4:20歳から22歳
入社して1年。営業補佐・端末オペレーターと多岐に渡る仕事も、先輩方上司方にたくさん迷惑やお手数を掛けたが、どうにか覚えた。お取引先の方々からも何故か良くして頂き、社長も大阪本社からいらっしゃると私がお菓子好きだからと、数種類お土産で下さる様になった。
嫌だと思っていたが、雇ってくれた会社にどうにか多少でも恩返しが出来た事が嬉しかった。
初夏。下北沢駅でサラリーマンが持つジェラルミンケースに右膝を強打された。その人は気付かなかったのか、わざとなのか判らないが直ぐにいなくなった。動けなくなり、そのまま休暇をとり国立病院へ…右膝半月版損傷で病院へ即入院、手術となった。通勤途中の怪我だったが労災にはならなかった。
若い娘が整形外科入院はそんなに珍しいのか、色んな人が見に来た。看護婦さんが事ある毎に蹴散らしてくれた。当時は何も思わなかったが、今思うと怖い話だ。看護婦さんには感謝をしている。
この時、幼稚園時の友人のご両親と再会した。私の名字が特殊なので覚えてくれていたそうだ。お父様が怪我をして入院していたが、お母様がお見舞いの度に私の様子を見に来てくれて嬉しかった。そういえばお母様は、幼稚園児だった当時もよくしてくれた。悪い事をすると、自分の子供とか他人の子供とか関係なしにちゃんと叱ってくれた素敵なお母様だったのを思い出した。お父様の方は…前世で受けた男性の嫌な対応時の表情と同じだったので、ルキの示唆も有、距離を置いた。
不思議と入院中はご年輩の女性が良く声を掛けて下さり、一緒にテレビを見たりおしゃべりをしたり、わざわざ病室に遊びに来てくれた。この方々には流石に看護婦さん達は蹴散らす事はしなかった。
この頃か?記憶が定かでは無いが、両親が離婚したと思う。私は「やっとか」と思った。
それまで弟ばかり溺愛していた母は、弟がかなり好き勝手していたのも有、疲れていた。
「上の子なら判るが、お前と2人で暮らす日が来るとは思わなかった」
姉と同居の可能性は考えていたと言う母のその言葉に、どれ程、私の心が傷付いたかなんて、想像も考えもしていないだろう。
ルキはずっと側にいてくれた。
困った時に現れては寄り添ってくれていたが、祖父母が亡くなってからは側にいてくれる時間が増えた。ずっと支えてくれていた。
ルキの事はイマジナリーフレンドではないかと思っていた。私自身が幼いから。ルキは私が知らない事も知っているし、助けてくれる。
あの人とはまだ再会出来ない。
あいたい気持ちは募るばかりだけれども、あえる保証なんてどこにも無い。同じ星に生まれているか、同じ時代に生きているのか。何より、広すぎるこの場で、めぐりあう事なんて出来るのか?
私の記憶でさえ概要となって残ってるだけで、記憶が本当かどうかなんて証明出来ない。妄想だと言われた方が信じられるのではないか?
でも、あの人の瞳を覚えている。声を覚えている。強さも弱さも、抱き締めてくれた時のぬくもりもにおいも何もかも覚えている。あの人こそが、私の大事な人。運命の人。
「運命の人は一人だけじゃない。お前の魂の恋愛面での運命の人は一人。その身体での恋愛対象としての運命の人は2人。成長する為の運命の人は…少なくとも3人はいるみたいだ」
「誰でもそんなに運命の人っているの?」
「人数は多少、変わるだろうな。お前が今、強く欲して探しているのは魂の恋愛面での運命の人だろ。気持ちは急くだろうが、現れるのは未だ先だ。お前よりも年下だ…かなり」
「年下…でもあえるなら、がんばる」
「その凹みやすい不安性な性格もどうにかしないと駄目だな」
「がんばる」
あえる可能性が大きくなった。なら頑張るしかないのだ。
21になる頃、母は男性と付き合う様になる。
とても優しい目をした人だが、若い頃はかなり遊んだだろう人だった。母を見る目は愛しい人を見る目で、2人の並ぶ姿はシックリしていた。
母は本来一緒になるべき人と、やっとあえたのだ。
「お前は霊感が強いし、人を見る目が有るから一番に会わせたかった」
花の様に微笑む母。
私が感じ視えた事を伝えた所、合っているそうだ。
反対はしない、暫くは大変だと思うが乗り越えて欲しいとだけ伝えた。
そして数年後、彼は私達にとって最強の継父・祖父となる。
相変わらず仕事は覚える事がいっぱいだが、自分なりに日々努力をした。営業補佐は専属担当は無いのに、いつの間にか数社の担当になっていた。
年上の同僚達に仕事を押しつけれられたり、彼女達のミスを何故か私のミスにされたり、休暇を頂いていた時だから私が関われない内容でも私がやった事にされたり…それを被害を被った他社担当者が私を庇ってくれたり。
自分の至らなさ、自社の人が信じてくれずお取引先の方が信じて庇ってくれるという異様な状況に頭がおかしくなっていった。
ひとつひとつ誠実に対応するしか無いと判っていたし解っていた。
しかし取引先様に色目遣ってるとか、謂われのない事を吹聴され、それまで休む事は絶対にしなかったのに心が疲れて休む様になってしまった。
とうとう胃炎で入院。入院先に上司がお見舞い来た。
同居していた継父が挨拶してくれたが、私がやっていない・関わっていないミスについて継父に話したりと酷いものだった。
退院して、退職する事にした。聞いていない事や見ていない回覧板を見た・伝えた事にされたりと…もう虚偽の真偽を疑う事に疲れたと言うのが理由だ。社内の人を信じる事が出来ない。十分な理由だろう。
退職での引継で取引先の方々へ伝えた所、退職日に沢山のお菓子とお花、最後の売上貢献にと各社大量注文を下さり、1000万円にもなった。
有り難いやら、申し訳ないやら…最後だから声が聞きたいと、ご連絡下さったお取引様や社長には今でも感謝をしている。
3年と6ヶ月…やっと、私は退職できたのだ。
自分が至らなかった事が多かったと思うが、私にとってはとても辛く、苦しい職場だった。