100 心の距離
夜が明けて来た。タエはこの時代での代行者の初仕事を終え、屋敷に帰る途中だ。まだ暗い中、人が何人も走っている姿を見かける。ガサガサと、辺りを走り回っているのだ。
「早く探せっ!」
「こっちにはいない」
小声で話しているのが聞こえた。兵士という感じではない。どの人も、焦っているようだ。
「何だろ。騒がしいな」
タエは知らない事なので、そのまま屋敷へ直進する。
屋敷が見えた。と、何かの気配を感じた。とても弱弱しいが、人ではない気配。タエは晶華を握る。
「御館様を狙って――!?」
その気配は屋敷の門からだった。中にはまだ入られていない。タエは素早く門の前へ降り立つと、妖に晶華を突きつける。
「誰だっ」
刀の先にいたのは、一人の娘だった。額から二本の角がある。鬼だが、明らかに様子がおかしい。
「ごめん……なさ……。はぁ、はぁ。た……たすけ……」
門の柱に寄りかかり、うずくまっている。ガタガタと震えながら、娘は右手を上げた。とても細い。普通の細さではない。タエは異常を感じていた。
「あの、大丈夫ですか?」
タエが声をかけた。ぜいぜいと息を切らし、苦しそうに咳をしている。美人の域に入るだろうが、変に顔が白く、頬がこけて痛々しい。背中まで伸びた長い髪の毛も、痛んでバシバシだった。着ている着物は、擦れていたり破れていたりでボロボロだ。
「この通りは見たか?」
離れた場所から声がした。見てみれば、タエが先ほど見た人達だった。三人いるが、こちらへ向かってくる気配はない。側の娘が、柱に身を隠して息をひそめた。
「いや、まだだが……。お前行けよ」
「嫌だよ。この通り、妖怪屋敷で有名だろうが」
「通りにもわんさかいるってよ。入ったら最後、喰われて終わりだ」
しん、と誰もしゃべらなくなった。
「奴が逃げるなら、ここが一番だが……」
「死にたくないしな」
「いなかった事にしよう」
小声で確認して、うんと頷き合うと、三人はまたどこかへ行ってしまった。
いい加減な調査を見て、タエは呆れた。気を取り直して娘を見れば、もう気力も限界だったらしく、気を失っている。
「えっ、ちょっと!?」
タエが肩を持てば、骨ばったその体に驚きを隠せない。辺りを見回す。暗がりの中に、蠢く妖怪の気配や目玉を見た。睨みを聞かせる。
「この鬼に手を出すなよ。出したら、お前達を塵に還すからな。ハナさん!」
ハナを呼んだ。
御館様の部屋で寝ていたハナは、タエの声に、はっと目を覚ます。部屋では、まだ御館様が寝ていたので、起こさないようすり抜けタエの気配を辿って門へ来た。
「お姉ちゃん、こんな所でどうしたの?」
ハナが尋ねるが、タエの側に鬼がいて驚いた。
「えっ、鬼!? 気配が弱くて気付かへんかった!!」
「この鬼、ずいぶん弱ってる。助けを求めてた。私、体に戻って来るから、ここで守っててくれる?」
「今おぶっていけば?」
ハナは当然の事を言った。このまま部屋に運ぶ事も出来るはずだと。
「この姿を、まだ御館様に見せる訳にはいかへんでしょ?」
「それもそうか。御館様も連れて来た方が良いよ。この屋敷に入れるなら、彼の許しがないと」
「了解!」
鬼の前に陣取るハナ。タエは急いで体に戻る。
魂が体に戻ると、タエは飛び起きて、御館様が眠る部屋の襖をスパーンと勢いよく開けた。その音に、御館様はびくりと体が大きく揺れる。
「なっ、何……!?」
びっくりして周りを見回す。寝起きは最悪だろう。しかし、タエは失礼も承知の上で用向きを告げた。
「起こしてすいません。一緒に門まで来てもらえますか?」
タエの表情が、悪ふざけではないと理解した御館様は、起き上がり、黒の羽織を羽織る。そして、タエの後に続いて廊下に出た。
藤虎は起きていて、朝餉の準備に取り掛かろうとしている。
「御館様に、タエ様?」
藤虎は台所から二人を見かけた。
門を開けると、鬼の娘はまだ気を失ったままだった。そこで気付く。
「あっ、高様の羽織、忘れたぁ!」
「お姉ちゃん……」
急いでいたので、高龗神の羽織を持ってくるのを忘れていたのだ。アレがないと、妖に触れる事が出来ない。あぁ、と娘の腕に手が当たると、タエは目を見開いた。
「……触れる」
「えぇ!?」
二人で驚いた。
「その者は……鬼か!?」
覗き込んだ御館様の顔が、一瞬にして険しいものになった。タエは鬼の体を支え、すかさず理由を話す。
「確かに鬼ですけど、助けを求めてきました。攻撃性はありません。弱ってるので、治療が必要です。御屋敷に入れてもいいですか?」
「いいわけないだろう。この者は確かに弱ってるだろうが、これをダシに使って、俺を狙ってるかもしれないだろ!」
御館様が珍しく声を荒げた。それでも、タエは必至に頼み込む。
「分かってます! 御館様がそう思うのも当然です。でも、私は助けたいんです! 御館様を狙っての事だったら、この鬼を斬ります。御館様は、必ず守ります」
「鬼など……信じられるわけ、ないだろう!」
眉間に皺を寄せ、冷たく見下ろす。生まれてからずっと、凶悪な妖怪や鬼に命を狙われてきた。藤虎や母親も、命がけで自分を守って来た。タエは今、その気持ちを踏みつけにしようとしている。安全になった屋敷に、鬼を入れるなど、考えられない。
「御館様。ならば、鬼ではなく、私達を信じて」
ハナが口を開いた。彼もハナを見る。
「姉にも考えがあるんだと思う。私も守りを強化するから」
「皆様、どうかされ――おぉっ! これは……」
様子を見に来た藤虎も、タエの腕の中に鬼がいる事を見て驚いていた。
「藤虎さんも、お願いします。どうか、この人を中へ――」
「人じゃない。鬼だ!」
御館様は、ふい、と背を向け、屋敷の中に戻って行った。タエはダメだったと、肩を落とす。
「……俺は関わらない。看病したいなら、勝手にしなよ」
その言葉は冷たいものだったが、門の扉は開けてくれた。
「あ、ありがとうございます!」
タエが大声で礼を言った。御館様はさっさと屋敷に入る。藤虎を見れば、彼も困惑の色を見せていた。
「本当に、大丈夫でしょうか。私は、御館様を第一に考えますので」
「それで良いです。この鬼は、私が見ます。ご迷惑はかけません」
「それなら、どうぞ中へ」
藤虎もとりあえず認めてくれたので、タエは鬼の娘を抱きかかえて門をくぐった。彼女はとても軽かったので、タエの腕力でもなんとか運べた。
そうして、タエの部屋に近く、使っていない部屋を借りた。畳のベッドを運ぶのは、藤虎も手伝ってくれたので有難かった。そこへ寝かせ、部屋の隅に置いてある荷物を見せてもらうと、誰の物か分からないが、女性ものの着物があった。華やかさがない質素な着物なので、渡辺家に奉公に来ていた者の着物だろう。藤虎に許可を取り、それを鬼にかけてやる事が出来た。
お湯を少しもらい、温かくしたタオルで鬼の顔と手を拭く。朝日が直接差し込む事がない部屋だが、明るくなってきたので、娘の状態が嫌というほど浮彫になった。
「鬼がこんな体になるなんて」
指先を見れば、全ての指の皮がめくれ、血の塊が着いている。爪も欠け、見ているだけで痛い。
「う……」
娘が呻いた。タエは、気が付いたのかと顔を伺うが、様子が変だ。突然苦しみだし、体が浮くほどに震えだす。
「ああぁぁ! いやあぁぁぁ!!」
娘が掠れた声で叫び出した。タエは暴れる体を押さえつけようとするが、力が強すぎて振り払われてしまった。
「何でいきなり――!」
タエは、娘が背中をのけ反っている事に気付いた。そして、着物の隙間から、黒い煙が出ている事にも。
「お姉ちゃん、どうしたの!?」
ハナと御館様、藤虎も、様子を見に来た。御館様は心配して来たわけではない。家主として、一応だ。
「いきなりこうなった。ごめんなさい、背中、見るよ!」
力任せに娘をうつ伏せにして、一気に着物を腰までずらすタエ。男の前で何てことをと、ハナは言いそうになったが、目の前のモノを見て、言葉を失った。御館様と藤虎も、目を逸らす事なく凝視している。
丸見えになった背中には、黒い線を格子状に描いた紋様があった。そこから黒い煙が出ており、娘を苦しめている。じゅうじゅうと火傷のように、格子の線の縁から焼けただれ始めていた。
タエとハナには見覚えがある模様だ。
「これは、九字の線?」
稔明が叉濁丸討伐の際、光の矢を完成させた時に見せた紋様と酷似している。ハナも頷いた。
「妖気を感じない。人間がやってるのかも」
ハナの言葉に、御館様達がはっとする。
「ハナさん、ちょっと見てて!」
タエは部屋を出て、走って自分の部屋へ向かった。ハナは苦しむ娘の肩を押さえる。暴れて御館様や、彼女自身を傷付ければ大けがに繋がるからだ。
タエはすぐに戻って来た。手に小瓶を持っている。御館様には見覚えがある物だった。
「痛かったらごめんね」
瓶の中に入っている神水を少し紋様にかけてみた。じゅっと白く煙が上がり、火傷の広がりが止まる。まるで消火だ。それでも相当の痛みが娘を襲う。ハナに押さえてもらい、タエも両足で娘の足を押さえ込み、馬乗りの姿勢で神水を紋様にかけていった。
「あああああっ!!」
娘は最後の火傷部分を消火すると、がっくりと意識を手放した。肩が呼吸で上下しているので、気を失っただけだと確認すると、タエとハナはホッと息を吐いた。そしてうつ伏せのまま、着物をかけ直す。
「神水が効いた……。良かった」
小瓶の蓋を閉める。すると、神水を使った分の量が、たちまち戻った。しかし、背中の紋様は、このままにはしておけない。紋様が、消えた訳ではないのだ。
「これが人間のせいなら、陰陽師が絡んでるって事?」
タエが眉を寄せた。ハナも頷く。
「晴明殿に見てもらうしかないね」
「私、晴明さんを呼んで来る!」
立ち上がるタエ。意気込んで出て行こうとするのを、御館様が止めた。
「あんたが行ってる間に、鬼が起きたらどうすんのさ。藤虎、呼びに行ける?」
「は。今すぐに」
そう言うと、藤虎は貞光に借りていた馬を使い、すぐに屋敷を出た。もう太陽が昇っているので、妖怪達も彼と馬に手を出してはこない。
「ありがとうございました」
タエが御館様に礼を言うと、すっと目を逸らされる。
「別に。晴明が来てくれるなら、その鬼の処遇も判断してくれるだろうし」
そう言って、部屋に戻って行った。心臓がちくりと痛んだが、タエはその後ろ姿を見送り、ハナへ向き直る。
「ハナさん、ありがと。御館様の側にいて」
「分かった。お姉ちゃん、無理しないでね。仕事から戻って、休んでないでしょ」
ハナの気遣いが嬉しかった。
「大丈夫。朝ごはんが遅れてごめんなさいって、御館様に謝っといて」
「はいはい」
ハナも見送り、タエは娘の側に座り、変化がないかを見守った。
膝の上に置いた両手を、ぐっと握りしめる。爪が食い込むくらい、強く。
(御館様の気持ちを知ってるくせに……。傷付けた、やんね)
ずき。心臓が締め付けられる感覚がする。痛い。
(後悔はしてない。でも、怒らせた。私がわがまま言ったせいやもんね。怒られてもしょうがない)
先ほどの彼の反応を思い出した。タエと目を合わせようとしなかった。彼の言葉はいつも素っ気ないし、天邪鬼で素直ではない。それでも、心があった。優しさを感じ、温かかった。しかし、今タエに放たれる言葉には、心がなく、冷たい。それが、御館様がタエに対する気持ちなのだと、理解した。
(私……御館様の信用を、失くした……)
この事実は、思った以上にダメージがあるらしい。タエの心臓はキリキリと痛み、体内に鉛玉があるように重く苦しい。俯き、じっと自分の拳を見つめた。じわりと視界が滲む。タエは頭を横に振り、余計な事は考えないようにした。
「今はこの鬼を回復させる事に集中しよう。元気になれば、背中の理由も分かるし。害がない鬼だって確信出来れば、御館様も……考えを、改めてくれるかな……」
「ハナ殿。タエは何で、あの鬼を助けたかったんだろう」
晴明が来るまでの間、自室で書物を読もうと広げたが、内容が全く入って来ない。側にいるハナに話しかけた。
「気になるなら、直接聞いてみたら?」
ハナが至極まともな事を言ったが、彼は渋い顔をする。
「出来ないから、聞いてるんだけど……」
タエの行動の意味が理解できず、御館様も混乱しているのだ。ハナは体を起こし、お座りの姿勢で話し出した。
「人間に悪い奴がいるように、妖怪にも、優しくて頼れる者がいるって事」
「鬼にも……良い奴がいる?」
今までそんな事を、考えた事がなかった彼は、目を丸くしていた。
「私達は妖怪を倒してる。でもそれは、人やこの世界に害を成す妖怪だけ。救いを求める者がいれば、人でも妖怪でも、姉は迷わず救ってきた」
門の所で、必死に鬼を助けたいと言ってきたタエを思い出した。
「妖怪を滅しているけど、楽しんでやってる訳じゃないよ。どんなに悪い妖怪でも、魂がある。その魂や命の重さを、ちゃんと理解してないと、私達だってそいつらと同じになってしまうわ」
御館様はじっとハナの話を聞いていた。
「お姉ちゃんも、今までいろんな神様、精霊、妖怪と関わって来て、救えた命もあったし、救えなかった命もあった。納得がいかなかった事も、たくさん……。だからこそ、救える命があるなら、救いたい。そう、思ったんだよ」
ずっと一緒にいたハナだからこそ、タエの気持ちを理解していた。釋を消滅から救う為に、迷わず魂を差し出した事も覚えている。いつも一生懸命な姉だから、側で支えたいと思うのだ。
「そうやって来たから、妖怪達も私達に心を開いてくれた。一緒に戦う事もあるよ。実際、私達だけじゃ敵わなかった凶悪な妖怪を、京の妖怪達や陰陽師と協力して、一緒に倒した事もある」
「人間と妖怪が、共に……!?」
御館様は、驚いて聞いていた。
「……あの鬼は、害がない鬼なのか?」
御館様が漠然と聞いてみた。ハナは笑っている。
「御館様。私達がどんな力を持ってるのか、忘れました? 私達がいるだけで、悪い妖怪は寄って来ないでしょう?」
「あ……」
ハナが側にいるので、この感覚に慣れ始めていた彼は、大事な事を思い出した。
「神水を浴びても消えなかった。むしろ、あの術の方が反発していた。あれは呪いの類でしょう。晴明殿に見てもらえば、はっきりするね」
ハナは尻尾を振った。
「邪悪な者は、ここにはいられない。それってつまり、そういう事。もしもの時は、お姉ちゃんも始末を着けると言ってるし、様子を見てもいいと思う」
ハナの言葉を聞き、とりあえず納得する御館様。ハナの耳がぴくりと動いた。
「晴明殿が着いたみたい」
読んでいただき、ありがとうございました!