ときどき、キミに会いたくなる。
底冷えしたその日は、朝方に雪がちらついた。雪の安土城址を見たい。そう思いたってから、幾度もチャンスをうかがっていた。京都の市街地から滋賀を目指すには、五条通りを東に向かう。近くまで行けば道路標識でなんとかなる。家のまわりはうっすらと雪が積もっていたが、私はSRで出掛けることに決めた。
チョークを引いてキックスタートする。最初のうちはキックに失敗し、右くるぶしを幾度か削ったものだが、今はもう慣れた。車体を地面と垂直に立てベダルに全体重を載せるだけで、いとも簡単にエンジンがかかる。単気筒独特の音と振動が体に響く。暖気運転のあいだ、ヘルメットのバイザーを開けて一服した。
幹線道路はクルマの通行量が多い。轍の上を走れば滑ることもあまりないだろう。そう踏んで、なるべくアスファルトの見える部分を走った。8号線から2号線へ、野洲のファミレスで早めの昼飯をとり、ひたすら琵琶湖東岸を北上した。近江八幡を越えてすぐ、2号線沿いに『安土城址前』という交差点が出現し、左へ折れる。こんもりとした山の麓でバイクを降りる。付近は静かだった。雪の日に出歩く住民もいなければ、観光客も見当たらない。私は一人で石段を上り始めた。百々口から総見寺跡を巡り黒金門に至る。縄張と石垣が合体した強固な防衛ライン。石段は幾重にも折れ、本丸御殿から天守台へと通じていた。あの五層七重の天守があった土地は意外なほど狭い。まわりは木で囲まれ、目の前にはいくつかの礎石しかなかった。こんなものかと微かな失望を抱きながら佇んでいたとき、目の端で何かが動いた。
陽の中に突然現れた、茶褐色の生き物。目と目があう。二者の距離は15m程度か。三角の耳と逆光の中で反射する縦長の瞳孔。ほっそりした鼻筋。黒い鼻の脇から胸にかけて広がる白い毛。ふさふさした尾の先も真っ白だ。
狐である。
狐は、普段は縄張りを守って行動する。狩りをするときは決まったルートを通り獲物を単独で探す。しかし、交尾期の冬のあいだは互いの縄張りを侵す生き物だ。夜行性で非常に用心深い反面、賢い動物で好奇心が強い。そのため、危害がないと判断するとかなり大胆な行動をとりはじめる。
太陽を背にしている私は、狐からは見えにくいだろう。お互いにフリーズし、音を立てないよう身じろぎもしない。私は一歩も動けない。呼吸音が聞こえぬよう、鼻だけでゆっくり息をする。真っ白の世界に一人と一匹が対峙している。天守台に引かれた目に見えぬ一本の直線。音もなく間断的に降り始めた雪以外に、視界の中に動くものは見当たらない。伊吹山は吹雪いているのだろうか。この場とはまったく関係ないことが頭に浮かび、その会遇を楽しんだ。
「ここは君のテリトリーなのか」胸の中でそう尋ねたが、狐はじっとこちらを睨んだままピクリとも動かない。細かな雪が風に吹かれて舞っている。「独りで生きていくことは辛くないか」二つ目の質問をしてみる。体は冷えていくが、なぜか寒さは感じなかった。
単独で山を巡り、獲物を探し歩きながら生きている獣の高潔さ。孤高の生き方を強いられ、生まれながらに受け入れている姿。私は畏怖を覚え、出会えたことに幸運を感じる。そして、おそらく二度と会うことのないキミに、命と命が真っすぐに向き合うことを教えられる。
あれから数十年たったいまでも、キミのことが忘れられない。