101 鬼の娘
「これはこれは」
晴明は楽しそうな声を出した。屋敷に到着した晴明は、タエと鬼がいる部屋へと通される。藤虎は朝餉の準備に戻った。
「晴明さん、来てくれてありがとうございます」
タエが礼を言った。すぐ隣に彼が腰を下ろす。
「まさかこの屋敷に、鬼を連れ込むとはね」
「御館様の気持ちを無視して、申し訳ないです」
タエがぼそぼそと告げた。
「私に詫びなくてもよい。それは本人に言ってやりなさい」
「はい……」
しゅんとするタエを見て、晴明はふっと笑うと、戸口へ声をかけた。
「若、タエは自分のした事を、十分に理解している。現実をしかと見なさい。責めても状況は変わらない」
「別に責めてるわけじゃない……」
こちらもぼそりと聞こえた。タエは、御館様が廊下にいた事に気付かなかったので、驚いていた。
「この鬼について、若にも説明が必要だ。こちらへ来なさい」
晴明の言葉に、おずおずと姿を見せた御館様。タエの心臓がずきりと重くなる。彼はまだ疑いの目を、こちらに向けていたのだ。部屋に入ってすぐの所に腰を下ろした。ハナも側に控える。
「では、見せてもらおうか」
鬼はうつ伏せのまま寝かせていた。藤虎から、鬼が陰陽師に術をかけられていると聞いた晴明。躊躇うことなく、娘の背中を露わにさせた。
「ほう」
晴明は全てを察した様子で、五芒星が真ん中に描かれた札を一枚取り出すと、背中の紋様の上にかざした。
「解呪、救急如律令」
短く呪文を唱えると、娘を苦しめていた紋様は、晴明の札に吸収され、火傷の痕を残して消えてしまった。彼が持つ札は、不気味な柄になっている。それほどまでに邪悪な術だったのだと、見るからに明らかだった。
「これで、この娘を苦しめるものはなくなった」
「ありがとうございました」
タエもホッと胸を撫でおろす。着物を直し、掛布団代わりの着物も上からかけてやる。ずっとうつ伏せもしんどいので、横向きにしてあげた。まだ火傷の痕があるので、仰向けは無理だ。娘の表情も安らかなものに変わり、眠っている。
「この術を行った人って、またこの鬼に何かしてくるんでしょうか?」
「ここにいれば何もないはずだ。ここには神の使いが二人もいるからな」
彼は、タエとハナの力を認めてくれている。二人は、彼の期待にも応えたいと思った。
「明け方、騒がしかったのを知っているか?」
晴明が御館様に問うた。彼は眠っていたので知らなかったが、タエはその目で見ている。
「どこぞの屋敷から鬼が逃げたらしい」
その場の全員が娘を見た。
「そう。この娘で間違いないだろうな」
晴明が腕を組んだ。
「屋敷から逃げたって、どういう事?」
御館様が眉を寄せた。
「さぁて。詳しい事は分からん。ただ、都の兵士に頼らない所を見るに、鬼を捕えていた事は、公にはしたくないのだろう」
(晴明さん、実は全部知ってるんじゃない?)
タエが密かに考えていると、晴明がタエをちらりと見て、ふっと笑った。固まるタエ。
「まだ公になってないの?」
晴明は頷いた。
「日が昇れば、捜索隊は戻って行った。この娘が暴れたとなれば騒ぎになっていたが、ここへ真っ直ぐ来たのだろう。ここまで弱って、可哀想に」
娘の手を取った晴明。細い腕は、少し力を入れれば折れてしまいそうだ。御館様は、晴明の行動に驚きを隠せない。
「晴明、鬼にも邪悪でない者がいるのか?」
この質問をせざるを得なかった。晴明の瞳が、御館様を映す。
「若の周りには、邪悪な者しかいなかったからな。そう思うのも当然。若は、この者をどう見る?」
「え……」
御館様の瞳が揺れた。動揺しているのだ。
「こちらへ来なさい」
晴明が扇子でコンコンと床を叩いた。嫌だとは言えず、彼は渋々近寄る。
「この鬼は、若の喉笛をかき切るだろうか?」
御館様は、初めて娘をしっかりと見た。頬はこけ、体が異常に細い。見ただけで弱っていると分かる。そして、彼女の手を見て、はっとした。
「その指……」
まだ手当てが出来ていなかったので、傷付いた指は丸見えだった。
「監禁されていたのなら、逃げる為に必死だったのだろう。爪が剥がれても、指が削れても、そこから出たかったのだ。でなければ、死んでいた」
鬼を、じっと見つめる御館様。
「……俺を襲うようには、見えない」
タエは少し心が軽くなる気持ちがした。彼の気持ちが、少しだけ変わろうとしている。
「仲間がいる可能性は?」
「もしいるなら、この状態の仲間を放っておくはずがない。今、この鬼は一人だ。そしてもう一つ言っておくと、この娘、半分は人間だな」
「えぇ!?」
「全然分からなかったです」
タエとハナが驚いた声を上げた。
「半人半妖は初めて見たか? だから触れられる。治療方法は人も妖怪も同じ。薬も効くし、栄養のあるものを食べさせなさい。鬼の回復力が上がれば、すぐ元気になるだろう」
晴明の言葉を聞いて、御館様は、はあぁ、と息を長めに吐いた。
「分かった。とりあえず、治療の間はここにいて良い。認めるよ」
ハナも笑顔になる。ハナの話も、彼の心を動かす要因になったようだった。タエは涙を滲ませる。
「御館様、ありがとうございます!」
泣きそうな顔をしているタエを見て、ぎょっとすると、御館様はふいっと顔を逸らした。
「礼を言うほどの事じゃ、ないでしょ」
相変わらずの素直じゃない言葉。しかし、そこには温かさが戻っていた。
「若、治療を手伝ってやりなさい」
「えっ」
「背中と指の傷は、薬を使わねば悪化してしまうぞ。タエだけでは大変だろう」
(晴明さん、優しい!!)
タエは感動していた。
「夜も、タエを休ませてやらんとな。この子は寝ている間も忙しい」
晴明と目が合う。彼は、代行者の仕事がどういうものなのかをしっかりと理解していた。本当に隠し事が出来ない人だと実感する。だが、そのおかげで、夜の仕事に支障をきたさない様、配慮してくれたのだ。感謝してもしきれない。御館様は疑問符が飛んでいたが、とりあえず頷いた。
「分かったよ。タエにも休息は取らせる。その間は、俺とハナ殿で鬼を見るよ」
「よかったね、お姉ちゃん」
「うん!」
話がまとまったので、晴明も満足そうに頷いた。
晴明が帰路につく。御館様、ハナ、タエも見送りに来ていた。藤虎が馬を出すのを待つ間、御館様は疑問を投げかける。
「最近暴れてる鬼の方だけど、討伐の命令があったのに動いてないって、本当?」
晴明は片眉を上げた。タエとハナは顔を見合わせた。
「そんな事を聞いたのか? 調査はしているよ。ただ、あの鬼の相手をするのは、私ではないのでね」
馬を受け取ると、ひらりと軽やかに跨る。
「ではな。あの娘が、全ての鍵になるだろう」
彼は謎の言葉を残し、帰って行った。後ろ姿も優雅だ。
御館様は深呼吸をした。
「約束したからには、ちゃんとやるよ。傷に効く薬と布を持って行く」
「はい。お願いします」
彼が部屋に向かう。もうとげとげしい気配はない。それでも、まだ警戒しているだろう。タエはそれでも、協力してくれると言うので、彼にも感謝していた。
「おい、大納言が生きてたぞ?」
「!」
とある屋敷の一室。昨夜、仕留めようとした所で邪魔が入ったのだった。
「お前は確実に仕留められるのだろう? 何故、奴は生きてるんだ? え?」
「も、申し訳ありません……」
「ちっ。無能め。陰陽師殿に、灸を据えてもらった方がいいな」
這いつくばった傷だらけの男の頭に、足を置いた。ぐりぐりと揺らしてみる。
「そうそう。娘が逃げたぞ」
足で頭を押さえつけられているので、男は顔を上げる事が出来ない。
「屋敷の者全員で捜索したが、見つからなかった。他の妖怪に喰われたか? ひひっ」
ぴくり。ざくりと切られ、血が滲む手が反応する。暗殺の失敗と、娘に逃げられた事への腹いせに、この男は、娘の父親に暴行を働いていたのだ。殴られ、蹴られ、刀で斬りつけられても、父親は何も言わず耐え続けた。結局、娘は喰われたのだと、男は自分に都合良く結論を付けた。
「残念だ。治療のおかげで元気になったのに、逃げるとは恩知らずな奴よ。親も見捨ててなぁ」
(治療など……していない。あいつは……千草は、生きる為に逃げたんだ)
娘がどういう状態であったか、父親はよく分かっていた。しかし、自分は何も出来なかった。それが悔しく、歯がゆかった。
「喰われたなら仕方ない。お前には、きっちり働いてもらうぞ。次また失敗したら、今度は首を落としてやる」
無慈悲な言葉が、父親に突き刺さった。
(千草……、父さんはもう逃げられん。お前は生きて、幸せになってくれ……)
絶望で目の前が真っ暗になる中、娘の幸せだけを切に願った。
「とうさん……!」
父の声が聞こえた気がして、はっと目を覚ます。見た事のない天井だ。そもそも、周りが明るい。ぼんやりと周囲を見回す。
(ここどこ? 私は……)
気を失う前の事を思い出す。何度も転びながら、必死にもつれる足を動かした。追手がかかるのは時間の問題だったので、人間が近寄らない、妖気が満ちた場所を選んだのだ。屋敷を見つけ、その門の柱に隠れた。
(そしたら、誰かが目の前に――)
「あっ! 目が覚めたんですね!」
元気な声に、思考が途切れた。タエの笑顔が目に入ったのだ。咄嗟にかけられていた着物で顔を隠す。
「警戒しなくていいです。私の顔、覚えてません?」
タエが少し距離を取って、自分の顔を指さした。娘はタエをよく見ると、記憶が蘇る。
「あなたは……道で会った……」
「そう。ここはあの門の中。あなたを追ってくる人は来ません。安心して」
近付き、手に持っていた膳を置く。タエの朝ごはんだ。娘はまだ起きないと思い、様子を見つつここで食べようと、持って来たのだった。
「あなたが助けてくれたの――つっ!」
起き上がろうとして、背中の痛みに顔を歪める。娘は、自分の手を見て驚いた。全ての指に布が巻かれているのだ。体を見れば、しっかりと手当されている。
「ゆっくり動いて。背中はまだ火傷がひどいから、ヒリヒリするはずです」
娘は、部屋に漂うご飯の良い香りにお腹がぐぅ、と鳴った。顔が赤くなる。タエは味噌汁の椀を持った。ふぅふぅ、と冷ましてやる。
「お湯で味噌を溶いた、お味噌汁です。ゆっくり飲んでみて下さい」
娘は差し出された椀を、訝し気に見る。味噌汁など、初めて見たので、手を出せないのだ。人間に対して、警戒心が強くなっていた。
タエは、そんな娘の気持ちを察したのか、味噌汁を一口、飲んで見せた。
「ほら。毒なんて入ってませんよ」
もう一度目の前に差し出される椀。恐る恐る、受け取った。茶色い液体の中に、人参と大根、大根の葉が浮いている。そして、ほかほかと湯気が上がっていた。じっと椀を見つめる娘に、タエが話しかける。
「体、ずいぶん痩せてるけど、ずっと食事を取ってなかったんですか?」
「……閉じ込められてたから……」
それだけ聞いて、タエは胸が締め付けられる思いがした。どれだけ空腹だったか。どれだけ辛く、苦しかったか。タエには想像する事しか出来ないが、おそらく、その想像よりも遥かに深刻な状況だったのだろう。
「いきなり飲んだら体がびっくりするから、ゆっくり飲んで下さいね」
娘を安心させてあげたいと、タエは微笑んだ。娘は一口、飲んでみる。初めての味に最初はむせてしまったが、落ち着いてもう一口、口に含み、飲み込んだ。
(あったかい……。おいしい……)
体に熱が戻る。藤虎が作ってくれたタエ直伝の味噌汁は、娘の体と心を温めてくれたのだ。誰かの優しさに触れたのも久しかった彼女は、気付けば涙が頬を伝っていた。
「……っう……」
タエは娘の肩に触れた。傷に触らないよう気を付けて。子供をあやすように、優しく撫でる。
「がんばりましたね」
泣きながらも味噌汁を飲む娘を、タエは少し涙ぐみながら、側で見守った。
(皆を呼ぶのは、食事が済んでからにしよう)
読んでいただき、ありがとうございます!