第56話 鍵
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「里桜ちゃん。今日からここが君の家だ。改めて自己紹介すると、僕は【椎名義輝】。小学校で教師をしてます」
「……よろしくお願いします」
「硬くなるなっていうのがまだ無理だよね? 少しずつでいいから馴染んでくれると嬉しいよ。『お父さん』って呼べなくてもいい。呼んでくれると嬉しいけどね。——それから兄になる【瑞斗】だ」
「よろしくね」
第一印象は可もなく不可もなく……という感じだった。正式に養子縁組を組む前に何度か試しで泊まったりしたが、その印象は変わらない。
それでもこの家庭に加わることを決めたのは、成長するにつれつばめの里園に居続ける居心地の悪さと、千枝お姉ちゃんや春希お兄ちゃんが出て行った流れに、私も倣うべきなんじゃないかと思ったからだ。
母親のいない父子家庭だった。私も幼い頃は母子家庭だったし、そこに何か感じることはなかった。むしろ、この頃は母親なんて要らないと思っていた。
義輝さんは優しい。近すぎず遠すぎず……たぶん彼も私との距離を推し測っている最中なんだろう。私はもう中学二年生だけど、彼と話すと小学生の頃を思い出す。親子じゃなく教師と生徒の空気感だった。
つばめの里園の先生たちに私の過去を聞いていたのか、ガスコンロをIHに変えたり、火災警報器や消火器を隠れた場所に設置したり、私に気を遣ってくれた。私は火傷は負ったが火にトラウマを持ったわけじゃない。だけどその心遣いが嬉しく、義輝さんはすぐに信頼できた。
瑞斗君……は愛想はよかった。義輝さんの前だと兄らしく振る舞っていた。だけど、私と二人だけの時は会話も無かったし彼から私に近づくこともなかった。
『兄』を期待していた私は内心かなりがっかりした。そのがっかりが悪寒に変わり、瑞斗君の態度や振る舞いが演技だとわかったのは、私が椎名姓になって三ヶ月が過ぎた頃だった。
瑞斗君は義輝さんの不在時に女の子を家に連れ込み始めた。彼は私の二つ歳上。高校一年生だ。彼女くらいできるだろう。私は普通に祝福したかった。
でも、連れてくる女の子が毎回のように違い、その子たちが時々泣きながら出ていく姿を見てからは不信感が募った。
その頃から私は部屋を覗かれたり、お風呂中扉の外からの気配に怯えて過ごすようになった。気のせいではない。瑞斗君はわざと気づかれるよう動き、私の反応を楽しんでいるようだった。
義輝さんには話せなかった。空気を、家庭を壊す行為だ。来たばかりの他人の私が、本当の親子の関係にヒビを入れるなんてできなかった。
着替えを覗かれたり服が無くなったりで、私自身に手を出されることはない。大丈夫。我慢は慣れてる。私は行儀良く、求められるだろう娘像を演じ続けた。
瑞斗君を『兄』とは見られなかったが、義輝さんのことは『父』として感じることはできるようになっていった。優しくて面白くて頼りになって、気付けば接することに躊躇いや戸惑いはなくなっていた。今にして思えば、私は依存しやすい性格なんだと思う。
それでも義輝さんのこと『お父さん』と呼べなかったのは、心の片隅にほんの少し残るお母さんへの後ろめたさがあったからだ。彼を『お父さん』と呼ぶのはお母さんへの裏切りのように感じた。
義輝さんには瑞斗君以外のことはなんでも相談した。進路や受験、学校の気になる男子のことだって話した。それがきっかけだったのかわからないが、義輝さんがいない時に、瑞斗君に自室に連れ込まれた。
手を強く引かれベッドに放られた。ドアの鍵が閉められる。その音に肩を震わせた。背後は壁。瑞斗君がにじり寄ってくる。
「あの……話って……?」
「おまえ、もう親父とヤッたの?」
「なにを……?」
「かまととぶんなよ。どうなの? ヤッたの?」
「……するわけない。そんな人じゃない」
「そう? あいつはそんな奴だ。学校で生徒をそういう目で見てる」
「……どうしてそんなこと言うの? お父さんでしょ?」
「あいつの俺を見る目を知ってるか? ……おまえを見る目は犯罪者のそれだぜ? 大丈夫だ……お兄ちゃんが守ってやるよ……」
「……来ないで……」
ギシッ……ベッドの軋む音がして、気持ちの悪い息遣いが聞こえ、顔のすぐ目の前に迫ってきて……肩に手がかかり、強く服を引き裂かれた。下着に剥かれ、恥ずかしさよりも怖さに両手で両肩を抱いた。
泣いてる私は声も出せず「逃げなきゃ」「誰か助けて」「家に帰りたい」「夢ならいいのに」「早く終わって……」と、心が次第に諦めに向かっていく。
しかし、瑞斗君は何もしてこない。ただ一点を見つめて呆然としていた。視線の先は……私の右腕だった。
病院の先生がお母さんを助けた証と言ってくれた火傷の痕……白い肌に歪な模様を描くそれを見つめ続け、鼻息が荒く、前屈みに腰を落とし、瞳孔が引き絞られた三白眼が私の顔へ向く。
彼はにたりと笑った。
その日から殴られた。
義輝さんの就寝後、ほぼ毎日。代わりに性的な嫌がらせはなくなった。女の子の連れ込みは続いたので、その子たちで満たしていたのかもしれない。私が純潔を散らすこともなかったが、いっそそのほうがマシだったかもしれない。
部屋に連れ込まれ、ドアの鍵を閉めるのが互いのスイッチだった。ガチャリという音が瑞斗君の中の狂気を昂らせ、私の中の恐怖を煽った。
青あざや斑点が体を染め、私は冬服やジャージで通学することも多くなった。制服を汚した、洗った……定型の言い訳に苦しくなった。元々右腕に火傷痕があったから、暑くても長袖を着ていることに疑問は持たれなかった。幼い頃は誇りだったその火傷痕も、瑞斗君を狂わせた……恥だと思うようになって隠した。
助けを求めることはきっと簡単だった。でも、ナイフをちらつかせ「バラしたらおまえと親父を殺して俺も死ぬ」と言い放つ破滅的な瑞斗君に、私はSOSを飲み込むしかなかった。
ナイフは脅しじゃなく、私の体にいくつも線を作った。どんな暴力を受けても、不思議と体は痛みに慣れていった。でも、怖さだけは鈍くなることはなかった。
瑞斗君は暴力よりも、私の反応と私の体に残る痕を見て楽しんでいた。きっと、私のことを画用紙か何かだと思っていた。色を加え、折り目を付け、切れ込みを入れて、自分の作り上げる作品を楽しんでいた。
けど決して顔は傷付けなかった。バレることを恐れているだろうけど、それ以外に意図があるかわからなかった。とにかく普段隠している所を攻撃した。赤く腫れ上がる肌が、翌日青くなるのを嬉々として見つめていた。
なんで? どうして? ……暴力を振るうことに純粋に問いを投げたこともある。
瑞斗君は正直に話してくれた。
「離婚した母親が訪ねてきたことがあるんだ。俺は中二だった。あの女は酒に泥酔しきった状態で親父のいない昼間にやって来て、金をせびってきた。初めて母親に会ったけど、すぐにゴミだってわかったよ。養育費も払われてないのは知ってたしな。一発ぶん殴ってやったら、泣いて謝って床に這いつくばって……気持ちよかった……親父を守ってる気分だった……その時はまだ親父を親父として見てたからな……里桜、これは教育なんだよ。二度とあんなゴミが生まれないように、しっかり躾けておかないと。俺はお兄ちゃんだから、妹に道を踏み外してほしくないんだよ」
あぁ、私の声は届かないんだって、彼の淀んだ瞳を見て諦めた。
一年耐え続け、私が中学三年生、瑞斗君が高校二年生になった時、朗報が舞い込んだ。
「瑞斗、おまえ大学考えてるか?」
義輝さんの、父親としての何気ない言葉だった。
瑞斗君は高校卒業後家を出ると言った。東京の大学を受けると言った。あと二年の辛抱。しかも受ける大学はランクの低い所でもない。来年になれば受験勉強で忙しくなる。暴力の頻度はきっと減る。
私も今年受験だ。本物の娘のように接してくれる義輝さんのためにも、失敗できない。
勉強して、殴られて、勉強して……また一年経った。
無事に志望校に受かって、義輝さんは褒めてくれた。期待に応えられた。嬉しかった。
そして私の期待も現実になった。大学受験で忙しくなった瑞斗君は私に構えなくなった。完全になくなりはしなかったけど、寝る前の習慣みたいに毎日殴られた頃と比べたらずっと良かった。
この一年我慢すれば平穏に暮らせる。自分のために生活できる。義輝さんの本当の娘になれる……。
殴られた……。
蹴られた……。
首を絞められた……。
腕を切られた……。
足を……胸を……お腹を……。
あと少し……あと少しだけだから……。
がんばれ……がんばれ、私……。
でも、私のがんばりは唐突に終わりを迎えた。
「今年は修学旅行の下見で三日ほど家を空けることになったから。その間家に——」
夜の食卓で義輝さんが言った。
瑞斗君の視線が気味悪く光るのを肌のひりつきで感じた。私は深く考えないようにした。たったの三日間以前のペースに戻るだけ。二年以上耐えた今、容易に乗り越えられると思った。
当日、義輝さんが朝早く家を出て、私は普通に登校した。放課後、まっすぐ下校する。この二年で、わざと遅く帰ると瑞斗君の暴力が激しくなると学んだからだ。でも問題ない。この三日間、殴られるのは就寝前の夜だけだ。
そう思ってたのに……。
「待って! やめて! 今日は——」
帰宅したらすぐに腕を掴まれて私の部屋に押し込まれた。
いつも通り……けどより乱暴にベッドに放られ、口を塞がれた。手慣れた持ち方でナイフを見せてくる。
「なんだ? 危険日か? そっちもいいかもなぁ。長らく溜まってたしよぉ!」
瑞斗君はナイフの切っ先で私の首を撫で、すぐ横を転がるガマぐっさんのぬいぐるみの腹を突き刺した。ナイフを抱えるカエルの姿が、血に塗れる自分の姿を想像させる。私は声を出せなくなり、瑞斗君は服を脱ぎ始めた。
彼は急いてた。受験のストレスとか、私をいたぶる頻度が減って爆発したみたいだった。声は届かない。見えてない。
ダメ、今日は……だってもう来るはず……玄関の鍵は閉めてない……義輝さんの話聞いてなかったの……?
ほら、チャイムが鳴ってる……聞こえてないの?
早く……やめて……普通の兄妹にならないと……。
「今日は変に抵抗するじゃねぇか……いい顔だ……そそるなぁおい!」
半裸になった瑞斗君が再びナイフと取り、切っ先を私の喉に当てる。その直後だった。
「あなたたち、なにを……!?」
恐れを含んだ声が耳に入った。部屋の扉の前に初老の女性が一人立っている。
義輝さんが呼んだ家政婦さんだった。三日間とは言え、学生の、血の繋がりの無い男女を残して家を空けることに配慮したものだった。瑞斗君は忘れていたのか聞いていなかったのか……義輝さんが不在だからと、部屋の鍵も閉めてなかった。
この時、私は「ドラマのシーンを真似てた」とか「演劇の練習に付き合ってもらってた」とか、なんでもいいから言ってヘラヘラ笑うべきだった。
でも、この二年半近く溜め込んだ不安が、痛みが、恐怖が、真っ暗なトンネルで光を求め這い出るように瞳に宿ってしまった。
——助けてっ……!
「誰か……誰か!」
声には出てなかった。けど家政婦さんは私のSOSを受け取ってしまった。
彼女は助けを呼びながら階段を下りていく。瑞斗君がナイフを片手にそれを追う。私も一拍置いてから立ち上がり、部屋を出た。
もしかしてって思った。すぐにそんなわけないって思った。
階段を下りていくと、玄関に背中から血を流す家政婦さんが倒れていた。ナイフが突き立てられている。
「おまえと親父を殺して自分も死ぬ」
あの言葉は本気だった。心の片隅では、私を脅す嘘でただ強い言葉を使っただけだと思っていた。でも違った。
恐怖が爆発した。
それはきっと瑞斗君も同じだった。ナイフを刺した家政婦さんの背中を見て呆然としている。
私も家政婦さんから目が離せない。忘れかけていたはずのお母さんの姿が脳裏によぎる。
抱きしめてくれた温もりが、額にキスしてくれた後の笑顔の眩しさが……一酸化炭素の充満する部屋で安らかに眠り続けるあの顔が……。
助けなきゃ……助けなきゃ……!
ドアを……開けなきゃ……!
私は立ち尽くす瑞斗君の横を通り抜け、ぶつかるように玄関のドアを開けて外へ。
目を、顔をどこに向けていいかわからない。混乱したまま走り、ただ叫んでいた。
「助けてください! 助けて……!」
私の「助けて」は呆気なく、とても簡単に誰かに届いた。
警察が呼ばれ、救急車が来て、瑞斗君と家政婦さんがそれぞれ連れていかれた。
私も警察に連れていかれた。女性の警察官に色々聞かれた。私はただ聞かれたことを隠さず答え、瑞斗君から受けた暴行が明るみになった。
警察署に義輝さんが来て「どうして早く相談しなかった」と優しく怒られた。瑞斗君のことを聞くと何も言ってくれなかった。義輝さんは私が見たことのない酷く冷たい目をしていた。その後は、私はずっと謝っていた。
家政婦さんの命に別状はなかったらしい。でも私たちの生活は激変した。
瑞斗君は家庭裁判所に送致、少年鑑別所に収容された。
私は一週間学校を休んだ後、登校を再開した。幸い友達は多いほうで、先生たちも優しく味方は多かった。けれど奇異の目も多く、噂が噂を呼び、陰で「中古」とか「傷モノ」とか言われるようになった。
陰口はどうでもよかった。大して気にしてなかった。殴られたりナイフを突きつけられるほうがずっと怖かったから。でも味方をしてくれるみんなに優しくされる度、なぜか申し訳なくなってきて、不登校になるのに時間はかからなかった。
義輝さんも務める小学校から一時待機を提案され、在宅するようになった。弁護士さんがよく来るようになって、少年審判についての話し合いをしていた。
私は受けた暴行の内容を詳しく聞かれ、事実より控えめに話した。瑞斗君の罪を軽くすることは不本意だが、そうするのが義輝さんの助けになると思ったからだ。私と違い実の息子なんだ。できるだけ減刑させてあげたいはず。未成年だが傷害事件を起こしたんだ。少年院に入ったら一年近く出られないかもしれない。
瑞斗君が退院しても別居させる、私には近づけさせないと義輝さんは言ってくれた。私は守られている。もう酷いことは起こらない。そう信じていた。
でも、その思いも打ち砕かれた。
「僕は幼い頃、父から虐待を受けていました」
瑞斗君は審問でそう言った。義輝さんや付添人となった弁護士さんも把握してない発言だった。
時が止まったかのように静まり返る中、瑞斗君は光の無い目で泣きながら続ける。
「僕は父の本当の息子ではありません。離婚した母が他所で作った子です。父は子供を作る能力がありません。それを認めず僕を育て、しかし自分に似ない僕を暴力の捌け口にしていました。成長して僕を痛めつけられなくなり、代わりの子供を探していました。それが妹の里桜です」
私には嘘だと、演技だとわかり切っていた。でも世間は違った。
傍聴許可の下りていた被害者やその家族から漏れたのか、情報を得たメディアは報道を加速させた。
未成年のため瑞斗君や私の顔や名前が出ることはないが、メディアは義輝さんを悪者にさせたがった。的外れなコメンテーターの意見を真実のように報じ、ネット上の罵詈雑言を並べたり、信憑性の無い自称母親のインタビューなどがテレビや週刊誌を賑やかした。暴行は父親の命令だったと瑞斗君を擁護する声や、私を義輝さんから引き離せという声が増え、私はテレビでニュースが始まるとすぐに消すようになった。
義輝さんは教師が続けられなくなった。保護者からも批判が学校に集まっていた。
電話が鳴り止まなくなった。
玄関を乱暴に叩く音が毎夜響いた。
家の外壁や門に口にできないような酷い言葉を落書きされた。
石やゴミが投げ込まれるようになった。
少しずつ……少しずつ義輝さんがおかしくなっていった。
うわ言を呟いて、何も無い所を見つめ、話しかけても反応がないことがほとんど。でもたまに私を見て「大丈夫だ」と言って微笑んでくれた。
少年審判が終わり、結果、瑞斗君は少年院に入院した。
報道もなくなったのに、義輝さんへの批判は止まらなかった。
止まない電話、怪文書、嫌がらせ……私も住む家なのに、私を義輝さんから守るよう声が集まる。
正義面のナイフが義輝さんの心を抉った。矛盾した憐みが私の心を汚した。
誰も私たちの心を計れない。深さを考えない。
日に日に荒んでいく義輝さんを守りたかった。助けたかった。でも、義輝さんは私を見なくなった。きっと、私はいないほうがよかった……要らなかった。
少しでも私がいない時間を作るのがいいと思い、学校へ行こうと思い始めた。このまま嫌がらせを受けるだけでは前に進めない。私が学校へ行って、大人になって、社会に出ればきっと義輝さんを助けられる。
いっそ離れて暮らすのがよかったかもしれないが、そうはしなかった。世間の言葉を真に受けたみたいで、義輝さんが悪者だと認めたみたいだから。それに、ボロボロで小さくなっていく彼の背中を見て、離れたら壊れてしまうと思ったから傍に居続けた。
でも違った。義輝さんはもう壊れてた。
もう日が変わりそうな時間。土砂降りの音が酷くて、割られた窓ガラスから雨風が不躾に入る、真夏だが寒いくらいの夜だった。
明日から学校へ行こうと決意し、予行練習のように学生服を着ていた。久しぶりのセーラー服だ。長袖で右腕の火傷痕が見えないことを確認し、小さく頷いた。
登校することを義輝さんに告げるため、自室から出て階段を下りる。
ダイニングの照明がぽつんと点く中、テーブルに着く義輝さんは一枚の紙を両手で握り締めて見ていた。背中越しに覗くと【遺伝子鑑定】と書いてあった。
「俺は種無しじゃない……種無しじゃない……」
内容は察しがついた。けど何も言えなかった。
私は小さく「おやすみなさい」と言って自室へ向かった。背中で義輝さんの視線を感じた。久しく無かった私への反応に、少しの安心を秘めて部屋のドアを閉めた。
パジャマに着替えようとした時、ドアをノックする音がした。弱く静かな、小石が転がったみたいな音だった。
返事をして、ドアを少し開く。隙間から見えた義輝さんの目を見て、ドアを開く手を止めた。
酷く充血した左目がまっすぐ私の目を見ていた。
「里桜……開けなさい」
「……どうしたの? だいじょう……ぶ……?」
「あぁなんでもない。ただ、これからのことについて話したいことがある」
「これから……私、学校へ行こうと思う……それともやっぱり……私たち離れたほうがいいのかな……」
「……開けなさい里桜」
「……うん」
再びドアを開ける。半開きにしたところで、義輝さんの手元に鈍く光る何かを見つけ咄嗟にノブを引いた。しかし、義輝さんが足を挟み込みドアは閉められなかった。
光っていたのは廊下の灯りを反射する包丁だった。瑞斗君のナイフを思い出し、私は竦んでドアノブから手を離してしまった。
ゆっくりとドアが開く。右手に包丁を持って、一歩、また一歩進み義輝さんが部屋に入ってきた。同時に私も後退りする。
「あいつは俺の子だ……俺は種無しじゃない……証明してやる……」
義輝さんの左手が私の肩を掴んだ。そのまま乱暴にセーラー服の袖が引き裂かれる。
恐怖に立ってられなくなり、後ろへ下がりながらベッドに腰を落とした。それでも下がり続け、壁に背中を着ける。
義輝さんは私の顔から右腕に視線を移した。肌にある歪な火傷痕。まだ治っていない瑞斗君からの暴行の痕も残されている。
義輝さんは右腕から目を外さない。鼻息が荒くなり、瞬きもしない。私は外の雨の音が段々と聞こえなくなってきた。
義輝さんは瑞斗君と同じ目をしていた。あの日と同じだった。
また始まるの……?
義輝さんは優しい人なのに……。
こんなの本心じゃないはずなのに……。
義輝さんもこんなことしたくないに決まってる……。
私は……私は娘なんだから……!
「お……お父さん……!」
初めて「お父さん」と呼んだ。
「……おまえを娘と思ったことはない」
……どうしてそんなこと言うの……?
どうしてそんな物持ってるの……?
どうしてドアを閉めるの……?
どうして鍵を——。
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