神霊夢想奇譚
「ああ、愛いなぁ。金色は可愛い、癒される」
「れ、煉夜さ、んぷっ」
煉夜はたじたじと自分の名を呼んだ金色——その名の通り、金色に輝く髪と人ならざる者の耳を頭に生やした少年を、膨らみのある自分の胸へ抱き込んだ。
ふわりと陽だまりの匂いが鼻孔をくすぐり、両の腕に納まる小さな身体から幼子特有の高めの体温が伝わる。
ぬくもりが心地良く、いつまでもこうしていたい、と思えた。
だが——幸福な時間は、次に聞こえた声によって無情にも終わりを告げる。
「主様。お楽しみのところ申し訳ないのですが、そろそろ……」
背後から「こほん」と、態とらしい咳払いが一つ。
振り返れば、狩衣を着た背の高い男が立っていた。
髪は燃え立つ炎のような真紅。
側頭部に羽根の髪飾りが添えられている。
開かれた切長の瞳は艶のある暗い赤、赤銅の色だ。
「守橙、邪魔するな。私は今忙しい」
煉夜は守橙——自分の〝式神〟から顔を背けて金色の頭を撫でた。
絹のように滑らかで触り心地の良い髪だ。
耳はもふもふしていて柔らかい。
顔を埋めたい。
「坊を愛でてるだけでしょう。務めを果たさねば、またどやされますよ」
「嫌だ、行かぬ。代わりなら幾らでもいるだろう」
「主様の代わりが務まる者など早々いません。ほら、駄々をこねてないで行きますよ」
煉夜は纏った白衣の首根っこを掴まれ、金色から引き離された。
狭い家屋の中、すぐ近くにある外へと続く戸に引き摺られて行く。
この式神、主人に対して無礼である。
振り解こうにも腕力では勝てぬ。
「煉夜さん、守橙さん、気を付けて行ってらっしゃい」
金色が手を振り見送っている。
何とも良い笑顔を浮かべて。
離れるのが恋しいのは自分だけなのか。
やはりくっつきすぎて鬱陶しいと思われてるのだろうか。
無性に寂しい気持ちとなった。
「嗚呼……金色……っ!」
「今生の別れじゃないんですから。帰ったらまた存分に愛でれば良いでしょう。坊、留守を頼みます」
「はい!」
縋る様に手を伸ばすも今度は担ぎ込まれてしまい、為す術なく連行された。
——務めとして課された、妖を祓う闘いへと。
時は平安の時代。
京に都が築かれ、貴族の力が強くなった王朝では日々権力争いが繰り広げられる。
そんな表舞台の裏側——。
いつの頃からか、世には〝妖〟または〝物の怪〟と呼ばれる魑魅魍魎の怪異が跋扈するようになっていた。
怪異が現れるは、逢魔ヶ刻。
人々が固く門戸を閉ざすその刻限。
煉夜は守橙と共に、夕闇の支配する森の中を駆けた。
空には満ちた月が煌々と在り、満天の星と共に輝いている。
こういった夜は決まって妖が騒めく。
月明かりの届かぬ暗がりには陰鬱とした気が垂れこめ、風が木々の葉を揺らして「ざわざわ」と不気味な音を奏でていた。
「このところ妖どもが騒がしいな」
「凶事の前兆とも取れますね。噂では出雲にあった災厄の封印が解けたそうですよ」
「出雲の災厄……か」
煉夜は都を守護する神々に支える巫。
賜った神威により、永き時を生きて来た。
出雲の災厄かあったのは幾年だったか——と思考を巡らせるが、大分昔の事で朧気にしか思い出せない。
ただ、単なる災厄では無かったように思う。
(寧ろ……災厄と呼ぶには、あまりに人に有益な何かであったような……。
……何か、大切な事を……私は忘れているような……)
と、疑問が胸に落ちた。
月が雲に覆い隠され、夜の闇が増して行く。
途端に邪な気が強くなり、煉夜は足を止めた。
頭頂部で纏めた黒髪が靡いて視界に映り込む。
煉夜は、はらりと眼前に舞った髪を払い退けると、己の得物——長い柄の先に、弓張り月の形をした刃を取り付けた薙刀を構えた。
「守橙、来るぞ」
告げると同時に、木の合間から有象無象の妖共が現れた。
姿形は千差万別。
「グギャギャギャ」「ギチギチ」と言った奇声を発している。
知性があるのかすら怪しい。
「今宵も小物が大漁ですねぇ」
守橙が胸の位置に右手を掲げる。
と、手のひらに炎が生まれ、それを向かってくる妖の群れへ放った。
炎は一瞬にして広がる。
しかし、守橙の〝神炎〟が燃すのは邪気を宿した妖のみ。
森へ広がる心配はない。
煉夜は薙刀に己の霊力を籠め、浄化のために揮う。
斬って、薙いで。
霊力の乗った斬撃派を飛ばし——。
そうして、群れる妖を討伐して行った。
金色を拾ったのも、こうした有象無象を滅している時だ。
妖と一括りに言っても、その種類は多岐に渡る。
金色のような人型も珍しくはない。
鬼、天狗、狐はその代表格だ。
知性を兼ね備えているため人間のような集団社会を形成し、対話が可能な個体も多く存在する。
しかし、お上——煉夜を使役する〝神〟は妖を毛嫌いしている。
「世の秩序を乱す、不浄なるもの。
見つけ次第、悉くを滅せよ」
とのお達しだ。
煉夜もその命に従って、これまで数多の妖を無慈悲に屠って来た。
それが何故、金色を連れ帰り愛でているのか。
——きっかけはある。
金色は出会った時、手負いであった。
有象無象に食まれた体は血に塗れ、命の灯火は消えかけていた。
だが、人型と言えども妖。
掛ける情は不要だ。
金色を捕食しようと群がった妖諸共、浄化すべく薙刀を振りかざした。
その時。
金色は神威を授かった際に柘榴色へ変色した煉夜の瞳を恐れず見て、言った。
「助けて」
と。輝く黄金色の瞳で。
あの色。
闇の中で光輝く黄金色を目にした瞬間、言い知れぬ懐かしさと、ある情景が脳裏に浮かんだ。
一面を覆いつくす、暖かくて柔らかな金色に包まれて眠る、優しい夢——。
穏やかな表情を浮かべて、眠りにつく自分がそこにいた。
神に仕える巫として、朽ちぬ容姿に死ねぬ体と成り果てた煉夜は、夢の情景の様な終焉に焦がれた。
だから、だろう。
気付けば金色を救い、連れ帰っていた。
無論、守橙にも咎められた。
狐は人を化かす事もあるし、お上に妖を囲っている事が露呈したら、それこそ大事になる。
それはわかっていたが、自分でも御しきれぬ衝動だった。
回復して目覚めた金色——身の上を話そうとせず、名がわからなかったので見た目の色から名付けた——は、窮地を救った自分を、恩人と慕った。
人の童と変わらぬ無邪気さで、感情豊かに接して来る金色。
接している内に、煉夜に変化が訪れた。
来る日も、来る日も、戦い、戦って。
殺し、コロシ、ころし——妖と呼ばれる不浄の物を浄化する。
そのように血生臭い闘争に明け暮れる日々で擦り減らし、希薄になった感情が一つ、二つ……と、蘇って来たのだ。
喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。
永らく忘れていた人間らしい感情を思い出し、心が躍った。
苦痛しか感じていなかった生に希望を与え、煉夜を癒す黄金色の光。
それが金色だ。
「——粗方、片付きましたかね」
思考する間も体に染みついた動きで得物を振り回し、いつしか周囲に妖の影はなくなっていた。
一瞬にも思える時間だったが体感よりも大分、長い刻限戦っていたのだろう。
東の空が僅かに白み始めている。
「帰るぞ、守燈」
「はいはいっと」
今宵の務めは果たした、と煉夜は緋袴を履いた脚の踵を返した。
◇◇◇◇◇
煉夜の居住は、都から離れた僻地。
霊山近くの川の畔にこぢんまりと存在する。
家に帰りつくと、入ってすぐの厨で敏速かつ快活に働く金色の姿があった。
「あ、煉夜さん、守橙さん、おかえりなさい! もうすぐ朝餉の準備が整いますからね」
帰宅に気付いた金色が、純真無垢な屈託のない笑顔を浮かべた。
笑顔の何と愛らしい事か。
煉夜は雷に撃たれたような衝撃を受けた。
(妖? いいや——)
「天の御使いがいるぞ、守橙。金色は天上の最も尊き神が遣わされた神使に違いない」
「主様……」
守橙が憐憫を帯びた瞳で射抜いて来る。
「何故そんな目で見る。
幼き金色が私を労うばかりか、私の為に率先して食事の準備をしてくれているのだ。
感動しかないだろう?」
「…………そうですね」
盛大な溜息を付かれた。
式神に人と同じような感性を求めるだけ無駄か、と結論付け諭すのは諦める。
そんな事よりも金色を抱きしめ、愛でたい衝動に駆られた。
だがしかし。
まずは身を清めねば金色を穢してしまう。
煉夜は撫でくりまわしたい気持ちをぐっと堪えて、水浴びと着替えに走った。
大急ぎで身支度を整えて戻ると、膳に乗った朝餉が座敷に準備されていた。
「煉夜さん、冷めないうちにどうぞ」
と促されて席へ着く。
一汁三菜。
米、味噌汁、焼き魚、漬物、煮物。
ほかほかと湯気が立ち上っている。
出来立ての温かい食事だ。
ごくり、と喉が鳴った。
「頂きます」
両手を合わせ、糧になる食物と調理してくれた金色に感謝する。
箸を取って椀を持ち、おかずを啄んだ。
食事も金色と出会ってから思い出した楽しみの一つ。
しっかりと噛み締めて頂く。
じんわりと口内に広がり、舌を賑わせる食材の味に頬が緩んだ。
「どうですか?」
「嗚呼……美味いな。特にこの魚が別格だ。守燈が採って来た物か?」
「あ、それは僕が捕まえたんです。そこの川で」
〝そこの川〟というのは、煉夜が身を清めるために利用している、神水で満たされた川だ。
煉夜は手を止め、傍に控えた守橙が「は!?」と大きな声を上げた。
「ぼ、坊、川に入れたのか?」
「え? はい。普通に入れますし、泳げますよ?」
「あ、いや、そういう事ではなく。あの川は……それにその魚は、神の——」
不思議そうに首を傾げる金色と、慌てふためく守橙。
二人の対照的な様子が可笑しくて、煉夜は吹き出した。
「くくっ! そうかそうか。ならば尚更味わって食べねばなぁ」
「主様、呑気に笑って食べてる場合じゃ……!」
「咎める事は出来んよ。私もお前も『不用意に外に出るな』とだけ告げて、話すのを忘れていたし、何より金色は赦されている」
守燈が顔面を手で覆って、みっとも無い呻き声を上げた。
(まあ、無理もない)
川は水の土地神が住まう神域。
あそこに住む生物は微々たるものだが神格を帯びている。
故に侵してはならないとされており、禁を破った者には土地神の裁きが下った。
付け加えて言うなら、川を流れる神水は邪な存在には毒となる。
だが、それを金色が知るはずもない。
そして今、こうして平然としている姿を見るに、かの神は咎める意思がないようだ。
(金色が神の御使いというのは、図らずも遠からず、かもしれないな)
そのように思考巡らせていると、予期せぬ客が訪れる。
「おおーい。邪魔するぞー」
返事をする前に引き戸を擦る音がして、家屋の入口から男が二人、入って来た。
海の様に深い紺青色の長く毛先の尖った髪を束ね、纏う煌びやかな衣装を着崩した粗野な男と、男より明るい天色の短い髪の若い男だ。
若い男の方は、きっちりと狩衣を着こなしている。
「おぉ? お前さんが飯とは珍しい」
満面の笑みで無遠慮に部屋へ上がり込んだ粗野な男は、髪色よりも濃い藍色の瞳をこれでもかと見開いた。
男の行動に驚いた金色が、弾かれたように煉夜の背へ回る。
煉夜は溜息を吐き出してお椀を置くと、男——煉夜と同じく神に仕える将の一人である男を睨みつけた。
連れ立った供は初めて見る顔だが、きっとその道に足を踏み入れた者だろう。
「無作法が過ぎるのではないか? 蒼殿」
「何を今更。数十年来の付き合いだろう。
このところ音沙汰がないから、どうしているかと思えば……ふむ」
蒼と呼んだ男が、煉夜の背に縋って隠れる金色を覗き込んだ。
笑みが消え、すっと瞳が細められる。
「妖狐の童か」
「妖狐!?」
蒼に供だった若い男が声を上げて、懐から〝符〟を取り出した。
「祓わねば、今すぐに!!」
興奮した様子の若い男が訴えかけるような視線を蒼へ送る。
今にでも暴れ出しそうな雰囲気だ。
「全く、主が主なら、従者も従者だな。守燈」
「はい」
守燈が瞬時に男の背後に回り、体を抑え込んで地へ押し付けた。
「私の平穏を乱しに来たのなら、即刻お帰り願おう。それとも、刃を交える事をお望みか?」
「いやいや、お前さんと事を構えるつもりはない。……恐ろしさは身に染みてるからな。
湊音、ちょっと外に出てろ」
「蒼の守!!」
煉夜は目配せで守燈に指示を送る。
と、察した守燈が湊音と呼ばれた若い男を抱えて、屋外へ出て行った。
「悪いな。あれで一応優秀な弟子なんだが、過去に色々あってなぁ。人一倍、妖を憎む気持ちが強いのさ」
「無駄話はいい。何をしに来た?」
良く知らぬ相手の身の上話を親身に聞く趣味はない。
さっさと本題に入れ、といつの間にか座り込んだ蒼を、じとりと見やった。
「鬼気の祭が執り行われる事になった。お前さんも『朱雀の一柱として参列せよ』との勅令だ」
鬼気の祭とは妖気を祓い除くための祈祷の儀式だ。
「……気が進まぬな」
「神々への不忠は相変わらずだなぁ。気を付けろよ、このところ宮中の雲行きが怪しい。あまり不遜に振る舞っていると、座を追われるぞ。
その妖狐も出来るだけ早く手放した方が良い」
蒼が眉を吊り上げ、真顔で説いてくる。
この座に縋りつく理由もないので、そうなれば願ったり叶ったりなのだが、この男が知る由もなし。
善意からの進言だ、受け止めるのが吉だろう。
「忠言は心に留めておく」
煉夜は告げて、話が済んだのならさっさと帰れとの意味を込めて、追い払う仕草をして見せた。
蒼が肩を竦めて立ち上がる。
「冷たいねぇ。茶の一つもないのか?」
「報せもなしに訪れて、どの口が語るのやら。
招いてもいない客を歓迎してやれる寛容さは、生憎と持ち合わせていなくてな。
とっとと去ね」
声色を下げて睨みを利かせると、蒼は「おー、怖い怖い」とわざとらしく体を震わせて「邪魔したな」と立ち去った。
静まった室内で、煉夜は盛大な溜め息を吐き出す。
穏やかな時間を邪魔された苛立ちと、お上からの招集に気が重くなったのだ。
「あの、煉夜さん……」
背に隠れたままの金色に呼ばれて振り返る。
金色は憂いた表情で、耳を垂れさせていた。
予期せぬ来客と、向けられた敵意のせいだろう。
煉夜は金色を宥めようと、頭を撫でた。
「驚かせたな、すまない」
すると金色はふるふると首を横に振り、そうして何を思ったのか。
——煉夜に抱きついて来た。
こちらから抱きつく事はあっても、金色からというのは珍しい事だ。
「どうした? 恐ろしかったか?」
「違うんです、煉夜さんが……」
「私が?」
「とても、苦しそうに見えて。僕を抱きしめる時は、いつも楽しそうにしていたから、だから」
「金色……」
まさか自分を心配しての行動だとは思いもしなかった。
何と優しい子だろうか。
と、胸が熱くなる。
煉夜は金色を抱き締め返した。
確かな鼓動と、広がるぬくもり。
今感じている温かさに、偽りはない。
例え、謀られているのだとしても——それでもいい、と煉夜は思えた。
それから数日の後。
煉夜は都で執り行われる事となった鬼気の祭へ参列した。
なるべく目立ちたくはなかったが、神楽舞の任を与えられてしまい、仕方なく鈴を手に炎を纏わせ舞った。
厄を祓い、神に奉納する舞を。
その裏で、金色に危機が迫っているとも知らずに——。
憂鬱な務めを終えた夕暮れ時。
帰宅した煉夜はいつものように家屋の戸を開け、家の中へ入った。
だが——いつもならば真っ先に出迎えてくれるはずの声と姿が見えない。
「……金色?」
「あれ、坊は何処へ行ったんですかね? 竈に火も付けっぱなしで」
部屋の中を見回しても、金色は見当たらない。
出て行ったのだろうか。
しかし、出掛けに言葉を交わした時は——。
「美味しい夕餉を用意して待ってますね!」
と、笑顔で送り出してくれた。
厨にもその痕跡がある。
約束を守ろうしていたのだろう。
なれば、何故。
煉夜は妙な胸騒ぎがして家を飛び出した。
「主様!」
あてなどあるはずもない。
闇雲に探したところで見つかる望みは薄い。
けれども——導かれる様に、足が向いた。
逢魔ヶ刻の、森の中へと。
直感が告げるままに駆けて、幾分か過ぎた時。
「ぎゃあああっ!!」
男の悲鳴が響いた。
どこかで聞いたような声。
煉夜は声のした方へ駆けた。
——そうして辿り着いた先で目にしたのは、尻餅を付き怯える金色と、肩から血を流して転がる湊音の姿。
その対面には美しき衣を纏い、扇子を掲げる白髪の女の姿があった。
「金色っ!」
「煉夜、さん……!」
煉夜は二人と女との間に、体を滑り込ませた。
何故、蒼の弟子の湊音が共に居るのか、という疑問はひとまず置いて置く。
「おやぁ、邪魔が入りんしたねぇ」
上品で高い女の声。
前方を見やると、紅を差し、艶のある唇が妖しく弧を描いた。
雰囲気でわかる。
女は——人間ではない、と。
「守橙!」
「ここに居ますよ、主様」
名を呼べば式神は応えた。
炎と共に現れて煉夜に薙刀を手渡し、傍に立つ。
煉夜は受け取った得物の切先を女に向けた。
「いややわぁ、誤解せんとください。
うちはその子を助けようとしただけです。そこの青いお人から」
女は扇子で口元を隠し、目尻の上がった菖蒲色の瞳を金色と湊音の順に送った。
女が嘘を言っている可能性もある。
どういう事か、と煉夜は湊音を睨みつけた。
「あ、妖は祓うべき悪だ!
蒼の守も、貴女も何を血迷っているのですか!?」
打ち震えた湊音が眉間に皺を寄せて眉尻を上げ、憎悪を露わにしている。
「過去に色々ある」と言った蒼の言葉が思い起こされた。
このご時世、珍しくもない話だが——。
害意を持って金色に近付いたのだと思うと、ざわりと感情が蠢いた。
それと同時に、自分の見通しの甘さを悔いて唇を噛んだ。
昔馴染みの弟子だからと油断していた。
「人間はみぃんな、同じことを言わはりますなぁ。
人間は善き者、妖は悪しき者、と。
なんで言い切れるのやろなぁ?」
蔑むような女の視線と声が降って来る。
狡猾な妖の言葉に耳を貸す必要はないが、人間が必ずしも善でないという点には共感出来た。
「まあええやろう。うちの目的はその子です。大人しゅう渡しとぉくれやす?」
「金色を? 何のために」
「さぁて、それを答える義理はあるんやのん?」
「私の庇護下に在る者を、理由もわからず託せるはずがなかろう?」
「ふぅん、えらい大切にしてるんどすなぁ?
それとも愛玩動物としてでっしゃろか。
たまにいはるんよね、うちらを飼い慣らそうとする愚かなお人が。
あんたもその類やろ?
素直に応じひんちゅうのなら、ちぃとばかし痛い目にあってもらいますえ」
パチンと軽快な音を鳴らして女の扇子が閉じられる。
すると、木々の合間の闇から有象無象の妖が現れた。
煉夜は得物を持たぬ左手で素早く印を結ぶ。
金色と湊音を守る結界を張る為に。
『結!』
発声すると三角錐の光の膜が二人を個別に覆って展開した。
「雅やかに踊っとぉくれやす」
扇子が煉夜に差し向けられ、妖が大挙して襲い来る。
小物ばかりだが百、二百——いや、それ以上かもしれない。
煉夜は静かにそれらを見据えて、柄を握る手に霊力を籠めた。
刃へ霊力が伝い、白い波動がゆらめく。
そして、地から天へ。
空を斬る様に薙ぎ払った。
——霊力の宿る刃の軌跡は陣風を生んだ。
激しく吹き荒れる風が邪気を孕んだ妖を巻き込んで、眩い光の洪水となり空へ昇る。
一振り。
煉夜はその一振りで凡てを浄化した。
「なんとまあ……」
女は驚愕に言葉を失ったようだ。
呆然と立ち尽くしている。
守橙がくつくつと笑った。
「有象無象では、如何に数を揃えようと主様のお相手は務まりませんって」
その様子を横目に、煉夜は女へ向けて刃を突き出し、告げる。
「去ね。退かぬというなら、次はもろとも浄化するぞ」
女も命は惜しかろう。
「我ながら甘い考えだ」と思うが無下に散らす必要もない。
けれども、女は引かなかった。
「よろしおすえ。ほんならうちも手加減致しまへん」
女が両手を広げて目を見開く。
と、その周囲で炎が立ち昇って衣装と白髪をはためかせた。
眼球の白眼が瞳と同じ菖蒲色に染まっていく。
頭頂部、白髪の間から白い獣の耳、背からは長い尾が幾本も生え、さらには炎が全身を包み込んで——。
次に炎が晴れた時、女はとある獣へと変化していた。
毛色は白銀。
吻は長く耳が立ち、体は細く、尾は太く長い。
〝九つ〟の尾先に炎を灯した、時に瑞獣として語られる事のある妖。
「あ、ああ……っ!」
湊音が戦慄いた。
予想外の大物に慌てふためくのはわかるが、喚いたところで何が変わるわけでもない。
煉夜は至極冷静に、本性を露わにした女の恐ろしくも美しい姿を視界に捉えた。
「ふむ、九尾の狐か」
「坊は凄いのに目を付けられていますねぇ」
「何を事も無げに……!
貴女が優れた霊力の持ち主である事はわかりますが、一介の巫の手に負える者ではありません!
蒼の守……蒼の守をお呼びしなければ!」
「なんだ、蒼様に聞いてないのか?」
「何をですか!?」
湊音は完全に取り乱している。
守りの為に張った結界を解こうと、拳を光の膜に打ち付け「出して下さい!」と叫んだ。
『やかましおすなぁ。
そないな囀らんでも、すぐに終わらしたるわ』
九つに又分れした尾が扇状に広がる。
灯った白炎が渦を巻き、うねる巨大な一塊となって煉夜達を襲い、齎された熱を煉夜は甘んじて受け入れた。
『避けもしいひんの? ほな、さいならどすなぁ』
「うわあぁぁ!!」
灼熱の中、湊音の絶叫が響く。
結界は揺らがず健在。
害が及ぶはずもないのだが、目先の光景に惑わされて正常な認識が出来ないのだろう。
「煉夜さん、煉夜さん!」
炎にまかれた自分を心配する金色の声が聞こえた。
「狼狽えるな、金色。私は大丈夫だよ」
「でも、炎が……!」
ただの人であったなら一瞬で消し炭となっていただろうが——生憎と死ねぬ身体だ。
それに炎がこの身を焼く事はない。
「ふふ。ぬるい焔よ。まるで篝火だ」
『なんや、余裕そうやねぇ。まだまだありますえ、ぎょうさん味おうとぉくれやす!』
九尾が次々と白炎を撃ち出すのが見えた。
煉夜自身は、幾ら炎を浴びようと何ら問題はないが——。
「煉夜さん、逃げて下さい!」
これ以上、金色を心配させる訳にはいかない。
「守橙」
「二人の事はお任せ下さい、主様」
守橙が二人の前へ立ち、新たに結界を施すのを見届けて、煉夜は左手の人差し指と中指を立て印を結び、唱える。
反撃の一手を投じるために。
『〝天之四霊・朱雀の神将〟が、慎みて五陽霊神に願い奉る』
此れは神降ろしの儀。
『害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを』
炎が踊るように煉夜の周囲を舞った。
『解咒・朱雀! 急急如律令!』
祝詞により錠が外され、煉夜の内側に眠る神威が目覚める——。
神なる力が煉夜を包み、閃光が辺りを覆いつくした。
『なんやの!?』
煉夜は光に紛れ、炎の中から飛ぶ。
——と、神風が吹いた。
「九尾。其方も永き時を生きる者ならば、知っているはずだ。我が名を」
煉夜は月を背に、右手に携えた薙刀へ力を籠める。
白炎を凌駕する炎の力を。
九尾へ向かって滑空し、頭上より躯体を一閃。
『ああああ!』
煉夜に斬られた九尾は血飛沫を上げ、青き炎に焼かれた。
『嗚呼ッ! おまえは、朱雀!
またしても、またしても邪魔をするんか!!』
地上へ降り立った煉夜の背には、輪郭が赤丹に揺らめく緋色の翼、着物の帯のように長く、孔雀青の紋様の差した尾羽根が伸びていた。
都を守護する四神が一柱・朱雀。
煉夜は神霊の器。
否。長年宿した力は魂と深く結びついており、最早、現人神と為っていた。
「〝またしても〟の意味はわからぬが、我が平穏を奪わんとする〝敵〟は容赦せぬ。覚悟は良いな」
翼と尾を翻して、穂先を九尾に向ける。
『おのれ! おのれえぇ!
口惜しや……あと少しで〝天狐〟に届いたものをぉ! なんたる屈辱! この借りは、いつか必ず……!』
九尾は腹の底から絞り出した低い声で、怨嗟の籠った言葉を残して、その身を炎へ転じた。
そうすることで一瞬の内に空を駆け、去って行った。
煉夜は燃え殻が残した軌跡を見つめて——。
寸刻の後、静寂の訪れた森に脅威は在らず、と判断を下して静かに矛と神威を収めた。
「——煉夜さん!」
身体に軽い衝撃が走る。
振り返れば、背に金色が抱き着いていた。
眉尻と耳を垂れ下げ、瞳に涙を溜めている。
「大丈夫ですか? 痛いところは? どこも怪我してませんか?」
この幼子は何故、自分にここまで心を砕いてくれるのか。
恩人だから、にしてはあまりにも過分な気がする。
少し不思議に思う事もあるが、誰かに思われるというのは悪くない。
煉夜は金色を抱き返し微笑んだ。
「ありがとう、金色。私は大丈夫だ」
「ほんとですか? 嘘じゃないですよね?」
「ああ。この通り、かすり傷一つないよ」
少し離れて全身を見せると漸く納得したらしい。
「良かった……無事で」
安堵した金色が向日葵のような、黄金色に輝く笑顔を咲かせた。
きっと表面に見えている部分が全てではなく、底の見えぬ事情が金色の根底にも存在するのだろう。
けれど、この笑顔を見ていると全て些末な事だと思えてしまう。
「帰ろう、金色」
「はい、煉夜さん!」
手を繋ぎ合わせて帰路に着く。
人間、妖、神。
お互いに抱えるものが何であれ、繋いだ手を離す事なく握り続けよう——と、この夜、煉夜は誓った。
拝読ありがとうございます!
ここからは二つの後日譚となります。
◇◇◇◇◇
あの一夜から数日後。
煉夜の元を蒼と共に訪れた湊音は、煉夜、守橙、金色が見守る中、地面に額を擦り付けて見事な土下座を披露してみせた。
「朱の守! 大変申し訳ございませんでした!!」
朱の守とは煉夜の事だ。
朱雀の神将である事から、公ではそう呼ばれている。
どうも湊音は金色を祓おうと勝手に行動した事を、蒼に酷く咎められたらしい。
心から反省しているのは態度からもわかったが、煉夜の溜飲は下がらなかった。
煉夜の護りの術が施された家から金色を連れ出し、ともすれば危うい状況になっていたかもしれないのだ。
どんな罰を与えてやろうか、と思った。
けれども——。
「煉夜さん、僕は何ともありませんから。許してあげて下さい」
と、金色は言った。
煉夜の怒気に当てられて、見っとも無く震える湊音を背に庇いながら。
自分に仇なそうとした者に、なんと慈悲深いのだろう。
そう言われては、許すしかない。
怒りを飲み下し「二度目はない」と灸を据えて、この件は終い。
——となるはずだった。
蒼が余計な事を言わなければ。
「しかし何のお咎めなしとはいうのもな」
「金色が望まぬ事はせぬ」
「あの冷徹無比の朱雀の神将が、えらい変わり様だなぁ。
……おまえさんを変えた妖狐、か」
数秒、蒼が慮ってそれからとんでもない事を言い出した。
「湊音、暫く煉のとこで世話んなれ。
罪滅ぼしと思って、こいつが務めに出てる間、金色を守護しろ」
湊音は顔を上げ、驚いた様子で瞬きを繰り返した後、首を大きく縦に振った。
「誠心誠意、お仕え致します!」と、再度地面に額をつけて。
「蒼殿! 勝手に決めるな」
当事者を置いて進む話に、煉夜は憤った。
「事情を知ってる味方がいたほうが、おまえさんも動きやすいだろ?
聞いた話じゃ九尾に天狐と、随分な輩に好かれてるそうじゃないか」
「だが……!」
反論しようとした煉夜の頭を、おもむろに蒼が撫でた。
煉夜が金色に接する時のように、優しい手つきだ。
「煉。俺もおまえさんも、将として人並み外れた力を持っているが、万能じゃない。
おまえさんが人と距離を置く気持ちもわかるが、元来人間とは一人では生きて行けぬものだ」
「知らぬ。私は一人で生きて来た」
永い時の中で、誰かに寄りかかった事など……記憶にはない。
「これまではそうだったかもしれん。
が、今は金色がいるだろう?」
蒼の言葉に煉夜は息を飲んだ。
一人で生きて来たといいつつ、金色に絆され、あの手を離さないと思ったのは自分だろう、と。
言ってる事とやっている事が矛盾している。
「まあ後は、湊音に見識を深めて欲しいって思惑もある。
人と妖。お上は頑として相容れぬと言い張るが、決してそんな事はないと思っているしな」
「……お前こそ、不忠の臣ではないか」
「ははは! 長年おまえさんを見て来たせいかもなぁ。
お互いに益がある提案だ、悪くないだろう?」
にっと口角を上げて蒼が笑った。
毒気が抜かれるような、眩い笑顔。
謀とは縁遠い愚直なこの男の事だ。
本心であろう。
「……わかった。暫くの間だぞ」
煉夜は溜息を吐き出し、ついでに頭を撫で続ける蒼の手を退けて、提案を受け入れた。
——こうしてもう一人、新たな居候を迎えて、煉夜の日常は一段と賑やかなものとなって行った。
◇◇◇◇◇
煉夜が妖の討伐へ赴いたある晩の夜。
護衛の体で居候する湊音が寝静まったのを見計らって金色は外へ出た。
すぐ側にある川の畔で夜空を見上げる。
煉夜に見せる無邪気な幼子の姿ではなく——本来の姿で。
視線を落とした川の水面に映るのは、彼女よりも少し背の高い成人した自分の姿。
毛色は白髪。
これこそが、本来在るべき姿だ。
だが——。
体中に電撃が走った。
比喩ではなく、正しく電撃だ。
此れは金色の力を封じる呪。
「うぅ……っ!」
駆け巡る痛みにうずくまり、苦悶を漏らす。
暫くすると痛みからは解放されたが——代わりに体は幼子のもの、毛色も金色に変容していた。
「忌々しいな。未だに封印の影響がある」
金色は、なんとも頼りない自分の両手を握り締めた。
漸く眠りから目覚めたと言うのに。
これでは彼女との約束を果たす事も出来ない。
だがあの夜、彼女と邂逅したのは運命だ。
天は自分を見捨ててはいなかった。
「……煉夜」
金色は自分を愛で、大切にしてくれる煉夜の姿を思い出す。
彼女に妖術による惑わしは効かない。
煉夜の行動は彼女自身の意思だ。
「永き時で僕の事を忘れてしまったのは哀しいけれど……でも、いいよ」
再び逢えた事の奇跡に比べれば、それくらい何てことない。
想いも思い出も——これからまた紡いで行けばいいのだから。
金色が煉夜へ向ける真心は、見た目に相応しく演じている部分はあっても、偽りのない感情だ。
「そして今度こそ……。
——君に死の安らぎを。
約束通り、望まぬ永劫の生から救ってみせる。必ず」
ふと見上げると、輝く星が孤を描いて空を流れた。
金色は空へ手を伸ばす。
この願いが届くように、と想いを込めて。
「煉夜。君の身体も心も魂も——全て僕のものだ」
◇◇◇◇◇
拝読頂きありがとうございます!
こちらのお話は元々、長編を想定して構想していた物語なので、今回の短編では多くの謎を残しての着地となりました。
企画がきっかけとなり書き上げた作品とはなりますが、こちらも作者の癖と沢山の愛を詰め込んでおります。
中二病はデフォルトです。
現在は別の長編をメインに執筆しているため、今すぐにというのは難しいかもしれませんが長編化する構想は一応あるので、もし興味を惹かれましたら応援して頂けると嬉しく思います。
お話の中で出し切れていない設定等、活動報告にまとめますのでそちらも宜しければ。
ここまで長々と目を通して下さり、ありがとうございます!!