102 千草
「私の名前は、千草、と申します」
鬼の娘、千草は、味噌汁以外にも、少し食事を腹に入れる事が出来た。飢餓状態で小さくなった胃袋を、これから少しずつ回復させていく。残りはタエがたいらげた。千草の気持ちも落ち着き、少しなら話せるかと御館様達を呼ぶ。そうして、皆で名乗りあった。
「助けていただき、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
「礼はタエに。俺は最初、あんたを助ける事を反対したから」
御館様は正直に言った。千草は首をゆるゆると横に振る。
「それでも、皆さんが助けてくれた事に変わりはありません」
まだ少しぎこちない動きで微笑む。やはり体調が戻れば、絶対に美人だとタエは思った。
「それじゃあ、少し質問する。あんたはどこから逃げて来たの?」
御館様の質問に、千草の顔は暗い影を落とした。
「誰なのか、ちゃんとした名前は分かりません……。でも、貴族の屋敷で、私達を捕えたのは、頬に火傷の痕か、あざのようなものがありました」
「頬に傷かあざ、ねぇ」
御館様が顎に手をやり、ふむ、と唸った。
「今、『私達』って言ったけど、まだ捕まってる鬼がいるの?」
「はい……。私の父です」
千草はぎゅっと、膝にかけている着物を握った。
「捕まって、どうしてた?」
「私は元々病弱で、捕らえられてすぐ、治療をしてやるからと、父と離されました。実際は、屋敷の奥に閉じ込められ、治療はおろか、食事や水一滴も与えられずに……」
「ひどい!」
たまらずタエが声を上げた。そのせいでここまで痩せてしまったのだと理解し、タエだけでなく、この場の全員がその貴族に怒りを覚えた。
「父上は?」
御館様は冷静に問う。千草は涙が溢れていた。
「父は……望まない殺しや盗みを、させられているそうです……。見張りの人間が話しているのを、聞きました。京の都が、混乱しているって」
「えっ、それって――!」
タエがハナと目を合わせた。
「晴明が、あんたが『全ての鍵になる』って言ってた。あんたの父上の正体を聞いてもいい? 両親のどっちが人間?」
仕草は涙を拭い、御館様の目をしっかり見て言った。
「父は……、鬼です……」
千草は疲れの色を見せたので、体力回復の為に再び眠りについた。タエは彼女が眠った事を確認し、御館様の部屋に入った。藤虎もいる。
「鬼に殺しと盗みをさせる貴族とはな。その後ろに陰陽師もいる」
御館様は腕組みをしていた。
「陰陽師って、蘆屋道満、ですか?」
タエの質問に、彼は首を横に振った。
「分からない。陰陽師はけっこう数がいるんだ。証拠がない限り、特定は出来ない」
「人間が鬼を使うなど、考えた事もありませんでした」
藤虎は、ショックを受けている。
「晴明の使役とは違う。呪いで無理やり従わせているんだ。気分が悪い」
「千草は人質、ならぬ鬼質ですな。娘の為に、父親は従わざるを得ない」
「ああ」
御館様は嫌悪感を隠さず、顔をしかめる。
「タエ、ハナ殿。あんた達は、千草の父親の対処、どう考える?」
「えっ」
タエは昨晩の事を思い出していた。ハナは、言いにくそうに口を開く。
「御館様、実は……私、その鬼と戦った事がある」
「えぇ!?」
叫んだのは藤虎だった。
「いつ?」
御館様も驚いている。
「一昨日。情報収集に出てた時」
「明け方戻って来た時か」
ハナは頷いた。
「間違いなくあの鬼だと思う。強かった。纏う妖気が他とは違ってて。戦いが長引けば、どうなってたか、分からない」
「倒すしかないのでしょうか」
藤虎は不安そうだ。御館様も眉を寄せている。
「人を殺してるんだ。血の味を知ってるなら、もう討ち取るしか――」
「待ってください!」
彼の言葉を遮ったのはタエだ。御館様はタエを怪訝そうに見た。
「何か知ってるの?」
タエが昨晩、鬼と戦った時の事はまだ言えない。代行者の仕事の事は、まだ二人には言っていないのだ。タエは、思考回路を必死に回転させた。
「陰陽師の術で無理やり従わせているなら、千草さんみたいに解放してあげればいいんじゃないですか?」
「人を殺してるんだぞ」
「えっと、えっと……」
御館様の睨みを受けながら、タエは一つの可能性に思い至る。
「美鬼さん! 美鬼さんがいるじゃないですか。昔は人を魅了して喰らってたって、晴明さんが言ってました。本人に反省の気持ちがあるなら、まだ希望はありますよ。お父さんを千草さんの所に、返してあげられます」
その言葉に、御館様は珍しいものを見る眼差しでタエを見た。
「あんた……、本気であの親子を救うつもりなの?」
「望みがあるなら、それに賭けたいです。それより私は、千草さん達を苦しめてる、その貴族と陰陽師をぶん殴ってやりたいです」
御館様と藤虎は目を丸くした。ハナは吹き出している。タエは右手に拳を握り、開いた左手にパシンと打ち付ける。
「殴るだけじゃ物足りないですけど」
「タエ……、本当に、この時代の女じゃないね」
半ば呆れたように笑う御館様。藤虎も苦笑していた。
昼ご飯も、千草は一生懸命食べた。半分鬼の性質なので、回復が早い。食事量が大分増えたので、タエ達はホッとした。タエも千草と一緒に食べている。
「食欲が戻ってきたら、体調もすぐに戻ってくるね」
「本当に、私は運が良かったわ」
千草はタエと会話する時は、友達のように気さくに話す。タエも、千草の方が年上だが敬語はやめて欲しいと言われ、ため口で話す事になった。
食事前に、傷に薬を塗り直した。御館様に薬をもらい、指と背中を中心に、体中にある傷全ての手当てをし直す。男性は、女性に触れる事は失礼にあたるので、タエが一人で包帯を巻き直した。不慣れな部分もあったが、千草は笑顔で大丈夫だと言ってくれる。
「タエさん。やっぱり父は……討たれるしかないのかしら……」
千草が不安そうに言った。タエはごちそう様と箸を置き、言葉を選んだ。
「御館様達とも話した。今は何とも言えないの。貴族と陰陽師の事も、突き止めないといけないし。私達は、お父さんは絶対に討たなきゃいけないとは考えてない。全部の可能性を考えてるからね」
「うん」
「今、千草さんがしなくちゃいけないのは、しっかり食べて、元気になる事やよ」
頷き、千草はご飯を口に入れた。
タエが二人分の食後の膳を、台所に持って行った所だった。廊下を歩いていると頭がくらりと揺れたのだ。食器を持っていたので、タエは気を付けながら運んだが、膳を藤虎に渡した時、それは起こった。
「あ、れ?」
タエの視界が回りだしたのだ。立っていられなくなり、タエは廊下で派手な音を立てながら倒れた。
「タ、タエ様!?」
慌てて藤虎が駆け寄ってくるが、タエは返事をする事もなく、気を失った。
意識が浮上し、視界が明るくなる。タエがゆっくりと目を開けた。外の光が瞳にも入り、眩しい。最初に目に入ったのは、天井だった。見覚えがある、自分の部屋。自分がどうなったのか思い直す。
「私……」
「目を回して倒れたんだよ。まったく、看病する人間が看病されて、どうするの」
タエの視界に、御館様が顔を覗かせた。まだぼんやりする頭のまま、タエは御館様を見つめる。
「すいませ……」
「こっちの時代に来てから、ずっと気を張って来た反動が出たのかもね。ハナ殿も言ってた」
そういえば、ハナがちゃんと休めと言っていたと、今更ながら思い出した。
「御館様、ずっとここにいてくれたんですか?」
彼は一瞬目を丸くすると、眉を寄せて腕組みした。
「あんたがいつ起きるか分からないし、ここにいるしかなかったんだよ」
面倒くさそうに言うので、タエは苦笑した。
「すいません。もう大丈夫です」
自分が思っていた以上に疲れていたらしい。タエはゆっくり起き上がろうとする。御館様が背中を支えてくれたので、タエはどくっと心臓が鳴った。
(触れてる所、めちゃくちゃ熱い……)
「ありがとうございます」
タエは動揺を隠すように、へらっと笑う。まだ触れられている御館様の手を、つい意識してしまった。
「手、出して」
「手?」
言われた通りに右手を前に出すと、御館様がタエの手に触れた。
(なっ!?)
髪の毛が逆立ちそうになりながらも、平静を装う。彼はタエの手を手のひらが上にくるように回し、手首に彼の右手人差指、中指の腹を当てた。それを見て、タエは合点がいく。
(脈を取ってるんだ)
「……脈が速い」
タエはやばいと笑ってみた。
「何するのかと緊張しちゃいまして……。あはは」
「脈診だよ。深呼吸して」
脈の速さや深さ、鼓動のリズムを感じ取り、その人の容態を診断する方法だ。タエは深く息をして、心を落ち着ける。しばらく脈を診て、今度はタエの額に触れた。タエは固まるしかなかった。体中の毛穴が開きそうな勢いだ。
「熱もないな」
「お医者さんの知識があるんですね」
若干緊張しながら、タエは尋ねた。
「そこまで威張れるもんじゃない。妖怪の瘴気に当てられて寝込んだ事があったから、自分で対処できないか、医術を学んだだけだ。晴明に教えてもらったり、あとは独学だけど」
「独学で!? 凄すぎます!」
「!」
タエが声を上げたので、御館様は目を丸くして彼女を見た。
「別に、生きるのに必要だっただけ」
「それでも、なかなか出来る事じゃないですって! めちゃくちゃ頭いいんですね」
もはや尊敬の眼差しだ。そこで、タエはある事に気付く。
「ん? べんきょう……って、あぁ!」
「……何?」
怪訝そうな視線を送る御館様。タエは笑って誤魔化した。
(やばい、すっかり忘れてた)
学校の宿題が残っていたのだ。
御館様は特に気にする事なく、椀を一つ、差し出した。
「ほら、これ飲んで」
渡されたものの中は、何やら茶色の液体が入っている。香りがつんと鼻をつき、決して美味しいとは思えないだろうという事は、瞬時に理解した。無言で御館様を見る。
「疲労回復に効く煎じ薬。滋養も補ってくれる」
「薬って、御館様が調合してくれたんですか?」
彼の部屋の方を向けば、襖が全開だ。棚にはたくさんの本と白い袋がたくさん置いてある。漂う香りであれが薬だろうという事は、すぐに分かった。時代劇を見てたので、似たような物を知っている。いわゆる漢方だ。西洋医学はまだ平安時代にはない。
「……そうだけど。嫌なら飲まなくても」
「いただきますっっ!」
意を決して液体を喉に流し込む。が、手が震えた。
「に、にっが……」
目に涙が。御館様はタエの反応をまじまじと見ていた。
「涙、溜まってる」
「にがすぎです……」
うぅ、と身震いするが、椀は落とさない。タエは目をつぶり、一気に飲み干した。
(出しちゃダメ、絶対ダメーー!!)
口を押さえ、体が薬を受け付けるまでじっと固まった。そして数秒後、はぁ、と息を吐き、顔を上げる。
「もうちょっと、おいしくできません?」
「苦いのが薬でしょ。“良薬口に苦し”って言葉、知らない?」
「この時代からあったんですね。その言葉」
「話せる元気があれば、大丈夫だろう。もう少し、ゆっくりしてなよ」
そこでタエは気付いた。
「私、どれくらい寝てました? 千草さんは」
「彼女も寝てる。今、ハナ殿が見てくれてるよ」
「そうですか」
後でハナに礼を言わねばと思っていると、御館様は一枚の皿をタエの前に置いた。それは、白やピンクの色をしており、紅葉や菊など、花や模様を型取った物だ。途端にタエの顔が一変する。
「これって、落雁!?」
お皿を手に、目が輝いている。
「口直しに甘いものと思って。これ、好きなの?」
「落雁、大好きです。いいんですか!? いっただきまーす! んーー♪ おいしいーー」
とろけるような笑顔に、御館様が吹き出した。
「百面相」
「いいんですー。はぁ~、最高!」
もう一つ口に入れる。砂糖の甘い味が口いっぱいに広がる幸せに、タエは浸っていた。
「じゃ、大人しくしてるんだよ」
「はい。ありがとうございます」
御館様は椀を持ち、部屋から出て行った。障子が閉められ、彼の気配が遠ざかって行く。タエは彼との部屋の境界になっている襖を見た。開けられた襖のように、彼の心もタエに開いてくれたのだろうか。だったらいいなと素直に思ったタエだった。
タエの部屋を出て、廊下を歩く御館様。椀を台所に持って行く所だ。しかし、彼の頭の中は、先ほどのタエの反応でいっぱいだった。真っ直ぐな眼差しで、凄いと褒められた。誰かに褒められるという事がほとんどなかった彼は、タエの言葉とあの視線に、心臓がざわざわと騒がしくなっていた。
(あんな素直に、まっすぐ褒められると……。何か、どうしたらいいのか分からない)
頭を振り、余計なことは考えないでおこうと、椀に視線を落とした。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
しばらくすると、ハナが顔を出した。
「心配かけてごめん、ハナさん」
「仕事の後バタバタしてたし、ちゃんと休めなかったもんね」
「ハナさんが初仕事の後に、休んでた理由がよーく分かりました」
この時代に漂う妖気の濃さに、体がまだ慣れていなかったのだ。タエはいつも通りに動いていたので、知らずに疲労が溜まり、爆発してしまった。
「だいたい一回休めば、体が慣れるしもう平気のはず」
「そっか。今日は静かにしなあかん日やったんやねぇ」
千草の件で、気持ちに余裕がなかった事もある。それでもタエに後悔はない。休養と煎じ薬のおかげで、体も軽くなり再び動けるようになると、千草の様子を見、傷の手当をしたり、体を拭いてあげたりした。
夜。今夜の代行者の仕事はハナだ。情報収集という名目で、屋敷を出る。タエは千草が寝ると、御館様の部屋に入った。文机を持って。
「私も、勉強します」
「……すれば?」
妙に意気込んで来たので、御館様は少し引いていた。燭台も持ってきて火を灯すと、部屋の明るさが増した。タエは高校の宿題を広げ、もくもくと勉強を始める。
「千草は?」
「もう寝ました。何かあれば、私を呼んでって言ってます。何回か様子は見に行きますけどね」
こんなに温かい場所で寝られるなんて久しぶりだと、笑みをこぼしていた千草。顔色もだいぶ良くなってきたので、タエも安心している。
「そう。……で、それ何?」
御館様は、タエの手元を凝視している。
「学校の宿題です」
「がっこう、って何?」
「へ? あ、学校って言わないんだ。えーと、寺子屋? 勉強を先生から教えてもらう施設の事です」
「勉強って、女も学ぶの?」
御館様は驚きの顔になっていた。
「はい。男女平等に、いろいろ勉強しますよ。この時代は男の人だけですっけ?」
「基本はそうだ。貴族の女は文字の読み書きと歌、礼儀作法は学ぶ。未来は男女平等か」
少しだけ、自分の知らない未来の話を聞き、感慨深そうに頷いた。
「その課題がまだちょっと残ってるんですよねぇ」
「へぇ」
御館様が相槌を打った時だった。
ズン……。
屋敷の空気が一瞬にして重くなる感覚に襲われる。タエと御館様は、鳥肌が立った。タエが晶華を手に、障子を開け、庭を見る。
「あれは……」
御館様も驚いていた。
「まさかここに来るなんて。京を騒がせてる鬼です。千草さんの……お父さん」
黒い瘴気を出しながら、屋敷の庭に立つ千草の父親は、赤く目を血走らせ、タエと御館様を見据えていた。
読んでいただき、ありがとうございました!