お客様はお嘆きです
老紳士は、魔法工房を出てから、どこをどう歩いたのか、まるで覚えていませんでした。
気がつくと、老紳士は商店街の入口にある噴水近くのベンチに腰掛けていました。
「もう……お許しいただけないのですね」
老紳士は両手で顔を覆いました。
他を当たってみる。
そうは言ったものの、もう当てなどありません。長い長い放浪の末、やっとたどり着いたのがこの町なのです。一縷の望みを託して尋ねたのが、あの魔法工房なのです。
老紳士は顔を覆ったまま、長い間ベンチに座っていました。
「こんばんは、なのです」
元気な挨拶が、老紳士を現実に引き戻しました。顔を上げると、頭に角がある女の子が立っていました。
「あなたは、魔法工房の……」
「名乗っていませんでしたね。スターなのです」
老紳士が戸惑う中、スターはぺこりと頭を下げました。
「この度は、ご期待にお応えできず、申し訳ございませんでした」
「ああ……いえ、お気になさらずに。私も悪いのです」
老紳士は力のない声で答えました。
スターは、そんな老紳士に、努めて明るい声をかけました。
「実は、お給料が出たから、ババロアを買いに来たのです」
スターは商店街入口のお菓子屋を指差しました。そこはこの町でも有名なお菓子屋で、特にババロアは有名でした。もう夕暮れだというのに長い行列ができていて、親子連れや若い女性客が楽しそうに笑いながら並んでいました。
「とってもおいしいのです。お客様も食べてみるのです。元気になれるのです」
「あ、私は……」
「だまされたと思うのです」
スターに引っ張られて、老紳士はお菓子屋の行列に並びました。
行列に並ぶこと十五分。
ババロアを買った二人は、噴水のベンチに戻り、並んで座りました。
「ほう。これはおいしい」
「そうなのです。少し並びますが、それだけの価値はあるのです」
「よく買いに来るのですか?」
「はいなのです。私のお給料は、全部ババロアになるのです」
「全部、ですか?」
「全部なのです」
使い魔は、召還者の魔力を糧に生きています。なので、本当は食事を取らなくても生きていけます。ですが、食べることは人生を豊かにすることでもあり、スターはその道を貪欲に追求することを誓っています。
「ババロアばかり食べるな、て言われますけど、おいしいからやめられないのです」
「そうか。君は使い魔なんですね。ずっとこちらの世界にいるのですか?」
使い魔はわりとポピュラーです。よほど異形でない限り、使い魔であることを珍しがられることはありません。
「そうなのです。マスターは職人としてはまだまだですが、魔術師としては相当なものなのです。マスターが死ぬまで、私は契約に縛られるのです」
「……帰りたくはないのですか?」
彼の問いに、スターは首を横に振りました。
「マスターと働くのは楽しいのです。それに、帰りたくなったらいつでも帰れるのです。ちゃんと有給休暇はもらえるのです。くれなかったら、ぶんどるのです」
「そうですか」
スターの少々物騒な物言いに、老紳士は少しだけ笑顔を浮かべました。
しかし、すぐにまた悲しい目になりました。
「ああ、そうだよね。君は自分の意志で、この世界に来たんだよね。好きな時に、いつでも帰れるんだよね」
スターは不思議そうに首を傾げました。ですが、老紳士の重い口調に遠慮して、何も言わずに、ババロアをゆっくりと平らげました。
「お客様」
ババロアを食べ終えると、スターは呟くように言いました。
「お客様は、とっても寂しい目をしているのです」
「そう……かね?」
「はいなのです。魔法工房に来る他のお客様は、もっと楽しそうな目なのです」
スターの言葉に、老紳士は力無く笑いました。
「そうだね。夢を叶える道具を注文するのだ。本当は楽しいことなんだよね」
「お客様。お客様だけの時計は、お客様の夢を叶えるために必要なのですよね?」
「そうだよ。私の夢を……本当の私を取り戻すために必要なんだよ」
老紳士は、夕暮れの空を見上げました。
「本当はね、持っていたんだ」
「どんな時計だったのですか?」
「見た目は普通の時計だったよ。でもね、歯車の一つ一つ、ネジの一本一本に至るまで、心があった。耳をつけると色々なことを話してくれた。世界中探してもどこにもない、私だけの時計だったよ」
「すごい時計なのです」
「ああ、それはすごい時計だったよ」
老紳士は目を閉じました。
あの時計の音、手触り、匂い。
もうかすかな記憶しかありませんでした。
この記憶が消える時、自分の命は尽きるのだろう。そう考えると、老紳士は悲しくて仕方ありませんでした。
「でも壊してしまったんだ。だから、新しい時計を、ずっと探しているんだ」
長い年月、老紳士は時計を探して旅を続けました。世界中の時計メーカーを訪れ、世界中の時計店を回り、世界中の時計職人に注文しました。
「でも、どこにもないんだ。誰にも作れないんだ。世の中には時計があふれるほどあるのに、私だけの時計は……どこにもないんだ」
こらえきれず、老紳士は涙をこぼしました。それを見て、スターは口をへの字にしました。
「お客様……」
「いや、失礼」
老紳士は慌てて涙を拭いました。
もうあきらめるべきなのだ。これ以上彼らに無駄な努力をさせては、さらに罪を重ねることになる。悪いのは自分なのだ。
老紳士はそう考え、大きく深呼吸をしました。
「もういいのだよ。もう、あきらめるから。全て自分の責任なのだから。ご迷惑をかけたと、ご主人にも詫びておいてください」
老紳士は立ち上がりました。すでに日は沈み、町は夜に包まれていました。
「お客様!」
立ち去る老紳士を、スターの声が追いかけた。
「マスターはいつも言っているのです。あきらめなければ、夢は叶うのです!」
「ありがとう。もう、よいのだよ」
老紳士は、静かなお礼の言葉を残し、夜の中に消えました。
「……よくないのです」
スターの声は震えていました。
寂しさを通り越し、絶望に彩られた目。あんな目を見たのは初めてでした。
スターは有能です。これまではその有り余る才能で、なんだってやってのけてきました。できなかったことなんてありませんし、失敗したってすぐ取り戻して成功させました。
だから、あんな目を見たのは、本当に初めてでした。
「当店は……当店は、お客様の夢を必ず叶えるのです。そのためのお店なのです。そうですよね、マスター!」
スターは口を真一文字に結びました。そして全速力で、魔法工房へ帰っていきまた。




