98 頼光の屋敷にて
ばしっ!
乾いた音が、広い部屋に響いた。そこには二人の男がいた。一人は立っており、持っていた扇子が折れている。先ほどの音は、この扇子でもう一人の男を殴った音。殴られた方の男は、額から血を流し、うずくまり震えていた。
「何と言った? よく聞こえなかった」
折れた扇子をぱしり、ぱしり、と手の平に打ち付けながら、目の前の男を見下す。
「も……もう、嫌だ。俺達を解放してくれ……」
涙ながらに訴える。しかし、そんな男を冷ややかに見て、顔を近付けた。小声で告げる。
「そのような事を言って良いのか? 娘の治療をやめてもいいんだぞ?」
「! ……っく」
項垂れる男。その様子に満足気な男は、笑いを抑えきれない。
「あーははは! お前は私の為に働くしかないのだ。それが娘の為にもなる」
悲しみに暮れる男は、畳に爪を立てた。がり、とえぐれた。
屋敷の奥。誰も近付けない、厳重な警備が敷いてある分厚い扉。天井の所に一つ、小さな窓があるだけで、うまく換気も出来ていない部屋の中、もぞりと動く気配があった。
「ごほっ、げほっ……。とうさん……」
御館様を先頭に、タエ達は源頼光の屋敷の廊下を歩く。この家に奉公へ来ている下働き達が忙しなく動き回っている所を見かけた。しかし、御館様の姿を見れば、驚き、礼をしてそそくさと逃げていく。タエはそれが不愉快だった。
「なにあの態度」
ぶっきらぼうに呟くタエに、藤虎が声を潜めて言った。
「ここでも何度か騒動を起こしてしまったので……」
御館様は何も気にしていないように、彼らを無視してまっすぐ前だけ見ている。御館様を恐れる気持ちは分かる。
(でも、御館様も騒動を起こしたくて、起こしたんじゃないのに)
「ほら、いらしたわ」
「今回も何か起きるのかしら……」
「やだ、こわーい」
物陰に隠れてチラチラ伺いながら、わざとこちらに聞こえる声で悪口を言う、下働きより格上であろう女達。タエはイライラメーターがすぐにMAXを振りきった。
「あんたらっ! 人の悪口言ってる暇あったら仕事せぇ!!」
ずびしぃっ! と人差指を付きつけながら、睨み付け言ってやった。普段なら絶対にしない事だ。
(御館様の気持ちも知らないで―――)
タエも全てを知ったわけではない。それでも、今まで想像もつかないような苦労をしてきたのだ。それを彼は一人で耐え、藤虎がずっと支えてくれた。タエは、もうこの二人を人として好きだったので、その彼らを悪く言う輩を許せなかったのだ。
御館様の後ろを静かに歩いていた娘が、いきなり喚いたので、それにも仰天した女達は、悲鳴を上げて逃げていった。
「けっ、しょうもな」
タエの捨て台詞。本当に本音が出てしまった。前にいた御館様と藤虎は、目を白黒させながらタエを見ていた。
「タエ様、一応女性ですから、その言葉遣いは……」
はっ、我に返ったタエが二人を見れば、藤虎は苦笑し、御館様はじっとタエを見ていた。一気に恥ずかしくなる。
「すいませ――。怒りが沸いて来たもんですから……」
「いえ。ありがとうございます」
藤虎が礼を言った。御館様の為に本気で怒ったタエを見て、嬉しかったのだろう。ぴりりとしていた空気が少し和らいだように感じた。
「行くよ」
御館様の声で再び歩き出す。一番前にいる御館様の表情は、後ろの二人には見えないが、真一文字にきつく結ばれていた口元が、ふっと緩んでいた。
「ここから先は頼光様の部屋だから、タエには待っていてもらわないといけない」
廊下に立ち止まり、御館様がタエに話しかけた。藤虎は、頼光の部屋の外で控える事になっている。
「近くに待機する部屋を用意してもらおうか」
「あ、それなら、私は庭にいてもいいですか?」
タエが考えていた事を提案した。
「庭?」
御館様は訳が分からなかった。
「庭に社があったんです。土地神を祀ってるのかもしれないので、確認して、協力してもらえるなら、妖怪をこの土地に入れないようお願いしてみようかと」
屋敷の外で見えたものはコレだ。小さい屋根が見えたので、タエはその可能性を考えていた。御館様はそれを理解し、頷いた。
「分かった。何かあった時は、藤虎に呼びに行かせる」
「はい」
「あまり目立つ行動はしないでよ」
御館様は一人、先に廊下を進んで行った。そこに残った二人は、草履を取りに戻り、庭に出る。
「本当に、先程はありがとうございました」
「え?」
「女房の陰口に怒って下さったでしょう」
「ああ」
タエがキレた時の事だ。藤虎は人の良い笑顔を見せていた。
「御館様も嬉しかったはずですよ。誰かが自分の為に怒ってくれるという事は、嬉しいものです」
「そうですかねぇ……。余計に御館様の評判を落としそうで、胃がキリキリするんですけど」
余計なことをしたかもしれないと、今更ながら、後悔しているのだ。藤虎は吹き出していた。
「いやぁ、気持ち良いくらいに言いきってくれたので、スカッとしましたよ。私も最初は怒っていましたが、徐々にあのような言葉を流すようになってしまい……」
藤虎が辛そうに顔を歪めた。
「本来ならば、私が言わなければならなかったのに」
「いつも言われてれば、流す方が楽ですよね。御館様もそんな感じだったし。仕方ないですよ。私は初めてだったから、ブチキレただけです」
タエが笑い飛ばした。そうして、目的の社の前に立つ。屋敷の庭の隅にぽつんと立つそれは、大切にされているようで、周りの雑草の様子を見ても、手入れがきちんとされていた。
「これですか?」
「話ができるかやってみます。ダメだった時は、さっきの廊下の所に戻ってますね」
「分かりました。お気を付けて」
藤虎に手を振り、タエは彼を見送った。御館様を支えるのも大変だ。タエは彼に尊敬の気持ちが沸いていた。
「さぁて、応えてくれるかなぁ」
「来たか」
頼光の部屋にて。御館様は頭を垂れ、礼のまま口を開いた。
「息災でおられ、嬉しゅうございます」
「堅苦しい口上はやめろ。いつも通りに」
「は」
御館様の頭が上がり、主人の顔を見た。勇敢で豪傑な主人。それでいて家臣を見下す事もなく、人望も厚い。こんな人物に仕えられるなど、これ以上の誉はない。
御館様は辺りを見回した。
(怪しい影はない……か)
タエから借りた鏡が効いているのか、ホッと息をつく。仕事の書類や巻物を渡し、来訪の用事は済んだ。リラックスした頼光が、御館様に話しかける。
「今日は、藤虎以外に女子もいたと聞いたぞ。とうとう女ができたのか?」
「……は?」
御館様の目が丸くなった。
「あの者は――妖怪を退ける力を持つ巫女です。晴明殿の親戚で、私の護符のようなものです」
あくまでお守りとして側に置いているのだと説明した。晴明の親戚というのも、タエの出自を隠す為の設定だ。
「ほう、巫女ねぇ。会わせてはもらえんのか?」
「礼儀を知りませんので……」
さっきのタエの様子を思い出し、つい笑ってしまいそうになった。それを見逃さなかった彼の上司は、どこか嬉しそうにしている。
「良い事でもあったか?」
「いえ……」
「大事にしろよ」
「は、はぁ」
曖昧な返事をすると、頼光は本題に入った。
「晴明殿で思い出したが、最近、出没している鬼がいるだろう?」
「はい」
「安倍家は、あの討伐の命令が下ったはずなのだが、全く動いておらんのだ」
晴明ならば、すぐにでも解決出来るはずだ。御館様も首を捻る。
「占いで討伐に良くない日だとか?」
「さぁな。まぁ、そちらはともかく、実はな、我らも鬼退治に行こうと思っておるのだ」
「鬼退治……?」
「私は貴船神社、高龗神の代行者、タエと申します」
社の前で、タエが名乗る。
「この土地を守る神様とお見受けします。どうか、お話をすることはできませんか?」
もく……。白いもやが辺りを包み込む。そして現れた影。白髪のお爺さんだった。
「そなた、この世の者ではないな」
「千年後の未来から来ました。高龗神から、ある任務を受けています」
「任務?」
「この時代の、代行者となるべき魂を迎えに来ました」
「ほう。生身の人間に代行者の任を与えるとは、高龗神も奇異な事をする」
どの神様から見ても、タエとハナの上司は変わり者と映るのだろうか。
「高様は常識に囚われない方なので。あはは」
「その代行者が何用じゃ?」
「私がこの時代でお世話になっている方が、今、屋敷の御主人様と会ってるんです。その方は、妖怪に狙われやすい体質で。このお屋敷にいる間、土地に妖怪が入らないよう、力を貸していただけないかと思いまして」
「そなたが守るだけで十分では?」
最もな意見だ。
「私も守ります。しかし、人間の決め事で、私があの方の側にいられない事があるので、限界があります。今がまさにそうで。土地神様のお力もお借りしたいんです」
土地神がタエをじっと見た。
「大事な者か?」
「え……」
この世界で任務を完遂する為に、護衛の任を引き受けた。タエは少し考えた。目の前の老人が言う“大事な者”とは、どう大事なのか。
「この世界でお世話になっている人です。まだ会って数日ですが、人として好感の持てる人だと思っています。あの人を守りたい、そう思います」
「そうか」
老人は空を見上げた。
「見てみなさい。あの者が来た途端、屋敷の周りに怪しい影が渦巻きだした」
タエも視線を上げてみれば、黒い影がいくつか飛び回っている。
「あの者は、生まれた時から妖を呼ぶ体質じゃった。ここにも何度も来ておるから、よく知っておる。あの力は才能とも呼べるが、あの者はうんざりしている様子じゃったな」
老人が手を上げれば、屋敷がぱきりと音を立てる。そして黒い影が弾き飛ばされた。
「あっ」
「わしも出来る事はしておるが、あれは強い者を呼ぶ。わしでも敵うか分からん。二度ほど入り込まれ、大騒動になってしもうたわ」
藤虎も言っていた。タエは納得した。
「分かりました。これ以上、頼める事はありませんでした。無礼を、お許しください」
頭を下げる。
「構わん。そなたがあの者の為に動く姿勢は、見ていても嬉しいと思えるものじゃった。大事にしてやっておくれ」
「はい!」
タエが笑顔で答えると、満足したように、老人は消えてしまった。元に戻った社を前に、もう一度礼をする。土地神も御館様を気にかけてくれていた事が、何より嬉しかった。
「ありがとうございました」
そう言って、先程別れた廊下へ戻ろうと踵を返した時だった。
「誰だ? あんた」
タエの後ろに人がいた事に、気付かなかった。
「!?」
大きい影がタエの目の前を暗くした。
「何者だ。ここで何をしている」
厳しい声色だ。タエを怪しんでいる。傍から見ればそうかもしれない。初めて見る人間が、庭の隅でごそごそ何かをしていたのだから。
身長は高くて体格も良いが、ごつごつとした筋肉ではない。細マッチョだろう。とてもスラっとしている。着物は平安貴族というより、武将の形に似ている。そして動きやすい袴に、腰には刀を携えていた。黒く艶のある髪の毛が風に揺れている様は、御館様のように、格好いい男性の部類に入る。キリッとした瞳に整った顔立ち。男らしいイケメンだ。
「あ、私は御館さ……じゃなくて、渡辺綱様と一緒に来ました。花村タエと言います」
とりあえず自己紹介。上から見下ろされる迫力に押されながらも、名乗った。
「綱? ……あ~、え? あいつと!?」
少し考え、ものすごく驚いた顔になった。
「あんた、あいつの何だ?」
「何? って……」
どう答えればいいのか迷う。正直に言っていいのだろうか。そもそも、タエは目の前の人物が誰で、御館様の敵か味方なのかも分からない。
そんな事など関係ないように、男はタエの顔をよく見ようとかがみ、距離が近くなった。
「可愛い顔してるねぇ。そこらの貴族よりも――ぐぇ」
言葉の最後、カエルがつぶれたような声を漏らした。どうやら襟元をぐいっと引っ張られたようだ。そんな彼のチャラい言葉に、タエはある人物を思い出していた。
(ノリが釋に似てるな)
「何やってるんですか」
引っ張った犯人は御館様だった。その後ろに藤虎がいる。タエがほっと息をついた。黒髪の男性は、御館様の顔を見て、笑顔になった。
「お? よう!」
「うちの連れに何か?」
じと、とねめつける御館様。
「本当にお前の連れだったのか。なんだ、とうとう女が出来たのか?」
「!?」
タエはとんでもない発言に、体が熱くなる。御館様は、はぁ、と息を吐いた。
「何で皆同じ事を……。その子は俺の護衛です」
「護衛?」
「妖怪を退ける力を持ってるんで」
ああ、なるほど、と黒髪の男は納得した。御館様は、状況を分かっていないタエに説明した。
「この人は碓井 貞光。俺と同じく頼光様に仕えてる。悪い人ではないよ。一応」
「一応ってなんだ」
「正直に言っただけですが」
二人の会話がおかしくて、タエは笑顔になった。相変らずそっけない態度の御館様だが、貞光には心を許しているのか、壁を作っていない。それが何だか嬉しく思えた。
「で、タエちゃんだっけ? いくつ? どこに住んでんの? まさか、こいつの所に住んでんの!?」
「口説かない」
タエと距離を詰める貞光の襟を、再び引っ張る御館様。
(この人、女好きなのかな……)
チャラさにたじろぐも、人当たりの良い爽やかスマイルは、どこか憎めない。
「お前がここに来てるのに、何も起こらないのは、この子のおかげってわけか。納得だ」
「ええ」
御館様が腰に付けていた鏡をタエに差し出した。
「助かった。感謝する」
「よかったです」
御館様の役に立て、鏡を受け取り素直に喜ぶタエ。
「あ、土地神様とも話ができましたよ」
「え?」
タエはさきほどの話を聞かせた。貞光は驚いていた。
「この神様は、御館様をちゃんと守ろうとしてくれてたんです。ただ、力が強い妖怪は対応しきれなくて、申し訳なさそうにしてらっしゃいました」
「……本当に?」
「本人から聞きました。御館様は、いろんな方に愛されてるんですね!」
社を見つめる御館様。彼は手を合わせ、礼をした。
「ありがとう、ございます」
すると、暖かい風がさあっと辺りに吹き抜けた。御館様達の髪を揺らす。
「ちゃんと、思いが届いたみたいですね」
タエの笑顔に、ふいと顔を逸らした。表情を見て分かる。照れているのだ。
「タエちゃん、本物なんだな」
貞光がぽつり呟いた。
「それじゃ、俺達は帰ります」
御館様があっさりと貞光に言うと、さっさと門へと向かう。それを彼は咄嗟に止めた。
「ちょ、ちょい待ち! まさか、タエちゃんにも歩かせるのかよ! けっこう距離あるだろ」
「しょうがないでしょ。うちには馬がいないんで」
御館様も眉を寄せながら答えた。妖怪が出入りする屋敷の空気に耐えうる馬は、まぁいない。
「タエちゃんがいるなら、もう馬も大丈夫なんじゃないか? 調達しろ。馬は貸してやるから、待ってろよ」
そう言って、貞光は馬屋へ走っていく。タエは世話焼きな性格なのかなと思いつつも、歩かなくていいという事に、内心喜んでいた。
「私……馬、乗った事ないんですけど」
「俺は牛車には乗らねぇからなぁ。すまねぇな」
実際の馬はとても大きい。タエはその迫力に驚きながらも、馬の表情がとても凛々しいので、とてもかっこいいと思っていた。
御館様と藤虎は既に乗っている。馬は二頭。タエは御館様の馬に乗る事になっている。
「ほら、右手を出して」
差し出される手。それを見てドキリと心臓が音を立てた。自分が乗らなくては始まらないので、右手で御館様の手を握った。
強い力で引き上げられ、彼の前に横乗りになるように乗せられた。馬の背中は筋肉質で、固い。
「貞光さん、馬は返しに行きます。ありがとうございます」
「いや、俺が取りに行くから、それまで世話しといてくれ」
「は?」
御館様が間の抜けた声を出した。うちに来る気か、と目を見開くも、貞光がにかっと笑って馬の尻を叩いた。
「ほら行け。タエちゃんを落とすなよ」
馬がゆっくりと歩き出した。
読んでいただき、ありがとうございました!