3:19歳
高校を卒業しても私はバイトをしていた。
在学中に就職活動はしなかった。
…厳密にいえばしたのだが、父の友人のいるとある自動メーカーに縁故面接だ。私は気質上、無理な仕事だと思っていたが、母も賛成していたのでやむなく受けた。
嫌々受けた面接ではあったが、相手に失礼の無い様にと行動したのに…まさかのセクハラを受けてしまった。それは縁故の人ではなく関係者の無い社員だ。
父には申し訳ないとは思って苦しかったが、私は途中から非常識な人物を装い、断られる様にともっていった。そしてそれは功を奏した。私の振る舞いは父の耳にも入った筈だが不採用だった事以外は何も言われなかった。
卒業してからも、在学中からお世話になっていたスーパーでバイトレジを続けていた。
お客様も顔見知りばかりで、世間話をしたり、泥棒を捕まえたりもした。有る意味、充実した日々を送っていた。
しかし私の家は都営住宅。収入オーバーで出される可能性が高くなっていた。姉は前年に同僚男性と結婚して既に家を出ていた…まぁこの婚姻に至るまでも色々と大変だったのだが一言だけ。「救いようの無い淫らでだらしない汚らわしい女」この後もずっと姉に煩わされる。
私は自身の移転の事も考えていた。祖父母は一緒に同居してはどうか?と声をかけてくれたが、何故か何となく気が乗らずに断った…後に悔いる事になる。
そしてまた父から縁故で面接を受ける様にと指示された。紹介くださった方は私のバイト先の常連客だった…父も今回は断れないとの事でお受けしてお世話になる事にした…またも断れなかった。
面接で訪問した時点で入社確定していた。当時は就職氷河期だと言われていたので正社員登用は有り難い話なのに、嫌な感じしかせず…両者の顔を立てる為にそのまま就職したが、やっぱり悔いる事になる。
就職先は電気架線メーカー。
支店長と常連客が元上司部下の関係で、有る意味遠い縁故採用だ。何も解らない・出来ない・至らない小娘を採用してくれた事には、感謝はしてる。
でも、私基準では苦しい思いを沢山経験した。
思春期に入ってからの私は、自分の体臭を凄く気にする様になっていた。特に足と脇だ。どれだけ手入れをしても、靴や靴下を変えても、通気をよくしても駄目だった。靴を脱がなければ臭わない…そう思って脱がないと決めていた。
この職場では女子社員のロッカールームが和室で昼食もそこで摂っていた。最初の数日はご一緒したが…辛くて別室や外で食事をした。先輩方の表情が曇ったからだ。それはそうだ。
昼休みは本当に苦痛だった。就職の際に必要になったスーツや鞄等の服飾関係で遣ってお金が無く、仕方なく菓子パンやおにぎりを食べていたが、それについても事細かに先輩方や上司に言われた。
当時の私は身長172、体重55だったが、肩幅が広くお尻が1メートル越えており、どう見ても体重よりも重く見られていた。それについても色々言われた。今でいうセクハラだ。この当時はセクハラ・パワハラは犯罪扱いでは無いので泣き寝入りした。
通勤も片道2時間かかり、途中乗る井の頭線で毎朝の様に痴漢に遭っていた。場所や車両時間を変えても痴漢に遭う…しかも同じ人物ではなく複数人に遭っていた。渋谷駅の駅員さんに相談した事もあるが意味が無かった。「もう少し痩せている方が俺の好みだよ」
と耳元で痴漢に囁かれたのを、おぞましい記憶として未だに忘れられない。
自分の至らなさに毎日の様に泣いていた。お給料を頂いている以上は、新人でも他者から見たらプロだ。自社製品が解らない・説明出来ないでは給与泥棒と同じ。業後に残っての勉強は許されなかった為、昼食時間を利用していたが、先の通り色々言われた。
この仕事をする事で、私に何かプラスになる事は有るのか…自問自答した。判った事は、ちゃんと保証の有る組織で働くという事は、我慢と能力、努力が必要だという事。お給料は責任給だという事。
前回の私は傅かれる側だった。感謝の言葉と行動を要所要所でしたと思うが、所詮はその当時の私目線であり私基準でしかない。しかも記憶なんて曖昧だ。もしかしたら自分の都合の良い様に改竄されている可能性も有る。支えてくれていた沢山の人達…今はもう亡い人達へ、改めて深い感謝と、主の一人として至らなかった事の謝意を空へ送った。
9月。職場へ父から連絡が入った。母方の祖父が亡くなった。心筋梗塞だった。
前述しなかったが祖父は元々右半身不随で、私が9歳の頃、脳梗塞をおこし舌が動かなくなり会話が出来なくなり、流動食生活をしていた。その時からもう、祖父は長くは生きられないと医師から診断を受けており、病院で過ごすよりは…と自宅で過ごしていたのだ。
祖母は働き盛りだった頃から気難しい祖父の介護をしていた。自由な時間は殆どなく、週1回の掃除のバイトと、私達の誕生日やクリスマス等に遊びに来てくれる位だった。本当に祖母自身の自由時間なんて無かった様に思う。
気丈な祖母は「落ち着いたら皆で温泉に行こう」と言った。祖母は旅行に行った事が無かったから、連れて行ってあげたいと強く思った。
冬。初めてのボーナス。約2カ月分も頂いた。私はこの会社を紹介して下さった方、支店長、部長、課長、主任、両親、両祖母、先輩方へ。それぞれの方々へ感謝の気持ちを送った。今の様にネット社会では無かったので、作法は良く解らなかったが、解らないなりに図書館でマナーの本で調べて贈った。その後もお中元とお歳暮は、紹介して下さった方、支店長、部長、課長、両親へ。…今思えば、やり過ぎだったのではないかと思う。
初めてのボーナスで、美味しいと評判の職場近くのホテルレストランの食事に両親・母方祖母・姉夫婦・弟を招待した。勿論、交通費は私持ちだ。父方祖母は糖尿病で食事制限が有るので招待出来なかった。
場所について新宿や渋谷、池袋等…散々調べて悩んだがここに決めたのは、スタッフの対応の良さ、ここに尽きた。
自宅から遠くて申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、祖母はとても喜んで来てくれた。
招待した時から仏頂面だった姉も味覚に合った様で途中からご機嫌になった。
祖母は実家側の姉の新居へ泊まり、後日実家へ泊まり、年を越してから帰宅した。一緒に祖母の家に行きたかったが、祖母から直ぐ仕事が始まるのだからと断られ、バス停で見送った…元気な祖母の姿を見たのはそれが最後だった。ずっとずっと後悔している。
その2日後の1月4日。祖母が祖父の後を追う様に心筋梗塞で亡くなった。親しくしている隣人から連絡が有った。職場にいた私は父からの連絡で頭が真っ白になった。どうにか事情を説明、暫くお休みを頂く事を伝え、帰宅した。
葬儀屋さんはつい数ヶ月前に祖父の葬儀でお世話になった人だった。まさかの事に彼は動揺し、書類と写真を見て泣き崩れた。「ずっとご苦労なさっていた方なのに、明るく気丈で、僕の事も気遣って労って下さる素晴らしいお人でした。行った事の無い温泉旅行をして残りの人生をゆっくり楽しむと仰っていたのに…早く逝きすぎです」
葬儀を終え、祖父母の遺産相続の話になった。
生前の祖父母から、自宅は母が相続(母が独身時に資金を殆ど出している事、祖母も介護になった時は母と私に看て欲しいと言っていた)、従兄弟名義で祖父母が貯金してた通帳はそのまま叔父が受取る。他は法に則るとなっていた。…が事情を全く知らない実父が叔父に「長男の君が持っているべき」と余計な事を言い、相続の総額が判らないまま、存在も判らないまま、叔父が全額持って行ってしまった。
叔父は司法書士も巻き込んでいた為、母も実体は判らず。今でいう遺産協議書も当時は作っていなかったそうだ。
相続した祖父母宅は東京都内でもかなり不便な場所だ。当時の土地価格および家屋も築26年と安価だった。現在は倍以上に跳ね上がっている。
母に相続税の請求は来たそうなので、母は祖父母宅の相続税と思っていたそうだ。
母は叔父を子供の頃から可愛がっており『おしどり兄弟』と誰からも言われる位だったそうで全幅の信頼を寄せていた。叔父が取得した金銭はかなりの額だったのではないかと思われる。叔父にはニートの息子が2人と若い愛人、守銭奴な配偶者がいたからお金が欲しかったのだろう。
この相続時の事情を母が知ったのは5年後。
相続した筈の祖父母宅の土地名義も何故か叔父名義になっており、最終的にこの土地も叔父が奪い、今では他人が購入して住んでいる。
「お金は別にどうでもいいけれど。お金のせいで人は変わる。あんなに仲が良かった実の弟でさえ裏切るのだから、お金は怖い。私はお金は残さないで死ぬ予定だけれど、お前達は私の様な事が起こらない様にしなさいね」
そんな母の言葉を散々聞かされていたのだが、無惨にも、その約20年後に実の娘である私の姉によって壊される。見ていた母の気持ちを思うと苦しい。
祖母が亡くなってから数週間して。
誰も祖父母のお仏壇をみれる人が居ない為、私が祖父母宅に住む事になった。
実父に対しての何とも言えない猜疑心が大きくなっていた。実父に相談せずに移転した。いずれにしても都営団地から私は移転しなくてはいけなかったのだから問題は無い。
私は2階に住む事になった。運んできた荷物は殆どが本だったので直ぐに作業は終わった。
1階に降りる。
「片付け終わった?一緒にお茶にしようか」
祖母の声が聞こえた。台所で優しい眼差しで私を見て微笑んでいる。
隣のテレビの有る居間に行く。祖父がいつもの場所で座って私を見て笑っていた。
そのまま進む。お仏壇の前に座る。お線香をあげる。
「いつまでいられるかは判らないけれど、今日からお世話になります。こうやってここに越して来る様になるんだったら、あの時、直ぐに引っ越してくれば良かった。折角、私を思って声を掛けてくれたのに、ごめんね」
頭を撫でられた様な感触が有った。
人を亡くすのは、辛い。
いままでも大切な人を亡くしてきた。
前回はとても簡単に人が殺され亡くなった。
今回は前回ほど簡単に亡くなる事は無いが、だからこそ、余計に辛い。死の種類や大きさ重さは無いが、感じ方が違う。多分、前回は記憶というより概要になりつつあり、今は、進行形だからなのかもしれない。
数ヶ月経って母も祖父母宅へ越してきた。
元々、私達子供が成人したら父と離婚したいとは聞いていたが、今回の件と父方の祖母達親戚が余計な事を言った様で、母の気持ちが固まった様だった。
この時に気付いた事が有る。
私は鶏の唐揚げにレモンをかけてキャベツと一緒に食べるのが大好きだ。祖母が作ってくれる唐揚げは特に絶品で、成人してからは良く食していた。
通勤時間が長いお陰で太る事はなかったが、胸のサイズがB75からD75まで大きくなっていた…。
私は彼以外は必要ないと思っているから彼氏を作る筈も無く、そういった事も無かったから、唐揚げ効果だと思っている。
そして…体臭の事も、多分、唐揚げが原因ではないか…と思う。