112 貞光、再び
「タエ、この字、何て読むの」
「それはですね――」
夜。御館様は、タエの学校の本を読むようになっていた。未来の学問に惹かれ、教科書と参考書を読んでいる。
万が一という事も考え、御館様の夜の護衛はまだ続いていた。結界のおかげもあり、両部屋を隔てる襖を開けて、タエが自分の部屋にいても大丈夫になった。なので、御館様の部屋に居続ける理由はなくなったのだが、今までと同じように、勉強を終え寝るまでは彼の部屋にいても良いと許しを得る。タエはそれが嬉しかった。
「人間の骨格は、こうなってるのか……」
医学の心得があるので、生物の教科書にとても興味深々だ。
御館様は、未来で使われている平仮名や漢字は読めるのだが、この時代にない漢字や、分からない言い回しもあるので、時々タエに聞く。タエはと言うと、御館様から変体仮名を習っていた。漢文とカタカナが、主にこの時代の男性が学ぶべき教養らしいが、タエには漢文が難しすぎた。レ点等がなく、漢字だけの文章は読めない。
平仮名も読みやすい所があるが、文字が繋がっているし、漢字も出てくるので、どこをどう読むのか暗号みたいだ。というわけで、互いに五十音を書き、それを見比べながら文字を勉強していた。時代の移り変わりを実感する。平仮名の“あ”の元が“安”だったと知り、タエは驚いた。
ちなみに、まだ宿題は残っている。
「タエとハナ殿が、敵わなかった敵っていたの?」
ふいに御館様が聞いて来た。タエは大きく頷く。
「そりゃあ、強い妖怪はたくさんいますよ。祟り神になった神様にも苦戦しました。実際に対峙して、相性が最悪だったのは――叉濁丸、でしたねぇ」
「叉濁丸……」
タエは話して聞かせた。大地を揺るがし、山の中から出てきた瘴気を撒き散らす巨大な妖怪、叉濁丸。水の力を使う自分達にとって、相性が悪く、全く歯が立たなかった。しかし、京に住む妖怪達がたくさん力を貸してくれ、晴明の子孫である稔明や警察とも協力し、皆で勝利を勝ち取った事を。
「信じられないけど、本当の事なんだな。京にそんな妖怪が封印されてたなんて」
御館様は目を瞠りながら聞いていた。
「いつ、どこから来たのかも、分からないそうです。私とハナさんだけでは、無理でしたね。私達の先輩の代行者は、たった二人で立ち向かっていったんですけど」
「二人?」
「ずっと昔に一度現れてるんですよ。実は、叉濁丸は兄弟がいて、兄が叉焔丸って名前で、炎を操る妖怪です。京の町を炎と瘴気の海にしたそうです」
御館様は、それを想像するだけで、ゾッとした。
「私達の先輩の代行者は、安倍家の陰陽師と協力して、叉焔丸を倒したんです。でも叉濁丸は、体力の消耗と相性が良くなくて、倒せなかった。そこで封印する事にしたんですよね。叉濁丸は、瘴気を全部出して抵抗しました。その瘴気を一人で受けたのが、京都歴代の代行者で、最強と言われた先輩だったんです」
代行者という者が、何代もいたのだという事に驚きつつ、この京で、いつかそんな事態が起こるのだという話に、御館様はただ聞く事しか出来なかった。
「そんな人が相手でも、甚大な被害が出たんです。それくらいに巨大で、強大な敵だったんですよ。その時は、封印する事しか出来なくて、私達の代で、蘇っちゃったんですよねぇ」
「ふぅん……」
御館様は、タエ達が妖怪とも分け隔てなく仲良くする理由が、分かった気がした。助けを求められれば、何としても救い、そうして絆を作っていく。共存の道を探り、協力関係を築き上げ、タエ達が困った時は、妖怪達も進んで力になってくれるのだろう。妖怪と対等であるには、それなりの力が必要なはず。目の前にいる小さな娘は、それを軽々とやってのけるのだ。
(タエの力の底が知れない)
御館様は、まだまだタエを理解できずにいた。
翌日。
屋敷は騒がしかった。定期的に本家からお手伝いが来たのだ。食料を運び込み、御館様と藤虎の新品の着物を持って来る。そして簡単に掃除をして帰るのだという。屋敷に来たのは、男性ばかりだった。渡辺家の奉公人だろう。
「……」
タエは柱の陰に隠れて、彼らの様子を見ていた。手伝いの彼らは、明らかに動揺していた。周りをキョロキョロ見回して、身構えて力んでいた体がふっと緩む。縁側を雑巾がけしていた男性と目が合った。
(何回か掃除したけど、やっぱりダメだったかなぁ)
生活をしていれば、ホコリが目に付く時がある。タエは部屋なども乾拭きで掃除をしていたのだ。
「えと、あなたは?」
「あっ、私は――」
「晴明の親戚だ。俺の護衛」
タエがわたわたしていると、御館様が代わりに答えてくれた。表向きは、晴明の親戚という設定だったと、思い出した。
(正直に名乗らなくて良かった……)
ホッとした。
「では、この空気は」
「この子のおかげ。本家にはまだ言ってないから、知らなくて当然だ」
御館様が簡単に説明した。奉公人は、了解し、仕事を再開する。彼らはどこかホッとしながら各自作業をしていた。妖怪を呼ぶ御館様の屋敷で、びくびくしながらいつも仕事していたのだろう。彼らが帰る時は、タエも見送りに出て、さよならと笑顔で手を振った。彼らも明るい顔で帰って行ったので、良かったと思うのだ。
「いよっ! 来たぞー」
そしてまた翌日。碓井貞光が突然やってきた。彼は屋敷を眺め、へぇと感嘆の声を漏らす。
「ここら辺の雰囲気が変わったけど、この屋敷が一番変わったなぁ」
彼でも変化が分かるようだ。御館様が頷いた。
「この地にも、土地神様が戻ったんです。妖怪が寄りつく元凶を、タエが祓ってくれて」
結界はしっかりと張られており、御館様の家が所有する山を含め、一帯を土地神の管轄にすると高龗神が認めたので、土地に生気が戻ったのだ。おかげでこの地の治安も徐々に良くなっている。
「そうかそうか。あの子のおかげで、お前の運気も上がってるみたいだな。良かった良かった!」
貞光がにかっと明るい笑顔を見せる。御館様も否定することなく、彼を屋敷の客間に入れた。
「貞光殿、お元気そうで何よりです」
お茶を持って来た藤虎が挨拶した。貞光の眉が寄せられる。
「タエちゃんは? タエちゃんが入れた茶がいいぞ」
「あの子は巫女ですから、そう言う事はさせられませんよ」
実際、タエがお茶を持って行きたいと言ったのだが、御館様が止めた。余計な話を聞かせてしまうかもしれなかったからだ。タエとハナには自室にいるよう釘を刺した。浄化された屋敷なので、タエとハナが多少離れていても、妖怪に襲われる事はなくなっていた。
「で? 鬼退治はどうだったんです?」
御館様の緑の瞳が鋭くなる。貞光が渋い顔になった。
「なかなか強い鬼を従えてた奴だったよ。鬼の頭の名前は酒呑童子。こいつは毒酒を飲ませて首を斬った。首は平等院の宝蔵に納められたよ。手下の鬼も俺達が倒したが……」
「どうしたんです?」
「あいつが相手をした鬼が逃げた」
「え……」
御館様の目が驚きに開いた。藤虎も驚愕の顔をしている。
「名は茨木童子、だったか。片腕を落とされて、そのままどこかへ消えた。逃げ足の速い奴でな、居場所を掴めていない」
貞光が御館様を見据える。
「今日は警告に来たのもあるんだ。日が落ちたら、絶対にこの屋敷から出るな。ここが一番安全だろ。あの鬼が、間違ってお前を襲う可能性がある。復讐にな」
「全く、面倒な事を」
「あいつが逃すほどの強敵だったって事だ。今は足を負傷して治療中だよ。お前も強いし、タエちゃんがいるから大丈夫だろうが、念の為だ」
「御館様……」
藤虎が心配そうに彼を見る。
「分かりました。お話、ありがとうございました」
帰る前に、トイレを借りた貞光。戻る途中、寄り道をしてみれば、タエの後頭部が見えた。庭の縁側に腰かけていたのだ。
「お、タエちゃーん」
「! 貞光様」
タエは驚いたように振り返る。
「また会いたいと思ってたんだ。元気そうだな」
「ありがとうございます。私も会えてうれしいです。御館様とのお話は」
「終わったよ。もう帰る所。……タエちゃん、一つ、聞いて良いか?」
「何でしょう?」
貞光は真面目な顔になった。タエの隣にしゃがみ込む。
「タエちゃんはどういう経緯で、あいつの護衛になったんだい?」
「え……」
「いや、ちょっと気になって。妖怪に対する護衛だとは言ってたけど、詳しい話は聞いても答えてくれなくてよ。人付き合いが苦手なあいつが、タエちゃんを受け入れた理由が知りたくてね」
タエは目の前の彼が、本気で御館様を心配している事が見て取れた。すると、タエの部屋からハナがすっと出て来た。貞光を見据えている。その視線を感じ、彼も見れば、目が見開かれた。
「い、犬!?」
「見えるんですか?」
タエもその反応に驚いた。
「え、何、妖なのか!?」
身構えようとするが、タエがすぐに否定する。
「ハナさんは神獣です。私も神様に仕える身で、ある任務を受けてここにいます」
「タエちゃんは巫女だから分かるが、白いから神獣ってわけか?」
「元から白だが、毛色は関係ない」
「しゃべったぁ!」
貞光は声も大きく驚きを表した。しかし、さすが武人。すぐに落ち着きを取り戻し、状況を整理する。
「任務って言ってたね。それを聞いてもいいかい?」
タエははっとした。
(貴族に聞くチャンス!!)
「ある人を探してるんです。名前しか知らされていないんですが」
「ほう。俺の知ってる奴ならいいけど」
「“竜杏”という名前の人です」
「!!」
貞光が驚いた表情のまま固まった。しばらく何も言えなかったが、タエに問う。
「それ、あいつに聞いたか?」
「はい。一番に。御館様は、自分の知ってる竜杏て名前の人物は、もう死んだって……」
「そうか」
タエは彼の反応も、藤虎と同じものだろうと察した。
「私達は、御館様を狙う妖怪を倒して守る代わりに、この屋敷に置いてもらってるんです。ここを拠点にして、任務を全うできるように」
「なるほどねぇ……」
「貞光様は、他にこの名前の人をご存じないですか?」
「貞光さん」
全然違う方から声が飛んで来た。御館様が眉を寄せて近付いて来る。
「全然戻って来ないと思ったら、また口説いてたんですか」
「ちげーよ。今日は挨拶して、世間話をしてただけだってーの」
疑わし気な視線が向けられる。貞光は苦笑しながら立ち上がり、タエの頭をくしゃりと撫でた。
「ごめんよ。俺も他には知らねぇわ。じゃ、帰るよ。またね」
御館様の肩に腕を回して、廊下を歩きだす。
「あ、さようなら」
タエは遠ざかる背中に挨拶した。
「タエちゃんが探してる奴って――」
「聞いたんですか。忘れてください」
貞光は、御館様を見据えた。
「晴明の親戚ってのは嘘だろ」
「表向きはそう言ってるので、口外しないで下さいよ」
「分かったよ。まぁ、あの子がそいつを探して、どうしようとしてんのかは知らねぇけど。他にいんのかねぇ。竜杏ってヤツ」
「いるから探しに来てるんでしょ」
言い放つ御館様の言葉には、若干のトゲがあった。
馬屋で、借りていた馬二頭の手綱を貞光に渡す。
「馬、ありがとうございました」
「おうよ。馬、調達しろよ」
貞光は馬の一頭にまたがった。馬を返してもらうつもりだったので、行きは徒歩で来たのだ。そして、少し楽しそうな顔付きになった。
「で? お前ら、良い仲になったのか?」
「は?」
御館様の眉間に皺が寄る。
「ああ、巫女だから手は出せんかぁ。巫女って純潔を守るんだろ? 残念だったな」
「何言ってんですか。そんな事言ってる余裕があるなら、逃げた鬼を早く見つけてくださいよ」
「へいへい。じゃあな。また遊びに来るわ」
軽快な蹄の音を響かせながら、貞光は自分の屋敷へ戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、ため息をつく。
「まったくあの人は……」
御館様は今、変な感覚に陥っていた。タエが貞光と話している姿を見て、心臓がざわりと騒いだ。彼がタエの頭を撫でた事に、多少なりとも怒りのような、黒い感情が沸き上がって来たのだ。その正体が何なのか、御館様はまだ理解していなかったが、考え過ぎないよう、思考を振り払った。
読んでいただき、ありがとうございます!