第二部 黄赤世の始終 / 第一章 メイの野望
1
フェムたちが砂漠の戦場を去ってから五百年の時が流れた。
機生代は、後に黄赤世と呼ばれる新たな世の中を迎えていた。
デボルによって滅亡の一歩手前まで追い込まれたナークは、以前の平和を取り戻しつつあった。ナークはパンゲアとゴンドワナを捨て、ローラシアに一極集中して復興作業を営んでいった。
狂ナークたちはデボルの死後まもなく、集団自殺を図った。デボル帝国の本拠地パンゲアはその後、周囲の大規模な火山活動により、大量の火山灰の下敷きとなった。
一方、人間の多くはペットのままだったが、サワラ島へ渡った者たちはマザー・テラ(島の人間たちはいつしかテラをそう呼ぶようになった)の尽力で野生を取り戻し、徐々に数を増やしていった。島の人間たちはテラの影響を強く受け、共存共栄の思想や高級言語を代々受け継いでいった。テラの没後しばらくしてサワラ島は飽和状態に近づいた。人々は海を渡り、廃墟ゴンドワナに住み着くようになった。やがて、ゴンドワナの人口は三十万を超えるようになった。だが、パンゲアを襲った火山灰の影響はゴンドワナにも渡っていた。土地は年々痩せていき、人々は飢え始めた。増え続けてきた人口は頭打ちとなった。
人間とナークとの接触は皆無に近く、互いに隔絶した二つの地方でそれぞれ別々の道を歩むかのように思えた。だが、大陸の安泰は長くは続かなかった。
ナークは深刻なペット不足に陥っていた。肝心の養殖人間の繁殖力は低下の一途を辿っていた。欲望を抑えることができないナークは再び人間を狩ろうとゴンドワナへ目を向けたが、誰もが安易に手を出せるというわけにはいかなかった。
ローラシアにはある奇妙な風説が流れていた。
『人間に手を出してはならない。デボルを倒した最凶の魔女フェムの復讐が待っている』
誰が流したのかはわからないが、フェムが姿を消してから五百年経った今でも魔女伝説は生きていた。力の劣るフェムがデボルを倒せたのは運もあったのだが、最前線にいたナークたちの脳内では、無敵の悪魔をたった一人で葬った、という印象ばかりが反復再生されていた。彼らはフェムの印象をナークネットのいたる所で語った。時が経つに連れて伝説の信用度は加速していった。ナークはフェムを無敵の魔女と決めつけて復讐を恐れ、フェムが肩入れする人間には関わらないようにしていた。
テラシティー(旧ゴンドワナシティー)、人間解放軍本部第三執務室。
「メイ殿、本気でそのようなことを?」
白い口髭を蓄えた初老の男は狼狽えていた。
「もちろん本気です」
メイ・ティンキーは縮れた黒い長髪を結い直した。肌が黒いせいか、明るいオレンジ色のルージュが妙に浮いて見えるとよく言われる。よれよれになった白い半袖シャツと原色の組み合わせが目に痛いというホットパンツ。緊張感乏しく見えるそうだ。それでもメイは軍の幹部なのだった。制服などという贅沢なものはここには存在しない。
人間が復活を遂げたといってもたかが五百年。文明を捨てて久しい人間は一つの例外を除き、まだ複雑なものを作れるほどの文化がなかった。人々はナークがゴンドワナ周辺に遺した物品を流用しているに過ぎなかった。
「いくら飢えているからといって、ローラシアを襲撃するというのは……」
初老の男は腕組みした。
「不戦派に鞍替えするつもりですか?」
「そういうわけでは……ただ、今の戦力ではちょっと……」
「全面戦争を仕掛けろと言っているわけではないんです」
「どういうことかね?」
メイは戦略の詳細を男に耳打ちした。
人間はマザー・テラの没後、彼女が唱えた共存共栄という思想を徐々に歪めて捉え、分化していった。現在では二つの勢力が人口の大半を占めている。
一つは、ナークとは争わないが、科学文明は必要だとする不戦・文明派。
もう一つは、人間を飼うナークを心底憎むが、自然とは共生したいとする否定・自然派。
どちらの勢力もテラを崇拝はしているのだが、理想を保ち続けることができず、どこかに人間らしさが出てしまうのだった。
メイは否定・自然派急先鋒の一人だった。
メイは何としてもナークを倒したかった。メイはテラが遺した著作の中から長年ペットにされてきた人間の歴史を学んだ。今でも多くの同胞たちが屈辱を受けているかと思うと、いても立ってもいられない。だが、現状では不戦・文明派が優位だ。このまま、三十万より増えそうにない人口で細々とやっていたのでは、いつまでたっても埒があかない。ナークが魔女伝説を信じなくなったらそれまで、またあの忌々しい人間狩りが始まるのだ。
ナークを倒すには、人間を増やすしかない。
メイは軍を動かすため、ローラシアの現状を軍の上層部に訴えた。肥沃なローラシアを襲えば物資や食料を得ることができ、しかもナークの下から同胞を奪取できる。ナークの能力は確かに驚異的だが、連中はデボル大戦を経た今でも武器に頼らない生活を続けている。ナークは平和しか受け入れようとしない。そこに付け入る隙があると。
「やるなら、ナークが魔女伝説を信じている今しかないのです。人口が増えればナークを滅ぼすことだって……」
「メイ殿、滅多なことを口にしなさるな。誰かに聞かれれば大事になりかねん」
初老の男は天井や壁や扉の向こうを警戒した。人の気配はないようだと、髭をなでおろしながらため息をつく。
「そ、そうですね……軽率でした」
メイは心中を悟られないよう、二人の顔が映った窓を開け、口元を緩めた。
(フェム様は五百年間お戻りになられていない。魔女伝説の真偽は若干気になるが、こないだ運良く捕まえた手負いの人間ハンターの話では、フェム様はデボル大戦で深手を負い、既に亡くなっているとのこと。私を止める者はもういない。我々の積年の恨み、必ず晴らす)
メイは巧みな手回しによって上層部を密かに掌握、派内で対立していた穏健派を押し切った。
メイは解放軍参謀にのし上がった。ローラシア襲撃作戦は間もなく実行に移された。
2
「参謀。これはどういうことだ」
穴だらけのジーンズにランニング姿の将軍は言った。底冷えする砂漠の夜。暖房器具もないテントの皮一枚の中だというのに、彼の代謝機能はいったいどうなっているのかと調べたくなるほどの薄着だ。
(チッ……オンボロめ)
メイは心の中でそう呟き、壊れかけの熱源探知機を何度か小突いた。モニターの調子が悪く、無数の赤い影が明滅している。ナークの遺品は使い捨てだった。今の人間には直せる技術がないのだ。身一つで人間を察知できるナークがなぜこのような外部機器を持っていたのかは、よくわからない。骨董趣味でもあったのだろうか。ともかく、今はそれどころではない。
「ナ、ナークの軍勢のようです」
「それはわかっている。どうして我々の動きが悟られたかと聞いている」
「はっ。そ、それは……」
メイは唇を噛んだ。平和にどっぷり浸かっているナーク共が、この大砂漠での進軍に気づくはずはなかった。こんな不毛の地で人間狩りや旅行をするような間抜けはいない。我が軍は飼い慣らしたスピーメルを操って砂漠を無傷で駆け抜け、ローラシアへ直接乗り込む、という段取りになっている。各オアシスから長大な補給線も引いた。作戦に落ち度はなかったはずだ。
「答えられんか。まあいい。それではこの局面をどう考える」
「もちろん打って出ます。数はほぼ同数。接近戦にならない限り、長距離砲を有する我々が圧倒的に有利です。もしここで相手に背中を見せれば、すぐに追いつかれ、我が五万の軍勢は壊滅することでしょう」
人間は常にナークの脅威に怯えていた。狩られまいとして代々考え抜いた末、武器に関する技術だけは急速に進化していった。人間は廃墟となったナークの研究施設から光を一カ所に閉じこめておく技術資料を発掘し、今や昼夜問わず撃つことができる太陽砲を開発するほどになっていた。短距離銃器も豊富な種類を誇っている。
「うむ……今退くのは確かに自殺行為かもしれん。あの身体能力だ。足が鈍いソーラキャノン隊の懐に入られたら為す術がない。だが、例え勝利しても、犠牲が多く出た場合は撤退する」
「了解」
メイは将軍に敬礼した後、背を向け、テントを出ようとした。
そのとき一人の若い将校が飛び込んできた。
「報告します! ナークの女数名が、ソーラキャノン隊を襲って……」
「な、なんだと!? なぜ探知機に引っかからなかった!」
将軍は立ち上がった。手元の水筒が倒れ、机の端から水が滴り落ちる。
メイは急いでテントを出た。
「私に続けっ!」
近くを警備していた兵たちから短銃三丁を奪い、狙撃兵三十名を引き連れ、陣地の後方へ走った。
メイの脳裏に、遠征に反対した長老文官どもの怒声が浮かんだ。
……考えても見たまえ。もしもナークが、一つでもソーラキャノンを奪って持ち帰り、兵器のノウハウをつかんだらどうなるか。人間なんぞひとたまりもないわ!……
長老たちは、ナークの中に兵器という新しい概念を芽生えさせ、進化を促進することを極度に恐れていた。人間はゴンドワナ周囲の守りを固め、ナークと一切の関わりを持たずに生きていけばよいと常々言っていた。確かにそれも一理はある。では、飢えはじめた国民をこのまま放っておくのか? ナークのペットとして、未だに翻弄され続ける哀れな人々はどうなるのか? メイはこの作戦に自信を持っていた。ナークはフェムを恐れている。成功するにしろ失敗するにしろ、少々の攻撃では動かないはず。略奪を何度か繰り返していけば、人間は勢力を増し、いずれナークを滅ぼすことができるだろう。
とはいえ、長老の言うことはもっともだ。ナークがあの決戦兵器を使うことを覚えてしまったら、作戦の継続どころか、人間の存亡に関わる。
「どんな犠牲を払ってでも、ソーラキャノンだけは守り抜け。あれには人間の明日がかかっているのだ!」
メイ以下三十名の精鋭は銃撃の閃光を目ざし、満天の星の下を走り続けた。
メイは途中、一秒だけ立ち止まり、天を仰いだ。
(私は今日、あの中の一つになるのかもしれない)
メイは両手に銃を持ち、食料テントの影に隠れた。
銃声が鳴り響くたびに倒れていく。味方が。誤算だった。ナークの反応速度がこれほど優れていたとは。キャノンの守備兵は手練れが多いはずだが、どんなに至近距離で撃ってもナークには当たらなかった。
少女たちが守備兵を次々と殴り殺していく。ナークの工作員は七名、二十歳に満たないような者ばかりだ。
メイはソーラキャノンを調べているナークの頭を集中的に狙うようサインを出した。頭に玉のような結び目を三つつけた少女だ。
三十の銃口が一斉に火を噴いた。ナークは分析作業に集中している。少なくとも数発は絶対に当たる。
標的にしたナークはこちらに一瞥もくれず、涼しい顔で作業を続けていた。
「な!?」
メイは目を疑った。残りのナーク六名が全ての銃弾を腕や肩や胸で受け止めたのだ。ナークたちは数秒ほど苦悶したが、すぐに回復した。
(そんなバカな! あの一瞬で全ての弾の軌跡を予測し、なおかつあの細い体に当てさせるなんて……)
考え事をしている暇は与えてくれなかった。気が付けば、部下の首が三つも飛んでいた。ナークたちは前衛三が攻撃、後衛三がキャノンの盾というフォーメーションに変更していた。
「クソッ!」
メイは両手の銃を撃ちまくり、襲われている部下を援護したが無駄だった。今度は三つの心臓が貫かれた。
機械の駆動音がした。
メイはハッとしてソーラキャノンの方へ目をやった。一見巨大な鉛筆のように見える、全長十八メートルのキャノン。その尖った黒い先端が宿営地に向けられていた。兵器の内部構造はともかく、操作方法は早くもものにしてしまったか。
「や、やめろ!」
メイは叫ぶ。が、三つ玉頭の少女は視線も表情も変えず狙いの補正を繰り返していた。
キャノンの先端が白く光り始めた。発射まであと十秒しかない。
メイは最後の作戦をコードネームで叫んだ。前衛の僅かな隙を突き一人ソーラキャノンの方へ突っ込む。
すかさず後衛のナーク三人が立ちはだかる。
真ん中の少女が拳を繰り出そうと腕を引いた瞬間、メイは身を伏せた。
残った部下たちの一斉射撃が三人を襲った。
銃弾を受けた少女たちは皆、体が硬直している。
奴らの回復まであと八秒。メイはその隙を逃さず、キャノンを操作するナークに迫った。メイは三つ玉頭の額を狙った。が、そこに少女はいなかった。
「があっ!?」
頭に衝撃が走った。三つ玉頭の飛び蹴りが入ったのだ。ほんの僅かに急所をはずれ、即死は免れた。メイは砂の上に仰向けで倒れ、少女はその上で馬乗りになった。操縦席は無人だった。ロックオン後は自動発射だ。あと三秒。間に合わない。これで何万もの兵が蒸発し、何万もの人々が飢え死にするだろう。
三つ玉頭がメイの左胸めがけて手刀を振り降ろす。
メイが瞳を閉じようとしたときだった。
「あ……」
三つ玉少女は小さな声を漏らした。背後の影が彼女の右腕をつかんでいる。
全身を覆い隠す砂色のクロークを着た影はフードをめくり、無言で首を横に振った。優しい顔立ちをした黒髪の青年だった。外套の中に大きな荷物でも背負っているのか背中が盛り上がっている。
その直後、ソーラキャノンが轟音と共に機体中から光を放ち、爆発炎上した。
炎の向こう側から一人の女が歩いてくるのが見えた。ナークたちは予期せぬ強敵に対処せんと、六人が一斉に女の前に立ちはだかった。
女は口を使ってクロークの紐を解き、それを脱ぎ捨てた。
少女たちは女の姿を見て、後ずさりをはじめた。膝の笑いが止まらず、尻餅をつく者もいた。
「やはり……魔女は生きていた……」
鳶足(女座り)で座り込んだ三つ玉少女は腕のない女を呆然と見上げている。
「双方、これまでだ。人間とナークは争ってはならぬ」
腕のない女は静かに言った。そして、横たわるメイの方へ歩みを進めた。
「んはっ……はがあぁぁっ……」
メイは恐怖のあまり、まともな言葉が出てこなかった。
「フェム・ロキソーニ……そして、テューリ」
三つ玉少女は締まりのない口で呟いた。
ナークの仇敵にして無敵の悪魔、デボルを倒した伝説の女がいまここにいる。彼女はナークにとって英雄だ。だが、フェムは人間側につくだろう。ペット化した人間はまだ大勢いる。
少女たちは哀しげな表情を残し、闇に消えていった。
フェムはそれを黙って見届けた後、メイに近づき、片膝をついた。
「人間よ。なぜこんなことをした。マザー・テラの教えはどうした。どんなに貧窮しようとも、他人の領地を侵してはならないと教わらなかったか?」
「フェム様……申し訳ありません! 申し訳ありません!」
メイは体を起こし、何度も土下座を繰り返した。
涙と砂まみれになったメイの顔をテューリが優しく払った。