがない
「説明するのが難しいですよ。沿線住民でさえも間違えてしまう事があるんですから・・・」
投げられたボールを初老人に投げ返してみた。
「ならば、俺が大宮駅まで連れて行くよ。」と速球で返されてしまった。
白杖を叩きながら外国人を相手に路線案内をすると言うのか、優しいにも程があるだろう。薄情かもしれないが次の駅で二人と別れて、私ひとり自宅に帰ろうと頭の中をよぎっていた。しかし私はそうはしなかった。理由は二つある、私自身が大宮駅廻りに迂回しての帰路でも交通費の無駄が出ない事と目の見えぬ者、独特なる知恵をこの目で見てみたくなったのである。まさに人間観察そのものだ。
「私もご一緒致します。方向はちょっと違いますが・・・」
恩着せがましい嘘を言い、武蔵浦和駅のホームに三人で下車した。東南アジア系の青年は私たちの親切心から起きそうな行動に驚きながら、うしろを付いて来るように歩調を合わせた。
武蔵浦和駅は乗り換えをする乗客にとって不便な構造に造られている。ホームの端っこに一箇所しか通路がなく、この街に暮らす人も埼京線のホームに向かう群衆も同じ通路を使うしかないので、降りのエスカレーターが設置してある場所の前で長い行列が出来てしまう。
反対側の端っこにもう一通路、造っておけば混雑は緩和されたろうが、埼京線の開通に合わせて取り繕うように誕生した連絡通路なので利便さは後回しにされたのだろう。
「今朝、ここで挟まれましたね、それも顔だけを・・・」
無言で連れ添い歩くのもよそよそしい感じがして、言葉だけ投げてみたが初老人は無言だった。
通路は狭く、一人ずつ縦に並んで前進するしかない。初老人は白杖を使ってコンクリートのホームをコツコツ叩きながら「ここのエスカレーターは前方さえ気に掛けていれば良いんだ、追い越されることがない。」
エスカレーターの幅も一人分しかない造りになっているので、皆が一列にならざるを得ない。
「背後から押されるのが一番怖い。とくに降りる時にはね。」
初老人を先頭にして、その後ろが青年、最後方が私の順の一列になり、エスカレーターの動きに任せて流れていく。平らな通路の踊り場になると空間が広くなるので、横一列に並んで歩く。左側にある階段は選ばずに並走しているエスカレーターで、今度は上昇する。ここは幅が広く左側に寄らなければならない。
改札階まで辿り着くとエキナカ・ショップが数店舗あり、広いフロアーのようになっている場所までくると私の右腕を初老人は柔らかく握った。
「この駅で降りたことはあるのかい。」
初老人に聞かれて気が付いた見覚えのある風景だ。だが何の目的があってこの駅で下車したのかは忘れてしまっていた。
「斜め左方向に進めばこの街に繋がる改札だよ。大宮駅に行くには右奥のエスカレーターを昇るんだ。」
初老人に言われるがまま埼京線のホームに青年を伴って歩いて行く。太くて大きな支柱が何本も立っていて、目が見える私には埼京線乗り場へ向かうエスカレーターの位置がまったく見えていないのだが、盲目の初老人には見えているかのように、私の方が誘導されていった。
「晴眼者にはわかるまいが、この駅の造りは意地が悪い。」
初老人は呟くような小さな声で言った。
「晴眼者ってなんですか。」
「晴れた日に目ん玉を酷使する奴らのことだ。」
私にはもうひとつ疑問があった。何故、私には聞き取れなかった外国人青年の言葉を初老人は簡単に聞き取れたのだろう。
「先入観だと思うよ。この若者はおーみや、さがしています。って日本語で言っていたよ。」
先入観というものは耳を塞ぐもんだ。見た目が外国人だからといって、日本語を話していないと思い込むと聞こえている言葉さえ聞こえんぞ。」だそうだ。
「初老、このまま宇都宮まで一緒に行くつもりですか。」
秋津駅近くの洋菓子屋で初老人が買ったケーキが気になって聞いてみた。
「いや、行かんよ。大宮駅に着いたら宇都宮行きのホームまで連れて行けばいい。ホームは君が教えてやってくれ、俺にもわからん。」
大宮駅から宇都宮線への乗り換えホームは二つある。九番線ホームと十一番線ホームのどちらが先に来るのか、着いたところ勝負なのだ。間違えると時間のロスになるし最悪、高崎線に乗り込んでしまうことだってある。この間違いを私も数回おこなっていた。
土曜日の午後二時を少し超えた時刻にもかかわらず埼京線内は混んでいた。初老人は乗り込んだ電車のドア横の手すりに背中をくっ付けて立ったまま、見えぬ視線の先にあるコンサート会場を眺めているようだった。青年は一つだけ空いていた座席に自分の尻を押し込むと、手にしていた袋から紙コップに入ったアイスコーヒーとハンバーガーらしきものを取り出した。
紙コップにストローを差し込んでひと口飲んでから紙に包まれたままのハンバーガーを手で半分にちぎって、私に食べるようにと差し出してきた。 私は手でのジェスチャーを混じえて「いらない」ことを伝え、「どこの国の人なの。」と日本語だけで聞いてみた。青年は訛りの強い癖のある日本語で「フォリピンから来ました。」と答えた。
「宇都宮へは働きに行くの。」とさらに聞いた。
「はい、でも時間、間に合わない。ディレイなるよ、行きたいのはウツノミヤじゃあないよ、オヤマだよ。」と言って目的地を変えた。
そして「あなたたち、やさしいね。」 そう付け加えた。
訛りの強い日本語に加えて、見た目が外国人というだけで『なにを喋っているのか聞き取れない』と思い込んでしまったのだが、いざ一対一で会話をすれば固定観念が無くなったためか、ちゃんと聞き取れるし会話も成立している。盲目の初老人は見た目での判断が無かったので青年の拙い日本語であっても聞き取れたのだろう。
「そのハンバーガーはランチなのかい。」
私の問いに青年は顔を横に振った。
「今日はこれでおわりです。お金、無いから・・・」
私と青年の言葉が聞こえていたのか、少しだけ離れた車内に立って、手すり棒にもたれていた初老人は上半身だけを傾け「大宮駅に着いたら埼京線のホームで待っていてもいいかなぁ。昇ったり降りたりはエスカレーターでも疲れる。」と聞いてきた。
埼京線の大宮駅ホームは地下二階にあり、そこから一旦、改札のあるフロアーまで階段かエスカレーターで上がる。乗客の大多数は階段数が多すぎるからエスカレーターの前で順番待ちの列を作るのである。さらに『終着駅は始発駅』という言葉とおり、この乗り込んでいる埼京線の車両は大宮駅で乗客全員を降ろすと新宿方面に向かって走り出す始発列車になる。
「いいですよ、埼京線のホームで待っていてください。青年を宇都宮線のホームまで案内し終えたら、すぐに戻ってきます。きっと、この同じ電車で武蔵浦和駅に戻れます。」
初老人にそう告げると、青年には「小山駅から職場まではどうやって行くの。」と聞いてみた。
「クルマ来ます。仲間がクルマで迎えに来てくれるはずです。」と応えた。
「何時まで仕事するの。」の私の問いに青年は眠たそうな眼だけを向けてきて「終わりまで、でもエンドレス、疲れるよ。ベリー・タイアード、リミットです。」とうつむいたまま付け加えた。
大宮駅に到着すると私は初老人を埼京線の薄暗い地下ホームにある緑色のベンチに座らせて「ここにいてください、すぐに戻ってきます。」とだけ言い残し、青年を伴って長い階段を駆け上がった。
改札階にある時刻案内板には十四時十五分、宇都宮行き、十一番ホーム、十五両編成と点灯している。途中駅である小金井止まりではないし、ラビットと命名されている急行列車がやってくるグッド・タイミングだった。
目指すホームに今度は駆け降りて、コンクリートでできた柱に埋め込まれた路線案内図を見つめて再度確認した。
「ここ、ここだよ。この文字が大宮駅、今いる駅ね。小山駅はここだよ、宇都宮駅まで行ったら行き過ぎ。オーバーランだよ。わかった、ユア・アンダースタンド?」
青年はいつの間にポケットに仕舞い込んだのか、スマートフォンを取り出して路線検索サイトと見比べていた。
「OK、Thank you」
この言葉だけは流暢な英語そのもので返して、こう付け足した。
「一緒に記念写真を撮らせてください。」
定刻通りにやってきた宇都宮線のグリーン車の隣の六両目にフィリピン人青年を乗車させると私は車内に向かって大声で「すみませんが、この青年は小山駅で下車します。どなたか彼を乗り越さないように助けてやってください。」と言ってみたが、車両内にいる乗客たちは一斉に私と青年を見ただけで名乗り出てくれる人はいなかった。」
「だいじょうぶだよ、Have a Nice Day!」
この言葉も流暢な英語だった。
良き一日になっているのかどうかは判らないけれど、盲目の初老人が薄暗い地下ホームで私のことを待っている。急いで階段を駆け下り、さらに駆け上がってきた通路を逆走しなければいけなかった。階段数だけで例えるならきっと百段くらいになるだろう。
埼京線のホームで待つ初老人はまったく動くことなく、駅のベンチに座ったまま股の間に白杖を挟みながら見えぬ視線を上方に向けて唇だけを動かし、独り言でも言っているようだった。
三人で乗ってきた電車は行き先掲示を新宿方面に変えて、出発の時刻まであと残り二分になっていた。
「お待たせしました。」
私は初老人の傍に立ったまま声を掛けた。
「いや、間に合っているよ、私の頭上にいるのは鳩かな。」
ホームの天井を見上げると剥き出しになっている鉄筋に鳩が二羽いた。
「はい、鳩がいます。二羽いて、くつろいでいます。よく判りますね。」
私が応えると盲目の初老人は自分の頭の天辺を指差して、私の方に頭頂部を傾けた。そこには鳩の糞と思われる白と黒の混ざった小さい汚物が垂れていた。頭髪がまったくないから、きっと糞が落下して着地したことは生ぬるい暖かさで簡単に感じ取れたのだろう。
「あら、糞だ。みごとに頭の天辺に落とされてますね。」
私の笑いは声になりそうだったが堪えて、いつも所持しているウェット・ティッシュを二枚取り出し、初老人のツルツルしている頭から汚物を拭い取った。
「君ってどこに行くんだっけ。」
盲目の初老人はやっと私の帰路のことに気を使ったが、さすがに「あの青年と同じ方向です。」とは言えずに「帰りましょう。」とだけ返事をし、乗ってきた車両に再度乗り込み武蔵浦和駅に向かった。
「君も武蔵浦和駅を通るのかね。」
「はい、武蔵浦和まで出て、また武蔵野線に乗り換えます。南越谷からはスカイツリーラインで自宅に向かいます。」
「武蔵浦和に行きつけの居酒屋があるのだが、これもなにかの縁だ、ご一献いたしませぬか。」
初老人はにこやかや顔で私を誘った。武蔵浦和駅に私の所用は無かったのだが好奇心ついでだ、この光の差さない初老人をもっと知りたくなってしまい「是非に、お伴致します。」と応えた。
「小汚い普通の居酒屋なんだが大丈夫かな。」
初老人の問いかけに「腹を壊さなければ・・・」と言い返すと、鉄橋を渡り切った時と同じように鼻を「フン!」と鳴らして微笑んだ。