17 鬼女
「お母さん、心配かけてごめんね」
帰宅して、一番にかけた言葉だ。母親は少しびっくりしていたが、真面目な顔つきになり、タエと正面から向かい合った。
「本当に、変な事に首を突っ込んだり、してないね?」
(変……ではないんですけど……)
タエは母親が思う“変な事”には関わっていないので、ちゃんと答えた。
「不良とか、悪い人達とは一切、関わりはないよ。私がイメージトレーニングって言ってたのは、涼香ちゃんをどうナンパ男から守ろうか考えてただけやから」
「は? ナンパ? 確かにあの子、めちゃくちゃかわいいけど。やっぱりあるの?」
なんだか、話に食いついてきた。タエもうんうんと大きく頷く。
「今日だって言い寄って来た奴がいたから、ちゃんとかばってあげたよ。イメトレのおかげ。助けてくれた人もいたけどね」
そこで思い出した。あの赤い人物を。
(不思議な気配の人だった。あの人、何だったんだろ……)
「まぁ、二人が無事ならそれでいいけど、危ない事はしんといてよ」
「分かってるって」
いつもと変わらない会話に、母親もホッとしたようだ。わだかまりも解消され、タエも気持ちが楽になった。が、一つだけ、引っかかる事が。
(代行者の事は言えなくて、ごめんね、お母さん!)
心の中で謝った。
「涼香ちゃんかぁ。昔から可愛かったもんね。モテるのも無理ないわ」
ハナも納得している。ハナも小さい頃から、タエと涼香と一緒に遊んでいたので、彼女の事を知っているのだ。
「それから、赤い髪と目の人ってのが気になるけど」
「うん。不思議な感じの人だった」
「人でもないし、妖怪でもなさそうな気配……か」
夜。仕事の時間だ。今夜は南の方へ来ている。どうにも歪んだ気配がするので、気になったのだ。
「男山の辺り、黒いもやが見える」
山頂から黒い煙が上がっているようだ。ハナは首を傾げた。
「何かが封印されてたとか、聞いた事がない。裏鬼門から入り込んだ奴かも。行こう!」
ハナがスピードを上げた。裏鬼門とは南西の方角を差す。京都市を中心として北東に位置しているのが鬼門、その正反対の方位、南西の方角を裏鬼門と呼び、そこでは妖怪が入ってこないよう、石清水八幡宮が守っている。
山の上にいた妖怪は鬼女だった。額に二本の角を生やし、髪の毛は地面に着くほど長くうねっている。目は虚ろ。どこを見ているか分からない。その目からは涙だろうか、頬が濡れていた。服装は黒い洋服なので、亡くなって最近の魂かもしれない。しかし、その恨みははっきりとしており、その感情が鬼として表に出ている。
「恨めしい……」
鬼女の呟き一つで、黒い息が吐き出され、山に住む動物や無害な妖怪、精霊達が逃げまどっていた。
「何が恨めしいのかな」
「女の恨みほど、恐ろしい物はないって言うわ。比較的新しい魂が鬼に堕ちて、あの瘴気を出すなんて、相当ね」
ハナの言う事は分かる。しかし、タエは気になっていた。
「浄化できればいいのに」
「あの鬼が人を殺していれば、浄化は無理やよ。血の味を覚えたら終わり。救うには、斬るしかない」
「分かってる。とりあえず、角を狙う!」
タエがハナの背から降り、着地の足でそのまま踏み込み、一気に距離を詰める。晶華を振り、角を斬ろうとしたが、黒いもやが刀の動きを止めた。
「なぁ!?」
恨みの瘴気を盾に使うとは思わず、タエは驚きの声を上げた。鬼女は細い腕を振り、タエを突き飛ばす。後退したが、踏みとどまった。タエと距離を空けた鬼女は、走り出し、山を下りるようだ。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うん。追おう」
ハナの背に再び乗り、鬼女を追った。
「このままじゃ大阪に入る。何とか、京都の中で仕留めたいけど」
「京都で出た鬼だから、私達が追って行けるんじゃないの?」
ハナの言葉に、タエは疑問を持った。
「私達の管轄は京都。ここから一歩でも他の土地に出れば、管轄がそっちに移る。許可をもらえれば行けるかもしれないけどね。他の管轄を荒らさないっていうのは、代行者の間での、暗黙の了解なのよ」
管轄の話は聞いていたが、対象を最後まで追えるものだと思っていたタエ。管轄がどうのなんて、まるで警察のようだと感じた。
「あの鬼の前に出よう。とにかく、足を止めないと」
この鬼には違和感があった。今まで戦った鬼は、無差別に人を襲おうとするか、特定の人物を狙ったりしていた。いずれも誰かの命を奪おうとしていた。しかし、この鬼女はまるで逃げているよう。タエとハナが仕掛けても、瘴気で守るのでなかなか刃や爪が届かない。攻撃もしてこないのだ。タエ達を避けて、ただひらすら走っている。
「あの瘴気は厄介すぎる!」
ハナが吠えた。
「逃げてるだけ。狙う相手がいないのかな」
はっと、タエとハナは顔を見合わせた。最悪の事態だ。山は既に下り、街中も走りすぎ、河原の所まで来ていた。
「そこの鬼女のお姉さん! ちょっと待って、止まって!」
「お、お姉ちゃん!?」
タエがいきなり鬼女に話しかけだしたので、ハナは驚いてこけそうになった。
「攻撃無理やし、逃げるだけなら、話し合いしかないでしょ! 言葉が、届けばいいけど」
鬼女の前に出て、タエは攻撃しない意思を示した。晶華を鞘に納めたのだ。これは危険な賭けだった。ハナも一応牙をむくのをやめ、冷静を努める。
「なんで鬼になったの? なんで泣いてるの? 苦しいなら話を聞くからっ」
鬼女の動きが止まった。まだ足元から瘴気が漂っているが、向こうも襲う気配がないので、警戒しつつも歩み寄る。
「……恨めしい」
「どうして恨めしいの?」
「あいつ……、結婚の約束してた、のに……、他にも女が……」
それだけで理解した。恋人が二股かそれ以上の股をかけて修羅場化したのだろう。しかし、疑問がある。
「それは怒るわ。怒ってしょうがないわ。でも、その怒りや恨みでここまで瘴気が濃くなるかな」
「分からない」
ハナも困惑していた。すると鬼女が唇をわななかせながら、言葉を紡いだ。
「だ、だから……彼に別れを……。今まで貸したお金も返してって、言ったのに……」
鬼女が空を見上げた。今夜は晴れ。星がいくつも輝いているが、瘴気の中にいる彼女には、真っ暗にしか見えないだろう。風が吹き、瘴気が揺らいだ。タエとハナはその瞬間を見逃さなかった。
「え……あれって」
タエの目が見開かれ、ハナがぎり、と歯を噛み締める。
「手の痕……。男に首を絞められたのね」
こくり。鬼女が頷いた。冷たい風が吹き荒れた。瘴気も一瞬、掻き消える。そこで目にしたのは、黒の洋服ではなく、白のシャツにブラウンのスカート。上下共に、血でどす黒く染まっていた。
それが物語る事は、一つ。
「事切れる寸前、力がみなぎったの! だからっ、あいつの首を噛み切ってやったわ。それから私のお金を使って、あいつが貢いでた女もね!!」
この女性は、大切な愛情とお金をむしり取られ、裏切られた。金目当てで、愛情があったかどうかは、本人にしか分からない。この女性が哀れで仕方なかった。鬼に身を堕とすほど、彼女は恋人を愛していたのだ。信じてお金も工面していただろう。裏切りという形でそれが返って来て、怒りと恨みが爆発した。京都の妖気は今も強く、地中深く染み渡っているものもあると聞く。漂う鬼気が彼女の念に喰らい付いたのだ。
タエは一歩、鬼女に近付いた。
「悲しかったですね。辛かったですね」
「あんたに何が分かるって言うの? まだ若くて何も知らない女の子でしょ? 同情なんていらないのよっ!」
「確かに私は、まだそんなに恋愛をしたことはありません。でも、お姉さんが被害者だって事は分かります。彼氏が一番悪い奴だって事は、分かります!」
タエの真っ直ぐな瞳が、鬼女を動揺させた。
「好きだったんですよね。大好きだったから、ものすごく悲しかったんですよね」
そっとタエの手が瘴気に触れた。すると黒かった辺りが、一気に澄み切った空気へと変わる。ハナはその様子をじっと見ていた。
瘴気が浄化され、鬼女も角はまだあるが、表情が人間のものへと戻っていた。地面を這っていた髪の毛も背中辺りまで戻っている。女は悲しみに顔を歪め、涙を流した。
「八年、付き合ったのよ……。結婚を考えてたのに、こんな事に……。私、自分が抑えられなくて。今も殺意が溢れてきて、止められないの! 誰かを襲いたくて仕方ない! あんなこと……もう、嫌なのに」
負の感情に支配され、魂が鬼へと変貌を遂げると、その体も鬼へと変わる。この女性は死ぬ前に鬼となったので、生身の体も鬼に囚われてしまっていた。
「殺意に抗うなんて、なかなか出来ない事よ。関係のない人を襲わないよう、人のいない山へ逃げたのね」
鬼女の行動の謎が解け、タエとハナは納得した。
「根は優しい人なんやよ」
タエが鬼女の手を取った。爪は尖り、血がこびりついている。それでも、その手をぎゅっと握りしめた。彼女は力が抜け、へたり込む。タエも一緒に膝を付いた。
「あなたが受けた傷を、私が埋める事は出来ません。慰める事は出来ても、一緒に泣く事は出来ません。あなたが被害者である事は事実ですが、許されない事をした事も、事実ですから」
鬼女は頷いた。
「分かってる。この姿が私の罪の証……。私の苦しみや悲しみを分かってもらえただけで、十分よ。あなたは、神様?」
女性の問いに、タエは微笑みながら、首を横に振った。
「私は神様の使いです。あなたを救うには、斬るしかありません」
タエの腰にある刀を見た。白い鞘に納められた刀は、聖なる力しか感じない。女性はしっかりと受け止める反面、中に渦巻く鬼気はもがいていた。うっと呻き、両手で体を押さえる。
「私の中の鬼が暴れてる。お願い、やって!」
タエが柄に手をかけた。女性は、目に涙を浮かべ、笑っていた。
「話を聞いてくれて、ありがとう。あなたに会えて……よかった」
(痛みを与えず、斬る!)
抜刀しようとした、その時。
「危ない!!」
ハナが飛び出して来て、タエを突き飛ばした。その瞬間、女性の体が大きな炎に包まれる。
「!?」
タエは言葉が出なかった。手は柄にかかったまま、晶華は抜かれていない。
女性は驚いた顔をしたが、全てを受け入れたような表情で燃え尽きる。時間にして、一分もなかった。残ったのは、黒い灰だけ。短い時間だったはずなのに、タエには長く感じられ、彼女が燃えていく様子が目に焼き付いて離れない。
「誰……、何でこんな事っ」
「何ではこっちのセリフや」
怒りの混じったタエの声とは対照的に、静かで淡々とした声がした。はっと気付けば、タエの目の前に立ち、こちらを見下ろしている。
「おい、誰のシマ荒らしとんねん」
夜空や町の明かりで、目の前の人物が徐々に見えてきた。タエは目を瞠る。
赤い目がキラリと光り、赤い髪が夜風に揺れていた。
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