113 魂の欠けた鬼、恨みの鬼
「ど、どうしよう……」
タエは身動きが取れずにいた。正確には、自分の部屋に戻れない。縁側の廊下の真ん中に、タエにとって、どうしても近寄れないモノがいたのだ。
「さっと横を通れば……。あぁっ、ダメだ! こっち来たら卒倒する!!」
じりじりと前に進むが、すぐに後退。それをさっきから何度も繰り返していた。
「依り代を忘れたから、取りに行きたいのにぃ」
意を決して飛び越えようと、一歩前に出たのだが、そんな時に限って、こいつは動く。
かさかさ。
「ぎゃあああっ!!」
全然可愛くない悲鳴を上げ、飛び退くと、タエは体を反転させ一目散に逃げ出した。
どんっ!
「……いたい」
「おっ、御館様!?」
タエが勢いよく御館様にタックルする形になり、廊下の柱に体をぶつけた御館様。眉間に皺を寄せて、痛みを堪えているようだった。
「すすっ、すいませんっ」
タエが慌てて離れる。離れすぎて、部屋側の柱に頭をぶつけた。
「あったた……」
「何、乱心してるの」
じとりと見られる。タエは前方に陣取って、目の前にいるそいつを指さした。
「全然どいてくれないんですっ!」
「……ただのクモでしょ」
タエが苦戦していたのはクモだった。土地が浄化され、生き物が戻って来るという事は、もちろん虫も戻ってくるわけで。屋敷には普通に虫も入り込むようになっていた。
ただ、でかい。昔の家に出る、両手を広げたくらいの、あの巨大なクモのサイズだったのだ。それが廊下の真ん中を陣取って、タエを困らせていた。
はぁ、と御館様は息を吐くと、長めの棒を持ってきて、クモを追い払ってくれた。
「虫、苦手なの?」
「ものすごく」
(土地が平和になるのは良いけど、虫は困るなぁ……)
田舎サイズの巨大な虫は、勘弁願いたかった。
貞光が訪れた日から数日後、御館様は仕事で早朝から遠出していた。源頼光からの依頼で、国境の状況を視察に行ったのだ。国取りの戦があるこの時代では、貴族や武士同士のいさかいもある。それを把握し、納めるのも貴族の仕事だ。御館様は、調達した馬に乗り、藤虎と共に出掛けたのだ。今回はハナが同行した。タエは屋敷で留守番。
太陽が山に沈んでいくのを見ながら、タエは門の外で彼らが戻るのを待っていた。何とか一人で夕餉の仕度を済ませた。藤虎に、献立と作り方を教えてもらっていたのだ。それから、タエお手製の味噌汁。御館様はタエの味噌汁を気に入っていた。
「まだかなぁ。暗くなったら危ないのに……」
どの方向から戻って来るか分からないので、迎えにも行けない。タエはじれったい気持ちだった。
「ほぼ一日会わなかったのは、初めてだったな」
いつも仕事で出ても数時間で戻ってくる。後は屋敷で過ごしているので、いつも同じ屋根の下でいたのが当たり前だった。しかし、一日離れていると、心配なのは当然だが、何より、寂しかった。
「……早く、帰って来ないかな」
(早く、御館様に会いたい)
そう素直に思った途端、心臓がどきどきと早鐘を打ちだす。
「……やっぱり、そうなんかな……」
頬が熱い。両手で触れると、夜風が涼しく感じるほど、顔が火照っている。
ドキドキする心臓が痛い。しかし、その痛みが嫌ではない。御館様を想って、締め付けられる感情。そっけない言葉の裏に隠された優しさを知って、温かくなる心。触れた事を思い出しただけで恥ずかしくてしょうがない。
この感情の正体は、一つ。
「私……好きになっちゃったんだ……」
口にした途端、自分の中のごちゃ混ぜになっていた感情全てが、すとんと一つの形になったようだった。
いずれは元の時代に戻らなければならない。待っているのは確かな別れ。悲恋でしかない事は百も承知だ。それでも、この感情は、止まらない。止められないのだ。
「未来に帰ったら、きっと納まるやんね。でも今だけは、この気持ち、大事にしたいな……」
胸に手を当てる。切なくて滲む涙が知らずに流れ落ちた。
「……まずいな」
御館様が小さく呟いた。先日の貞光の忠告を守ろうと、急いで帰って来たが、日が暮れてしまった。辺りはすっかり真っ暗になっている。
「御館様、急ぎましょう」
「ああ」
手綱を握りしめる。ハナは御館様の乗る馬の隣を走っているが、二人が焦り始めたので問うた。
「日が落ちれば確かに危険だけど、どうしたの? 何かを恐れているみたいな……」
「大江山の、鬼の残党が逃げてるんだ。本当、面倒な――」
御館様達は一条戻橋に差し掛かった。屋敷まで、まだ少し距離がある。と、橋の真ん中に一人佇む女性の姿があった。こちらを見ている。
「女、危ないぞ!」
藤虎が声を上げるが、女は動かない。
「止まって!!」
ハナが御館様と藤虎の前に躍り出た。二人は驚いて手綱を引き、馬を止める。
「ハナ殿!」
「一体、どう――」
二人は戸惑いながらも、状況が最悪である事を理解した。帯刀している刀を抜き放つ。
「全く、ついてないな」
辺りの暗闇から、鬼や妖怪が十数体現れた。
「引き返して! 私が引きつける」
ハナがそう言うが、女は妖気を放ち、ぎらついた眼を御館様に向けた。
「渡辺綱……許さん。俺の腕を返せ……」
その言葉に反応したのはハナだ。
「どういうこと? 御館様はずっとここにいたのに」
女の姿がメキメキと変貌する。巨体の鬼が現れたのだ。確かに右腕がない。
「その顔、忘れんぞ。八つ裂きにしてやる!」
鬼が向かってくる。周りの妖怪達も襲って来た。ハナは何とか後方へ二人を逃そうとしたが、後ろの闇から、一層大きな影が道を塞いでいるのだ。
「うまそうな人間……」
歪んだ笑みを浮かべるその影が、月の光で照らされる。こちらも巨大な鬼だった。
「最悪か。お姉ちゃん!」
鬼達の攻撃を迎え撃ちながら、ハナが首から下げている鏡に向けてタエを呼ぶ。
「ハナさん! なんかでかい気配が……」
「そいつらに挟まれてる! 急いで来て!」
「分かった!」
短く交わされた会話だが、それで十分。ハナは御館様と藤虎の側に降り立った。が、二人は馬を降り、ハナの隣に進み出る。
「御館様、藤虎殿!」
「あの鬼は俺に用があるらしい。相手くらいしてやるよ」
「助太刀します」
二人の様子を見て、ハナは納得した。
「了解。なら、他の相手は私がする!」
ハナが向きを変える。こいつらは御館様の霊力を狙っている。どいつもなかなかの強さの奴らなので、タエが来るまで持ちこたえなければ。
「茨木童子と言ったか? 言っておくが、人違いも甚だしい。迷惑なんだけど」
刀を構える。いつもタエに守ってもらっていたが、今回ばかりは、茨木童子のケンカを買わねばならないようだ。
「てめぇのような奴を見間違えるか。八つ裂きでもこの怒りは治まらん!!」
茨木童子の鋭い爪を、刀で受け止めた。その隙をついて、藤虎が腹を斬りにかかるも、素早い動きでかわされてしまった。二人の連携は、まさに阿吽の呼吸。素晴らしいものだ。
「あの巨体で、あの身のこなしとは」
藤虎も驚いている。
「なるほどね。あいつが苦戦したわけだ」
御館様の目に、炎のような強い光が宿った。
「はぁっ……くそっ」
タエが悪態をつく。屋敷は榊の精霊達に留守を頼み、晶華を発動させて走っているが、鬼の気配を追うだけでは道を走る事が出来ずにいた。道を把握していないのだ。最短距離で行こうとしても、行き止まり。屋根を伝おうとしても、庶民の屋根はとても脆く、壊しかねなかった。思ったよりも時間がかかり、タエは焦る。着物ではなく、私服だったので、動きにくくはない。夜なので、見られる事がないのが救いだ。
「大きな通り。これを辿れば――」
「その首、もらったぁ!」
茨木童子が叫びながら爪を伸ばす。御館様がそれを受け止め、弾こうとした時だった。
「!?」
「御館様っ」
新たに現れた別の妖怪が、御館様へ向かって牙を向く。藤虎は飛び込んできた妖怪の相手をしていて、御館様を助けに行けない。
「っく!」
御館様は茨木童子の相手で手一杯。さすがにまずいと思った。
その時。
「どけえぇぇっっ!!」
御館様に向かって来ていた妖怪が、細切れにされた。ほとばしった閃光の向こう側から、見知った顔が姿を現す。
「何っ!?」
茨木童子も突然の事に驚き、一歩引いた。その隙に妖怪達の間を縫い、御館様の隣に立つ。
「タエ……」
「無事ですか!」
「『どけ』なんて、女の言葉遣いじゃないよ」
「気を付けます!」
互いに見合い、にやりと笑う。それだけで、タエが来てくれてホッとしている事、御館様が無事で安心した事を悟る。
「お姉ちゃん!」
「ハナさん! いつになく大量やね」
ハナは背後の妖怪と向い合せに立ち、藤虎も妖怪を倒し、御館様の傍らに立つ。
「タエ殿、助かります」
「ハナ殿に加勢を。こっちは大丈夫」
「わかりました」
御館様の指示に従い、タエは身を翻し、ハナの側へ。
「厄介な奴がいる」
ハナが言いたい事を理解した。タエも、目の前で揺らめいている鬼を見た。
「あの鬼、なんか変ちゃう? 魂が小さい……?」
巨大な鬼は、その鬼気は凄まじいものの、器の中に宿る魂の大きさが極端に小さいのだ。見るだけでも感じる。ハナがはっと気づいた。
「まさか、晴明殿が言ってた鬼!」
「え、魂を切り離したって言う鬼?」
周りの妖怪が容赦なく攻撃してくるので、それを避け、斬りながらタエは驚いた。
「魂がちょっとでも、体は元のままってわけ?」
「力が半減してるはずやのに、おかしいよ。術者が力を与えたのかも」
鬼は、どこか楽しそうに拳を振り回してくる。地面にめり込むその力は、凶悪な鬼の威力そのものだ。
「鬼気だけやった鬼も、確かに強かったけど、それもありえるな。こんの、やろぉ!」
先日戦った鬼を思い出しながら、タエは目の前の妖怪を真っ二つにした。
「はぁ、はぁ……まずいな」
「お姉ちゃん」
ハナも心配そうだ。タエの疲労が半端ないのだ。
「茨木童子!!」
聞き覚えのある声が、別の方向から聞こえた。月明かりだけでもとても明るいので、誰が来たのかよく分かった。
「貞光さん」
茨木童子に切り込むも、避けられたが、御館様の友人の貞光が駆けつけたのだ。
「見回りしてたんだ。やっと見つけたぜ!」
「あの時の人間……。二人とも喰ってやる!」
「いくぞ!」
「言われずとも」
「私も行きます!」
貞光と御館様、藤虎が茨木童子に挑んでいった。
「っうっ!!」
「お姉ちゃん!」
とうとう妖怪の爪が、タエの体に届いてしまった。左の二の腕辺りが服ごとぱっくり裂かれ、血が滲む。
「これくらい大丈夫。でも、なかなか疲れるな……」
痛みに顔を歪めながらも、タエは両手で晶華を持ち、妖怪と鬼を相手にしている。
「生身の体じゃ、限界なんよ! やるしかない」
「確かにね……くっ!!」
妖怪に弾かれ、タエが後退した。それに気付いた御館様がタエを見る。よろけたタエを支え、地に膝を付いた。
「タエ! 腕を――」
茨木童子は既に倒されていた。剣の腕が一流の三人の手によって、ボロボロになっている。貞光が童子の心臓に刀を突き刺した所だった。断末魔の声が響く。
「腕は大丈夫です。ただ、頼みたい事があって……」
タエは御館様の着物をぎゅっと握った。
(もう、隠すのは辞めだ!)
「頼み?」
「私、これから気絶するんで、体を守って欲しいんです」
「え?」
へらっと笑う。いつもの笑い方だ。
「綱ぁ……貴様だけはああぁっっ!!」
茨木童子の最後の足掻き。童子の首が、御館様へと一直線へと飛んでいく。血を撒き散らしながら首だけが飛ぶ、恐ろしい異形の姿に、貞光と藤虎も追いつけない。
「ハナさん、お願い!!」
タエが叫ぶとタエの体が光りだした。
茨木童子は御館様の首に喰らいつこうとしていた。彼も突然の事に身動きが取れない。
「っく――」
御館様は喰われたと思った。咄嗟に目をつぶったが、痛みを感じないので、ゆっくり目を開けると、目の前の光景に目を奪われた。それは貞光と藤虎も同じだ。
「な……」
「御館様を傷付ける奴は、誰だろうと斬る」
はらりとはためく着物には、金糸がキラキラと輝いている。そして、頭の上部で束ねられている一房の髪の毛が、腰まで届くほどの長さで揺れていた。辺りに漂う不浄な気配を、一瞬で浄化してしまうようなその気配は、とても清らかだった。
童子も驚愕の表情のまま、真っ二つに切られ、塵へと掻き消えた。突如現れた人物の背中を呆然と見つめる御館様は、振り返った相手の顔を見て、目を見開く。
「タ、タエ……」
タエは恥ずかしそうにしながらも、自信溢れる笑顔を見せた。
「すぐ終わらせます。私の体、よろしくです!」
それだけ言うと、近くにいる妖怪を一瞬で斬り捨ててしまった。それから続けて辺りの妖怪を瞬く間に塵に還す。
「す、すごい……」
藤虎が思わずつぶやいた。貞光も開いた口が塞がらない様子だ。御館様は腕の中にいるタエを見た。すうすうと、規則的な呼吸をしている。
「ハナさん、お待たせ!」
「遅い!」
言いながらも、ハナは嬉しそうだ。本領発揮と言わんばかり。タエとハナもチームワークはばっちりだ。あっという間に妖怪は一掃され、残るは問題の鬼だけとなった。
「代行者……殺す!」
ハナが瞬足で鬼の足の健を斬り、動きを封じる。タエはハナから離れ、集中し、晶華を横へ一振りした。すると、巨大な晶華が五本現れる。
「魂が欠けてる奴に、負けるかぁ! 晶華!!」
「呪ってやる!」
鬼が手を伸ばすと、その手のひらに巨大な晶華がずぶりと突き刺さり、地面に縫い付けた。そして、五芒星の結界の形に晶華が地面に突き立つと、ハナも鬼から離れる。タエの着物が揺らめく。タエの力が溢れ、髪の毛も浮いている。タエは手に持つ晶華を高く掲げると、大きく叫んだ。
「龍聖浄!!」
突き立った晶華から、結界内に水が溢れだす。ジュウジュウと鬼の体が泡立ち、苦しく呻く鬼の声が響き渡る。しかし、次の瞬間には、五本の晶華が中心に集まり一本の巨大な晶華となる。鬼は、刀が一本に合体する瞬間に、透明な刃の中に入り込み封じられ、そのまま水となり消え去った。
「お疲れさま」
「うん!」
元気な声で答え、タエは御館様達の方へ向いた。御館様と目が合う。どきんと心臓が跳ねるが、この状況を、どう言えばいいのか迷った。
「えっと、ちゃんと話します」
「そうしてもらわないと困る。とりあえず屋敷に戻るから、この状況、どうにかしてもらえる?」
ずっと御館様の腕の中で眠るタエの体。第三者の位置から見るその光景に、タエは顔から火が出そうだった。
読んでいただき、ありがとうございます。
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