ワキガな彼女
僕の部屋全体に薄く敷き詰めたようなワキガのニオイを長時間嗅ぎ続けたせいか、
僕は少し頭が痛くなっていた。
僕の部屋には彼女と僕しかおらず、
自分が普段住み慣れた部屋で異臭を感じている以上、
このニオイの元は彼女、いや彼女のワキであると結論付けても良いはずだ。
まだ手もつないだことのない彼女に「ワキガだね」なんて言えるはずもなく、
僕は彼女が部屋に入って来てからの一時間半、
ただひたすらに我慢してきたのだった。
思えば付き合い始めて一か月、
高校の中でも、帰り道でも彼女のワキガには全く気付かなかった。
それは、空気のよどんだこの部屋と比べて、
外界は空気が流動しているからなのだろうか。
いや、この仮説は恐らく間違いだ。
彼女の隣で授業を受けていても臭いは感じないのだから。
いや、それどころか、むしろ良いニオイ、“臭い”じゃなくて、
“匂い”さえ漂っていたような気がする。
つまり彼女は外に出る時は、
制汗剤か何かをワキにつけているのではないだろうか。
ということは、彼女は自分がワキガだって気付いてるのか?
いや、そんなはずはない。
彼女を見る限り、コンプレックスを持っているようには見えないし、
はつらつとしていて、僕が好きになるのも当然だと感じてしまう。
ならば、この臭いはこの部屋だけで発していることになる。
消臭剤の呪縛を振り切って放散されるほどのニオイ物質が分泌されているのだ。
なぜ?
そこまで考えて、僕はアルバムを探していた手が止まった。
ほんの数秒、本棚の前に立ち尽くしてしまった。
窓の隙間から僕の部屋に迷い混んで来た風に、
何とも言えない違和感を感じたからだ。
アルバムに伸ばした僕の腕を爽やかに通り過ぎる春風。
その春風に混じる異臭。
彼女のそばにいた頃よりも、若干、ほんの少しだけ、
いや、正直に言うと結構強く、ニオイが濃くなっていた。
彼女が窓際に移動したのか。
そう思って彼女を振り返ると、ベッドに座ったままの彼女と目が合った。
窓のそばに移動なんてしていない。
いや、それどころか、むしろ、僕の方が風上なんだ。
煙が風上から風下へ流れることくらい、小学生だって知っている。
水だって川上から川下へ流れるはずだ。
臭いだけが風下から風上に流れるなんて道理がありえるだろうか?
そんなわけがない。
そんなこと、あるはずがない。
だとしたら、この臭いは一体……、いや、つまり僕の……。
アルバムに手を伸ばしかけてからの六秒半。
全てを悟ってなお余りある時間だった。
彼女から目をそらし、アルバムを探すふりをした。
そして考えた。
例えば僕が肥溜めに生活していたとしよう。
いつのまにか肥溜めのニオイには慣れてしまってクサく感じなくなる。
ところが、ある日から、肥溜めに凄く良い香りのする消臭芳香剤が置かれるようになって、
その香りに慣れてしまったとしたら、
きっとちょっとしたニオイでさえクサく感じてしまうんじゃないだろうか。
そう、僕の脇、僕の部屋、これらは肥溜めなんだ。
彼女は最高級の芳香剤。
この部屋に満たされたその香りに包まれてしまったが故に、
僕は自分の臭いが強烈に感じられるようになってしまったのだ。
なんという皮肉。
なんという茶番劇。
今なら分かる。
中学校の修学旅行のバスの中で、
僕の隣の子が風邪ひいていたにも関わらず窓を開けていたことの理由が。
今だったら分かる。
プールの時間、外から丸見えになるのに、
更衣室の窓を全開にしていたクラスメートの気持ちが。
今だからこそ分かる。
僕がプロレスごっこに混ぜてもらえなかったのは、
決してイジメなんかじゃなかったってことが。
自分が、彼女でも他の誰でもない、この僕が、
正真正銘のワキガだったということに、このとき初めて気がついた。
もう、彼女の方を振り返ることができない。
恐ろしい。
恐ろしいんだ。
今、彼女がどんな目で僕の背中、僕のワキのあたりを見ているのかが、
気になって、そして恐ろしい。
恐怖がアドレナリンを分泌させて、ますますワキ汗が出ている気がする。
ニオイが風上から風下へ、僕のワキから彼女の鼻へ流れていく。
風を止めたい。窓を閉めたい。
そうすれば……、
いや、ダメだ、ニオイが充満してしまう。
いかな高級芳香剤とて、このメガトンパンチ級のワキガに敵うものか。
もうだめ。
正直、消えてしまいたい。
ニオイが消えるか、僕が消えるかのどっちかだ。
さぁ、僕よ、消えてしまえ。
そんなことを祈ったところで、僕もニオイも、両方とも存在し続けている。
当たり前だ。
僕のニオイなんだから。
そして、時間だけが虚しく過ぎていく。
その時、背後でベッドのきしむ音がして、
それから畳の上を歩く音が聞こえてきた。
彼女が、僕の近くに来ている。
来ないで欲しい。
来ないでくれ。
来るな。
来ちゃだめなんだ。
ここには、全てのニオイの源泉があるんだよ。
そんな僕の気持ちも知らず、彼女が僕の後ろに座る気配がした。
もう、逃げられないんだ。
正直に言おう。
正直に話して、いや、正直に話すまでもなく、
すでに彼女は僕がワキガなんてこと分かりきっているんだろうけど、
ちゃんと告白して許してもらおう。
今度からは制汗剤と、銀入りの消臭剤と、
それからギャッツビーの香水もつけるから。
だから、お願い。
嫌いに、ならないで。
「あ、あのさ」
僕は彼女に背中を向けたまま声をかけた。
彼女は、
「ん」
と間の抜けたような返事をしただけで、何も言わなかった。
「あの……、わ、わ……、卒業アルバムがさ……」
言いたいことが言い出せない。
「見つからない?」
彼女がそう言って僕の肩の上から本棚を覗き込んできた。
「ちょちょちょっと」
僕は思わず体をひねって横に逃げた。
そんな間近で嗅いじゃダメじゃないか。そこはカオスなんだよ。
そんな僕を見て、彼女が笑った。
「あぁ、照れてる照れてる」
違うよ、照れてるんじゃないよ、君を守ったんだよ、僕の生体兵器から。
「照れるなよぉ」
そう言って、彼女は人差し指で僕のワキをくすぐってきた。
彼女の指が、自爆スイッチを押すマッドサイエンティストの指に見えた。
「ぐぁ」
と声にならない声を出して、僕は思わず立ち上がった。
そして、このチャンスを利用して風下へまわった。
彼女は笑い転げている。
少しホッとすると、汗が引いていき、その分だけ春風が少し肌寒く感じられた。
「少し寒い」
笑いの余韻を残しながら、立ち上がった彼女が言った。
タンクトップ姿ですっと立つ姿がめちゃくちゃ可愛い。
「うん、ちょっとね。まだ四月だし」
そう僕が言うと、彼女は窓に向かって歩きだし、そして窓を閉めようとした。
「だだだ、だめだよ」
思わず強い口調で言ってしまった。
ダメだよ。閉めちゃ。
パンドラの箱は開けたら悪いものが飛び出しちゃったけど、
その窓は閉めたら悪いものが溜まっちゃうんだよ。
だから、お願い、閉めないで欲しい。
僕の心の叫びが彼女に届くはずがない。
「なんで」
彼女は僕の言葉の強さに少し驚いたような顔で、だけど躊躇せずに窓を閉めた。
「風邪ひくじゃん」
そう言って彼女は笑った。
もう、だめだ。逃げ切れない。
「ワキ……」
「え」
彼女が自分のワキを見た。
「ワキ毛……、ある? もしかして」
わざとか、この人は。このリアクションは嘘だろう。
「いやいや、そうじゃなくて、僕のワキ」
彼女の天然な反応に、思わずスラッと言葉が出てしまった。
「僕のね、僕のワキがね、くさいの、におうの、分かる? 分かってるでしょ?
くさいでしょ? におうでしょ? ぶっちゃけ我慢してるでしょ?」
一度出始めた言葉は、ドンドン溢れてきて止まらなかった。
あぁ、まるであの時みたいだ……。
「正直に言っていいよ。僕、覚悟できてるし。
僕自身、今日初めて自分がクサいってことに気づいたんだからお笑いだよね。
いや、ほんと、笑って良いよ。
ていうか、むしろ笑って欲しい。笑い飛ばして欲しいよ、まじで。
笑いでニオイを吹き飛ばしてくれ、なんてね、ははは……、クサいってつらいね。
僕のせいじゃないのにね。多分ワキガの遺伝子があるんだよ。
多分オヤジもワキガなんだよ、多分ていうか、絶対」
言葉を切るのが怖い。
僕が言葉を切った時、彼女の口から出てくる言葉を受け止めるのが怖い。
だから、言葉が切れない。
あぁ、まるで、あの時と同じだ……。
彼女が何か言おうとしたけれど、そんなことさせられない。
「ぶっちゃけね、今日君がうちに来てからさ、なんとなくニオイに気づいてて、
多分それは君のせいだなんて思っちゃってたんだよね。
ひどいよね、最低だよね、僕って最悪。
自分がクサいのを君のせいにしてたんだからさ。
もう本当、自分が情けないよ。情けなくて、なんていうか笑いさえさ、
ははは、込み上げてくるっていうか、マジ、ほんと、なんていうか、ゴメン、ごめんね」
そこまで言い切って、僕は大きく息を吸った。
そう、あの時もそうだったんだ……。
「クサくて、ごめんなさい」
そう言うと、虚しさがへその辺りから心臓の辺りに上ってくるみたいだった。
もう、彼女の顔が見られなかった。
「くっ」
彼女の声、息を止めていたのを解放しているかのような声が聞こえた。
それから、また、
「くっ」
そして、それがだんだんと速く連続していって、
僕は彼女が笑いをこらえているってことが分かった。
やっぱり、おかしいんだ。
彼女は耐え切れなくなったのか、
「くっ」の連続はもう完全な笑い声になってしまって、
おそるおそる彼女を見てみると、彼女は右手を口に、
左手はお腹に当てて、いかにも笑ってますっていう姿勢で笑いまくっていた。
笑いすぎて腹筋が痛くなってきたのか、
口に当てた右手もお腹に持っていって、
顔がやや引きつりながら、それでもなお笑い続けた。
ようやく一息ついたかと思うと、また思い出しておかしくなるようで、再び笑い始めた。
そんな彼女の姿を見ていると、もうなんだか僕にまで笑いがうつってしまって、
僕もだんだんとおかしくなってしょうがなくなってきた。
だけど、僕が笑うのは変だ。
だから笑うのをこらえようとしたら、変な声が出た。
「ふひひひひ」
僕のその声がさらに彼女の笑いに火をつけてしまった。
もう、彼女の笑い声はとてもかわいらしい女の子の声とは言えない、
なんというか獣の咆哮のような凄まじい笑い声だった。
この笑い声を聞くのは、二回目だ。
この雰囲気、なんていうか、まるであの時とそっくりだ。
あの時、僕が彼女に……。
「なんかさ、ガハッ、私がさ、グホッ」
彼女はライオンのような笑い声をなんとか落ち着けて、やっとまっすぐ立ち直した。
「なんか、告白された時みたい」
「そうだ……、っけ。そう、なん、だよね。そんな感じ、ていうか、こんな感じ、だったね」
「草野君さぁ、あの時もだだだぁって喋りまくって、
私が何か言おうとしても何も言わせない感じで、
最後に一言だけ、“告白してゴメンナサイ”って、グフッ」
そう言って、また、彼女は笑い始めた。
帰り道。
自転車に二人乗りして彼女を送った。
彼女が背中から遠慮深げに僕のベルトをつかんでいる。
自転車がちょっときつめの坂道にさしかかって、僕はちょっと身構えた。
汗が、出ちゃう。
「押して上ろうか」
坂の手前でそう言うと、彼女が、
「だめ!! 気合い!! のぼっちゃえ!!」
彼女はそう言って僕のベルトから手を離して、それから、僕の腰に手を回してきた。
僕の背中に彼女の顔が思い切り当たっているのが分かる。
抱きしめられている、って感じ、なのかな。
「汗、出るけど、良いの?」
僕は少し大きな声で聞いてみた。
「あたしさぁ」
彼女も大きな声で言った。
彼女のほっぺたの動きが僕の背中に伝わってきた。
彼女の声の振動が僕の心臓に響く。
「草野君のニオイ、嫌いじゃないよ。なんていうか、夏のニオイ、って感じ」
「夏の? 夏のニオイって?」
「夏の草むらのニオイ」
「それってさ……。くさいじゃん!!」
「ううん、あたしは好きなの!!」
そう言って、彼女はまた僕の背中に、さっきよりも強く顔を押し付けてきた。
これから、僕と彼女は坂をのぼる。
僕は自転車を精一杯こいで、背中に汗をにじませながら、
彼女は汗のにじんだ背中に顔をうずめて、二人して坂をのぼる。
一緒に、坂をのぼるんだ。
春の風が吹いて、汗が少しスッとひいた。
まだ四月なのに、夏の草むらのニオイがした。