94 安倍晴明
京の碁盤の目を歩き進む。貴族の屋敷がある場所は、比較的賑わっているが、一つ通りが逸れると静かで寂しい印象だ。貴族と庶民はものすごく距離というか、差があるように感じた。
市が開かれている通りでは、商人が台やゴザの上に海産物や工芸品を乗せ、商いをしている姿を見かけた。お金だけではなく、布や米等との物々交換も可能な時代らしい。タエは初めて見る事ばかりで、周りをキョロキョロしながら歩いていた。
「余所見して、はぐれても知らないよ」
御館様がそんなタエを見て、釘を刺す。
「は、はい」
彼と違う方向に行きかけていたタエは、慌てて後ろに着いた。御館様の後ろ姿を見上げたタエ。あまりじっくり観察しなかったので、チャンスとばかりに良く見れば、姿勢が良く、背が高い。昔の人は身長が低いと、何かの本で読んだことがあったが、御館様は現代にいても違和感がないくらいの背丈。すれ違う人と比べても、かなりの長身だという事が分かった。表情が表に出ない事が残念だが。
「藤虎から聞いた。あんた達、うちに住みたいって?」
タエは、はっと我に返る。少し歩を進め、彼の横顔が見える距離まで近付いた。
「はい。私達、行く当てもないし、ご迷惑じゃなければ、あのお屋敷を拠点に、人探しが出来ないかと。藤虎さんも、御館様を襲う妖怪を祓ってくれればって、仰ってたので。住まわせてもらえるなら、御館様の護衛はしっかり務めます」
「ふぅん……」
朝、藤虎から聞いた内容と同じだった。別に嘘をついて、屋敷に入り込もうとしている訳ではないと理解できた。実際、今この時、自分を狙ってくる妖怪はいない。外出すれば、朝だろうと遠巻きにこちらをじっと見て来る妖怪がいる。隙あらば首をかき切ろうと狙っているのだろう。今日はそんな輩も見受けられない。タエとハナがいるからか。二人が側にいるだけで、しっかり護衛になっている。
「あの、どこに向かってるんですか?」
「そのことで、ある人に相談しに行く所」
「ある人?」
いくつかの通りを過ぎ、あまり人の姿を見かけない場所に来た。そこそこ大きな屋敷がある。だが、その屋敷にも、あまり人の気配を感じない。むしろ、人外の気配の方が多い気がする。タエはハナを見ると、彼女も怪しそうに尻尾をぴんと立てていた。
「ここは?」
「安倍晴明という陰陽師の屋敷だ」
「あっ、あべの!?」
その名前を聞いて、タエが驚きの声を上げた。
「……知ってるの?」
「そりゃあもう! 日本で一番有名な陰陽師ですよ。未来では、神社もあって、神様になってます。私の友達のご先祖様でもあります」
「へえ」
その人に会うのだろうか。それを思うだけで興奮してしまう。
(安倍くんに自慢しちゃおうっ!)
「神様ね……。確かに、晴明の力は本物だ。魔除けや屋敷のお祓いも、いつもやってもらってる。でも……それでも、妖怪は俺の前から消えてくれない。本当、面倒」
心底嫌そうに、渋い顔をした。
「とりあえず、行くよ」
御館様が、屋敷の門に近付いた。すると、扉が勝手にすぅっと開いたのだ。良く見れば、小さな子鬼が扉を開けたのだと分かる。晴明には、自分達が訪れた事など、お見通しのようだ。
「本当に使役してたんだ」
伝説の事実を知る事が出来、タエはテンションが上がりまくっていた。
屋敷を進むと、庭に出た。広い庭だ。しかし、どうにも嫌な気配がしてならない。タエは持って来ていた依り代を手にしていた。ハナも用心している。
御館様の後ろを歩いていたが、庭の真ん中がキラリと光ると、タエはかぶっていた笠を放り出し、彼の前に躍り出て晶華を召喚する。どす黒く光る中から出て来たのは、鋭い牙を見せた蛇だったのだ。それは御館様に真っ直ぐ飛びかかってくる。
「!!」
御館様に牙が届く前に、タエが蛇を叩き斬る。ハナは、魔法陣から出たものだと理解すると、陣を即座に破壊した。砂埃が舞い上がり、一瞬にして静寂が戻る。
「御館様! ケガは!?」
「だ、大丈夫……」
彼も相当驚いたようで、体をガードしていた腕を解いた。ハナはぐるると唸りながら、屋敷を睨む。タエも晶華を屋敷の縁側に座っている人物に剣先を向けた。舞う砂のせいで、人物の顔は良く見えない。
「やって良い事と悪い事がある。何故こんな事をした!」
タエは怒っていた。不意打ちもいい所。しかも、御館様は信頼している家から毒蛇を放たれたのだ。彼にとって大切な相談相手のはずなのに、誰であろうと、この仕打ちはあんまりだと思ったのだ。
ぱちぱちと拍手が聞こえる。剣先を向けている相手からだ。砂埃が収まってくると、ようやく相手の姿がはっきりと見て取れた。顔半分を扇子で隠している。
「なるほど」
目の前にいたのは、五十歳くらいの男性。顔に刻まれた皺は年月を表していて、それでも、その目に宿る光は強く、微塵の隙も許さないような印象だ。
「晴明……」
御館様の言葉に、タエは耳を疑った。
「へ? 晴明? 安倍晴明!?」
タエの声が驚きで裏返ると、扇子がぱちりと閉じられ、彼の口元が笑みへと変わる。漫画や映画の印象で、スラっとした長身の細いイケメンと刷り込まれていたタエ。しかし、目の前にいる彼の体格は中肉中背。どちらかと言えば、がっちりとした体形だ。テレビや本で見た事がある、安倍晴明の肖像画を思い出し、納得した。しかし、若い時は、確かにイケメンだったのだろうと思わせる、キレイな顔つき。紳士のような上品さを醸し出していた。
「すすすっ、すいませんっ! 刀を向けました!!」
タエは一番に謝った。代行者になって、いろいろ礼儀は身に着いたが、何より、非礼はすぐに詫びるという事を学んでいた。頭を下げるという事は、なかなかに難しい。人見知りな所があったタエは、戦闘技術だけではなく、精神面も成長していた。
「いや、それで良かった。お互い様だ」
晴明の言葉に、ホッとするタエ。そんなタエを、彼は真剣な目で見つめた。
「神聖な気配を纏う娘。そして白い犬。そなたら、この時代の者ではないな」
「晴明、説明してくれ。何故、俺を襲った……」
御館様が不安げに彼に問う。しかし晴明は、当然と言わんばかりに扇子を開いたり閉じたりして、弄んでいる。
「若君、私に意見を聞こうと訪れたのでしょう? この娘を、側に置いて大丈夫かと」
「!」
御館様が目を見開く。晴明には、彼の考えなど、とうに知っていたのだ。
(なんでも見透かされるって、なかなか怖いな……)
タエは手に汗を握る。晴明の眼差しは、その人の奥の奥を見ているようで、落ち着かない。
「神力を扱うとは、面白い娘だ。名は、何と言う?」
つ、と目が合い、タエは背筋を正し、晶華を収めた。
「私は、花村タエ、と言います。この子はハナ」
「そうか。現れるべくして、現れたという事だな」
晴明は一人納得している。
「こちらに座ると良い。安心しなさい。もう襲ったりはしない」
タエと御館様は顔を見合わせ、とりあえず、晴明の言う通り縁側に座った。ハナはタエの足元に控えている。
こと、と傍らに湯呑が置かれた。湯気が立っているお茶だ。見れば、美しい女性が優しく微笑んでいた。腰まで伸びた艶のある黒いストレートヘアに、薄緑色の生地に桔梗の刺繍が入った着物がとても似合っている。
「えっと、あなたは……?」
「私は晴明様の式神で、美鬼と申します」
にっこりと微笑む。タエは、一目で人間ではないと分かったが、その美しさに見惚れてしまう。
(鬼、やんね。こんなキレイな鬼、初めて見た!)
「昔は人間を魅了し、喰らっていた鬼だ。もう牙は抜いてある故、心配せずとも良い」
「はあ」
(この鬼を使役して、身の回りの世話をさせてるのか)
「世話をさせている式は、他にもいるがな」
(ふぅん。美鬼さんて、晴明さんのタイプ? もしかして趣味――)
「勘違いするな。己の所業を悔いておるから、罪を償い、魂を清める修行をさせておるのだ」
「って言うか、さっきから私の心の声、読んでますよね? 普通に返事してますよね!?」
タエが晴明に向かって喚く。よく分かっていない御館様を挟んで、タエは顔を青くさせ、晴明は余裕の笑みを浮かべていた。
「どうぞ。毒など入っておりませぬ。ご安心を」
お茶を勧められたタエは御館様を見た。彼も湯呑を手に持っているが、襲われた後なので、本当に飲んで良いのか迷っているようだ。
(これは誰かが先に飲まないと進まない!)
意を決して、タエがぐびっと飲んだ。その飲みっぷりに御館様も呆気に取られる。
「タ――」
「!!」
ハナも目を丸くしていた。
「……おいしい」
口の中に広がる爽やかな味と香り。ハーブティーに近い。
「美味しいです! 御館様も飲んでみてください!」
タエが笑顔で勧めるので、彼も一口ちびりと飲む。
「確かに」
その様子を眺め、晴明が口を開いた。
「私が若を襲った理由を、まだ言ってなかったな」
タエ達は晴明を見た。
「若は特殊だ。妖に襲われても、確実に守れる者でなければならない。中途半端な者では、命がいくつあっても足りん。だから、少し試させてもらった。皆、すまなかったな」
「試した?」
タエとハナが目を合わせる。
「ならば、タエとハナ殿はどうであった?」
タエは緊張した。まさかテストをされていたとは。
「申し分なく。タエ殿、ハナ殿であれば、若を必ず守りましょう。私の護符も、もう効果が薄れてきている。二人がいれば、護符も必要ない。若の為に本気で怒る事も出来るようだし」
「俺の為……?」
ホッとしたが、晴明の最後の意味ありげな一言はタエの心をざわつかせた。御館様は首を捻っている。しかしこれで、御館様の所にいられる理由が出来た。この時代での生活基盤を手に入れたのだ。
「タエ殿、ハナ殿。神力を使うからには、神と関わりがあるはず。どこの神か聞いても良いかな?」
扇子を優雅に仰ぐ姿は、やはり貴族だ。
「貴船神社の高龗神様です」
「ほう、貴船山の」
晴明が目を細めてタエ達を見た。
「……代行者か」
「!?」
二人が驚く。その反応を見て、晴明は確信したようだった。
「ならば、最高の護りだ。若、この二人ほど、若を確実に守れる者はおりますまい」
「まぁ、晴明がそう言うなら……」
彼の太鼓判を押されたタエとハナ。ここまで彼が人を褒めるのは珍しかったのか、御館様は驚いていた。
「タエ殿、ハナ殿。我が恥をさらすようで申し訳ないのだが、鬼が一匹、今逃げておる」
「鬼、ですか」
晴明の目は真剣だった。
「仕留めたのだが、そやつ、魂を切り離しておってな。その片割れが逃げてしもうたのだ」
「魂を、切り離す?」
御館様が呟いた。タエも初めて聞く。
「そんな事、出来るんですか?」
「邪法だがな。私の知り合いが鬼に施したようだ」
「蘆屋道満……か?」
御館様が眉を寄せながら聞いた。晴明も黙って頷く。
(確か、道満って晴明のライバルっていうか、宿敵、やったよね。映画で見た)
タエも元の時代で見た映画を思い出していた。
「若を狙ってくるかもしれん。その時は、そなた達に相手を頼むしかなくてな」
「任せてください。塵に返してみせます!」
タエの頼もしい言葉に、晴明も微笑んだ。そして、そうそうと続けた。
「話は変わるが、一つ、助言をするなら」
晴明が言葉を紡ぐ。
「いくら神の使いがいようとも、その隙間をかいくぐって侵入してくる妖怪は五万といる。若、必ず二人のいずれかを常時、側に置くように。壁で隔てるよりも、同室の方が妖怪を退けやすい」
「……は?」
御館様が間の抜けた声を出した。
「タエ殿の部屋も、若の隣の部屋がいいでしょう。すぐに対応できるように」
「は……え?」
タエも目を丸くしている。
「仲良くやりなされ」
それだけ言うと、晴明は仕事があるからとさっさと屋敷の奥へ引っ込んでしまい、美鬼に見送られ、御館様、タエ、ハナは屋敷を後にした。
ハナは前を歩く姉と御館様を見上げた。二人ともしゃべらない。晴明に言われた事を思い出し、どうにも気まずくなっているようだ。
「お姉ちゃん、私、先に屋敷に戻るわ。様子が気になるし」
「へ!? あ、そうやね。じゃあ、お願い」
なんとなく、二人にした方がいいかもしれないと思ったハナは、先に戻る事にした。屋敷に一人でいる藤虎も気になるので、ハナは一っ跳びに家々を越え、あっという間にいなくなる。
(ハナさん、出来ればもうちょっと一緒にいて欲しかった……)
タエとハナの気持ちは、思い切りすれ違っていた。二人きりになってしまったタエは、いよいよ何を話そうか必死に思考回路を回転させる。
「あっ、美鬼さん、すごく美人でしたね。御館様も、ああいう人が好みですか?」
あの美貌なら、どの男でもすぐに落ちるだろう。しかし、御館様の反応は冷ややかだった。
「人じゃなくて、鬼でしょ。どんなに美麗だろうと、妖に興味はないよ」
「そう、ですか」
御館様の表情は全く変わらない。ぴくりとも笑わない。誰ならこの人の表情筋をほぐせるのだろうかと、タエはぼんやりと考えていた。
「ねぇ」
「は、はい!」
話しかけられ、タエは背筋を伸ばす。笠の布を両手で開き、御館様が良く見えるようにした。
「晴明がさっき言ってた、俺の為に怒ったって、本当?」
「へ」
晴明に刀を向けた時の事だろう。タエは素直に話した方が良いと思った。きっと御館様にとって、大事な事だと思うから。
「相談できるほど信頼してる人って事は、御館様にとって大事な人なのに、攻撃するなんてひどすぎると思って。御館様を裏切ったのかと……」
「それで晴明に刀を向けたのか。昨日初めて会った人間に、そこまで出来るの?」
誰でも簡単に信じ、他人に入れ込むバカなのかと御館様は思っていた。タエはうーんと考えると、言いにくそうに口を開く。
「御館様は、周りと距離を置いてるじゃないですか。ほら、妖怪のせいで。だから、関わる人も少ないのかなぁって。なら、友達って大事じゃないですか」
「友達、ねぇ」
晴明と友達、というには若干の違和感があるが、信頼している事に変わりはない。
「まだ御館様の事、ちゃんとは知りませんけど、悪い人じゃあないし。肩入れもしますよ」
「俺が悪い人だったらどうすんの。あんたをどっかに売り飛ばすとか、考えなかった?」
タエが笑いだした。
「御館様を見て、話もいろいろ聞いてたら、悪人とは程遠いって分かりますって。藤虎さんが御館様をどれだけ大事にしてるのかも、理解してるつもりです。それに、万が一私に悪さをしたら、返り討ちにしてやりますよ」
「そうだった」
タエは強い事を思い出したのだ。
「そもそも、私達を遠ざけたら、御館様の命がないでしょ? 損するのは御館様だけですよー」
あははと声を出して笑った。そんな様子に、御館様は呆気に取られ、タエを見ていた。
「昨日からの一日で、御館様は、ちゃんとみんなに愛されてる人なんだなぁって事は、十分分かりました」
「は? 愛されてる? 冗談でしょ」
「冗談言う訳ないでしょ。藤虎さんにしても、晴明さんにしても、ちゃんと御館様を大事に思ってくれてる。それが分かって、なんか嬉しいんです。これから守る人が、そう言う人だから、良かったなって」
「……そう」
タエが彼を見上げれば、照れているのを隠そうとしているのか、横を向いて眉を寄せている。それでも耳が若干赤いと見て取れるので、タエは笠の中で、くすりと笑った。
(愛されてるとか、そう言う事、あんまり言われた事がないんだろうな)
「でも、男ばっかりに愛されても、嬉しくないんだけど」
タエは意味ありげにふふんと鼻を鳴らした。
「ちゃんといますよ。二人の他に、御館様を何より大事にしてる人」
「……誰かいたか?」
考えても答えは出ない。今まで誰かに愛されているなど、考えた事もないし、そんな者などいないと思っていたからだ。藤虎は幼い頃から一緒だったので、もう家族のようであった為、そんな対象にもならなかった。
「それなら、屋敷に戻ったら、話してあげます」
「なんか、その余裕が気に入らない」
御館様がふいに、タエの笠をぐいと下げた。おかげでタエの視界は真っ暗だ。あわてて笠を直し、口を尖らせる。白い布は全てめくれ上がっているので、顔は丸見えだ。
「何すんですか」
彼が悪意を以てした事ではないと分かっていた。ただ力任せにずらされた訳ではなかったからだ。証拠に、彼はにやりと笑っていた。
「この時代の女は騒いだりしないよ」
「残念でした~。私は千年後の元気な時代から来たんで――うぉおっ!!」
飛び跳ねたのが悪かった。タエは靴ではなく、草履を履いていた事を忘れていた。草履が脱げ、見事に前のめりにべしょりと倒れこむ。
(めちゃくちゃ恥ずかしい……)
倒れたまま動かないタエ。頭の上から、はぁ、とため息が聞こえた。
「俺をかばった時の運動神経はどこ行ったの。本当はドジなの?」
タエの腕を持ち上げ、体を起こしてくれる。ずっと前にも黒鉄の目の前でぶっ倒れた事があったなぁと、思い出しながら、照れ笑いをするしかなかった。
「あはは……。家ではお姉ちゃんに『どんくさい』って、いつも言われてました」
御館様の支えで何とか立ち上がり、着物についた砂を払って御館様の後ろを静かに歩きだしたタエ。視界に入れてほしくなかったのだ。タエは相当恥ずかしがっていた。
御館様も、正直顔を見られたくなかった。笑いそうになるのを、必死にこらえていたからだ。
読んでいただき、ありがとうございました!