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月夜の代行者  作者: うた
第三章
105/330

105 幸を成す

 あの後、晴明が呼んでいた都の兵士が到着し、上端と弓削を連行して行った。その前にタエ達は屋敷に戻る事になった。鬼の二人はその場にいない方が良いので、晴明が屋敷に戻るよう提言したのだ。御館様も、了解してくれた。親子はこのまま彼らの家に帰ろうとしたが、二人の体調が戻るまでは、屋敷にいるよう御館様が声をかけ、彼らも頷いた。


 屋敷に戻った一同は、それぞれの部屋に戻り、体を休める。ユキナリは千草と同じ部屋。御館様と藤虎が畳ベッドを用意し、ようやく親子そろってゆっくり眠れる事が出来た。ユキナリは最初、自分が畳の上で寝る事など、恐れ多くて出来ないと遠慮していたが、皆がここで休むよう言ったので、渋々従った。疲労が大きいので食事は明日の朝だ。彼には休息が必要だった。

「父さん、良かったね」

 千草が父の隣で横になり、手を出した。ユキナリは少し照れ臭そうに、その手を優しく握る。

「彼らに救われたのは、奇跡だ。またお前の側にいられるなんて」

「もう追われる事もないよ。ゆっくり休んでね」

「ああ」

 二人は、ようやく心静かに眠る事が出来た。




「いってて……」

 御館様の部屋にて。タエは痛みに顔を歪めていた。御館様はタエの額に軟膏薬を塗っている。

「派手に転んでたね。腕も切断されなくて良かったよ」

 ユキナリと戦っていた時に、腕を切られたのだ。右の上腕だった。血は既に止まっていたが、カーディガンに血がくっついていたので、脱いで、手当を受けた。足の裏も痛かった。靴を履かずに激しく戦ったので、靴下はボロボロ。足の裏はヒリヒリしていた。

 ハナは御館様の畳ベッドの上で寝ている。彼女も疲れたようだ。そこはハナの定位置らしく、御館様も同意している。しかし、代行者の仕事がまだあるので、しばらくすれば、また夜の京を駆けて行く。すっかり仲が良いハナと御館様。タエは羨ましいと思った。

「ホントですね。傷は浅いんで、すぐ治りますね」

 タエはへらっと笑っている。御館様は、笑えなかった。

「あんたは、いつもあんな戦いをしてるの?」

「えぇ、まぁ。御館様、すごく強いじゃないですか。ありがとうございました。助かりました」

「力になれて良かったよ」

 今夜は生身の体で戦ったのでイレギュラーだが、通常の代行者モードでの戦いは、こんなものだ。

「そんなに強いなら、護衛はいらなかったんじゃ?」

「変な術も使う奴を、ずっと相手に出来ないよ」

「確かにそうですね」

 彼の主張も納得だ。

「それより、そんな細い体で、よくユキナリの体を押さえたもんだよ」

 御館様がタエの左腕をぎゅっと握った。筋肉を押されると、鈍い痛みが走る。

「いだだだっ」

「筋肉疲労。明日は重いものは持たないように」

「はい……」

 彼はしっかり見ていたのだ。上端と弓削の前でユキナリを押さえた時、戦いの中で見たタエの力強さを感じなかった。彼女の力を出す前に押さえたので、体に負担がかかっていた事を。

「御館様は、ケガはありませんか?」

「俺は大丈夫」

「そうですか。手当、ありがとうございました」

 タエが笑顔で礼を言った。御館様も肩の力を抜く。そして、思っていた事を聞いてみた。


「タエ、あんたがさっき言ってた事だけど……」

「? 何でしょう?」

「命の重さは同じでも、魂の価値はそれぞれ違うって。他人が決める事じゃないって――」

 あの時のタエのセリフが、頭から離れない。

「ああ。あれは、私達がこれまで妖怪退治をしてきた中で、感じた事なんです。正しいかどうかは、分からないですけどね」

 堂々と言ったが、本質が違っていたら恥ずかしい。苦笑しながらも、タエは自分の思いや解釈を話して聞かせた。

「私、初めて倒した妖怪が鬼なんです。晶華――私の愛刀の名前ですけど。晶華で鬼の肉を斬り、骨を断ったあの時の重さと感触は、今でも覚えてます。絶対に忘れちゃいけないと思ってます」

 タエの妖怪との向き合い方を、初めて聞いた。

「命を斬るって、すごく重いんですよね。私は人を斬った事はないですけど、きっと、同じなんだろうなって」

 タエは続けた。

「妖怪の中には、話すと楽しいし、一緒に戦ってくれる頼もしい方が沢山います。御館様も、そんな彼らがいるって事を、知って欲しいですね」

 笑って見せた。

「人も同じです。良い人もいれば、悪い奴もいる。どの生き物でも、命は大切です。だから、命の重さは一緒だろうけど、その人の魂や命の質って言うんですかね。それが違うんだろうなぁって、思うようになりました。生き方とか、考え方もそれぞれ違いますもんね」

 御館様は、タエの思考に驚いていた。まだ幼さが見える彼女が、魂や命について自分なりに解釈し、理解している。

「魂の質……」

 御館様が呟いた。頷くタエ。

「質を保つのは、その人の努力や行動次第だと思うんですよ。誰かを傷付けようとすれば、魂の質が落ちる。質っていうのが価値って事に繋がるかなと。私達も、尊くて、質の高い魂でいたいですよね」

 ふぅ、とたくさん話してタエが呼吸を整える。それを見た御館様が言った。

「タエは、神の使いなんだから、魂の価値は高いでしょ」

「そんな事ないですよ。家の台所に嫌な虫が出たら、殲滅してるし。今夜は初めて人を思いっきり殴りました」

「有言実行したね。ハナ殿も」

 あれは御館様を始めとする、全員が驚いていた。

「本当に真っ白な魂でいられる事って難しいですけど、人として全うに生きれば、その人の価値はちゃんと高いものになると思います。あとは、その価値を、自分でちゃんと認めてあげれば」

「自分で、認める?」

「人に認められるより、まず自分で自分を認めて、好きになってあげないと可哀想ですよね」

 御館様は、新鮮な気持ちだった。そんな事を言う者を、見た事がなかったからだ。自分を好きになるという話も、頭をがんと殴られた感覚になる。

「俺は……自分の事が好きじゃない」

 言葉が口を突いて出ていた。

「こんな体質の自分を、認めた事がない」

 タエは、御館様を見た。俯いている。彼の今までの様子を見ていれば、理解できる。しかし、その生き方も、否定出来ない。その生き方だったからこそ、彼は手に入れたモノがあるのだ。

「御館様は強いですよ。剣の腕も、心も。医学を独学で学んで、良く効く薬を作ってくれたじゃないですか。私は御館様のおかげで、体が良くなりましたよ。御館様は凄い人なんですから、ちゃんと認めてあげてください。まずは、自分を好きになりましょ。気持ちが変われば、生きる事もきっと楽しくなりますよ」

「……」

 御館様は何も言えず、タエをじっと見つめた。見られたタエは内心ドキドキしていたが、誤魔化すようにへらりと笑う。途端に御館様は、一気に顔が真っ赤になった。ばっと顔を背ける。

「まぁまぁ、照れないで」

「てっ、照れてないっ」

 右手で顔を覆って隠したが、赤い耳は隠れていない。いつも表情が変わらない彼が、ここまで感情を出したのを見て、タエは嬉しくなる。顔がますます緩んでしまった。

「へらへらしないの」

 左手がタエの頬をつねる。全然痛くない。その優しさも、タエを笑顔にさせるだけだ。

「ふひひひ」

「笑い方が気持ち悪い」

 御館様の心臓は、ばくばく激しく音を立てていた。こんなに真っ直ぐな言葉が、心に刺さった事がなかったからだ。ずっと自分を卑下してきた。自分は何の価値もない人間なのだと思っていた。晴明や貞光が友となり、親しく接してくれたが、心のどこかで自分はこの者達のように光の中を歩く事は出来ないと考えていた。

 しかし、それが目の前に座るタエの言葉で、世界が一変するような感覚に襲われる。自分も、光の方へ歩いてもいいのだろうかと、少し思えた。タエやハナと一緒にいると、心が軽くなる心地がする。御館様は、それを自覚した。


 穏やかな空気が流れる。二人とも疲れて眠いはずなのに、この空間の居心地が良い。そうして夜は更けていった。





「ごちそうさまでした」

「とても美味かった」

 千草とユキナリの部屋へ、朝餉の膳を取りに行ったタエ。二人とも全て食べてくれ、顔色が良い。ゆっくり休めて、少し体調が戻って来たようだ。

「今日も、ここでゆっくりしてくださいね」

「いや、そこまで甘えるのは申し訳ない。すぐにでも出て行く」

「ダメです! 二人とも、まだ背中の火傷が治ってないでしょ。行きたいなら、傷がちゃんと治ってからにしてください!」

 ユキナリの言葉をばっさり切ったタエ。二人はタエに負けた。

「ユキナリさん、私が斬った横っ腹の傷はどうですか?」

「う……あぁ、平気」

「じゃないですよね。晴明さんに相談しますから、ここでゆっくりしてくださいよ」

「……はい」

 ユキナリの言葉を遮ったタエ。タエは二人分の膳を重ねて乗せ、よいしょと立ち上がった。

「タエ、俺が言った事、守ってないでしょ」

「お、御館様!?」

 タエが張り切ってないか、様子を見にいきなり現れた御館様。重いものを持つのは禁止。昨夜、そう言われた。タエも覚えている。

「これくらい持てますよ。そんなに重くないですよ?」

「治りが遅れる。まったく。ユキナリ、千草。俺達の部屋以外は、屋敷の中を自由に歩き回っていいから。好きにしてなよ」

 母親の小言のようだ。御館様はタエの手から膳を引ったくると、言いたい事だけ言って、スタスタ持って行ってしまった。

「タエさん、私もお手伝いするわ」

 千草が台所に行こうとしたので、タエが止める。

「いんや、御館様達に任せましょう。何かあれば言ってくるでしょ。千草さんは、ユキナリさんに着いててあげて」

 タエも気楽に笑い、部屋を出た。ユキナリと千草は、他の貴族の家にはない、この屋敷の温かい空気を感じて、微笑み合った。




「お庭に水をー与えましょー」

 ばしゃー。庭に一人、タエが立っており、晶華から神水を庭にまいている。昨夜の戦闘の影響か、瘴気が庭に漂っていたのだ。他の妖怪を呼びこまないように、タエが庭の浄化をする事になった。最初は神水の小瓶でパシャパシャやっていたのだが、やたら広い庭なので埒が明かず、晶華で一気に撒き散らす事にしたのだ。その様子を、ハナ、御館様、ユキナリ、千草の順番に、縁側に座って見ていた。藤虎はお茶を持ってハナの側に控える。皆で晴明が来るのを待っているのだ。

「タエ様一人で、本当にいいのだろうか……」

 ユキナリは、どうにも落ち着かない。自分のせいで瘴気がもくもくしているのに、何もせず見ているだけでいいのか、不安になっている。

「良いよ。無になってるみたいだし、そっとしておこう」

 タエは無表情で、ひたすら神水をまいている。たまにくるくる回って、踊りながら晶華を振り回していた。

「タエ様は、御館様の」

「違う」

 ユキナリの言葉を遮る御館様。何となく、言わずにはいられなかった。

「えっ、奥方様じゃないんですか!?」

 千草が全て言ってしまった。ユキナリの言葉を遮った意味がない。御館様は、渋い顔だ。

「タエとハナ殿は俺の護衛。それだけ」

「えぇ、あんなに素敵な方なのに」

 千草は心底残念そうな顔をした。御館様は眉を寄せている。

「妖怪を両断して、人間を殴るような子だよ」

 苦し紛れに言ってみた。ユキナリは苦笑している。

「神の使いなのだから、戦って当然だ。昨夜の事は、俺達の為に怒ってくれたのだ。俺が謝る。すまない。あの子に殴らせてしまった」

「責めてる訳じゃない。皆の気持ちは、よく分かってるよ」

 タエは、誰かの為に本気で怒れる娘だ。タエとハナが上端と弓削を殴って、自分もスッキリした事は覚えている。御館様が悪口を言われた時も、彼女は普通に怒っていた。

(タエは、優しい。それも、よく分かってる)

 ずき……。心臓が少し、痛くなった。どうして痛いのか、よく分からない。御館様は気付かないフリをした。

「おわったーーい!」

 タエの元気な声が聞こえたので、御館様も、タエを見た。




「上端は裁かれる。余罪があるから、調べが進み次第、家は取り潰し。弓削は力を封印した。それから陰陽寮を追放。二人は流刑になるだろう。弓削に白状させたが、やはり、裏で蘆屋道満が関わっていた。ユキナリを縛る術を教えたのは、奴だ。流刑になっていたはずだが、秘密裏に京へ戻っているらしい」

 晴明が屋敷に到着し、連行された後の話を聞いた。牢に入れられ、厳しい取り調べを受ける事になる。そして、陰陽寮は大騒ぎになっているという。

「二人が操っていた鬼は、私が滅したという事にした。奴らが何を言っても、誰も信じまい。もう完全に、そなた達は自由だ」

 ユキナリ、千草は、ホッと胸を撫でおろし、晴明に何度も頭を下げた。

「良かったね」

 千草の後ろで話を聞いていたタエも、笑顔になる。千草がうんと頷いた。

「ユキナリ、そなたの体の事なのだが、はっきり伝えておいた方がいいだろう」

 真剣な眼差しになった晴明は、彼を見た。

「強い呪いの術を受け続けたそなたの体は、ボロボロになっている。術に抵抗していたから、余計にな。魂にも影響しているのだ」

 そんな、と千草が小さく悲鳴を上げた。しかし、本人は納得の表情をしている。

「そんな気はしていた。力が入りにくいと思っていたんだが、やはり、そうだったか」

「ああ。体の調子は治してやれるが、魂の損傷までは治せない。通常の鬼のように、長くは生きられないだろう」

 晴明は正直に言った。これは、ユキナリの為だと言う事は、全員よく分かっていた。ユキナリ本人は、微笑み、礼を言った。

「ありがとう。それを聞いてホッとした。残りの命は、千草の為に使おうと思う」

「そうしてやりなさい」

 晴明も満足そうに頷いた。千草は涙を拭っていた。

「ユキナリ、その名は誰に付けてもらった?」

 話が変わったように切り出した。晴明の問いに、ユキナリが答える。

「妻だ。どんな意味だったかは、忘れてしまったが……」

 タエはそれを聞いて、うーん、と考えた。

「奥方と、人間を喰らわぬよう約束も交わしたのだな?」

「ああ。正しくは、人間を傷付けないという約束だ」

「なるほど。では、何故そなたは鬼の身でありながら、干渉せずとも現世に触れられるのだ?」

 タエも不思議だった。千草は半分人間なので理解できる。しかし、純粋な鬼のユキナリは、御館様達も普通に触れているのだ。

「それは、妻と俺で神に祈ったら、それを聞き届けてもらえた」

 千草は初めて聞いた事だったらしく、目を瞠っていた。

「ほう。今までの行いを悔い、人間を傷付けず、妻や家族を守るという誓いの元でだな?」

「そうだ」

 ユキナリは、力強く頷いた。

「そうか。よく分かった。我らは、奥方に救われたな」

 晴明の言葉に、全員がえ? となった。

「妖怪に名を付けるという事が、どういう事か知っているか?」

 晴明がタエを見た。

「確か、妖怪に名前を付ければ、名付け親と絆が出来る……って、ハナさん言ってたっけ?」

 ハナに話を振った。話を引き継ぐ。

「妖怪にとっては、主従関係を築く事になる。名付けた者の命令や指示は、絶対に従わなくてはならない。名付け親が死んだとしても、その名を自分と認識する限り、その絆がなくなる事はない」

「満点だ」

 学校の先生のように、ハナの回答を聞いて頷いた晴明。

「弓削の最大の誤算は、そなた達が既に名を持っていたという事だ」

「え……?」

 ユキナリと千草は驚いた表情を見せた。

「奴は、二人に名を付けて魂から支配しようと考えていた。しかし、既に名が付いていた。しかも、神に誓いを立てており、彼の魂と意思は異常に強い。だから、呪術でユキナリを縛り、千草を質に取ったと言うわけだ。ユキナリが完全に支配されておれば、京は本当に危なかったかもしれん」

「母さん……」

 千草はこらえきれず、涙を流していた。ユキナリも、俯いている。妻として、母親としての愛が、二人を救う事にもつながったのだ。

(やっぱり母親って、凄いな)

 タエは切なくなったが、心は温かかった。



 報告が終わり、晴明は、ユキナリと千草を術で治療してくれた。タエが斬った傷も癒え、火傷もほぼ治っていたので、傷を消し、体の中の調子を整える。二人の回復は、あと少しで完了となった。用事も終わったので、晴明は帰路へ。全員でお見送りだ。

「こんなに見送られると、気恥ずかしいな」

「本当に、ありがとうございました」

 ユキナリ、千草が深々と礼をする。今日一日養生し、明日旅立っても良いと晴明からお達しが出た。

「困った事があれば、いつでも来なさい」

 二人にそう告げると、晴明は屋敷へと戻って行った。


 皆が中に入り、それぞれ、自分の時間を潰そうと部屋へ向かっている所へ、タエが御館様を呼び止めた。

「御館様、ちょっとお願いがあるんですけど」

「?」





 翌日。屋敷の門にて。

 ユキナリと千草が旅立つ時が来た。もうすっかり体力も戻り、二人の体形も肉付き良く、元に戻った。そして、キレイな着物に身を包んでいる。元の住んでいた家に戻り、一番に奥さんを供養したいのだと、彼らは言った。

「こんなにしてもらって、何と御礼を言えば……」

 ユキナリは言葉を失っている。外見まですっかり変わってしまっているのだ。

「晴明さんって、本当にすごい人やね」

 タエは感心していた。二人は鬼の角と牙を抜いてもらったのだ。昨日、体の治療を受けた時に、もう狙われなくても済むように、鬼の象徴を失くす道を選んだ。ユキナリは、鬼として生きたかったが、千草と穏やかに余生を過ごす為、晴明の提案を呑んだ。伸びた髪の毛を後ろにくくると、彫りの深い、端正な顔立ちがしっかり見え、とても男前だった。

「もう人にしか見えない」

 御館様も腕を組んで唸っていた。しかし彼らは、完全に人間になったわけではなかった。太陽の下にいるが、死ぬ事はない。妖の力は軽減されても、動けない事はないのだ。

「大切なモノを守る時だけ、鬼の力が出るようにしてもらったので、助かります」

 千草も、額の角と牙を抜き、ただの美女になっている。

「京の男が放っておかないんじゃない?」

「そんな事ないわよ」

 タエの言葉に、千草は照れた。ユキナリの心情は、穏やかではない。

「じゃあ、これも持って行って下され」

 藤虎が、千草に風呂敷に包んだ荷物を渡した。けっこう大きいが、鬼の血が半分入る千草は軽々持っている。

「これは?」

「弁当です。腹が減っては旅も出来ませんからな。日持ちする食糧や、手拭い、足袋と草履の替え、着物も何着か入れました。どうぞ、使って下さい」

「何から何まで、ありがとうございます」

 美人に礼を言われた藤虎は、顔を赤くした。

「ユキナリさん、これをどうぞ」

「?」

 タエは、彼に一枚の小さな紙きれを渡した。そこには“幸成”と書いてある。それを見て、彼の目が大きく開いた。

「間違ってたらごめんなさい。ユキナリさん、名前の意味を忘れたって言ってたので、どの字かなって、考えてたんです」

「……これだ。見覚えがある! タエ様、どうして――」

「あぁ、良かった! 他の字だったらどうしようかって、いろいろ考えてたんです」

 御館様が、両手に数枚の紙を出して見せた。行成、幸也、之也など、様々なユキナリを書いていたのだ。タエが御館様に頼んでいたのは、この字を紙に書いて欲しいというお願いだった。

「いきなり頼み事なんて、何かと思ったよ」

「私、筆で書くの苦手なんで」

 あはは、と笑って誤魔化す。

「奥さんの気持ちになって考えると、その字が一番しっくりきたんです。“さちす”。幸せになって欲しいって、想いを籠めたんでしょうね」



――あなたの名前は幸成ね。こういう字よ。もう人を傷付けたりしないで。私が側にいるから。幸せになりましょう――



「ああ……そうだ。どうして忘れたんだろう……」

 呪いのせいで、記憶も混乱していたのかもしれない。ようやく、本当の自分に戻れた幸成は、タエの手を握った。

「タエ様、御館様、ありがとうございます」

 幸成が涙を目に溜めて、礼を言った。タエは柔らかく笑みを浮かべ、御館様は頷いた。

「幸せでいて下さいね」

「はい」

「千草さんもね!」

「タエさんっ」

 千草は、タエに抱き着いていた。タエも腕を背中に回す。

「何度言っても言い足りない! 本当にありがとう。何か、恩を返せればいいんだけど……」

「二人が幸せになってくれれば、それで十分やから気にしんといて。元気でね。困った事があったら、貴船神社の高龗神様を訪ねて。力になってくれるから」

「うん」

 千草が泣きながら頷いた。

「幸成、うちの門は開けておく。いつでも来ればいいよ。遠慮はいらない」

 御館様も、彼らに心を開いたようだ。幸成は、もう一度頭を下げた。

「それでは、お世話になりました」

「この御恩は、絶対に忘れません!」

 二人が見えなくなるまで見送った。見えなくなっても、まだその場から皆、動かずにいた。

 タエは門の柱を見る。

(ここで会ったんだよな)

 怯えながらも助けて欲しいと言った千草。あの面影は、もうない。

「タエ」

「っ、はい?」

 いきなり御館様に呼ばれ、びっくりしたタエ。

「俺は視野が狭かったよ。あんな鬼も、いたんだな……」

「御館様も、一つ成長しましたね!」

 にっと笑いながら、タエが茶化す。御館様は、ムッと眉間に皺が寄った。


「生意気」

「わっ」


 御館様は、タエにデコピンをして、屋敷の中へ入って行った。藤虎も、ハナも彼に続いて入って行く。ハナはタエの様子を見て、首を傾げた。

「お姉ちゃん、どうしたの? デコピン、痛かった?」

「ううん。何でもないっ」

 額を押さえるタエ。そこまで痛くなかった。ただ、タエの顔が赤かったのだ。


(あの顔は……反則でしょ……)


 タエは御館様の一瞬の表情が、目に焼き付いて離れなくなっていた。



 デコピンをしてから門をくぐる直前、彼はタエを見て、優しく笑ったのだ。


読んでいただき、ありがとうございます!

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