117 自覚
「藤虎、少しいいか?」
タエを見送り、御館様は藤虎の部屋を訪れていた。藤虎は驚きながらも上座に彼を座らせる。
「夜更けにどうしたんです? 珍しい。ハナ様は」
「俺の部屋にいる。……あまり聞かれたくないから……」
うつむき加減で居心地悪そうにしている。ハナには、藤虎に話があるからと、部屋で待機してもらっているのだ。藤虎は居住まいを正しながら、御館様に向き合った。
「どうされました。ご相談でも?」
「ああ、まぁ。最近、自分でも、自分の事がよく分からないんだ」
「と、申されますと?」
御館様は、恥はかき捨てたとばかりに、正直に話した。今日、晴明の屋敷に行った時に、タエが彼に酌をしていて、体がざわついた事。帰りの馬で彼女が楽しそうに晴明の話をしている間も、ずっとイライラしていた事。イライラしていたと思ったら、昼にはスッキリしていた事。
「面白くないと思えば、無関心で今まで来たのに、最近は体の中が熱くなる。初めての症状なんだ。書き留めていた医術の書を見ても、書いてない……」
病気なんだろうか、とため息をつく主君を見て、藤虎は込み上げる笑いを、抑える事が出来なかった。
「……なに。こっちは真剣に悩んでるのに……」
じろり、藤虎を睨んだ。親代わりの彼には何でも相談できる。成人してからは、仕事の相談はしていたが、個人的な相談などしていなかった。子供のようだと思うが、彼にしか話せない。御館様は、それほどまでに思い詰めていた。
「申し訳ありません。幼い頃を思い出しますなぁ。ふふ」
むぅ、と眉を寄せた。
「確かに、御館様は病気です」
「! 藤虎に分かるのか!?」
「他の病なら御館様に及びませんが、こればかりは分かりますぞー」
藤虎が嬉しそうににっこりと笑う。
「何なんだ、この病は……」
心配そうに彼を見る御館様。
「心配無用です。これは、恋の病ですから」
「……は?」
御館様の口があんぐりと開く。
「いやぁ、私としては、嬉しい限りですっ! とうとう、御館様も女人に興味を持たれたんですなぁ~」
腕組みをして、感慨深げに頷いている。
「ちょっと待って。誰が? 誰に?」
「御館様が、タエ様に、です」
「冗談は顔だけにしなよ。なんで俺がタエに――」
「晴明殿に酌をするタエ様を見て、御館様は晴明殿に嫉妬されたんですよ。タエ様が自分以外の誰かの事を話してイライラするのもそう。タエ様と仲直りされて、表情が和らぎましたしね。気付かれませんでした? 晴明殿の屋敷から帰って来た時と、表情が全く違っていたのを」
「……」
御館様はぐうの音も出ない。
「私とて、若い頃は恋愛の一つや二つ、しましたよ。だから分かります。御館様と暮らしてからは、そんな暇ありませんでしたけどね。息子が出来たようでしたからな」
藤虎の目が温かくなる。
「ご自身の境遇で、諦めていた事がたくさんあったでしょう。しかし、タエ様とハナ様のおかげで、御館様にも平和が訪れた。ご自身に余裕が出来たのでは? だからこそ、タエ様に目が向いたのではありませんか? あの方は、御館様に真っ直ぐ向き合ってくれます。とても眩しい」
藤虎が続ける。
「タエ様も仰っておられましたよ。今まで苦労した分、出来なかった事を取り戻して欲しいと」
「タエが、そんな事を……」
タエと星空を見た時も、同じ様な事を言っていた事を思い出した。やりたいことをすればいいと。欲を出していいのだと。
「タエ様は、御館様を大切に想ってくれています。私はそれがとても嬉しいのです。御館様もタエ様を大切に想っている。良いと思いますよ」
藤虎は今までにない喜びを感じていた。しかし、御館様は表情が曇る。
「だが……、いずれは元の時代に戻ってしまうだろう」
彼の心にずっと引っかかる事。彼女達は任務を完遂すれば、この時代から消えてしまう。
「添い遂げる事は難しいでしょう。しかし、そのいつかを知っているからこそ、限られた時間をどう過ごすかで、御館様の人生も変わるのでは? どの道を選ぶかは御館様次第です。後悔なきよう」
藤虎の言葉を胸に、御館様は部屋を出た。彼の言う事は正しいだろう。しかし、タエにはタエの人生が元の時代にはある。その中に、自分が入り込んでもいいのか、迷ってしまう。そもそも、タエも自分と同じ想いでいてくれるのか。今まで恋愛などした事がなかった彼には、難題だった。
スッ。
障子を開けた。目の前には、横になり、規則正しい呼吸をしているタエがいる。
御館様はタエの側に来て、座った。タエの寝顔を見つめる。閉じられた彼の部屋への襖の向こうには、ハナがいるはずだ。気付いているのかいないのか分からないが、ハナはこちらには来ない。御館様には、それが有難かった。
そっとタエの頬に触れてみる。温かい。そして、柔らかい。女性の柔らかさを初めて知った。今タエの魂は外にある。すぐに戻ってくる事はない。頬から額、頭をなでた。
「意気地がないな。この状況でないと、触れられないなんて」
ふっと自嘲気味に笑う。やっと自覚したのだ。自分はずっと、タエに触れてみたかったのだと。治療で触れた事はあったが、それはまた別だ。以前、貞光がタエの頭を撫でた時に沸き立った感情も、気安くタエに触れられる彼への羨みと嫉妬だったのだとようやく知った。一つ一つの感情を理解し、受け入れると、どんどん気持ちが膨らんでくる。
「だめだ……。これ以上は、タエを傷付ける……」
拳を握った。タエと自分は、生きる時代が違う。タエは元の時代で、別の男を好きになり、いずれは婚姻もするだろう。考えるだけで心がチクチクと痛むが、これが現実なのだ。
タエを自分のものにすることは、出来ない。そもそも、タエがこんなひねくれた天邪鬼を好いてくれるはずがない。
藤虎と合わせて大好きだと言ってくれたが、一人の男として見てくれているはずがないと、御館様は思っていた。
(想うだけなら、勝手に出来るか……)
藤虎の言葉は有難かった。背中を押してくれたが、いざ彼女を前にすると、現実を突きつけられ、ただ苦しいだけだ。自分の想いはタエにも良くないだろう。
(だから……、今だけだ……)
親指でタエの唇に触れた。頬よりも柔らかい。
そっと、自分の唇を重ねた。
タエは知らない。自分の心など、知らなくてもいい。それでも溢れる想いは止められなかった。
「タエ……、俺はあんたの事が――」
これが、御館様にとっての精一杯の告白だった。熱いほどの想いを、タエの唇に伝える。返事が返って来る事はないが、彼はこれで十分だと感じていた。もうタエへの想いは心の奥底に沈めてしまおう。今までと変わらない関係が、一番いいのだと。
開け放たれた障子から、涼しい夏の夜風が御館様とタエの間を吹き抜けた。
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