66 生身の体で
「えぇっ、代行者様が……生きてる!?」
稔明の兄、丈明は、目が飛び出さんばかりに驚いていた。
「話は後で。今は逃げましょう」
パイプで腕を払いながら、丈明に撤退を告げた。彼も気絶している彼女を抱え、素直に従う。
しかし、妖怪は多少の知能があるらしく、舌で作業用に積んでいたパイプや木材を階段の方へ投げ、通路を塞いでしまった。
「逃がしてはくれないか」
後ろへ下がる。丈明も壁際まで下がった。妖怪の目がぎらぎらと光っている。重い足を引きずりながらも、一歩、前進した。
(動かれるとまずい。生身の体で、しかも鉄パイプで、二人を守れるか分からない)
今までの経験上、代行者モードで肉弾戦をした時、身体能力が上がっているので、拳で妖怪の体を貫く事は可能だった。だが、今の状況では自殺行為だ。刃物もないので、傷を負わせる事も困難。
「晶華があれば……」
ぐっと握ったパイプが熱くなった。体温のせいだけではない。タエは手元を見たが、妖怪はその隙を見逃さなかった。
「うわっ!」
タエの足首に妖怪の舌が巻き付く。女性の代わりに、タエを喰おうとしているのだ。タエはすぐに舌にパイプを突き立て、拘束を解いたが、伸びた腕に体を弾かれ、床に叩きつけられる。
「あぐっ!」
「代行者様っ!」
丈明の声が響いた。妖怪の腕と舌は丈明達に伸びている。
「護れ!」
丈明の護符が壁となり、舌と腕をかろうじてとどめている。そして、彼の両脇から白い狼が二匹飛び出した。式神だ。狼は妖怪の腕と体に噛み付くが、肉が分厚いせいで噛み切れない。牙が食い込まないのだ。それでも舌と腕を退けるには効果があった。
タエは起き上がると、パイプを妖怪の体に思い切り突き刺した。少しでもダメージを与えられれば、その隙に逃げられるかもしれない。しかし、女の力では、皮にパイプの痕を付けるので精一杯だった。
(運動能力は多少上がってる。運動会の時に確認した。でも、それだけじゃダメだ。やっぱり武器がないと。晶華!)
妖怪の動きが徐々に早くなっている。片方の腕しか伸ばせていなかったのに、両腕を伸ばして来た。足もじたばた動き始めた。丈明の式神は、苦戦している。
(戦わなきゃ。でないと、あいつの餌だ。皆、生きて帰らなきゃ!)
ぽっ。
「!?」
まただ。パイプを握る右手が熱い。その感覚は、毎日握るあの感覚だった。タエの手にしっくりくる。
――知らんのか? 依り代だよ。依り代。現世のモンに憑依してたの――
思い出した。釋が現世に実体を持った方法。初めて会った時に言っていた。
素早く伸びるようになった妖怪の手と舌を避け、丈明達をかばいながら、タエは必死に念じた。
「お願い、お願い! このパイプに憑依して。一緒に戦おう」
呼びかけると、パイプがどんどん熱くなってきた。
「来い、晶華!!」
タエが叫ぶ。パイプが光り、妖怪の目がくらんだ。
「ぎゃっ」
目を瞑った瞬間、タエは一歩踏み切り、妖怪の懐に入った。そして邪魔な舌と両腕を切断し、上段の構えでカエルの妖怪の顔から胴までを真っ直ぐに斬る。
妖怪の叫びがフロアに響いて耳が痛い。それでもタエは止まらなかった。噴き出す緑の血液を浴びないよう避け、今度はサイドから体を刻みにかかる。じたばたする足で避けられたが、その速度に追いつけないタエではない。何度も晶華を振る。いつもなら一刀両断出来るはずが、生身の体では二、三回振り下ろさなければ斬れなかった。
体が三つに分かれた妖怪はこと切れ、じゅうじゅうと泡立ち消滅した。タエは汗がじっとりと滲んだ額を拭う。そしてしっかりと確認した。今のタエの手には、白く美しい晶華が、間違いなく握られている。
「ありがとう晶華。助かったよ」
お礼を言うと、晶華は消え、元の鉄パイプに戻った。ふぅ、と息を吐き、丈明達を見る。
「丈明さん、大丈夫ですか?」
「はい。助けていただき、ありがとうございます」
タエが駆け寄ると、夕日に照らされた彼の顔はホッとしていて、稔明とそっくりだった。さすが兄弟。
「ここを出ましょう。もうすぐ日が落ちます。また別の妖怪が来たら厄介です」
「分かりました。ちょっと待って下さい」
丈明はそう言うと、護符を三枚取り出し、妖怪が蒸発した場所へ投げる。三角形に配置されると、光が溢れフロアはもちろんの事、建物全体が浄化された。
「これで、工事が終わる頃までは妖怪が住み着く事もないでしょう」
「すごい」
丈明は戦闘よりも、守りや浄化の力に長けているようだ。彼女を抱え、建物を出る。
「彼女さん、覚えてるだろうな」
タエは心配になった。あんな怖い思いをしたのだ。心に傷が出来てしまっていたらどうしようと不安になる。
「俺が、この建物に入った部分の記憶を消します」
「そんな事が出来るんですか。陰陽師ってすごい」
驚いているタエに、丈明は首を横に振った。
「それくらいは基本です。俺の方が驚きましたよ。代行者様が、生きてる人だったなんて。父も知らないんじゃないですか?」
「あー、知らないと思いますね」
あさっての方を見たタエ。
「もしかして、内緒にしてるとか?」
「いえ。別に隠してる訳じゃないです。言ってないだけで」
一度見た代行者のタエを思い出し、丈明は不思議な気持ちだった。
「お名前は確か、タエさん、でしたっけ?」
「覚えてくれてたんですね。花村タエです。弟さんと同じクラスです」
いきなりのカミングアウトに、丈明の目が点になった。
「えええぇ!? トシと同級生!? あいつは知ってるんですか?」
「はい。一緒に討伐に行った事もあります」
はっと気付く。
「祟り神の事件の時か。あいつ、何でそんな大事な事、言わへんねん」
怒りで言葉遣いが戻った。
「ただ、言わなかっただけでしょうね。タイミング逃した、とか」
はぁ。大きなため息をついた兄。
「弟がご迷惑をおかけしてませんか?」
「いえいえ。仲良くさせてもらってます」
涼香絡みになると、すがりついてくる事はあえて言わなかった。稔明の名誉を守る為だ。一応。
「代行者の選定は、亡くなってる魂からだと聞かされていたので、驚きました」
「生きてる代行者は珍しいみたいです」
「その年で、神の眷属になる覚悟があるなんて、タエさんは強い人ですね」
「いやぁ。どうも」
褒められると照れてしまう。あはは、と笑う姿を丈明はじっと見ていた。
(傍から見れば、普通の女子高生なのに。迷わず刀を持って戦った……。俺には真似できないな)
ぼんやり考えていると、タエが、そうだと声を上げた。
「警察官になる勉強をしてるんですよね?」
「あぁ。弟から聞きました?」
「はい! 頑張ってください」
にんと笑うタエ。丈明の心はずきりと痛んだ。
「後を継がない事は、言わないんですね」
彼は、後悔はしていないが、父に対して申し訳ない気持ちがあった。
「夢だったって聞きました。悪い奴から人を守る仕事は、私達と変わらないじゃないですか」
「あ……」
「安倍家は警察とも連携を取るし、私も関わる時があるし、皆で協力し合えるって、凄い事ですよね。丈明さんの警官姿、早く見たいです!」
丈明の心に、光が射した。
(そうだった。安倍家はあの世とこの世を繋ぐ家。行方不明者発見の時、タエさんが和歌山の神様と警察を繋いだって……)
正確には釋が連絡しに行ったのだが、祟り神を討ち、被害者を家に返す為に力となったのはタエだった。
(俺は、弟より陰陽師としての力が弱い。だから夢に逃げたけど……まだ俺は、家族の力になれる)
「ありがとうございます。俺、必ず警察官になります」
「はい!」
彼女を送り届けるので、河原の橋で別れる。
「気を付けて帰ってください」
「丈明さんも。あっ、来週の土曜日なんですけど」
「はい?」
首を傾げる丈明。タエは構わず続けた。
「稔明くんの髪型を、ばっちりキメてあげてくれませんか? 私の親友とデートするんで」
「……えぇ!?」
驚愕の表情をしている兄を尻目に、タエは手を振り、橋を渡って行った。
「おい、トシ」
夜八時。彼女の怖い思い出を消して帰って来た丈明は、迷う事無く、二階にある弟の部屋に入って来た。
「な、何?」
兄の目つきが鋭い。怒らせれば怖いが、自分は何もしていないはずなので、訳が分からない。
「お前な……代行者様が生きてる人だって、なんで言わなかった!!」
「なにいぃぃぃ!?」
丈明の声が聞こえた父が、稔明の部屋に乗り込んできた。扉がばたーんと音を立て、外れそうな勢いだ。
「それは本当かっ!」
「今日、妖怪に襲われて代行者様に助けてもらったんだ。彼女、普通の服装だった」
「えっ、生身の体で戦ったの!?」
稔明も驚きの声を上げる。
「聞けば、お前のクラスメイトだって?」
「稔明、そんな大事な事、なぜ言わなかった?」
ごごご、と二人から怒りのオーラを感じる。父からも同じ質問をされた。稔明は汗をだらだら流している。
「あ、あー。ごめん。言いそびれてた」
「ちゃんと報告せんか! 大変だ、挨拶に行かねばっっ」
母親と相談する為に、階段を駆け下りて行った。そんな父を見送り、丈明は扉に背をもたせかけ腕を組むと、稔明に話しかける。
「代行者様は、京都にとって欠かせん存在だ。その方と関われる唯一の家が俺達だ。有難く思わなあかんし、同じクラスなら尚更だ。大事にしろよ」
「うん。すごく世話になってる。お母さんみたいなんだ」
「おい、お母さんかよ」
普通に学校生活を送れているのは、タエが学校全体に結界の効果をもたらしてくれているおかげ。そして、恋の協力をしてくれている。世話になりっぱなしだ。弟にとってのタエの存在が“お母さん”だったので、丈明は拍子抜けした。
「で? タエさんが言ってたけど、お前、来週の土曜にデートなんだって?」
「なっ!」
顔が一気に赤くなった。丈明はにやにや笑っている。
「やっとお前にも春が来たか。兄として嬉しいぞ。そのうっとうしい髪型を、デート用にばっちりキメてくれって、彼女に頼まれたんだ。任せとけよ。他にも不安だったら何でも聞けー」
言いながら、部屋を出て行った。稔明はその兄の頼もしい背中に声をかける。
「に、兄さん……、あざっす!!」
正直、デートなんて初めてなので、不安だらけの稔明だった。相談するのも恥ずかしかった。しかし、タエのおかげで兄が味方になってくれたので、また感謝しなければ。
「ありがとう、タエお母さん」
「へっぶし!」
「タエちゃん、きたない」
母が眉を寄せる。タエが盛大にくしゃみをしていた。
読んでいただき、ありがとうございました!