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Horror story…♰

虚ろな人

作者: よた


 雨降りしきる7月の五反田駅。車の排気ガスと湿気がいりまじり、なんともいえない不快な空気が漂っている。そんな場所、一刻も離れ、歩道橋を渡り、涼しい電車内へと向かいたいと思うのは、皆同じである。しかしその駅へと続く歩道橋の上で、スーツを着た若い男が、傘もささずに一人、うずくまっていた。「大丈夫ですか?」と通りすがりの者たちが声をかけても、その男は両手で顔を覆い、黙っているだけで、反応ひとつしなかった。それを見た彼らは、冷ややかな目で、男の前を通り過ぎていくのであった。


 いつも通りの月曜の朝、Kは品川駅のホームを歩いていた。2020年4月。JRの改札口を出て、東海道新幹線の改札口がある東口方面へ向かう。虚ろな目をしたサラリーマンたちが同じ方向を眺めている、いつも通りの光景だった。普段と異なることがあるとすれば、それは皆が白や黒、オレンジやブルー、ピンクといった、色とりどりのマスクを着用していることだった。世間では新型コロナウイルスのニュースがテレビで毎日のように流れ、感染者数が発表されていた。美術館の絵画のように並んだ巨大なスクリーンには、広告の代わりに、外出自粛の注意喚起が絶えず映し出されていた。


 それを横目に、Kは東口を出て直ぐのビルに到着した。まだ朝七時前だったので、正面の入り口は空いていなかった。裏口へ回ると、鞄から青いストラップを取りだし、首にぶら下げ、警備員に見せるようにして裏口をぬけると、非常階段で五階まで駆け上がり、執務室の中へ入っていった。


 自分のデスクの前に立って、背負っていたリュックサックを下ろすと、ジャケットを脱いで椅子にかけた。それから、パソコンの電源を入れ、給湯室にある自動販売機でいつもと同じ蓋つきの缶コーヒーを買ってデスクに戻ると、カチッと音を立てて蓋を開け、飲みはじめた。執務室にはまだ誰もいなかったが、直ぐに部長のコアラがやってきた。


「おはようございます」Kはコアラに言った。


「おはよう……」コアラは首を傾げた。そして、それを見たKも首を傾げた。「あれ、昨日の夜、連絡来なかった? 管理者以外は自宅待機かリモートだって」


「え!」Kは驚いてポケットからスマホを取り出してチームのグループチャットを確認しようとした。「あれ、電源が切れてる……あの……」


「いいよ、ほら――」部長は鞄から乾電池の入った充電器を取り出した。「貸してやるよ」


「……すいません」


「別に、謝らんでいいがね――ま、スマホの充電ぐらいは毎日確認した方が良いな」


「えぇ、そうですね……」


「びっくりしたろ! あ、は、は、は、は」コアラはそう言って自分のデスクに鞄を置くと、朝食の葉っぱを一枚ずつ食べながら、パソコンの電源を入れるのだった。


 スマホの充電をある程度したところで、起動してみると、同じチームのシマウマから大量のメッセージが送られてきていた。それを見たKは、大学時代に別れた彼女のことを思い出した。深夜に電話がかかってきて、無視すると滝のようにメールが飛んでくるのだ。面倒くさいが、返さないともっと厄介なことになるので、重たいまぶたをこすりながら電話をかけて、出ないものだからイライラしはじめて、何度もかけていると、彼女の父親が出て、何時だと思ってるんだ、常識を考えなさい、A子は今風呂だ、と怒鳴られ、切られるのだった。


 昔の嫌な思い出をもう一度、心のタンスの奥にしまったKは、上司のシマウマに返信し、これから帰宅する旨を伝えた。その後ジャケットを羽織って、リュックサックを背負いなおすと、缶コーヒーの蓋を閉めた。


「それじゃ、帰ります」


「はい、お疲れさん」


「は、はい……」Kは苦笑いして執務室を後にした。


 改札口へ向かうKは、自分だけが皆と違う方向を向いて歩いているのが、不自然な気がした。じろじろと皆が、自分のことを見て、過ぎ去っていくような気がしてならなかった。


 電車はいつものように遅延しており、Kはしばらく足止めをくらう羽目になった。といっても幾分かの間だったので、山手線のホームにあるベンチに座って電車を待つことにした。


 スマホで電車の遅延情報を眺めていると、隣に座っていた黒いスーツの男が、急にKの肩に寄りかかってきた。びっくりしたKは、寄りかかってきた男の膝のあたりを軽くたたいて、声をかけた。


「大丈夫ですか?……」


 しかし男は反応しなかった。男は黒ぶちの眼鏡をかけている。二十代後半ぐらいで、いっけんただのサラリーマンのような成りをしていた。電車の中で意識を失って、ひっくり返っている歌舞伎町あたりのホストにはどうしても見えなかったし、酒の匂いもしなかった。


《となると、ガチの奴だろうか……まさかコカインとかそっち系じゃないよな……駅員を呼んだ方がいいだろうか……》Kはもう一度、男の膝を叩いて、反応をみることにした。呼吸はしているようだったので、単に疲れているだけ、と考えられもした。


 男がベンチに頭をぶつけないように、ゆっくりとKは立ち上がると、駅員を探すため立ち上がり、二階の階段まで歩き出した。


 階段を登っていると、自分はなんであの男を助けてやらなければならないのか、という思考が頭に浮かんできた。あの男を助けたところで、自分には一円の利益にもならないじゃないか、第一、あの男がああなった理由はなんだ、自分のせいだ! それ以外の何がある? きっとそうに違いない、と頭の中にいるもう一人のKがささやいた。Kは頭の中のもう一人のKの意見に賛同した。《それに、もし彼が感染者だったらどうするんだ、できるだけかかわらない方が身のためだ》Kは山手線から京浜東北線のホームに移り、電車に乗り込むのだった。


《そうだな、最初からこうしていれば良かったんだ……なんでわざわざ遅れてる方に乗ろうとしたんだ? 俺は最初から京浜東北線に乗るつもりだった、そういうことにしておこう、よし、俺は山手線のホームになんていっていない!》そう思いながらKは、ガラガラの電車内で、飲みかけの缶コーヒーを飲み干した。


 それから三ヶ月後。Kはどうしても会社に行かなければならない用事ができてしまい、会社へと向かうことになった。


《はぁー、めんどくさ……》Kは空いた電車内で思わずこう囁くのであった。山手線は田町を出発し、高輪ゲートウェイ駅へと向かっていた。


 そろそろ品川駅に到着するため、Kは読みかけのネット記事を急いで読み進めた。そして、高輪ゲートウェイの次の品川駅に着いたと思ったKは、スマホをポケットにしまって、席を立ち、出口の扉の前に立った。


 Kはぼんやりと外の景色を眺めていた。そろそろ品川プリンスホテルのNタワーが見える頃だったが、今日は景色がいつもと異なっているような気がした。



 ――次は大崎、大崎……。



《大崎?……大崎だって? まさか乗り過ごしたか……気がつかなかったのか……はぁー……》Kは大きく溜息をついて、景色をもう一度確認した。ごくまれに、自動音声の車内アナウンスが一駅分ずれてしまったりすることがある。ほんのわずかな希望を胸に、後ろを振り返ってみるKだったが、遠くにりんかい線が走っているのが見えてしまった。《間違いない、ここは大崎だ……》


 Kはホームへ下りると、階段を登って、コンビニの前を通り、隣のホームへと移った。幸いにも、電車はすぐにやってきた。Kは電車に乗り込んで、向かい側の扉に寄り掛かった。


 扉がしまると、ぼんやり扉の上にあるスクリーンに次々と映し出される広告を眺めていた。広告はとにかく脱毛に関するものが多かった。たしかに毎日髭を剃ったりするのは面倒だし、肌も悪くなる。でも、このご時世、外に出る機会も減って、それほど需要があるものなのだろうか、皆、マスクを着けているわけだし、きっと興味があるのは、毛巣洞が怖いトラック運転手ぐらいだろうな、とKは思った。



 ――次は、高輪ゲートウェイ、高輪ゲートウェイ……。



《嘘だろ……また乗り過ごしたのか俺は……》Kは思わず両手で顔を覆った。《どうしたんだ、今日はまだ月曜日だぞ……金曜日なら言いわけが聞くが、月曜日じゃな……休みボケみたいなものか、きっと久しぶりに出勤したものだから感覚がおかしくなってるんだろうか……仕方ない……もう一回乗り換えよう》


 一人で恥ずかしそうにKは、横へ流れていく人たちをよけながら向かい側のホームへと歩き、黄色い線の前で立ち止まった。


《まったく……自分が信じられなくなってきた》新駅の天井を眺めながら、Kは呟いた。《それにしても、この駅、はじめて降りたな……》


 そうこうしていると電車がやってきた。Kは車両に乗り込むと、今度こそ品川駅で降りるために下り口のドアに張り付くように立った。電車が出発すると、妙に心臓が鼓動しはじめ、額から汗が噴き出した。なんども涼しい車内と、蒸し暑いホームを行き来したせいで、体調が悪くなってきたのかもしれない。もう帰りたい、と薄々Kは考えはじめていた。


《こんどこそは間違えない、こんどこそは間違えない……》Kは頭の中で繰り返し自分に言い聞かせた。《さすがにもう大丈夫だろう》


 しかし……電車は大崎駅に止まった。いったい何が起きているんだろう、これはいったい、なにがどうなっているのだろう、Kは頭の中が真っ白になった。Kが電車を降りると、目の前に車椅子用の板を持った駅員が立っていたので、Kは電車が去ったあと尋ねてみることにした。もしかしたら、工事かなにかで、今日は品川駅を通過する日なのかもしれない、と思ったのだ。電車が去り、Kは駅員に声をかけた。


「あ、あの……今、ちょっといいですか?」


「はい、どうされました?」駅員は丁寧な口調で答えた。


「きょうって、品川駅に止まらないんですか?」


 すると駅員の表情は急に、Kを気味悪がるような目で見て聞き返してきた。


「いいえ、通常通り停車いたしますが……」


 それを見たKの頭の中はますます混乱した。そして、あきらかに自分がおかしな質問をしているということがわかった。


「あ、いいえ、はじめてなもので……すみません、変な言い方をしてしまって」Kはとっさに嘘をついた。


「あぁ、そうでしたか――」駅員はなるほど、とでも言うように相槌をうった。


 品川駅に行きたいのなら、階段を登って隣のホームに行けばいいと駅員は教えてくれた。Kは丁寧にお礼を言い、階段を上ってまたコンビニの前を通って、隣のホームに移ろうとした。


《おかしい、おかしい、いったいなんなんだよもぅ……》弱々しい声でぼそぼそとKは囁くのだった。


 Kはホームに立って、腕時計を確認した。時刻は七時三十分。始業時間がコロナの影響で早まったこともあり、余裕はほとんどなかった。次、失敗したら、会社に連絡したほうがいいかもしれない。Kはそう思い、電車に乗り込むのだった。



 ――田町、田町……。



 数分後、Kは田町駅にいた。Kはもう駄目だと確信し、上司のシマウマに連絡することにした。Kはグループチャットを開き、シマウマに遅刻する旨を伝えた。すると、シマウマは通常の勤務時間帯に申請し直すからゆっくり迎え、と返してきた。


 Kは項垂れ、もうどうしたら良いのか分からなくなっていた。今度こそと電車に乗り込み、気を取り直し、さっきまできっと、なにか悪い夢でも見ていたのだ、と自分に言い聞かせるのだった。


 そしてKは大崎駅に降り立つのであった。先ほどの駅員が首を傾げているのが見えた、Kの精神はもう限界に近づいていた。


《もう歩こう、そうだ、歩こう……大崎からなら歩ける。それしかない……》


 Kは大崎駅の改札口を出て、東口へ向かった。スマホで地図検索アプリを開き、会社までの道を検索した。しかし、急にアプリが落ちて、画面が真っ黒になってしまった。いくら再起動しようとしても反応がなかった。


《こんなときに限って故障か……使えねぇな……》


 Kは仕方なく、先ほどちらっと見た地図を頼りに会社へと向かうことにした。以前の取引先が大崎にあって、品川駅までの行き方は一度教わったことがあった。自信があるわけではないが、もう頼れるものが記憶ぐらいしかなかった。不安になりながらKは大崎駅の階段を降りていくのであった。


 その後、Kは迷子になり、結局、会社にはたどり着けなかった。そして、次の日も、明後日も、Kはどういうわけか、品川駅へ行くことができなくなってしまったのであった。


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