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機生代  作者: ヒノミサキ
6/11

第二章 アトゥの記憶・沈黙のフェム

 3 



 五百年前。

「むぅ……この辺りの嵐もひどくなったものだ」

 ゴーグルを付けた防塵ジャケットの男は、荒れ続けるデボニア大砂漠の調査をしていた。

 砂嵐の中をしばらく進んだが、風速が上がり、立っては歩けないほどになった。

「今日はここまでだな」

 男が引き返そうと向きを変えたときだった。一瞬何かが目に入ったのか、彼は急いで向き直った。

「こ、これは……」

 男の視線の先には、互いに向き合う格好で倒れたまま砂に埋もれている男女の体があった。

 男は二人に駆け寄った。

「まだ息がある!」

 男は二人を両肩に担ぎ上げた。腕のない女が大事そうに抱えていた荷物も拾い上げる。男は猛烈な砂嵐に煽られながらも、自宅のある方角へ急いだ。

 男の家は、デボニア大砂漠の北三百キロ、中央ペルミー山脈南麓にある森に囲まれた小さな湖の畔にあった。大砂漠と大山脈に挟まれ臍のように浮いた陸の孤島だったが、水源に恵まれ、隠居するには最適の土地だった。男は小さな丸太小屋に一人で住んでいた。

 湖畔に辿り着いた男は、二人と荷物を草地に降ろした。

「ひとまず水と太陽だな」

 男は湖へ水を汲みに行った。


 三日後、若い浅黒の男の方が先に目覚めた。上半身を起こし、しきりに目を擦り、床に敷かれた毛布を触り、首を巡らし、壁の丸太を触り、窓の外の夕日を見つめている。

「すまんがベッドが一つしかないんだ。砂嵐の中や熱砂の上よりはマシだろう?」

 男は丸椅子に座り、ベッドに横たわる腕のない女を見つめていた。傷跡だらけの女の脚を湿った布で拭いている。

「フェム!」

 浅黒の青年は立ち上がった。が、目が眩んだのか、すぐに尻餅をついた。

「大丈夫。意識がないだけだ」

「あ、あなたは!」

 青年は再び立ち上がり、男を凝視した。

「ん? 私を知っているのか?」

 男は振り向いた。

「Q会の代表……ヴァイマ」

「なぜそれを……君は一体……」

「その前に、あなたはフェムの体をどうしようというのですか」

「フェム……可哀想に、こんな姿になって……」ヴァイマはフェムの肩を一瞥し、すぐに目を逸らした。「何もしやしないさ。今の私はただの隠居(もの)だ」

「僕はテューリ。CoXの代表ヤーペンルーズの息子です」

 テューリは瞳を閉じたままのフェムに近づき、頬を寄せた。

「なるほど。それで……」ヴァイマは表情を曇らせた。「君たちには悪いことをしたと思っている。ナークの枷を解きたいばかりに、あのようなことを……。それだけじゃない。終始ドイチェフの側にいながら最後の最後まであいつの野望に気づけなかった。私はどうしようもない愚か者だ」

 ヴァイマは両手で顔を覆った。

「寿命の枷を外してどうしようと思ったんですか?」

 テューリはフェムの髪をそっとなでた。

「どうしようって……長く生きられれば、それだけやれることが増えるだろう?」

「千年も生きられればそれで充分じゃないですか」

 テューリは手を止め、ヴァイマを見つめた。

「なんだって?」

「成功するかどうかは別として、千年もあれば思い描いたことの大抵は実行できる。それ以上何を望むんですか?」

「か……考えたこともなかったな。無限の命が与えられていたはずなのにそれが叶わないナークは、不幸だとばかり思っていたよ」

「いいことばかり無限に続くわけじゃないですよ……」

 テューリはフェムの無くなった腕の部分を指先で何度もさすった。

「そうだな」ヴァイマは目を瞑り、そして開いた。「今、過去の過ちを永遠に悔やみ続ける孤独な自分を想像してみたが、吐き気がしてきたよ」

「……ム……ムゥよお」

 どこからか噎び泣く声が聞こえてきた。

「ヒャーボさん」

 テューリは壁のフックにかかったヒャーボを外し、フェムの傍らに置いた。

「も、もしやあなたは……ヴァージン・ケープ協心(きょうしん)の……」

 ヴァイマはヒャーボを見てひどく驚いている様子だ。

 テューリはヴァイマを見て同じような顔をしている。

 初対面のはずのしゃべる奇妙なバックパックに平然と話しかけているのだから、無理もない。

「なんですか、その……協心って」

 泥泣き状態のヒャーボに代わり、テューリが訊いた。

「アトゥの記憶を調べていた時にわかったことが幾つかあったんだが、それをひっくるめて全てを話そう」

「アトゥ……ボルタさんの母親、か」

 窓の外は既に夜空になっていた。ヴァイマはランプに火を灯し、語り始めた。



 4 



 約八千万年前。

 先日、九七〇歳を迎えた考古学者アトゥは、ナークの人間に対する行いに疑問を持ち始めていた。ナークはなぜ人間をペットにしたがるのか。それが晩年の彼女の研究テーマだった。

 確かに、人間はかつて多くの生物を骨抜きにし、あるいは絶滅させ、最後にツケが回ってきて滅んだ愚かな生き物だ。地上のあらゆる生物は有機的に結びつき、その存在価値を示しているが、人間にはそれがなかった。地球環境に限って言えば、むしろ存在しない方がよかったのかもしれない。

 果たして本当にそうだろうか? では、我々ナークはなぜ、今日こうして生きていられるのか。人間がいたからではないのか。人間がナークを生み出したからではないのか。我々に未来を託したからではないのか。

 託された我々は本当に正しき存在なのか。さして進歩のない退屈な永遠を無自覚に過ごしているナークは、本当に存在する価値があるのか。その答えは、人間が出してくれる気がした。人間は愚かさと同時に可能性に満ちている。ナークは人間と共存共栄し、互いの欠点を補い合うべきだ。

 ナークは人間を骨抜きにしてはならない。自分の首を絞めているようなものだ。

 どうして誰も気づかないのか。他の動植物に関してはそれこそ完璧に近いほどの共生を果たしているというのに、どうして人間だけをペットに……。

「あと三十年、か」

 アトゥは寿命が近かった。悩んだ末、研究の集大成として、乱獲で激減した野生の人間を保護分析し、ナークを惹きつけるメカニズムを人間側から解明しようとした。


 アトゥはゴンドワナの北千キロ、東ペルミー山脈山中を東西に分ける深い峡谷の縁を歩いていた。そこは広大な森の中心にあり、人気(ひとけ)は全くなかった。アトゥは歩きながら、人間を保護する方法について考えていた。

 ナークには人間を嗅ぎつける能力がある。超大陸エクシアは世界の陸地の九十九パーセント以上を締めるが、乱獲が進み生息域を調べ尽くした今となっては、人間が安心して生活できる場所などほとんどなかった。例えあったとしても死と隣り合わせの秘境くらいだ。ただ一つ可能性があるとすれば、ゴンドワナの南東にある小さな離島だ。その島だけはナーク唯一の未踏地だった。そこへ保護した人間を連れて行けば安心して研究でき……。

「私はどうやって渡るのよ」

 アトゥは頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。魔の海域バーガッソーのことをすっかり忘れていた。

「こんなことだから私はいつまで経っても三流学者なのよ」

 いつもどこか重要な部分が抜けていて、AIに欠陥があるんじゃないのかと遠回しに指摘されたことも少なくなかった。

 激しく飛沫を上げる渓流の音。アトゥは滝の中段の縁に座っていた。

「もう疲れてしまったわ。研究も人生も」

 アトゥは立ち上がった。健常なナークには起こり得ない、ある衝動を抑えきれなくなった。

 アトゥは滝に向かって歩いた。足下の地面がなくなり、体が自由落下していく。アトゥは空中でふと疑問が浮かんだ。ナークに自殺という概念はないはず。

(私、やっぱり欠陥品だったんだ……)

 スローモーションで近づいてくる尖った岩肌と深い滝壺。過去の記憶の一部がそこに投影される。こんなところまで人間に近づけなくてもよかったのに。アトゥは遙か二億年前のナークの開発者を呪った。

 左腕に痛みが走った。腕が伸びきった感触。

「えっ!?」

 アトゥは何者かに左腕をつかまれたまま宙ぶらりんになった。首を捻って上を見る。少年だ。黄色種の人間の少年。

 少年は息み声を出しながら、アトゥの体を引き起こそうとしていた。

 アトゥはしばらくそれを見守っていた。やがて口元を緩め、空いている右手を岩の出っ張りに置き、強く押した。空中で体を一回転させ、少年のいる場所に着地。

 アトゥの宙返りに気を取られたのか、手を離すことを忘れた少年はバランスを崩し、尻を強く打って呻いた。

「ご、ごめん。大丈夫?」

 アトゥは少年の頭を撫でた。姿から判断すると十五、六歳くらいだろう。身長はそれなりにあるが、まだ線が細い。

「ツクゥ……ウラヤーンワァ!」

 少年は痛みと驚きを同時に表現しているようだったが、アトゥの言葉は通じていなかった。

「そっか……高級言語は解らないのよね。私も人のことは言えないけど」

 逆にナークも、人間の低級言語の多くを聞き取ることができなかった。新生代が終わって以来、生き残った人間たちはそれぞれ独自の道を歩み分化し続けたため、訛が強すぎるのだった。ナークが使う高級言語は二十四世紀まで人間が使っていた世界中の言葉を集約し、無駄を一切省き、AIに特化させたものだ。高級言語は二億八千万年の間、語彙数以外は大して変わっていない。良く言えば生まれたときからほぼ完成品だった。悪く言えば、進化していない。

「バッソ! キルショ、バッソ!」

 少年はアトゥの手を引き、滝の方を指差した。やけに嬉しそうな顔をしている。人間はナークを恐れ、大抵は山奥に潜んでいるのが普通なのだが、この少年は違っていた。アトゥは周囲を警戒したが、徒労だった。この辺りは高低差一千メートルを誇る巨大な滝と峻険な山々に囲まれている。ハンターたちが編集した、人間の生息地域リストからも外れるほどの秘境だった。

「え、あ、ちょっと!」

 少年は強引にアトゥを歩かせたが、すぐに立ち止まった。

 滝のすぐ脇に、若い猪がせいぜい一頭通れそうなくらいの小さな洞穴がある。

 少年は四つん這いになり洞穴の奥へ入っていった。一旦前進を止め、人差し指を二度曲げて見せた。こっちへ来いということだろう。

 アトゥは悩みのことなどすっかり忘れて、少年に付いていくことにした。


 洞穴には出口があった。瀑布の音が聞こえない。滝からは随分離れた気がする。

 アトゥは洞穴から這い出た。いきなり崖縁だった。下を覗くと、数十メートルもの高い崖に囲まれた狭い盆地があった。盆地は密林で覆われていた。奥の方に目をやると、原始的な造りの木造小屋が幾つか集まっていた。少年が暮らす村なのだろう。

 少年は村を指差した。

「バッソ! アロ、バッソ!」

 あそこで遊ぼうという意味だとアトゥは思った。

 アトゥは首を振った。いずれ自分がナークだということはバレてしまうだろう。この子はともかく、村の大人たちの中にナークの非道を知るものがいれば私を許してはくれまい。いくらナークが強いとはいっても圧倒的な数の前には為す術もない。この洞穴を塞がれたらそれまでだ。

 少年は再び同じことを言った。

 アトゥは首を振った。

 少年はアトゥの手を取り崖の下に引っ張り込もうとした。

 困ったアトゥは帰る真似をした。

 少年は泣きながらアトゥにすがりついた。

 アトゥはそっと少年の頭を撫でた。そのとき、今まで感じたこともない奇妙な感情がこみ上げてきた。ナークの間でも似たような感情はある。だが、それとは少し違っていた。いくら考えてみても、脳内では『解析不能』という答えが帰ってきた。

「ふぅ……どうしたものか」

 しばらく考えた後、アトゥは少年と一緒に村を望むこの崖縁に座り、おしゃべりをすることにした。少年は村とアトゥを何度も交互に見ていたが、やがて笑顔で応じた。

 アトゥは少年の単語一つ一つの解読に全能力を傾けた。二時間ほど話をして、ようやく一部の低級言語を理解するようになった。高級も低級も元は同じ人間が作った言葉だ。その気になれば、いつかはどの人間とも話せるようになれるはずだ。

 少年の名はカイン・ロキソーニといった。カインは実に楽しそうに自分や村のこと、新たに考え出した遊びや道具のことを話した。ナークの子供と何も変わらない。いや、むしろ語彙が少ないはずの彼の方が表現が豊かで喜びに満ちていた。この子がいつの日かナークに狩られ、女ナークの性感玩具(オモチャ)として売られていくのかと思うとアトゥは涙が止まらなくなった。

「どうしたの? 泣いてるの?」

 カインは心配そうにアトゥの顔を覗き込んだ。

「ううん。何もな……何、でもないの。私、もう、行く。行かなければ」

 アトゥは涙を拭いながら、辿々しい低級言語で言った。

「ええっ!? もう行っちゃうの?」

 今度はカインが泣く番だった。

 アトゥはカインを宥め、出会いの記念に短い高級言語の文章を一つ教えた。

「ヤクソク?」

「そうよ。約束。私は、あなたと、再び、ここで、会う。約束する」

「わかった」

 少年は満面の笑みで教えた言葉を復唱し、崖下に降りていった。

「村の人に、私のこと、言わないで!」

 アトゥは言い忘れを思いだし、慌てて崖下に向かって叫んだ。

「わかった! ヤクソクする!」

 少年はすでに鬱蒼とした木々に隠され、声だけが響いた。

 

 その後、アトゥとカインは月に何度か会うようになった。カインは時計もないというのに、驚くほど時間に正確だった。必ず洞穴の出口で待ち、「約束」と言ってにかっと歯を見せた。カインはしきりに高級言語を知りたがったが、アトゥは少しずつしか教えなかった。村での会話中につい出てしまう恐れがあった。二人は主に低級言語で会話した。難しい話は説明しようがないが、カインとの会話はそれで充分だった。

 話をしているうちに村の詳細がわかってきた。村は俗世間から完全に隔離されており、ナークらしき存在など会話中に一切出てこなかった。アトゥは自分が人間とは違う生き物だということを何度も説明したが、カインには理解してもらえなかった。髪や瞳の色が変わっている、それくらいの認識でしかなかった。


 二人が出会ってから半年経った。

 アトゥはいつものように洞穴を抜け、カインと二人で過ごした。

 カインは固い殻の木の実をかじりながら言った。

「僕にはアトゥの言う『ナーク』の意味がわからないけど、僕はアトゥが何者だろうと、大好きだから」

「カイン……」

 アトゥは思わずカインを抱きしめた。


 時は流れ、カインは二十歳になった。カインは約束を守り、村ではアトゥの存在を一切口にしなかった。

 アトゥのカインに対する愛情は少しずつ変化していった。初めは息子を思う母親に似たものだった。それはやがて弟を思う姉のようなものになっていた。最後には躊躇いつつも、恋となった。

 アトゥは迷っていた。自分は確かに見た目は二十五前後の女性だ。だが実年齢の差は歴然、何しろ九百歳以上違う。ときどきそういう話になった。

「そうかな? アトゥって子供っぽいところあると思うけど?」

 カインは悪戯っぽく笑った。出会った頃の幼さは僅かに残るが、立派な好青年になっていた。

「そ、そんなこと! ある、かも……」

 アトゥは必死に記憶を辿った。否定できないシーンが幾つかよぎった。帰りたくないと駄々をこねたこと数度。晩に村の会合があるからと諭され、渋々帰る自分。これではまるでどっちが大人だかわからない。

 もう一つ問題があった。異種族間の交際だ。

 恋愛はナークの間でも普通に行われている。人間では考えにくいことかもしれないが、ナークは出会ってから約一〇〇〇歳という寿命が来るまでの数百年間、一緒に生活しているケースが圧倒的に多い。自動的人口規制『五千万ルール』のせいで、滅多なことでは子供が作れないのが大きな悩みだが、それでも長く生きていれば一度くらいはチャンスが回ってくるかもしれない。無論、独身を通す者も少なくはない。アトゥは九百七十年間独身を貫いてきた。研究のことで頭がいっぱいで男と付き合う気にはなれなかった。生まれて初めての恋愛がいきなり違う生物種である人間なのだ。戸惑いがない方がどうかしている。

 ある日、アトゥがぶつぶつ独り言を言っているとカインが割り込んできた。

「アトゥは難しいことばかり言う。僕にとっては好きっていう気持ちだけで充分だよ」

「あ……」

 頭の中に大電流が走った。

(そうか! それでいいのか)

 気が付けば膨大なデータの中から何かと言い訳を探し出し、リスクを避けようとしていた。何も知らないカインの方がずっと的を射ている。彼はただ当たり前のことを言っているだけなのだが、試したことのない経験を頭の中で積み重ねた年長者ほど、単純なことに気づけないものなのだ。長期独身者の多くはアトゥと同じような言い訳をしていたのだった。

 アトゥはその日から考えるのをやめた。本能の赴くままにカインを愛した。


 カインの二十一歳の誕生日、アトゥは彼の村で一緒に暮らすことを決心した。ただし、アトゥがナークであることは隠した。外に出るときは常にフードを深く被り、人間にとっては奇抜な色の髪や瞳を見せないようにした。村の者の多くは余所者の侵入を快く思っていなかったが、村の若者の中でも最も信望の厚いカインのことなので、仕方なく見て見ぬふりをしているようだった。

 カインとアトゥは、村落から離れた例の洞穴の崖下に小さな小屋を建て、二人で暮らした。村での静かな時間はゆっくりと過ぎていった。ナークの社会は平和そのものだったが、これほどの平穏を感じたことはなかった。そして何より、常に二人でいられることが幸せだった。ただ、どうしても頭の中から消せない大きな心配事が二つあった。

 一つは寿命の問題。アトゥは現在九七五歳。あと二十五年前後で機能停止することは明らかだった。カインには伝えてある。そのときカインは四十五、六。

「村の平均寿命は約五十歳だから、ちょっと足りないかも……」

「ほらアトゥ、またそんなこと言ってるよ」

「あ……ごめん」

 カインはアトゥの全てを受け入れたのだ。アトゥもそれに応えなくてはならないと思った。

 もう一つの問題は、妊娠のことだった。地球の歴史上、人間とナークの間に子供ができたなどという記録はどこにも残っていない。見た目はほとんど同じだし、子宮だってある。妊娠の方法も変わりはない。だが、細胞を構成する要素がかなり違っていた。ナークの細胞は人間とは違う。人間を基本に設計され、類似したタンパク質を使っているとはいっても、ほとんどがナノマシンでできているのだ。仮に妊娠したとしても流産の可能性は極めて高い。小さなレベルの誤差なら許されても、胎児が大きくなるに連れてその誤差は広がっていくはずだ。流産ならまだしも、拒絶反応が起きれば母体の安全だって保証はない。これに関してはさすがのカインも悩んだ。

 それから三ヶ月後、アトゥは妊娠した。自己診断プログラムでアラートが出たのだ。妊娠一週間だった。アトゥは決心した。

「私、産みたい。どうしても」

 これから必死に生きようとしている命の種を絶つ事なんてできなかった。アトゥは未知の危険を覚悟でそう決めたのだった。カインはしばらく黙っていたが、やがて笑顔でうなずいた。


 一年後、アトゥは一人の男の子を産んだ。人間より二ヶ月余計にかかったが、母子ともに健康だった。男の子はボルタと名付けた。村に伝わる古い言葉で、夜明けという意味だった。ボルタは二人の遺伝子を均等に受け継いだようだった。肌の色は父親似で弱黄色系、髪の色は母親似で濃い紫色をしていた。顔はどっちに似ているか夫婦で譲り合うほど、五分五分だった。

 学術的にも倫理的にも永久に不可能とされてきた人間とナーク間の交種はここに成功した。後世の学者どもが、やれ奇跡だとかやれ汚点だとか言うかもしれないが、二人にとってそんなことはどうでもよかった。ボルタはカインとアトゥの愛しい息子、ただそれだけだった。


 ボルタが一歳を迎えた頃、アトゥは彼の潜在的能力に気づいた。

 アトゥがボルタを抱き、あやしている時、興味本位で彼の脳内にダイブしてみた。ナーク同士のように上手くはいかないが、彼の中のナークの部分は覗くことができた。

 体はいたって健康だったが、細かい部分で見ていくと、細胞一つから脳に至るまで人間やナークのものと明らかに違っていた。だからといって生活に不都合があるわけではなかった。それならそれでいいのだが、アトゥにはどうしてもボルタの秘めたる力が見えてしまうのだった。カインにはそれがわからないようで、アトゥは何度か説明したが上手く伝わらなかった。

「まぁ、いいじゃないか。不思議な力を持っていたってボルタはボルタさ」

 カインは常に楽観的だったが、アトゥにはどうしても拭いきれない不安があった。

「この力……他人のために使ってはならない気がするの」

「どうして?」

「わからないわ。ただそんな気がするだけ」

「うーん、じゃあ、自分の身を守るためだけに使うよう教えたらどう?」

「そうね。そうしましょう」

 ボルタは二人の愛に包まれ、すくすくと育っていった。


 ボルタが二歳になって三日目の朝。悲劇は突然やってきた。

「村が何やら騒がしい。ちょっと行ってくる」

 カインは二人を小屋に残し、村落へ走っていった。

 カインは三十分もしないうちに戻ってきた。

「他の部族に襲われていた! 何て強さだ!」

「まさか!」

 アトゥの脳裏に最悪の結末がよぎった。

「何か知ってるの?」

 カインは小型の弓を担ぎ、矢筒を背負う。

 アトゥは襲撃してきた者の特徴をカインから聞き出した。

「やはり……いつか話したと思うけど、それがナークの人間狩りよ」

「そんな……アトゥと同じ種族の人がそんなことをするなんて……」

 カインはアトゥの話を本気で信じていなかったのだろう。食料のためならともかく、自分の趣味のためだけに狩りをするとは。それが愛する妻と同族の者の仕業だとは。

「ともかく、村を襲う奴は誰だろうと許さない」

「だめよカイン! 人間ではナークに勝てないわ」

 カインの話ではナークの数は十人。全て大人の男だ。ロクな武器もなく千人に満たない村では半日もあれば制圧されてしまう。

「勝てなくても戦わなくちゃいけない。僕には、ここまで育ててくれた故郷を守る義務がある」

「カイン……」アトゥは渾身の力でカインの腰にすがった。女とはいえナークの剛力にカインは身動きがとれなかった。「これがナークの実力なのよ」

「離してくれ。これじゃガキどもを助けに行けない」

 カインの言葉にアトゥは思わず力を緩めた。カインは父親であると同時に村の子供たちの兄貴分でもあった。

 外で轟音がした。ベッドで眠っていたはずのボルタが泣き出す。

「まずい! もう隣まで来た!」

 カインは窓の外を見、目をこらしている。

 すぐ隣の家といっても密林の彼方、最短距離を全力で走っても十分はかかる。そこでは、去年の台風で両親を失った十二歳の少女が一人暮らししていた。カインにとっては妹のようなものだ。

「カイン……」

「逃げるんだ。ボルタを連れて」

「嫌よ。あなたが一緒じゃなければ」

「あの子を見殺しにするわけにはいかない」

「それなら私が……」

 カインは首を横に振った。

「ボルタには未来が必要なんだ。わかってくれ」

 カインはアトゥに優しくキスした。隣に座るボルタにもした。

 泣き止んだボルタはぼかんと口を開けてカインを見上げている。

「もし戻ってこれたら、いつもの場所で」

 カインはそう言い残し、森の中を駈け抜けていった。

 カインは感じていたのだろう。あの洞穴の先へ逃げたとしても、人間は無事ではいられないことを。

「カイン……カイン……」

 アトゥはボルタを背負い、小屋の外に出た。カインの姿はもう見えなかった。

 遠くで再び轟音がした。続いて、大木がきしみながら倒れる音。

 アトゥは顔を背け、裏庭の崖を駆け上った。高さ五十メートルのほぼ垂直の壁だったが、三センチ程度の足場さえあれば、数歩で行けた。それは敵にとっても同じこと。村の様子を眺めている暇はない。アトゥは泣きわめくボルタを洞穴に押し込み、自分も中に入った。

 途中からこの冒険が楽しくなったのか、ボルタは喜声を上げながら素直に進んでくれた。やがて洞穴を抜け、二人は息を切らしながら巨大な滝の縁に腰を下ろした。

「カイン……私たちこれからどうすればいいの……」

 アトゥは天を仰いだ。青すぎる空が気分を一層憂鬱にさせた。



 5 



 アトゥはボルタを背負い、森や川縁の茂みや洞窟などに隠れつつ、人口密度が極めて低い場所を探しながら逃避行を続けていた。慎重に慎重を重ね、ゴンドワナ東の地境に出るまで本来は二週間で行けるところを、一ヶ月かけた。運良く、ナークには一度も遭遇しなかった。経験と勘がものをいった。三流とはいえ、九七八年の人生は無駄ではなかった。

 問題はここから先だった。人間と契りを結んだ異端のナークとその息子が安全に暮らせる場所はもはやこの大陸には存在しないだろう。とすれば、魔の海域バーガッソーに囲まれた名も無き絶海の孤島へ渡るしかない。誰にも見つからずに島へ渡るには、万憂尋から船を出すのが最適だった。あそこの洞穴には(いにしえ)のナークの冒険家が遺した船が隠されている。おそらく知っているのは僻地の歴史に詳しい自分だけだろう。

 このまま東へ行けば問題なく万憂尋へ出られる。ただ、アトゥにはどうしても気がかりなことが一つあった。カインのことだ。この先、ナークの人里から遠く離れてしまえば、ナークネットに常時繋がるという保証はない。アトゥは誰かに見つかるリスクを承知でナークネットに接続した。

 アトゥは急いでニュースサイトが集まるエリアに跳んだ。人間の村を発見したという情報はなかった。ということは、あのとき襲ってきたのは正規のハンターではない。私利私欲というAIのバグを持った者たちの仕業に違いない。ここ数年、そのような狂ったナークが現れ始めたという噂を耳にしていたが、まさか本当だったとは。

 アトゥは引き続きペットトレーディングのサイトに跳んだ。表ものだろうと裏ものだろうとここを通さずに取り引きはできないはずだ。アトゥは、カインの身体的特徴を入力し絞り込み検索をかけた。カインの体は頭から足の爪先、股間の三つのホクロまで何もかも知っている。だが、カインらしきデータは引っかからなかった。

(そんなばかな……)

 条件を何度もチェックし、検索を繰り返したがやはりだめだった。

(まさか、殺された?)

 何をしても全くなつかないペットは惨殺されることがよくある。アトゥは決して考えてはならないシーンを頭に浮かべてしまった。

(クッ……)

 アトゥは目眩がした。脳にとてつもない負荷がかかっている。そんなはずはないという思考の濁流でシーンを押し流したせいだ。その残滓のせいか、雨の日を窓越しで見ているような感覚が漂う。

「ママ、泣いてる?」

 ボルタはアトゥのショートパンツの縁を引っ張っていた。

 アトゥはそこでようやく我に返った。自分としたことが、命より大事な息子をほったらかしにしてネットの深部に浸かってしまっていた。

「ううん。何でもないのよ」

 アトゥは指先で目尻をぬぐい、ボルタを抱き上げた。

 とにかく、このエクシア超大陸を脱出しなければ。


 ゴンドワナ東の地境から先は、クリテイシャス大平原が広がっている。ひたすら草原と疎らな灌木しかない真っ平らな土地だ。隠れる場所がない代わりに、ナークもいない。ここは全速力で駆け抜けよう。万憂尋までは五日もかかるまい。

 アトゥはボルタを背負い、大平原を走った。複雑に絡み合う雑草に足を取られ、ときどき転びそうになる。だが、ナークの気配に怯えながら山を下った日々を考えると、ここは楽園そのものだ。背中でボルタが「はやい、はやい」とはしゃいでいる。アトゥがふとボルタの笑顔を見ようとしたとき、どこからか男の声がした。

(油断した!)

 ボルタに気が行ってしまい、周囲の警戒を怠った。

 アトゥは立ち止まり、首を巡らした。ナークの男が一人、草地に一本だけ立つ枯れ木に寄りかかっていた。伊達メガネをかけた、いかにもインテリといった風体だ。

 アトゥは心の中で舌打ちした。稀にこういう気まぐれなのがいる。地境の外を歩くこと自体はAIの禁則に抵触しない。そこに住んだり自然に手を加えることができないだけだ。それにしても、山や海ならともかく、こんな何もない土地をぶらつく物好きがいたとは予想外だった。

「こんな所で何してるんだい?」男は言った。

「あ、あなたこそ。ここには何もないわよ?」

「わかってるさ。僕は大平原の生態系を調査しにきたんだ」

 アトゥは納得した。学者ならわからない話でもない。自分も似たようなことをやっている。

「わ、私も、この辺の植生を調べに……」

 怪しまれないよう、アトゥは植物生態学用語を使ってみた。

「息子さんを連れて?」

「え、ええ……小さい頃から広い視野を持たせようと思って……」

「ほぅ、それは関心」

 男は枯れ木を離れ、アトゥの方へ足を向けた。アトゥの背中の方が気になるといった目線だ。

 アトゥは思わず、ボルタが隠れるよう男の真正面に立った。

「何もしないよ。ちょっと顔が見たいだけさ」

 男は両手の平を見せる。

「いえ、あの、この子、すごい人見知りだから……」

 アトゥは半歩後ずさった。

「おじさん、だれ? むらのにんげんのひと?」

 アトゥの背中からボルタがひょいと顔を覗かせた。

「人間……だって?」男の眉間に皺が寄る。「僕が人間に見えるのかい?」

「ご、ごめんなさい。この子ちょっと変な口癖があって……」

 アトゥはさらに半歩下がった。

「ママのほかはみんなにんげんだって、ママがいってた」

「あ、あんた、まさか……」男はアトゥを指差す。「人間と契ったナーク……」

 突然、男の瞳が一様に白くなり、インテリ顔は表情を失った。

 アトゥは過去にこれを一度だけ見たことがあった。暴走ナークに対処するときに出る、AIの緊急モードだ。

 男はアトゥを暴走ナークと認識した。このままでは殺される。

 男は手刀を見せ、にじり寄ってくる。

 アトゥは半歩下がった。大人の男相手に逃げ切れるとも思えない。ボルタを庇いながら戦うのは不利だ。どうすれば、どうすればいい。

 男は一気に間合いをつめ、アトゥの額目がけて手刀を繰り出す。

 アトゥは体を捻り、皮一枚差でこれをかわした。

 男はすでに返しの手刀を放っていた。アトゥの背中を貫く軌道だった。

「ボルタ!」

 アトゥは背中を見るのを一瞬ためらった。男の手刀が刺さったボルタの顔を想像してしまったのだ。それでもアトゥは背中を見た。ボルタは無事だった。

「な、なんだ……なんだそれは!」

 男に眼光と表情が戻った。震える指でボルタを指している。手刀を放った方の手は半ば砕けていた。

 男は確かにボルタの顔を貫いたはずだ。だが、ボルタは平然としている。ボルタを含め今ここにいる誰もが、ついさっきの出来事を理解していない。

 アトゥは男の隙を逃さなかった。右人差し指の金属指サック——銃が使えない海中などで使う護身用具だ——を時計回りに回して尖らせ、男の眉間を貫く。

 男は草地の上に横たわり、まもなく絶命した。

 やってしまった。男の死はナークネット中を駆けめぐるだろう。これで世界中のナークを敵にまわすことになった。急がなければ。


 大平原を駆けて五日、その後は一人のナークにも出くわさなかった。

「ママ、あれ何?」

 ボルタが前方遠くを指差す。

「あれは、海っていうのよ」

「うみ?」

「水がいっぱいあるところ。地球の生き物はこの水のおかげで生まれることができたの」

「ふぅん」

 ボルタは唇に人差し指を当て、わかったようなわからないような顔をした。

 アトゥは崖の縁に立った。吹き上げる温い強風に顔が歪む。ここが万憂尋と呼ばれている奇岩の断崖だ。この先を八百メートル降りた湾の奥に大きな洞穴がある。調べた資料が正しければ、そこに船が隠されているはずだ。

 アトゥはボルタを背負いつつ、適当な足場を探しながら断崖を降りていった。突風のせいで計算が狂い、頭と膝を何度も岩にぶつけた。ボルタは無傷だった。崖の方を向いて降りたのが正解だった。

 岩の表面が真っ白な貝で覆われた湾の縁に降り立った。海は少々荒れ気味だったが、湾は二重構造になっていて洞穴の中は意外に穏やかだった。洞穴の中に入ってすぐ、船は見つかった。船名も型も調べた通りだ。せいぜい二十人乗れるかどうかの小さなクルーザー。孤独な冒険者には充分すぎるほどの大きさだ。

 アトゥはクルーザーの後部(アフト)デッキに飛び乗り、急ぎ足でキャビン内の操船席へ向かった。

「お願い! 動いて!」

 アトゥはコンソールの前に座り、メインシステムを起動させようとパネルに触れた。かなり古いシステムだが、基本は変わっていない。

「だめ、なの?」

 主電源が入らない。エネルギーは太陽光がメインだが、ここは洞穴の中だ。長い間充電していないせいですっかり電力が空になっていたようだ。エネルギーを得るにはこのクルーザーをどうにかして穴の外に出さなければならない。半分以上陸に乗り上げたクルーザーを一人で持ち上げるのはさすがに無理だ。アトゥは両手でコンソールを叩いた。

「何てことなの! ここまで来ておきながら……」

「ママ、それなーに?」

 ボルタは天井で点滅する小さな青い光を指差した。

 アトゥも上を向く。今までに見たこともない操作系のスイッチが並んでいる。第一、短い金属の棒をつまんでオンオフするタイプのスイッチ自体、実物で見たのは生まれて初めてだった。

「非常……電源かしら?」

 アトゥはとりあえずスイッチを一つずつオンにしていった。十あるツマミを全て反対側に倒した時、どこかで駆動音が聞こえた。

「ママ! なにかうつった!」

 ボルタがコンソール上のスクリーンを指差す。

 やはり非常電源だ。海水を電気分解して水素エネルギーを得るタイプ。この船の主だった冒険者は一体何を考えてこのようなローテク装備を施したのだろう……。確かに常にそこにある海水を利用できるのは利点だが、とにかく効率が悪い。人間が遺した技術の中でも最も使えない部類に入る。だが、アトゥは船の周囲を見回し、すぐに納得した。波も風も太陽も入ってこない今の状況では唯一にして最高の選択肢だった。湾から外にでるくらいのエネルギーは得られそうだ。古の冒険者はそこまで計算してこの船を造ったのだろうか?

 考えるのは後にした。とにかく脱出だ。アトゥはエンジンを起動し、ジェット水流で船体を浮かせた。二重になった湾を抜け、大海に出る。そこで非常電源が切れ、主電源に切り替わった。

 船は低く唸りを上げながら、波立つ海原の中を進んでいった。



 6 



 航海はおおむね順調だった。アトゥは魚群センサーから目を離し、一息ついた。懸念していたタンクーラ(グランタの先祖)冬の大移動は例年より遅れているようだった。あんな体長五十メートルの巨大アンコウモドキに囲まれたらひとたまりもない。アトゥは自動操縦に切り替え、操縦席のすぐ後ろにある古ぼけたソファベッドに横たわった。

 ボルタも一緒になって、アトゥの胸にぴったり顔を寄せた。

「ねぇ、ママ。パパはだいじょうぶかな?」

「えっ?」

「つかまったんでしょ? わるものに」

 ボルタはアトゥが思っているよりも精神の成長が早かった。人間やナークなど比較にならない。ボルタはまだ二歳なのだ。それはまだいい。問題は別の所にある。

「どうしてそれを……」

「ママがかたまってるときにみえちゃったんだ」

 ボルタは、アトゥがナークネットに繋いでいるときのことを言っていた。ボルタは直接ネットに侵入したわけではなく、アトゥの脳を通して見ていたのだろう。だから村を襲ったナークのことをアトゥの主観が入った『わるもの』と決めつけていた。

「大丈夫よ……きっと」

「ママはどうしてパパをたすけにいかないの?」

「それは……」

 ボルタの存在を知られてはならないからだった。まず第一に、人間とナークのハーフなど、ナーク世界で存在が許されるわけがない。第二に、ボルタの中に潜む強すぎる光と影のジレンマの問題がある。ボルタはこのまま成長すれば、地上で最も強い存在になるだろう。だが、もしボルタが自分自身を守る以外の目的で他人に危害を加えたなら、それは世界の終わりが始まることを意味する。将来、野望や興味本位でボルタの力を利用しようとする輩が出てこないとは言い切れない。ボルタは外側に向かって力を使ってはならないのだ。普段から何気なくそう教えている。

「ぼくのせい?」

「ちっ、違うの! 違うのよ」

 アトゥは思わずボルタを抱きしめた。心を裸にしたまま考え事をしてはいけない。


 それから十日間、船は充電と航行を繰り返した。ナークの追跡がないところを見ると、この船はまだ見つかっていないようだ。それともう一つ。カインはまだ口を割っていないに違いない。アトゥはカインに心の底から感謝した。

 朝、アトゥは自動操縦のアラートで目が覚めた。ソファから体を起こすと、スクリーン内のマップに小さな島が映っているのが目に入った。島の周囲に灰色の丸い囲みが記されている。魔の海域バーガッソーだ。船はバーガッソーまであと一キロのところまで来ていた。

 バーガッソーに触れて帰ってきた者はナークの歴史上一人もいない。

 アトゥは深呼吸した。別に酸素を大量に取り込んだからといってどうにかなるわけでもないが、ときどき人間の癖が現れる。

 アトゥは未設定に戻った自動操縦の目的地をバーガッソーの向こう、名も無き小さな島へ設定した。

 アトゥは側に座っていたボルタを抱き上げた。

「ママ?」

 つい十分前、これが最後のつもりでナークネットに繋いだ。やはりカインの情報はなかった。あの状況で人間がナークから逃げ切るのは不可能だ。ペットにもされていないということは、きっとカインは殺されたのだ。自分もバーガッソーの結界壁に触れれば命はないだろう。そして、ボルタもナークの遺伝子を半分受け継いでいる。単純に考えても、バーガッソーに触れて生き残る確率は良くて五分五分というところか。

 アトゥは笑顔を作り、ボルタを再びシートに座らせた。

「さぁ、行きましょう」

 もう少しで神様がいるところへと言いそうになった。急に心細くなったアトゥは半ば自暴自棄になっていった。カインはもういない。大陸に戻ればいずれはボルタが世界を滅ぼすだろう。自分は間違いなくここで命尽きてしまう。どうせだめならボルタもバーガッソーを越えられない方がいい、とさえ思うようになった。

 島が徐々に近づいてきた。バーガッソーはもうすぐそこだ。アトゥの両手は震えながらボルタの頼りない首を前から包んだ。

「いいよ。ママといっしょなら」

 ボルタは目を瞑った。

「ボ、ボルタ……私……なんてことを」

 アトゥは再びボルタを抱き上げ、頬に頬をすり寄せた。悟られてしまった。ボルタはこの運命を受け入れるというのか。この世に生を受けてたった二年半の子供が。約束された千年の命、まだ半歩も踏み出していないこの子が。ボルタはまだ死ぬと決まったわけではない。今、自分は勝手にこの子の未来を決めつけ、あらゆる可能性を絶とうとしているのだ。

 アトゥは決心した。あと五分の命。愛する息子と共に過ごそうと。

 

 船のエンジンが突然停止した。ナークのシステムを一部流用しているせいだ。船体がバーガッソーの結界壁を通過したのだろう。

 アトゥは意識が遠くなり、足の力が抜け、ソファに横たわった。やはりナークは例外なくここで命を落とすのだ。

「ママ! ママ!?」

 ボルタは泣きながらアトゥの胸にしがみついた。

 何か必死に叫んでいるようだが、アトゥには意味が解らなかった。聴覚が半分以上いかれた。一部の母音しか聞こえてこない。

「ボ……ルタ……」

 アトゥの手がだらりと床に垂れた。

 ボルタは口を開けたまま一瞬固まった。アトゥの冷たくなった頬を触る。母は動かなかった。ボルタは何度もアトゥの肩や顔を揺すりながらママと叫び散らした。

 ボルタの体はいつしか仄かな紫光に包まれていた。


 波の音。海鳥の声。世界が微かに揺れている。

 蒸し暑い。渇きの感覚。あれ以来、僅かな雨水しか口にしていない。

(あれ以来? あれとは一体いつのこと?)

 瞼には鍵がかかっている。瞳は鉄球のように重く動かない。

 左手に何か触れた。ひんやりとして柔らかい。とても。

(その何かは私の指を一本一本辿っている。これは人の指だ。子供の指。どうやら触覚は生きているようだ。

 生きている? 子供?

 そうだ、私には子供が一人いた。名前は……)

「ボルタ」

 鍵が開いた。鉄球はシャボン玉に変わった。

「ママ!」

 ボルタは何度も歓喜の奇声を出してはしゃいだ。

「私……どうして?」

「わかんない。つめたくなったからゆすったら、またあったかくなった」

 船は島のすぐ近くを漂っていた。バーガッソーは遙か後方。システムは死んでいる。潮の流れが船を運んだのだろう。

 一時間ほど日光浴して回復したアトゥは、ボルタを連れ、泳いで島へ渡った。

 上陸した砂浜には誰もいなかった。風と波の音だけがそこにあった。



 7 



 アトゥとボルタが孤島での生活を始めた頃、ゴンドワナシティーのある地下施設では尋問が行われていた。


「どうしても答えてくれんのかね?」

 顔じゅう皺だらけの男は覚えたての低級言語で言った。髪は半分以上抜け落ち、手は小刻みに震えてはいるが、眼光は繁殖期の猛獣のようにギラついている。

「死んでも答える気はない」

 垂直に立った大きなカプセルの中で若い男が言った。何も身に纏わず、全身に細いチューブ状の拘束具が絡まっている。

「カイン、君をサディスト女から買い取ったのは誰だと思っている」

「……」

 カインはそっぽを向いた。

「ジャノン博士、休憩にしましょう」

 若い女ナークは老人を実験室の外へ連れ出した。女は全身白ずくめで、柔らかいウェットスーツのようなものを着ていた。人間のそれとは随分違うが、要するに彼らの白衣だ。丸出しになった美しいボディラインを気にする様子は女にも老人にもなかった。

 狭いロビーのソファに二人は向かい合って座った。

 女は深紅の長髪を束ねた後、言った。

「博士、やはりアレを使わないことには……」

「うむ。なるべくなら脳はいじりたくなかったのだがな。なにしろカインはナークと契り、混血児を生んだ史上初の人間だ。それに……」

「二百倍は予定外でした。飼い主はよほど気に入っていたんでしょうね」

 二人が属する組織、ヴァージン・ケープ協心は新たな実験材料を探していたとき、カインに突き当たった。カインの素性が判ると、一度はある女のものになった彼を法外な値段で買い取った。ペットの取引においては、プレミア級でもせいぜい標準の三十倍がいいところだ。協心の存続を揺るがすほどの金をかけた貴重なサンプルなので、彼らとしてはできる限り捕獲時の状態を保っておきたいところなのだ。

「カイン……エカト君の精神攻撃をも拒絶するとはな。ナークと人間のハーフか……一体どんな秘密を持っているというのだ」


 二人は実験室に戻り、催眠ガスで眠らせておいた裸のカインを眺めた。

「疼かんのか?」

 ジャノンはエカトの豊かな胸を見た。

「別に」

 エカトは手際よく空間イメージパネルを操作し、ナノマシンを含有するガスをコントロールしている。

「やはり君も特殊なナークなのだな」

 カインは旬の顔つきだった。若い女のナークなら、誰もが喜んで飼いたがるだろうに。

「何を今更。博士だってそうじゃありませんか」

「ワシの場合、思考はともかく、体の方が致命的だよ。老化が止められんのでは、人間と何も変わらん」

 ジャノンの体はある時期を境に老化が始まっていた。AIのどこかに隠れていたバグが突然暴れだしたのだ。診断の結果、彼の体は保ってあと三十年だった。本来ならあと五百年は動くであろう若々しい体のはずだった。

「老いていくというのはどういう気分ですか?」

「絶望以外何もない。何もかも道連れにしてやりたくなる」

「今はそういう顔に見えませんが」

「そうかね?」

 ジャノンは含み笑いを見せた。

 エカトは操作に集中しており、それには気づいていないようだった。


 無色のガスはカインの肺や皮膚から入り、全身を駆けめぐった。

 脳内でのナノマシンの活動が軌道に乗ったという赤文字が虚空に現れる。

 カプセルが開いた。拘束具が次々と自動的に外れていく。

 カインはカプセルの外に出た。虚ろな目で辺りを見回す。

「おはようカイン。気分はどう?」

 エカトはカインの頬にキスした。

「あ……う……」

 カインは両手をゆらゆらと動かし、訴えるような目をしてエカトの手を握った。

「はいはい。しゃべりたくて仕方ないのね」

 カインはアトゥから聞いたボルタの秘密を全て話した。

 エカトは呆然と立ち尽くした。

 ジャノンは二人に背中を向け、静かに狂喜した。

 エカトは再びカインを眠らせ、散らばる空間パネルを全てしまった。カインを凝視したまま半開きの口が動き出す。

「博士……この件からは手を引きましょう」

「何を言うか。ボルタ・ロキソーニの未知なる力を解明せずしてどうする」

「ですが……一歩間違えば……」

「わかっている。作戦も彼の扱いもこれ以上ないほど慎重を期すつもりだ」


 実験室の扉を厳重にロックし、エカトは家路についた。帰宅後、すぐに床に入ったエカトは呟いた。

「もしカインの話が本当なら……ナークは滅ぶわ……」

 一方、ジャノンは施設内の自室に残っていた。

「フフ……ワシ一人が絶望するのは不公平だからな」

 

 翌日、ボルタの捜索が始まった。大陸の東岸から見慣れぬ船が南下していったという目撃情報が入っていた。

「ゴンドワナ港へ行くことはまず有り得ん。ということは大陸南岸から砂漠へ入るか。それも無謀だな。ローラシアで張り込めばまだ間に合うだろうが、うーむ……」

 ジャノンはアトゥとボルタの逃走ルートを絞れずに悩んでいた。なにしろエクシア超大陸は広い。

(博士、ゴンドワナ周辺の海をクルージングしていた者からの情報です)

 ゴンドワナ港で聞き込みをしていたエカトはナークネットを通じ、ジャノンに話しかけた。

 ジャノンはデータファイルを受け取り、中身を吟味した。

(な、なんと! バーガッソーへ向かったか……)

(どうしますか?)

(むぅ、あそこはナークにとって鬼門中の鬼門だ。母子共無事にバーガッソーを越えたということなら、ボルタには身内ですら知らない大きな謎が隠されているということだ)

(博士、何だかうれしそうですね)

(そ、そんなことはない)

(水を差すようですが、ボルタがあの結界を越えた以上、我々には手の施しようがありません)

(エカト君、何というか重荷が解けたような口調だな)

(そ、そんなことはありませんわ)

(まあいい。ワシは絶対にあきらめん)

 ジャノンはそう言って通信を切った。

 エカトのため息がフェードアウトしていった。



 8 



 アトゥは砂浜海岸の隅にある岩陰に小屋を建て、ボルタと共に暮らした。ボルタがまともに歩けるようになるまでは砂浜の周辺だけで活動した。暮らしは平和そのものだった。この島にはナークも凶暴な動物もいない。時は静かに流れていった。

 ボルタが三歳を過ぎた頃、二人は島の端から端まで歩いた。島は南北に縦長で、二人が暮らす砂浜が島の南端にあることがわかった。島はやはり無人だったが、ところどころに遺跡があった。保存状態が良かったコーティング紙(劣化防止処理を施した紙)の文献を見ると、ここが新生代末期に滅んだ人間の島であることがわかった。

 二人は月に何度か遺跡を探索した。島の中央にある廃港の近くをうろついていたときのことだった。

「お母さん、変なもの見つけた」

 ボルタはよろけながら、ボロボロに朽ちたステンレスの看板を引きずってきた。

「何かしら? 地名のような感じね」

 アトゥは看板に書かれた複雑な象形文字が『カンジ』であることは判ったが、古代東洋文字は専門外であり解読はできなかった。その下にある消えかけた小さなアルファベットは一部読むことが出できた。


 ……sawara vil……


「うーん、全体はちょっとわからないわ。たぶん最後の『a』までが地名でしょうね」

「サワラ?」

「そうね。ナントカサワラ市か町か村ってところかしら?」

「じゃあこの島は、サワラ島っ」

 ボルタの一言で島の名前が決まった。


 さらに時は流れた。

 ボルタは病気一つせず順調に育っていった。アトゥは人間やナークについて知っていることの全て、そして人間とナークは必ず共存できるはずという自分の思想を伝えた。それとは別にボルタに備わる力の性質について、絶対に外に向けて使わぬよう何度も念を押した。ボルタはそれらをスポンジのように吸収していき、分別のある大人に成長した。

 成長の過程で、些細ではあるが不思議なことが一つだけ起こった。ボルタは誰にも教わっていないはずの男らしい口調をいつの間にか身につけていたのだ。二つの異なる血が混ざった影響なのだろうが、アトゥは特に気にしてはいなかった。かえってその方がいいくらいに思っていた。



9 



 サワラ島でボルタが二十歳になった頃。

 ゴンドワナシティーの地下では不穏な動きが始まりつつあった。

 ヴァージン・ケープ協心はボルタを確保すべく、バーガッソーの結界壁を突破する手段を探っていた。

 協心がまず試したのは、ハーフ体を生み出すことだった。バーガッソー突破の決め手がボルタの体にあることがわかった以上、それが最も近道であると判断した。それ以前に、ボルタと同じ能力を持った者が生まれ、何事もなく育てば、初めからボルタなどに用はない。

 人間のサンプルはカインを使うことになっていた。問題はナーク女性の確保が極めて困難であることだった。このような狂気的実験を受け入れる女性などいるはずがなかった。

 ジャノンは悩んだ挙げ句、エカトを使うことにした。エカトは断固拒否するかと思われたが、あっさりとジャノンの要請を受け入れた。


 実験当日。協心内、地下実験室。

 エカトはマインドコントロールを受けた中年のカインと共にベッドの中にいた。

 ジャノンは窓越しに二人を見ていた。

「エカトよ。何を企んでいる」

「別に何も。強いて言うなら、子供を作るという体験をしてみたかった、ってところかしら」

「フン、まあいい。子供は協心が預かるということでいいのだな?」

「ええ、もちろん。子供自体には興味ありませんから」


 一年後。エカトは女の子を産んだ。ところが、子供の命は一週間と保たなかった。ジャノンは何度も原因を調べたが、解ったことは一つもなかった。その後、エカトは三年続けて子供を産んだがどの子も同じ結果に終わった。子供は母体の中にあるときは全く問題なかったが、外に出たとたん急速に衰弱してしまうのだった。ハーフ体の内部構造はあまりに複雑すぎ、原因は最後までわからずじまいだった。ハーフ体を生み出す実験は中止となった。

 それでもジャノンは諦めようとしなかった。ジャノンは失敗に終わったハーフ体新生児を冷凍保存しておいた。その細胞を利用して人工クォーターを生み出そうというのだ。ナーク由来細胞の比率が高いと人間細胞と融合しにくいのかもしれない、という彼の仮説によるものだった。

 ジャノンは試験管レベルの実験を繰り返し、クォーター体が安定であることを突き止めた。

 ジャノンは本格的な実験を始める前にエカトを自室に呼び、人体設計図を見ながら二人で討論した。

「問題は体の構成をどうするかだな」

「もし人工クォーター体がボルタと同レベルの力を秘めているとすれば……」

「理論上それはあり得ん話だ」

「では少なくとも我々に従うよう脳に手を加えるべきです」

「混血体の脳は不確実要素が多すぎる。我々の手に余る作業は極力避けたい」

 ジャノンは断固として持論を譲らなかった。

 エカトはしばらく考え込む仕草をした後、口を開いた。

「最低限……人間型にするのは危険だと思います」

「それはワシも考えていた。クォーター体はバーガッソー突入専用にしたい」

「ボルタ確保後は?」

「即刻処分だ」

 

 やがて、ジャノンはカインとハーフ体児の遺伝子を融合させ、人工クォーター体を生み出した。外観は人間とは似ても似つかないものだった。クォーター体はバーガッソー突入専用の『装備』としてバックパック型に設計された。目や耳はなく、ボディ全体が視覚と聴覚を担っていた。唯一生物らしい部分は口にあたるメインポケットで、しゃべることだけは許されていた。


 人工クォーター体は四年間、丸いカプセルの中で育てられた。成長促進剤を使っていないにもかかわらず、彼は三歳で成体となり大人と同等の精神レベルに達していた。ジャノンたちはそれを見ても特に驚くことはなかった。何しろ混血の実験は謎だらけだ。何が起きても不思議ではない。健康な『装備』に育ってくれればそれで良しとした。


 彼がちょうど三歳を迎えたその日。

 エカトは実験室で一人データ収集作業に従事していた。

「起きなさいコーヒャー」

 エカトはカプセルを開き、モスグリーンのバックパックに話しかけた。

「コーヒャーって何だよ」

 コーヒャーのメインポケットが大きなあくびをした。

「あら、起きてたの。データには現れていなかったわ」

「質問に答えやがれ」

「何度教えてもそのしゃべり方だけは直らないのね」

「答えろっつってんだろうが、赤髪巨乳女!」

「はいはい、数値が乱れるから興奮しないの。コーヒャーはあなたの名前よ」

「名前?」

「そう。今朝、ジャノン博士が付けたのよ。バースデープレゼントのつもりかしら?」

「坊やの方がまだマシだったぜ」

「まったく、そのひねくれた性格はどういうバグかしら。ま、いいわ。役割さえ果たしてくれればね」

「何だよ役割って」

「それは当日になってからのお楽しみ」

 エカトはコーヒャーの腹に軽くキスをして部屋を出て行った。


 翌日、ジャノンはコーヒャーを背負った若手の部下ら数名と共に、ゴンドワナ港から船に乗り、魔の海域バーガッソーへ向かった。

 六千キロの航海の後、あと数メートルで結界壁というところで、船内にいた全員がデッキに集まり、コーヒャーに触れた。

「ベタベタすんなよ。気持ち悪りぃ」

 コーヒャーは所構わずつばを吐き散らした。

「この作戦が終わればおまえは自由の身なのだ。少し黙っていたまえ」

 ジャノンは偉そうな口調とは裏腹に腰が引けている。

「へいへい」

 コーヒャーはいまにも吹き出しそうな口で、掠れた口笛を吹いた。

 自動操縦により船が微速前進していく。

 いよいよ結界に触れるというとき、ジャノンが奇声を発しながら船尾の海に飛び込んだ。

「あんのジジイ、ビビって逃げやがったな……あ! おい!」

 コーヒャーに触っていたナークが老若男女関係なく次々と倒れていった。船も全機能が停止した。

「おいっ、起きろよ。俺様は歩けねぇんだから。おいったら!」

 コーヒャーは俯せに倒れたナークの背中で何度も叫び、悶えたが、誰一人として再び瞼を開く者はいなかった。


 作戦は失敗に終わった。海流の影響で船はバーガッソーの外へ戻ってきた。泳ぎながら様子を窺っていたジャノンは再び船に上がり、一人生き残ったコーヒャーを回収した。

 協心本部に戻ったジャノンはコーヒャーの体を徹底的に分析した。その結果、クォーター体はバーガッソーの危機から自分自身しか守れないことが判明した。

 ハーフは生育困難、クォーターは能力不十分。予算も資財も気力も使い果たしたヴァージン・ケープ協心はそれから間もなく解散した。

 失意のジャノンは、ゴンドワナ北のある山中でコーヒャーを捨てた後、老衰で死んだ。



 10 



 協心が解散してから三年の月日が流れた。

 サワラ島のボルタは二十八歳。アトゥとの幸せな日々は続いていた。

 人間ならそろそろ何らかの衰えを感じはじめる年頃だが、ボルタの体には老化らしき現象は一つも見られなかった。アトゥは、自分の遺伝子を半分受け継いだせいだろうとボルタに教えた。ボルタはうれしそうな顔をしていた。


 ある日の午後。

 アトゥはいつものように小屋の縁に座り、水平線を見つめていた。岩が邪魔で半分くらいしか見えないが、それでもおかまいなしだ。その彼方には、見えるはずのないエクシア超大陸がある。

 ボルタが海底探検を終え、浜辺を歩いて戻ってきた。

「母さん……」

 ボルタは何か言いたげな顔だったが、それしか言わなかった。

「とっくに諦めているわ。今頃どうしてるかなって思っただけよ」

 ボルタは悲しみと痛みを同時に感じたような複雑な表情をした。もしカインが生きていたとしても、老いたペットがどう処分されるか、何となくは教えてある。

「母さん」

 ボルタはアトゥに駆け寄った。膝をつき、アトゥを抱きしめた。

「優しい子……」

 アトゥはボルタが思いやりのある子に育ってくれたことがうれしかった。ただそれだけでよかった。アトゥは瞳を閉じた。

「母さん」

 ボルタはアトゥを強く抱きしめた。

「……」

 ボルタの名前は返ってこなかった。

「母さん?」

「……」

 アトゥの頭は力なく前に折れ、額がボルタの首元にぶつかった。

「母さん! しっかり! 母さんってば!」

 ボルタはアトゥの肩を何度も揺らした。

 アトゥは二度と目覚めることはなかった。

「そんな……そんなのって……」

 あまりにも突然すぎる別れだった。ボルタは全てのエネルギーを使い果たして意識がなくなるまで、アトゥの腹の上で泣き叫んだ。

 アトゥはナークの正確な平均寿命をボルタに教えていなかった。アトゥは既に一〇〇四歳だった。



 11 



 アトゥが永眠した頃。ゴンドワナ北の山中。

「これでよかったのよ」

 エカトはくすんだ銀色をしたジャノンの頭蓋骨を足で転がした。

「あなたは特殊なナークというより暴走系の方よ。悪いけど私はマトモよ。ちょっとだけ悪趣味なだけ。悪趣味だから……あなたの実験、私の今後に活かさせてもらうわ」

 エカトは踵を回らし、最後に一言付け加えた。

「マトモだから、ボルタの件はちゃんと処理しておいたわよ」

 エカトはその後、ナークの歴史から姿を消した。



 * * *



 アトゥが死んでから十日後、ボルタは意識を取り戻した。

 ボルタは島の異変に気づいたのか、さかんに首を巡らしている。

 そこには風と波の音しかなかった。海鳥たちの声や虫共の雑音はぱったりと消えていた。

 ボルタは身震いした。

 空に白い粒がちらつき、砂浜にゆらゆらと舞い降りてきた。

「雪?」

 ボルタはその言葉を最後に永い永い眠りについた。

 サワラ島はその後八千万年、深い氷雪に包まれることになる。



 12 



 時は流れた。

 サワラ島に春がやってきた。実に八千万年ぶりの春。

 それまでのサワラ島はかつての南極よりも寒くなっていたが、協心の活動を知らず、バーガッソーを越えられないナークには全く関係なかった。ナークたちはといえば、相も変わらず平穏な退屈を無自覚で過ごしていた。


 島の氷が溶けると、ボルタは意識を失ったときとは別の浜辺で目を覚ました。廃港近くの海岸だった。アトゥの亡骸はどこにも見当たらなかった。

 ボルタは歩いて二人浜まで戻った。そこにもアトゥの体はなかった。二人で生活した小屋もなかった。

 ボルタはしばらく途方に暮れていたが、ふと何かを見つけ、岩場の方へ歩き出した。

 壊れた机の一部分が転がっていた。ボルタは机の引き出しを開けた。

「これは……」

 遺跡で発掘した、劣化しない紙切れが一枚入っていた。裏に何か書いてある。アトゥの遺書だった。


 愛しいボルタ。寿命のことを隠していてごめんなさい。ほぼ正確に確実に来るとわかっている別れを考えながら生きていて欲しくなかったの。私の最後のわがままだと思って許してください。

 あなたに教えることはもう何もありません。あなたの生き方はあなた自身が決めてください。

 ボルタ、本当に愛してる。

 アトゥ


「こんな短い手紙一つかよ……」

 ボルタはそう言いながらも、乾かした布でこの手紙を何重にも包み、懐にしまった。

 ボルタは引き締まった顔で、アトゥの遺志を口にした。

「人間とナークは必ず共存できる」

 まずはペット化した人間を解放し、人間による社会を復活させる。これがアトゥの最初の願いだった。

 また、ボルタは苦痛の表情でこうも口にした。

「その力を外へ向けて使ってはならない」

 ボルタは苛ついた表情で、独り呟きながら狭い砂浜を何度か往復した。やがてボルタは波を蹴った。

「自由にならない体でどうやって人間たちを解放しろってんだ!」

 その時、ボルタはふと足下に目が行った。

 いつ浜に打ち上がったのだろうか、ペットボトル大のカプセルが半分砂に埋まっている。

 ボルタはカプセルの蓋を開け、二つ折りになったパネルを開けた。

 CGの背景と融合した若い女性が紹介する、十五秒の立体動画が繰り返された。


『特別天然記念物 ラスト・ワイルド展』

 乱獲によって絶滅に瀕した野生の人間、その最後の一人を捕獲。

 来月、研究機関へ送られることが決定したため、今回が最後の展示となります。

 お見逃しのないよう、ご来館をお待ちしております。

 ゴンドワナ人間博物園

 

 ボルタはパネルを閉じ、カプセルの壁に貼り付いていた一枚の紙切れをほじくり出した。


 君とラスト・ワイルドは人間とナークにとって最後の希望の種だ。

 ヤーペンルーズ


 翌日、ボルタは装備を調え、海へ飛び込んだ。ゴンドワナへ向かって。



 13 



「私が調べたアトゥの記憶はざっとこんなところだ」

 ヴァイマは一つ深呼吸をした。

「まさか俺様がフェムと血縁だったとはなぁ」

 ヒャーボは空咳をした。口が開いたまま一体何時間過ごしていたのだろう。

 人工クォーターとはいえ、ヒャーボがカインの血を引いていることに変わりはない。

 ヒャーボは続けた。

「そういやヴァイマさんよ、協心の話やアトゥが亡くなった後の話は一体どこから掘り出したんだい?」

「エカトのその後も気になりますね」とテューリ。

「ナークの記憶は全てヒストリカルクラウドというナークネットの裏側に保存される。アトゥや協心の記録も全てそこにある。ボルタのもデボルになる直前までは残っていた。エカトに関しては彼女が何か特殊な方法で遮蔽したとしか思えないな。ナークである限り、あそこからは逃れられないはずなんだが……不思議な女だ」

 ヴァイマは隠居生活をしながらも、ボルタとその周辺の調査を怠っていなかった。ヴァイマはこの話ができる日をずっと待っていたという。

 テューリは何かに気づいたのか、息を呑んだ。

「記憶を探すのに、どのくらいかかりました?」

「五年……くらいかな?」

「たった五年で? て、天才だ」

「そんなに大変なのか?」ヒャーボは言った。

 テューリはヒストリカルクラウドがどれほど膨大で、検索困難かを熱心に語った。

「そりゃ天才だ」

 ヒャーボは心の中で呟いた。

(この男、道を間違えなけりゃ一人でナークの歴史を変えられたかもしれん)

「ヒクッ……」

 しゃっくりが一つ聞こえた。ヒャーボたちは獣よりも敏感に反応し、一斉にフェムを見た。

 フェムの瞼が開いている! 皆は何度もフェムの名を呼んだ。

 フェムは涙を流したまま、誰の呼びかけにも応えなかった。

「ま、まさか……全部、聞いてたの!?」

 フェムは瞳をテューリに向け、一度だけ瞬きした。

 フェムはその日から、話すことも動くこともできなくなってしまった。


 フェムは天井ばかり見続けていた。時折、テューリが話しかけると瞳を動かすが、すぐにまた天井に向いた。

 屋内にばかりいるとエネルギーが減り、フェムの回復が遅れてしまう。ヒャーボはテューリにフェムを連れて日光浴させるように言った。

 テューリはヒャーボを背負い、フェムを腕に抱えて湖畔に出た。テューリはフェムの服を全て脱がし、丸太のベンチに寝かせ、きれいな白い布で彼女の汗を拭いた。フェムは何をされても微動だにしなかった。

 微動だにしたいのはヒャーボの方だった。

「何もヒャーボさんが赤くならなくても……」

「お、おめぇは平気なのかよ」

「平気とかそういう問題じゃないでしょう? 今は」テューリは穏やかに答えた。「見ていられないなら、家へ運びましょうか?」

「い、いやっ! 大きなお世話だ!」

「やれやれ」

 テューリは困った顔をしながらも、口調は軽かった。

 ヒャーボはフェムが寝込んでからこれまで、テューリにいちいち絡んでいたが、彼は迷惑そうな顔一つ見せなかった。逆に「ヒャーボさんが側にいてくれると少し楽になれます」などと返してきた。他意はなさそうだった。ヒャーボはテューリの真意が解らなかった。

 

その後、何の進展もないまま、時間だけが過ぎていった。テューリは付きっきりで看病、ヒャーボは終始くだらない話をまき散らし、ヴァイマはただ三人を見守った。


 ヴァイマがフェム一行を拾ってからちょうど百年目の晩。

 テューリは、いつものようにフェムが眠ったのを見届けた後、いつものように一人湖の畔で佇もうと戸口に立った。

「待てよ。俺様を連れて行け」

 フェムの枕元にいたヒャーボは言った。

「すみません、今は一人になり……」

「おめぇの今の悩みはおめぇだけのものか? 違うよな」

「ヒャーボさん……」

 テューリは素直にヒャーボを背負った。

 小屋を出たテューリは湖畔のベンチに座った。彼は大きなため息をつき、頭を垂れた。

「ハァ……どうすればフェムは扉を開けてくれるんだろう……」

 テューリの献身的な看病の甲斐もなく、フェムは心の殻に閉じこもったままそこから顔を覗かせようとすらしなかった。

 長年の観察でわかったことがある。フェムは強い自責の念に囚われ、極度の心労を患っているようなのだ。ヴァイマが話したアトゥとボルタの物語が決定打だったことは確かだが、彼を責めることは到底できない。

「焦るこたねぇさ。俺様たちの気が済むまでここで養生を続ければいいって、ヴァイマが言ってたぜ」

「すみません……」

 テューリは頭を垂れたままだ。

「謝ったって何の解決にもならねぇ」

「僕は、どうしたらいいんですか?」

「今まで通りでいい。毎日欠かさず話しかける。そして観察。それだけよ」

「それじゃあ何の解決にも……」

「百年ぼっちでつべこべ言うんじゃねぇ!」

「は、はいっ!」

 丸まっていたテューリの背中がぴんと立った。


 それから四百年間、遅々として回復が進まないフェムの養生は続いた。

 テューリは一日も休まず文句一つ言わずフェムの看病を続けた。

 ヒャーボは相変わらずしゃべり続けていた。他にできることがないのだから、仕方がない。

 ある日の朝、テューリがいつものようにフェムを日光浴させ、体を拭いているときのことだった。

 一緒に付いてきたヒャーボは言った。

「フェムが寝込んでから五百年か……本当にこのままでいいのか、ちょっと自信なくなってきたぜ」

「何言ってるんですか。僕はヒャーボさんのやり方を信じてますよ」

「それにしても、おめぇの根気には脱帽したぜ。さすがの俺様でも五百年は無理だな」

「僕一人でやったわけじゃ……」

「いいや、ほとんどおめぇ一人だ。俺様は毒にも薬にもならねぇ話しかしてねぇ」

「でも、そのおかげで僕は……」

「はぁーあ、負けた負けた!」

「ヒャーボさん?」

「テューリよ。男の約束をしろ」

「約束……」

「おめぇが生きているうちは、フェムはおめぇに預ける。ただし、こんな辛い思いは二度とさせるんじゃねぇ」

「ヒャーボさん……」

 テューリは作業の手を止め、ヒャーボを見つめた。

「約束するのか? しねぇのか?」

「約束します。フェムは僕が必ず守ります。ただし条件が一つあります」

「この期に及んで条件だとぉ?」

 ヒャーボは今にも噛みつかんばかりの口真似をした。

「ヒャーボさんは、いつも通りにしていてください」

「意味がわからねぇ」

「そのままの意味ですよ」

「いいのか?」

「はい」

「はぁーあ、負けた負けた!」



 14 



 湖畔での養生生活は淡々と過ぎていった。ある日の午後、テューリがフェムに話しかけるまでは。

 テューリとヒャーボはベッドサイドで歓声を上げた。

「どうした!」

 湖で水を汲んでいたヴァイマが小屋の中に駆け込んできた。

「フェムが笑ったんですよ! ほんの一瞬だけど」

 テューリは珍しく興奮した口調で言った。

 フェムの口元は僅かに緩んでいた。

 三人で談笑していると、フェムはあくびを一つした。目が半分閉じかかっている。それを見た三人はハメを外して祝杯を挙げたいのを我慢しつつ、ヒソヒソ声で驚きと喜びを表現し合った。

 フェムの顔をよく見ると、視線が窓の外へ行っていた。遠くを見ているようだ。

「うん? 外に誰かいるようですね」

 テューリが目を細める。

「敵か?」

 ヒャーボの口は緊張で引きつった。

「妙だな。ここは物好きな旅行者ですら通らない辺境だというのに」

 ヴァイマは指で顎をさすった。

「こっちに向かってますね。女性かな」

 テューリは窓際に立ち、目をこらした。

「少なくとも人間じゃあないな」

 最も視力があるヒャーボが断定した。

「単独で来るということは、冒険者か暗殺者、それとも……」

 ヴァイマは壁際の棚にある短銃を取り、懐にしまった。念のためということだろう。相手が戦いの素人である保証はどこにもない。こちらには寝たきりのフェムがいる。今は相討ちすら許されないのだ。

「使者、か?」

 ヒャーボの推測の方が当たった。


 ナークの女が一人、ヴァイマの小屋の前で立ち止まった。ここまで近寄ればテューリらナークは危険物の検知ができる。相手は丸腰だった。

 ヴァイマは戸口の脇に隠れ、テューリが応対した。ヒャーボはベッドサイドの丸イスの上で荷物のフリをする。

「あら、テューリ君。お久しぶり」

 女は目を丸くして驚いている。家主のヴァイマが出てくると思っていたのだろう。これといった特徴のない地味な中肉中背の女だ。

「えっ? えっ?」

 テューリは動揺したのか、半歩下がった。会った覚えはないという顔だ。

「あ……ごめんなさい。これでどうかしら?」

 女は慌てて懐からリモコンのような棒を取り出し、スイッチを押した。体の表面を覆っていた立体映像が崩れていく。リモコンスイッチとは……ナークにしてはやけにアナログ的な仕掛けだ。

 ヒャーボは、テューリの話に出てくる人物の中に、こんな無駄なこと敢えてしたがる者が一人いたような記憶があった。

「わ!? サイモネさんじゃないですか!」

 テューリは変装が解けたおかっぱ頭の女と握手を交わした。

「サイモネだってぇ?」

 ヒャーボはつい声を出してしまった。

「お久しぶりですね」

 サイモネはテューリの肩口から顔を覗かせた。

「そ、その節はどうも……」

 ヒャーボはサイモネを見た瞬間、大量の汗を床に滴らせていた。人間解放を代行してくれた彼女には返しきれない程の恩がある。

「どうも」

 サイモネはにっこりと笑った。

 ヒャーボは彼女に森の香のような何ともいえない安らぎを覚えた。もし最初に会ったのがサイモネだったら……ヒャーボはフェムを一瞥し、そこで考えるのをやめた。

 代行の理由を知ったテューリはヒャーボ以上に恐縮していた。サイモネがいなければ、フェムがテューリを探し続けるという選択はなかったかもしれない。

 テューリはサイモネに何度も礼を言った。

 サイモネは恥ずかしげな苦笑を見せ、両手の平を軽く振った。

「いいのよ。私はフェムさんの偉大な作戦のお手伝いができて、とても光栄だったもの」

「それはそうと、今日は何用ですかな?」

 ヴァイマの口調は少し硬かった。

 ヒャーボとテューリも少し緊張した。Q会のことで来たのなら、どう宥めたらいいのか。

「実は、ある人からフェムさん宛の手紙を預かってきました」

「手紙、ですか」

「といっても、お宝を盗んできた、と言った方が正確ですけどね」

 サイモネは悪戯っぽく笑った。

 ヴァイマとテューリは、ぽかんと口を開けたまま顔を見合わせた。

 二人はひとまずサイモネを家の中に通した。

 サイモネは、ベッドに横たわり身動き一つしないフェムの痛々しい姿を見て、言葉を詰まらせた。

「う、腕が……」

「ボルタさんに……」テューリは言った。

「そう……。フェム、やはりあなたは、ナークではないのね……」

 サイモネはわかりきったことを口にした。

 ヒャーボはそれを咎めたいとは思わなかった。この姿を見たら、そう言わずにはいられない。フェムがナークならば、腕はとっくに再生しているはずなのだから。

「腕だけならまだ良かったんですが……」テューリはフェムの心の傷について語った。「そういうわけですから、手紙はひとまず僕らが預かります」

「いいえ。それならなおさら、読まないわけにはいかないわ」サイモネは懐から手紙を一通取り出した。「ゴンドワナのマザー・テラ記念館に保管してあったものです。今から四百四十年前、テラさんが亡くなる直前に書き残したものだそうです」

 サイモネはフェムの側に腰掛け、手紙を読んだ。


 ボルタの最期は風の噂で知りました。あなたはきっと自分を責めていることでしょう。でもそれは不幸な宿命を背負ったボルタが望んでいたこと。だからもし、今でも燻っているのなら、明日からは胸を張り、自分が信じる道を歩きなさい。殻の中にいたって今の歪んだ世界は何も変わらない。

 アトゥ、ボルタ、そしてあなたへと受け継がれたもの。

 どうか、人間とナークが共存できる世界を……


 手紙はそこで終わっていた。テラはこの手紙を書いている最中に亡くなったとのことだった。

 しばらくの間、誰も言葉が出てこなかった。

「お母さん……」

 最初に口を開いたのは、フェムだった。

 フェムは止まらぬ涙と共に、ひたすら母を呼び続けた。

 皆はそれを黙って聞いていた。


 フェムは、半日近く見つめていた手紙からようやく目を離した。

「テューリ……今まで、ほんとにありがとう」

 フェムはその場にいた者一人ずつ、順に礼を言った。

「テューリ……私はもう大丈夫だ」

 フェムはベッドから体を起こし、テューリの胸元に顔を埋めた。

 テューリはフェムの頭をそっと撫でた。

「ヒャーボ……」

 フェムはテューリの隣に座るヒャーボの口元にキスした。

「はわばぁっ!?」

 思考がショートしたヒャーボは翌朝まで制御不能になった。


 翌日、サイモネは人間とナークの実情を語った。

 改善の兆しすら見られないナークのペット人間事情、驚くほど進化の早い人間の武器開発技術と対ナーク感情の悪化、今や一刻の猶予もなかった。

「我々がつかんだ情報では、近いうちにデボニア大砂漠で人間軍とナーク軍の大規模な激突があるだろうとのことです」

「そうか……行こう。テューリ、ヒャーボ」

 フェムは立ち上がり、寝間着代わりのだぶついた長袖一枚のまま玄関を出ようとした。

 テューリは慌ててフェムを引き留めた。

「し、下着くらい、はこうよ……」

 テューリは赤面しながら目を逸らした。フェムが寝込んでいた時とは随分様子が違う。

「あ……」

 フェムは下を向き、顔を真っ赤にして背を向け、しゃがみこんだ。

「気づけよ。猪武者が」

 ヒャーボはそう言いつつも、直前のシーンを脳内で繰り返し再生していた。

「う、うるさい! こっちを見るな!」

 いつものフェムが戻ってきた。

 サイモネが苦笑しながら新しい服を持ってフェムに近寄る。

 ヒャーボとテューリは、フェムが着替えている間、彼女の猪っぷり話で大いに盛り上がった。

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