第三章 デボル帝国
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「ん、んん……」
フェムはうっすらと片目を開いた。三角屋根の薄暗い天井が見える。
(いつの間に眠ってしまったんだろう。確か私はサワラ島を出て、エクシア超大陸へ渡ったはず。それともあれは夢だったのか?)
記憶がひどく濁っている。ひんやりと湿った空気が頬を伝う。サワラ島にこんな涼しい場所はない。
「気分はどう? 喉、渇いてない?」
意識と視界がまだはっきりしない。黒い影が迫ってきた。
(お父……さん?)
にしては声が少し高い気がする。では一体誰なのか。
「う、うう……」
フェムは頭を抱え、寝返りを打った。
「大丈夫? どこか痛む?」影は言った。
フェムは停滞していた頭を必死に回転させた。この影はボルタでもないし、奴でもなさそうだ。
(奴? 奴とは誰だ。この棘のある響きは。そうだ……私に危害を加えようとする連中がいたはずだ。私を襲ってきた男がいたはずだ。そいつは確か長髪の男だった。私は奴の罠にはまって体の自由を奪われ、地面に叩きつけられた……。とすれば、私は今囚われの身ということか。ならば、この影は長髪の手下に違いない。影の手はもう私の体に触れんばかりだ。私の体に何をする気だ)
「クッ!」
フェムはネックスプリングでベッドの上に跳ね起き、影の頭部目がけて回し蹴りを入れようとした。が、激しい目眩に襲われ、ふらふらと枕の反対側へ頭から崩れた。
「だ、だめだよ、いきなり動いちゃ!」
影が狼狽えながら近寄ってきた。
(私は自由が効かないというのに何をグズグズしている?)
フェムは両腕を立て、再び起き上がろうとした。
クキッ! 乾いた関節の音がして肘が曲がり、フェムは再びベッドに突っ伏した。
「くぉのぉ……」
イメージだけならもう二度も敵を倒しているのだが、とにかく体がついてこない。
フェムは懲りずに起き上がろうとする。今度は尻餅をついた。
「僕は味方だから、安心して」
影はフェムの脇に座った。
フェムの目はようやく使い物になるレベルまで回復した。影は黒髪で浅黒い肌をした人間色の少年だった。背格好は自分に近く華奢に見えるが、筋肉の付き方がやはり男だ。
「お、おまえはナークだろう? ナークは全員敵だ」
フェムは男の属性をすぐに見破った。ナーク特有の奇抜な体色が見られず、一見すると人間と見間違えそうだが、自立した挙動を見ればすぐにわかる。今のところ自立した人間はこの世にただ一人、テラしかない。
フェムは麻酔剤を打たれた獣のように、動かぬ体を必死に震わせ、少年を睨みつけた。
「じゃあ、アジャストクリニックで君を助けたのは?」
「あっ……な、なぜそれを知っている?」
「こいつはテューリって言ってな、ヤーペンルーズの息子さ」
小屋の隅で声がした。壁のフックに引っかかったバックパックの口がひとりでに動く。ヒャーボだ。
「あーっ、ひどいなぁ。せっかく今、自己紹介しようと思ってたのに」
テューリは頭を掻いた。
「おめぇがマゴマゴしてっからだろうが!」
「僕はただ、彼女の記憶が混乱していたから順序立てて……いや、そんなことより、例の話はしなくていいんですか?」
「おめぇから言え」
「そ、そんな……」
テューリは一度だけ目線で抵抗を示したが、虎の真似をしたヒャーボの口を見てすぐに諦めの表情を見せた。
テューリは自分がヤーペンルーズの組織『CoX』のメンバーであること、ボルタが島を出た経緯と戦闘後の体の変化、Q会壊滅の一部始終をかいつまんで語った。CoXのメンバーたちは重要な情報を共有化しており、ボルタに付いていたメンバーの情報がナークネットを通じて刻々と入ってきていた。
フェムは壁の一点を凝視したまま、十分以上黙していた。
ヒャーボとテューリはじっとしたまま、それを見守っていた。
「お父さん……私のために……」
フェムは両手で顔を覆った。
「ボルタさんはパンゲアに向かったらしい」
テューリが口を開いた。
「パンゲアか……どうすれば最短で行ける?」
「いや……それは……」
テューリは視線を落とした。
「山越えさえどうにかできれば、距離だけならローラシアへ戻るのとそう変わらないはずだ。教えろ!」
「ボルタさんは……もうボルタさんじゃないんだ」
「どういう意味だ」
「パンゲアのナークが襲われた。たった七日間で三十万人が殺され、領土の五分の一が彼のものになってしまった」
「そんな……嘘だ……本当のことを言え!
テューリは仲間から得た情報の詳細を話した。
ボルタは窪地を去った後、北東へ向かった。パンゲアの領土に入るとナークに出会う度に無差別攻撃した。ある者は微塵に砕かれ、ある者はボルタが発する謎の黒紫霧に包まれてAIを狂わされ、彼の配下となった。CoXは変わり果てたボルタを以前と区別するため、デビル・ボルタ……略してデボルと呼んだ。パンゲアは東進を続けるデボルに支配されつつあった。
「デタラメを言うな!」
フェムは震える手でテューリの襟元をつかんだ。
「信じたくないだろうけど……父さんの元へ行けば、証拠の映像も見られる」
「私は……信じないからな」
フェムがそう考えるのは当然だった。いくら自分たちが人間を飼うナークを敵視しているといっても、無差別に殺すことはあり得ない。最終的に望んでいるのは人間とナークの共存なのだ。最小限の犠牲で人間を解放できればそれで充分だ。ボルタは自分以上にそのことを理解しているはず。だが、万が一ボルタの中の何かが狂い、自我を失っているとしたら……。
手を放したフェムはしばらく沈思し、やがて口を開いた。
「もし、おまえの言うことが本当だとしても、私はパンゲアへ行く。たとえ父が悪魔になろうと、私の父に変わりはない。父が道を誤ったのなら、娘である私が説得するまでだ」
「だめだよ」
テューリは首を横に振った。
「おまえの指示など……」
テューリの哀しげな目を見たフェムは思わず口をつぐんだ。
「実は……CoXのメンバーが一人、デボルと接触したんだ。フェムのことを話したけど、だめだった」
「私が直接行けば父だって……」
「彼は……その話の直後、デボルに殺された」
「え……」
「父さんの旧友の子供でね、一人っ子の僕にとっては兄のような存在だった。優しくて勇敢で……僕は彼のようになりたいといつも思ってた」
「……」
「見つかったのは僅かな白い粉だけだった。分解しきらなかった……骨の一部……だろうって……」
テューリは何かを堪えるように俯いた。
「その……何と言えばいいのか……父が……申し訳ない……」
フェムは頭を垂れた。
「フェムが謝ることはないよ。彼は自分でその任務を志願したんだ」
「だからって……」
「僕らはおそらくフェムと同じ信念で動いてる。ナークの異常な本能の謎が今すぐ解けないのなら、まず先に人間たちを解放しなければならない。だけど僕らはAIの構造上、暴走扱いに当たるような目立った活動はできない。それができるのはナークと対等以上の力を持った君たち親子しかいない。だから、ボルタさんに何かあったとき、危機回避の努力をするのは当然なんだ」
「その人のためにも、私はその努力に加わらなければ気が済まない」
「いや、僕らはパンゲアに関わるべきじゃない」
「なぜだ!」
「僕らは万能じゃない。今、自分にできることを落ち着いて考えるんだ」
「私は……私は、父が人殺しを続けるのなら、黙って見ていられない」
「気持ちはわかるよ。でも……その……ボルタさんは……」
「デボルでいい」
「デボルは物理的に有り得ない攻撃を仕掛けてくる。少なくともその謎を解かない限りは何をやっても無駄だと思う」
「なら私がパンゲアへ行ってその謎を解く」
「その役目は、CoXに任せてほしいんだ」
「私にこの状況を耐えろというのか!」
「デボルが目の前で人殺しをしても、黙って見ていられるかい?」
「それは……やってみなければわからない……」
「それじゃだめなんだ。目の前で何が起きても、人でなしと罵られても、仕事に徹することができる人じゃないと」
「じゃあ私は何をすればいいんだ!」
「今まで通りでいいよ。僕も手伝う」
「少し、考えさせてくれ」
フェムはおぼつかない足取りで小屋の外へ出た。
フェムが山小屋に帰ったのは三日後だった。
戸口でヒャーボを背負ったテューリが出迎えた。
「おかえり。今日は帰ってくるような気がしてたよ」
「挨拶はいい。条件が一つある」
フェムは前置きなしに話に入った。
無論、テューリは何のことかわかっているはずだ。
「デボルの攻撃をかわす方法をつかんだときは、私は何をおいても父のもとへ行く」
「わかった。約束するよ」
「既に判明しているにもかかわらず、私に黙っていたときは、おまえを……」フェムはテューリを睨みつけた。「殺す!」
「いいよ。それも約束する」
「一つって言ったじゃねぇかよ」
ヒャーボが口を挟んだ。
「おまえはしばらく黙ってろ」
フェムはテューリの背中からヒャーボを引きはがし、側の草むらへ放り投げようとした。
「ちょっと突っ込んだだけじゃねぇか! 勝手に二人で決めやがって、俺様の意見は聞かなくていいってことか!」
「不満なら、おまえの望む場所で降ろしてやってもいい」
「降ろしてやってもいい、だぁ? てめぇ何様のつもりだ!」
「言い方が悪かったのなら謝る。私はテューリと一緒に人間解放を続けると決めた。やりたくなければ、無理に付いてこなくてもいいと言いたかった」
「所詮は五体満足なもん同士の話だよな! 身軽な助手ができてさぞかし満足だろうよ!」
「そういう意味で言ったわけじゃない!」
「かさばるだけの過去の遺物には目もくれねぇってわけだ!」
「遺物? そんなものがどこにある」
「かーっ、そこまでバカだとは思わなかったぜ。もうたくさんだ! さっさと人間の所へでも行っちまえ!」
「わかるように言え! おまえは喩えが多すぎる」
「まぁまぁまぁ」
テューリがヒャーボを取り返し、二人の間に入った。
「フェム、ちょっと」
テューリはヒャーボをその場に降ろし、フェムの手を引いた。
「な、なんだ? おい、ちょっと……」
テューリはそのままフェムを木陰に引きずっていった。
しばらくしてフェムは一人でヒャーボの前に戻った。
「すまん、ヒャーボ。私は父のことで頭がどうかしていた。不満はいろいろあるだろうが、一緒に来てくれないか?」フェムは片膝を付き、手を差し出した。「おまえが必要なんだ」
「え? あ、そりゃ、おめぇがそこまで言うんなら、付いてってやってもいいけどよ」
「そうか。よかった」
フェムは安堵のため息を漏らし、ヒャーボを背負った。
その日の夜。
フェムは岩場の影で熟睡している。
すぐ側にいたヒャーボは岩の上で見張りをするテューリを呼んだ。
「おいボウズ、一体どんな魔法使った?」
「ヒャーボさんがどれほど偉大か、ということを大袈裟に発表しただけですよ」
「サラッと嘘を言うんじゃねぇ」
「アハハ。本当は内緒です。でも、当たらずとも遠からず、かな」
「チェ……食えねぇ奴。でも、今日のところは礼を言っとくぜ」
「いえ……僕の方こそ、配慮を欠いてました。すみません」
「ま、これで貸し借りなしってところだな」
「そういうことにしときましょう」
二人は声を殺して笑いあった。
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デボルはパンゲアに入って以来、七日間で領土の五分の一を制圧した。パンゲア地方南西部に居住していた三十万のナークを殺し、六十万のナークを配下にした。配下のナークは他と区別するため、狂ナークと呼ばれた。狂ナークはデボルに従い、パンゲア侵攻戦を拡大していった。
パンゲアのナークも指をくわえて黙視しているわけではなかった。残った千九百万のナークは領土の北東部にあるパンゲアシティーに集まり、デボルの軍勢に抵抗した。彼らはデボルの破滅の力を徹底的に分析した。エネルギーの成分は次元を超えた性質を持っているらしく知覚不能だったが、発射時に見せる独特の癖や攻撃の影響範囲が狭いことを究明し、被害を最小限に留める方策を固めつつあった。無論、それはCoXが匿名で流した情報に頼ったものだ。
その後、両者の戦力は拮抗し、戦闘は小康状態となった。
六十万の戦力を得たとはいえ、さすがのデボルも、結束し対策を施してきたナークの圧倒的な数の前には苦戦した。デボルは力押しを止め、頭脳戦に持ち込むようになった。
一方、フェムたちはローラシアの北東、シルレアン山脈の山道を登っていた。
ところどころに雪が残る坂道は、不止鳥が通るスポットの一つ、ネオジーン山の山頂に続いていた。山脈の東端に位置するこの高山は登山可能な山では最も近く、周囲の気流が安定しており、不止鳥に飛び乗りやすい場所だった。
「寒いな……」
フェムは身震いした。灼熱の時代とはいっても高地の気温はやはり低い。人間よりは寒さに強いのだが、さすがにノースリーブ一丁では少々無理がある。
「そうかな?」
半袖のテューリは涼しい顔で言った。純粋なナークである彼は体温調節の優先順位をスムーズに上げることができる。エネルギーさえ確保できれば冷凍室並の気温でもそれほど苦にならないらしい。
「息が苦しくなってきたぞ?」
フェムは深呼吸を繰り返した。
「標高八千メートルだからね」
テューリは普段通りに呼吸していた。
ナークは過酷な環境でも耐えうる体質を持っているが、人間の血が多く混じったフェムはどうしてもその分だけ劣ってしまうのだった。
「不止鳥とナントカは高いところが好きらしくてな」
ヒャーボはフェムの背中で小さく言った。
フェムは睨もうとターンしたが、背負っているので意味がなかった。またやってしまった。最近いろいろあったが、この癖が出るということは、少しは元気が出てきたのかもしれない。
尾根道に入って一時間ほど登ると、雪深い山頂が見えてきた。尖った三つの岩のうち真ん中の岩が最も高く、それが山頂だった。
やがて一行は山頂の岩に立った。今日は運良く晴天無風。高山では奇跡に近い天気だ。三百六十度、一面に広がる雲海。フェムはしばらくの間、口を半開きにしたまま、無言で首を巡らせていた。
「いつ天候が崩れてもおかしくない。間に合うかな?」
テューリは額に手をかざし、陰りを見せ始めた北の空を見つめていた。
「急に表現が曖昧になったな。さっきまでの詳しい天候情報はどうした? ほら、その、ナントカネットというやつで」フェムは言った。
「ナークネットにも限界がある。高山や深海、深い森や地中深くとか極端に他人と離れてたり障害物が多い場所が苦手なんだ」
「そうか……」
フェムも北の空を見つめた。が、すぐに目を閉じた。日光が雪や雲で反射し、目を刺す。
「フェムは……繋げられないようだけど」
「らしいな」
テューリはしばらく無言で雲海を見つめ、やがてフェムを見て微笑んだ。
「でも、その方がいいと思うよ、たぶん」
フェムにはその真意がわからなかった。
十分待った。風が出てきた。雲が急に増え、空は淀んだ灰色がかってきた。
「ほ、ほ、ほんほうに来るのは(ほんとうにくるのか)?」
寒さでフェムの呂律は回らなくなってきた。
「急いで来るさ。不止鳥だって悪天候は望まねぇ。ほらな」
ヒャーボがそう言うと、テューリが西の空を見た。
フェムもつられてそっちを向いた。
「あれが……不止鳥」
巨大な翼を広げ滑空するスカイブルーの塊が近づいてきた。天候が崩れてきたせいで、一点の青だけが浮き上がって見える。不止鳥はフェムが今まで見てきた鳥の中でも最も奇妙な姿をしていた。フェムは思わず翼の数を数えた。本当に七つある。
「不思議か? 不止鳥は魚が祖先だからあんな形になったのさ。背びれと尻尾が融合進化した垂直尾翼が特徴的だろう?」
「そろそろ準備した方がいいよ。ああ見えても不止鳥は結構速いんだ」
テューリは、不止鳥が通過するかなり前に飛び降りないと間に合わないからそれを計算に入れておくように、と付け加えた。
スカイブルーの巨体が近づいてきた。フェムたちが立つ最高点より数メートル下の高度を保っている。不止鳥はこちらに気づく様子はなく真っ直ぐ前を見据えて飛行していた。というより全く気にも留めていないようだ。天敵がいない動物にはときどきこういうのがいる。
「行くよ! フェム!」
テューリは虚空に身を投げ出した。
フェムは一瞬ためらったが、遅れてジャンプした。
テューリは不止鳥の背中のど真ん中にある太い羽毛を見事つかんだ。すぐにフェムの姿を目で追う。
「あっ!」
テューリは声を上げた。
フェムは尾翼付近の羽毛をつかみ損ね、後方へ転がっていく。
テューリはすぐに立ち上がり、強い追い風にあおられつつもフェムを追いかけた。
「フェム! 尻尾をつかんで! 早く!」
フェムは尻尾の上を転がりながら何度か手を伸ばした。十メートル近くある不止鳥の細長い尻尾は三つに割れた先端部分を残すだけになっていた。必死にもがく。だが、フェムの右手はあと数センチというところで、尻尾を捉えることはできなかった。
「フェムゥゥゥ!」
テューリの絶叫が風の音にかき消されていった。遠ざかっていく不止鳥とテューリ。
フェムは仰向けの体勢で自由落下しつつあった。
(これまでか……)
フェムは瞳を閉じ、短かかった人生を回顧した。ボルタの行く末を憂い、テラには何度も詫びた。
だが、すぐに邪魔が入った。
「ぶゎーか。あきらめんのが早すぎだ」
背中からヒャーボの声。ショルダーハーネスのバックルを片方外せと言っている。フェムはうなずき、脱着式になっている右底のバックルを外した。
「そいつをあのボウズに向かって投げろ!」
フェムはテューリに向かってバックル付きのハーネスを放った。するとハーネスはみるみるうちに延びていき、尻尾の付け根に立つテューリの左腕にからみついた。テューリは右手でハーネスを引き寄せ、釣りの要領でそれを左腕に巻き付けながら徐々に後退、即ち鳥の頭の方へ進んでいった。フェムの体が不止鳥の背中の辺りにかかったところで、テューリは引っ張るのをやめた。フェムは羽根の根元をつかみ、青い羽毛の茂みの中に埋もれた。
不止鳥は何事もなかったかのように、悠然と東に向かって飛んでいた。
フェムたちは不止鳥の背中の中心にある特殊な形状をした羽毛の部屋の中で座っていた。そこは短く硬い羽根が円柱形の壁を形作り、屋根に長い羽毛がびっしりと生い茂った、天幕住居のような形をしていた。内部は標準的な寝室くらいの広さがあるが、高さは大人の身長すれすれだ。本来は卵を暖める場所なのだが、今はその時季ではないようだ。
「ここに居れば寒さも風もしのげるよ。おまけに熱エネルギーも補充できるしね」
テューリは笑顔で言った。
「あ、ああ……」
フェムはぎこちなく俯いた。
「なんだ? 真っ赤な顔しやがって。熱でもあんのか?」ヒャーボは言った。
「あ、あの……」
フェムは一瞬テューリを見たが、すぐにまた目を逸らした。
「うん?」
テューリは研磨した黒曜石のように澄んだ瞳をフェムに向けた。
「あ、ありがとう……」
「チェ……第一功の俺様には一言もなしかよ」
ヒャーボが口を尖らす。
「ヒャーボも」
「も? 俺様は、もなのか?」
「う、うるさいな! テューリもヒャーボもという意味だ!」
フェムはそう言い放つと、二人に背中を向けてごろ寝した。
「ほんとにおもしろい人ですね?」とテューリ。
「そう思うだろ? 一緒にいると退屈しないぜ」とヒャーボ。
二人の囁き合いは夜が明けるまで続いた。
なかなか寝付けなかったフェムはそれを全て聞いていたが、今日だけは聞き流すことにした。
不止鳥に乗って二日目。
フェムは羽毛部屋から顔を出し下界を覗いていた。薄い雲の隙間に最高峰『マウント・ゼロ』を中心とする世界の屋根が広がる。中央ペルミー山脈、標高一万五千メートル級の山々が連なる銀世界だ。
「そこがだいたい大陸の中心。経度ゼロの地点だよ」
部屋の中からテューリの声。
フェムは寒さで身震いし、すぐに中へ戻った。
「東ペルミー山脈まではあと一日半くらいだな」
部屋の真ん中で佇んでいたヒャーボが口を開いた。
「ゴンドワナの人間たちを解放した後、どうするつもり?」
テューリは壁際に座っている。
パンゲアが戦闘状態のため、フェムたちは大陸の南東、ゴンドワナ地方へ向かおうとしていた。東ペルミー山脈はゴンドワナの北の壁となる世界三大山脈の一つだ。
「サワラ島に集めるというのはどうだ?」
フェムはテューリの向かいに座った。
「どうやって海を渡る? 不止鳥は大陸の山脈の上しか飛ばねぇぞ?」とヒャーボ。
「いや、よく考えたらそれ以前の問題だった。サワラ島は離島だ。もし、飼い主が集団で奪い返しに来たら逃げ道がない」
フェムはため息をついた。
「これはナークの間では常識なんだけど、サワラ島の周辺は魔の海域バーガッソーと呼ばれていて、ナークは誰も近寄れないんだ」
テューリは、ナークたちが結界壁に触れるとなぜか全員機能停止すること、その原因が未だに解明されていないことを説明した。
「私や父はあそこを通るとき、何でもなかったぞ?」
「きっと、人間の血が混じったハーフやクォーターなら大丈夫なんだよ」
「そうか……結界に守られていたからなのか……家族で何十年も安全に暮らしてこられたのは」
「あとは輸送手段だな」ヒャーボは言った。
「CoXの船を使えばいいよ。小さい船だから多くは運べないけど、僕らだけで人間たちを管理するには限界があるし、今はそれで充分だと思う」
テューリの提案に二人は賛同した。CoXはパンゲア方面の調査に数を割いており、サポートとして誰かをこちらに回す余裕はなかった。人間解放はフェムたち三人だけでやるしかなかった。
「あと、十分くらいかな」
下界の様子を調べに行ったテューリが羽毛部屋に戻ってきた。
降下ポイントは東ペルミー南部山麓の小さな湖だ。そこはゴンドワナ地境の外にあるため付近にナークの民家はない。
フェムは羽毛の壁に寄りかかるように座っていた。
「顔が青いね。緊張、してる?」
テューリがフェムの顔を覗き込む。
「だ、だって……」
「そりゃ一万メートルからのダイブだからなぁ」
ヒャーボは妙に楽しそうな声だ。
「お、おまえに全てがかかってることを忘れるな」
「ヘイヘイ合点承知」
ヒャーボは掠れた口笛を吹き、終始上機嫌だった。
「まだ少し時間がある。ちょっと話をしてもいいかな?」
テューリはフェムのすぐ横に座った。
フェムは思わず視線を逸らし、二センチほど横にずれた。
テューリは、ナークのイレギュラーには種類がある、という話を始めた。
ナークにも突然変異はあるのだが、人間や動物とは違い、精神的なものに限られていた。ある出来事をきっかけに、ある日突然、目覚めるのだった。ただし、現存するイレギュラーの多くは先天的なもので、一度覚醒した人の家系には代々必ず遺伝した。原因は未だに解明されていない。
覚醒後のイレギュラーには幾つかの傾向があった。
D型(doubt)……ナークが自身にかけられた寿命などの制限を疑問に思うタイプ。Q会がこれに当たる。
C型(coexist)……ナークと人間は対等に共存するべきという発想を持つタイプ。CoXのメンバーがこれに当たる。
他にも、訳もなく冒険や旅をしたがるA型(adventure)や無闇に善悪を決定したがるRW型(right/wrong)というのもいた。
暴走ナークとの決定的な違いは、誰もが自分なりの自制心や思想を持って行動しているということだ。
「この分類は僕らCoXが勝手に決めたんだけどね」
テューリは頭を掻いた。
「ナークもいろいろと大変なのだな」
「でも、かつての人間の多様さに比べれば大したことないと思うけど」
「人間はもっと複雑なのか?」
「歴史資料から判断した限りではね。その辺は父さんの方が詳しいよ」
「おい、そろそろポイントの湖だぜ?」とヒャーボ。
「ありがとう。テューリが話をしてくれたおかげで落ち着いた」
フェムは微笑みながら立ち上がった。
テューリも立ち上がり、二人は見つめ合った。
「おいってばぁ!」
ヒャーボが二人の足下で体を揺すっている。
「ちゃんと聞いている。行くぞテューリ!」
フェムはヒャーボを手に持ったテューリと共に羽毛部屋を出た。
前方から冷たい突風。フェムは顔を歪める。
テューリはヒャーボの口を下向きにして背負った。
フェムは不止鳥の羽根を数本ちぎった。それを器用によじってロープ代わりにし、二人をタンデム型に密着させた。フェムが前だ。
ほどなく二人は不止鳥から飛び降りた。
ヒャーボの体が突然気球のように膨らみ、大量の空気をつかんだ。
フェムたちは湖畔に向かってゆっくりと降りていった。
18
ゴンドワナ地方では、しばしば連続ペット強盗の話題が上がっていた。犯人の特徴は少年のナークと妙に頭のでかい少女の二人という情報が主流だったが、少女の頭はときに無駄に生地が余ったターバンのような形をしていたり、ときにコック長のように細長かったりしたが、とにかくそれは帽子ではなく少女の頭の一部だったという話だ。盗まれた飼い主のうち多くは留守を狙われたものだったが、買い物や仕事帰りで偶然遭遇したナークたちはことごとく重傷を負っていた。
噂の強盗団はゴンドワナの遙か東、万憂尋という名の断崖海岸の近くにいた。
フェムたちは崖まで十キロもない所に広がる森林の中に小屋を一つ建て、そこに確保した人間たちを収容していた。
「ふぅ、これで二十三人か」
フェムは今、必死に脱走を計ろうとする五歳くらいの少年に脅しをかけ、大人しくさせたところだ。
「それにしても、すごい変装だよね」
テューリは感心した顔で、フェムの膨張した頭をまじまじと見つめた。
「み、見るなっ!」
フェムはそっぽを向いた。
体を変形させ、フェムの頭に食いついていたヒャーボが床に落ちた。笑いをこらえきれなくなったようだ。
「ナークの奴ら、まるで宇宙人か何かに遭遇したみたいな顔してたよなぁ。ウヒヒ」
「わ、私は一部で顔が割れているから仕方なく応じたんだ。笑うな」
フェムは内足蹴りでヒャーボを蹴飛ばした。
ヒャーボは子供たちの群れのちょうど中心に突っ込み、しばらくの間彼らのオモチャと化した。
「おまえの言うとおり万憂尋に人間を集めた。これからどうするんだ?」
「CoXの船は崖の下に隠してあるんだ」
「そうか……いや、待てよ。何か大事なことを忘れているような……」
「大事なこと?」
「そうだ! ゴンドワナやサワラ島周辺の海域はグランタの庭じゃないか」
ゴンドワナを中心とするエクシア超大陸の南東に広がる海は、弩級海洋生物グランタの生息域だった。グランタは深海魚のアンコウを祖先に持つのだが、体長は何と五百メートル、高さは頭部で百メートルに及ぶ。地球環境の変動により深海から浅海へ浮上し、やがて進化を重ね今の姿になった。グランタは凶暴な性格で、肉のあるものなら何でも襲いかかってくる。ナークの海洋死亡事故の大半はこのグランタによるものだ。
「フェムはサワラ島の周りを泳いでいてグランタに襲われたことがあるかい?」
「いや……ない」
「ボルタさんはあの海を無傷で三度も渡った。それに、ナークの沈没船での発掘も何度もやっている。混血の体にどんな謎が隠されているのかはわからないけど、とにかくその事実に乗ってみようよ」
フェムたちは二十三人の人間を引き連れ、万憂尋へ向かった。
それまで続いていた陸地が突然途切れている光景に興味を持ったのか、人間たちは皆、崖の縁に立ち、下を覗き込んだ。ある者は足がすくみ手が震え、ある者は腰を抜かし、またある者は泣き叫んで地面に伏した。無理もない。海面までは遙か八百メートル、崩れかかった錆色の柱状節理の断崖、海底から生えた槍のように尖った岩の林や岩礁、年中荒れているどす黒い海、吹き上げる生温い突風。ここはあらゆる憂いを探し求めるための長広い場所。名の由来に相応しい、地の果てだった。
「あれか?」
フェムはテューリと共に腹這いになり崖下を覗きこんだ。海水の浸食のせいで洞になっている部分を指差す。自然のいたずらなのか、上手い具合に洞の奥が小さな湾になっていて、そこに船が繋いであるという。外海の影響は残っているが、デッキから転落せずにどうにか乗り込むことができそうだ。
「私やテューリはともかく、人間たちはどう運ぶ?」
フェムは崖下を見つめたまま言った。
「僕らが一人ずつ背負って降りるしかなさそうだね」
「これがもし何百人となると、気の遠くなる作業だな……」
「もう嫌になったかい?」
「まさか!」
フェムは立ち上がった。側にいた一番幼い少女を背負い、柱状節理の僅かなでっぱりを利用しながら、軽快な足取りで崖を降りていった。
フェムは少女を船に乗せた後、次にとりかかろうと崖を駆け上がった。途中、ヒャーボが落下しているのを見つけ、片手でハーネスをキャッチした。何やら泣き言を垂れている。子供らの玉遊びに巻き込まれた、というところか。一人にしておくのは少々危険かもしれない。
「仕方ないな」
フェムは球審のようにヒャーボを腹側に装着した。
その後、作業は順調に進み、二十二人目を船に乗せたテューリが崖上に戻ってきた。あと一人。
残った若い男が怯え、低級言語をで何か言っている。
テューリは男に近づき、笑顔と身振り手振りで背中をさすったり手を握ったりしていた。男は少し落ち着いてきたようだ。
フェムはヒャーボを正しく背負い直しながら、その光景をぼんやり見つめていた。
突然、テューリの眉間に皺が寄った。
フェムもほぼ同時に反応した。
「クッ……こんな時に! 有事対策委員会か!?」
ナークの世界では犯罪が全く起こらないため警察は無いが、不慮の事故や災害に対応するための機関は存在した。ラスト・ワイルド盗難事件やペット強盗事件を経て、近頃は対外専用の警察機能を備えたという情報が入っていた。
テューリの言葉にフェムもうなずく。気配は六、いや七つ。人間を庇いながら戦うには圧倒的に不利だ。
テューリはフェムの手を引き、最後に残った男の隣に並ばせた。
「フェム、彼を下に降ろしたら船を出すんだ」
「な!? おまえはどうするんだ!」
「僕はここで奴らを食い止める」
「おまえ一人では無理だ! 私も戦う!」
「だめだ! フェムは人間とナークの希望なんだ!」テューリは厳しい表情を初めてフェムに向けた。「万が一にもここで命を落とさせるわけにはいかない。それに……」
「それに?」
「僕はナークだ。魔の海域、バーガッソーは渡れない」
「あ……」
フェムはテューリがナークであることをすっかり忘れていた。彼と出会って以来、人間である母テラに似た優しさに満ちた笑顔をずっと見てきたからかもしれない。
「僕は大丈夫。またここで会おう」
テューリはフェムと人間の男の背中を強く押した。
虚をつかれた二人は空中で絡み合いながら落ちていった。
落下の途中、フェムは体勢を整え、片手で男の手を、もう片方で崖の出っ張りをつかんだ。が、どちらも握力が足りず、フェムは崖をずり落ち、男は海へ落ちていった。フェムはすかさず岩を蹴り、空中で男に追いつく。男は奇声を上げながらフェムにしがみつく。だが、足場はもうない。このままでは岩礁に突っ込む。
背中が引っ張られる感覚。振り向くとヒャーボが数十倍に膨れながら、大量の空気を噴射している。急減速。フェムは体を反転させ、どうにか岩場に着地。礼を言う間もなく、崖上を見上げて叫ぶ。
「テューリ!」
テューリの顔が見えた。口が微かに動いている。
「何て言ってる?」
フェムはヒャーボに訊いた。
「仲良くなれそうだったのにな……だとよ」
フェムが再び上を見たときはもう、テューリの顔はなかった。
しばらくして、大きな爆音が一つあった。
その後、ナークの気配は一つも無くなってしまった。
「まさか……自爆?」
洞穴の中に潜む船は、二十五人乗りのクルーザーだった。人間たちはキャビンで大人しくしている。フェムは操縦席に座り、テューリに教わった通り船を起動させ、外海に出した。
しばらく進んでから自動操縦に切り替えた。
フェムは一人デッキに出た。力無く両膝をつき、四つん這いになり、拳で何度もデッキを叩いた。橙色の血が飛び散る。
キャビンの窓辺に佇むヒャーボは、黙ったままそれを見つめていた。
19
「あれがサワラ島か。長年いろんなもんを見てきたが、こいつを拝むのはさすがに初めてだぜ」
フェムの背中でヒャーボが言った。
眼前に横長の島が広がっていく。中央と左手に小高い山。生家のある二人浜は右手の方だが、今は岬の影になっている。
フェムは無言のままデッキに立っていた。船は自動操縦にしてある。
ヒャーボは大きなため息を一つついた。
「忘れろとは言わねぇが今は……」
「わかっている。テューリのこともあるが、母と話をするのが……辛い」
フェムは大粒の涙を幾つもこぼした。ボルタの豹変をどう説明すればいいのかわからなかった。
万憂尋を出て五日目の午後。サワラ島はもうすぐそこにあった。
フェムはサワラ島中部にある崩壊寸前の廃港に船を付けた。子供の頃の探検で発掘した資料によると、かつては大型の観光船が月に何度か行き来していたというが、今は見る影もない。度重なる地盤の隆起沈降と海水の浸食でコンクリートの埠頭はひび割れ、角は全て丸くなり、原型の五分の一も留めていなかった。それでも二億年以上の経過を考えれば奇跡的な保存状態と言えた。
船を下りたフェムは人間たちを引き連れ、テラが暮らす二人浜の海岸へ向け、三キロほど山道を歩いた。
ボロボロになったアスファルトのかけらを不思議そうな顔で拾う子供たち。
「おめぇらのご先祖様が作ったものだってよ」
ヒャーボは子供らに向かって言った。
フェムは終始無言だった。
山道を包むように生い茂る木々が開け、やがて砂浜の海岸が広がっていく。
フェムは思わず駆け出した。首を巡らし、テラの姿を探した。テラはかつて家族で暮らした手作りの小屋の前に座り、一人海を見つめていた。
「お母さん!」
小走りからはじまったフェムの足取りは徐々に速くなっていた。最後は全速力に近かった。
フェムはテラに抱きつき、何度も頬や首筋に顔をすり寄せ、泣いた。
「よく……無事で……」
二人の抱擁はしばらく続いた。一年ぶりの再会。言いたいことはたくさんあるはずなのに、互いの呼び名しか出てこなかった。何もかも喉元に詰まってしまっていた。
少し落ち着いたところで、フェムは話を切り出した。
「お父さんが……」
「あなたが無事に戻ってこられたということは、ボルタは上手くやったのね?」
「いや、あの……」
フェムは堪えきれず目をぎゅっと瞑った。
「違うの?」
「お父さんが……お父さんが……」
フェムは嗚咽しながらも、身に起こった出来事や、ボルタの豹変と殺戮を語った。
テラに驚く様子はなかった。
「そう……使ってしまったのね……他人を傷つけるために……」
「だって、お父さんは私を助けるために!」
「わかってるわ……でも、それでもだめなのよ。世界の滅亡と引き替えに一人の娘を救うことなんて許されない」
「そんな……そんな……」
「でも……」テラは水平線を見つめた。「私はそういうボルタだからこそ、種を超えて愛し続けることができたのかもしれないわ」
「お母さんは哀しくないの? どうしてそんなに冷静でいられるの?」
フェムはテラの両肩を何度も揺さぶった。
「私が取り乱したら、一体誰があなたを迎えるのよ」
フェムはテラの顔を見つめた。テラの目は充血し、瞼は腫れ上がっていた。きっとボルタと別れてから毎日泣いていたんだ。こうなることを予感していたのかもしれない。涙はもう涸れてしまったんだろう。
「ボルタは島を出る前に言ってたわ。もし、約束を守れなかったときは……フェム、あなたの手で……」
「そんなことできるわけない!」
「できなければ……世界は滅ぶわ」
フェムは苦悶した。自分への協力を惜しまないCoXのナークたちが殺されていく様子や、主を失いエサを探せずに餓死していく養殖人間たちの姿が脳裏をよぎった。そして……。
「テューリ……」
無意識にその名前が口から漏れた。
テラはフェムの肩にそっと手を置いた。
「あなたが連れてきた人たちの世話は私に任せなさい。そして、いずれボルタと出会うことがあったら、ためらってはだめよ。あの人はたぶん、もう……あの人……じゃない……の」
最後は言葉にならなかった。ずっと堪えていたんだ。フェムはテラが泣きやむまで、ずっと抱きしめた。
翌朝、フェムはすでに船の舵輪を握っていた。
「いいのか? 久々の再会だってのによ。また戻れる保証なんてないんだぜ?」ヒャーボが言った。
「私は絶対に帰ってくる。絶対にだ」
フェムは遠ざかっていくサワラ島を眺めていた。昨日過ごした二人浜では、子供らが数人はしゃいでいた。その輪の中にはテラもいた。こちらには気づいていない。
別れの挨拶は交わさなかった。互いの再会を信じ切っているから。
20
フェムは再び万憂尋の岸壁に戻ってきた。船を洞の中に隠し、崖を駆け上がる。上りきったところで、辺りを見回す。テューリの遺体は見当たらなかった。
フェムは微かな希望を胸に抱きつつ、人間たちの解放を続けた。
二度目の解放作業は難航を極めた。ゴンドワナ地方の警備が異常なほど厳重になっていたのだ。
* * *
フェムが大陸に戻った頃、デボル率いる狂ナーク団は、パンゲアシティーに集結したナークの数に任せた反撃に苦戦し、戦闘は長期化していた。だが、パンゲア側の苦しい状況は続いた。パンゲアのナークは救援を求めなかった。ゴンドワナやローラシアからパンゲアへ援軍を送るのは不可能だったのだ。パンゲアは峻険な三つの山脈に囲まれ孤立した位置にあり、さらに周辺の海は船の墓場、狂飢海だ。パンゲア以外の二地方はナークネットを介して送られてきた情報をもとに、守備を固めつつあった。
一年後、パンゲアシティーのナークはよく健闘したが、結局は陥落した。陥落時の戦力比は十五対一と圧倒的にパンゲア側が有利だったにもかかわらず、狂ナーク団のたった一人のスパイ活動が致命傷となり内部から崩壊した。そのスパイはデボルのウィルスに侵された狂ナークではなく、パンゲアの民と同じ普通のナークだったという。
狂ナーク団はパンゲアにデボル帝国を築いた。
* * *
一年かけてようやく船の定員程度の人間が揃おうかというとき、フェムは万憂尋の海岸でサイモネという女に出会った。彼女はCoXの者だった。格好は山林に溶け込むためか地味なフィールドジャケットだが、マリンブルーのおかっぱ頭(ナークでは滅多に見かけない)、ネイビーブルーの瞳、雪のように白い肌。首から上はかなり目立つ感じだ。
「テューリは一緒ではなかったのですか?」
サイモネは不安げな表情で言った。
「ここで私と人間たちを庇って自ら盾に……」
「そう、でしたか……連絡がつかないから、おかしいとは思っていたのですが……」
「……」
フェムは黙ったまま俯いた。
「遺体は?」
フェムは首を横に振った。
「なら、可能性はゼロとは言えない。私は他の者と協力して解放作業を引き継ぎます。あなたはテューリを探してください」
「そんな……たった一人のために投げ出すなんて……」
「我々CoXは非常時以外、互いのある程度の会話や視覚を共有化しています」
「あ……」フェムは思わず声が出た。一体どこまで見られていたのか。「でも、バーガッソーが……」
「なーに、結界壁の直前まで船を持っていけばあとは自動操縦で何とかなります。テラさんにもメッセージを送っておきますよ」
「グランタはどうする?」
「そこが問題ですが……遠回りすれば何とか……」
「あの辺りで穏やかな海域はグランタの住処だけだ。あんな小さな船では危険すぎる」
「し、しかし……」
「グランタは私の目を恐れていた。これを持って行け」
フェムはそう言って、左手を左目の中にめり込ませ、眼球を取り出した。
「な! なんてことを!」
「忘れたのか? 私はナークのナノマシンも少しだが受け継いでいるんだ。これくらいの自己修復能力はある」
ナークの大部分を構成しているナノマシン細胞は高い自己修復能力を持っている。頭をやられればそれまでだが、条件が良ければ腕一本程度なら一ヶ月で元に戻る。
「そ、そうでしたね……こちらのことはお任せください」
「ヤーペンルーズに、この恩は一生かけて返すと伝えてくれ」
フェムはサイモネをその場に残し、近くの森へ入っていった。
フェムは不止鳥を駆使して大陸中を探し回った。だが、テューリの姿も目撃情報も得られず、四年の月日が虚しく流れた。フェムは二十三になった。
* * *
デボルの侵攻はパンゲア陥落以来止まっていた。
パンゲアは超がつくほどの山脈と荒海に囲まれた陸の孤島だ。ゴンドワナとローラシア、どちらに向かうにしても、困難な地形の中で大量の兵を一気に動かすことは難しく、どのルートを選んでも進んで的になれと言ってるようなものだった。既にどちらの都市もデボル対策は整っている。いくら平和ボケしているとはいっても、同じスパイが二度も通用するほどナークは愚かではない。
デボルはゴンドワナを先に攻めることを宣言した。
ローラシアよりも僅かに近い。理由はそれだけだった。
侵攻先は決まったものの、内部崩壊を狙った頭脳戦はもう使えそうにない。とすれば、軍勢で力押しをするしかなかった。地形の難題は如何ともしがたい。このままではゴンドワナ攻略の苦戦は必至だった。
デボルはパンゲアに築いた城の一室から外の景色を眺めていた。下界は狂ナークが吐き出す息のせいで黒紫色の霧が立ちこめている。
「問題ありません。ゴンドワナは落ちますよ」
フードを深く被った側近の男は言った。
「ほぅ。根拠は?」
「あなたです。デボル様」
「奴らは私の『無元砲』もウィルス攻撃も対策を施している。緒戦はいいとしても、あの数だ、山越えの激戦で疲弊しきった兵だけではいずれ不利になる」
デボルは例の謎の力を無元砲と名付けていた。
「なら、それを強化なさればいい」
「強化だと?」
デボルは振り向いた。体中に浮き出した黒紫色の血管が脈打つ。
側近は一瞬たじろいだ。毎日のように顔を合わせ、慣れているはずなのだが。側近は胸を押さえ小さく呻いた。目に見えぬプレッシャーが彼の肺を締めつけているのだろう。だが、側近はそれ以上引くことはなかった。内に秘めた何かが、彼の腹筋に大量の血液を送り込んだ。
「そうです! デボル様の『無元砲』は経験を積む度、僅かながら命中範囲が拡がっているのです。ということは、訓練で成長を加速させる可能性は充分にある。是非ご一考を!」
「うむ。訓練法は貴様が考えろ」
「はっ!」
側近の男は一礼して部屋の外へ下がった。
その日、笑いを堪えるような籠もった声が物陰から何度もする、という噂が城内を流れた。
三ヶ月後。
デボル帝国はゴンドワナ地方への侵攻を開始した。戦力は五百万。
ゴンドワナのナークも動いた。同数の兵を東ペルミー山脈の要所に配置した。まともに激突すれば、味方の半数が昼寝をしていても勝利は揺るがない。地形効果の期待できる戦闘は防御側が圧倒的に有利なのだ。シティーの要塞も万が一に備えて守りを固めた。その数一千万。ローラシアからの援軍は期待できなかった。なにしろ、二地方間にはあの広大なデボニア大砂漠があるのだ。
* * *
東ペルミー山脈の山中。太陽は西に傾きつつある。
「妙だな」
ヤーペンルーズは右の眼球に装着していた透明色の望遠薄膜を外した。
「どうしたの?」
ひとまず解放活動を休止したサイモネが彼に近寄った。
サイモネの功績は計り知れない。彼女は数名の精鋭を率い、厳戒態勢下のゴンドワナにおいて、三年余りで二百五十三名の人間たちをサワラ島へ送り出したのだった。
「軍勢の中にデボルがいない」
「陽動にしては大袈裟すぎるわ。全戦力の半分も割いてるのよ?」
「嫌な感じだ……」
ヤーペンルーズは他の者と見張りを交代し、木陰に座った。
テューリからの連絡は未だになかった。フェムの目撃情報も入っていない。
彼は深くため息をついた。
「報告します!」
部下の女が坂道を駆け上がってきた。長いグレーの髪は枯葉や若葉でまみれ、フィールドジャケットはボロボロで半分下着が見えている。よほどの悪路を急いで来たのだろう。
「ゴンドワナ要塞北千キロの上空、一万四千メートル付近にデボルを確認しました! 不止鳥に乗っています」
「む、直接乗り込む気か」
ヤーペンルーズに慌てる様子はなかった。
ゴンドワナのデボル対策は整っていた。少数の犠牲は免れられないにしても、圧倒的な人海戦術で倒せる勝算は充分にあった。
「もう一つあります。デボルの無元砲の命中範囲と破壊力が四十倍に増したそうです」
「なんだと!?」ヤーペンルーズは立ち上がった。「ゴンドワナシティーに緊急回線を開け! 倒すどころか全滅しかねん!」
ヤーペンルーズらはナークネットを通じ、ゴンドワナシティーに集まった者たちとリンクし、デボル軍の詳細を伝えた。ゴンドワナの民は早急に緊急討議サイトを立ち上げた。全民投票の結果、一票差でローラシアへの脱出案が可決した。民の半分を占めた徹底抗戦派は一切の混乱を招かず、投票結果に従った。
三時間後、デボルの殺戮が始まった。要塞都市の中心部に飛び降りたデボルは、逃げ遅れたナークたちを無差別に建物ごと粉砕していった。シティーはミンチの丘と黄血の沼で埋め尽くされた。
シティー内でデボルに直接殺された者、七百万。帝国軍の追撃で命を落とした者、三百八十万。脱出に成功するも、大砂漠で行き倒れた者、三百万。生き残った者、百二十万。ローラシアに逃れたナークはゴンドワナ地方全人口の僅か八パーセントだった。
21
ゴンドワナを占領した五百万の狂ナーク軍勢は、砂漠越えの軍備に一ヶ月を要した。
一方、命からがら逃げ延びたゴンドワナの民とローラシアの民、合わせて千六百万強。今まで守ることしか知らなかったナークだったが、今度ばかりは全員一致で最後の決戦を選んだ。
デボル帝国軍はゴンドワナに僅かな兵だけを残し、デボニア大砂漠へ進軍した。
ナーク軍は徹底した分析の結果、決戦の地にその砂漠を選んだ。今の季節、砂嵐は西から吹く。ナーク軍は追い風に乗って素早く進軍し、先にトラップを仕掛けることが可能だった。刻々と変化する砂漠の地形や気象の最新情報は戦いが始まって以降、デボル側には渡っていない。地の利ではナーク軍が優っていた。
* * *
「ひどい……ひどすぎる……お父さん……」
フェムはもぬけの殻になったゴンドワナシティーを一人歩いていた。途中、数人の狂ナーク兵に遭遇した。戦意はないと何度も説得したが、相手は応じなかった。自衛のためにやむを得ず蹴り殺した。
フェムは何度か嘔吐しながらも歩き続けた。死臭がひどかった。一千万の肉片や死体は焼かれることも埋められることもなく、街の地面という地面を覆い尽くしていた。戦争に巻き込まれた養殖人間たちの亡骸もガレキの隙間や庭先などに散在していた。ナークは人間と同様、骨以外は完全に生分解する素材でできている。あと数ヶ月もすれば、骨の砂だらけの街になるだろう。
あてもなく歩いているとゴンドワナ人間博物園の前を通りかかった。正門から中を覗くが、やはりナークの死体だらけだった。そこで飼育されていた人間たちの姿はない。おそらく飼育員が連れて逃げたのだろう。ここの飼育員はペット人間に対する慈愛という点では評価できたが、所詮、人間たちはナークの手の中の存在でしなかった。彼らはテューリたちCoXとは根本的に違っていた。
「テューリ……」
フェムは博物園の中央部で立ち止まった。辺りを見回す。風一つ無く虫一匹飛んでいない。フェムは呼吸を止めてみた。音が死んだ。この世界には自分一人しかいないのでは、という孤独感が襲ってきた。
後方できしむ物音。
フェムはひどく驚き、急いで振り向いた。折れかかった木の枝が宙ぶらりんになっているだけだった。
(こんな些細な音に驚くとは……死の世界はこれほどまでに静かなものなのか?)
フェムはゴンドワナでの捜索を諦め、博物園から去ろうとした。
足を出口に向けた時だった。
枝が鳴った木の陰に座るナークの姿が目に飛び込んだ。だらりと肩を落とした半袖から見える浅黒い腕、黒い髪。フェムは駆け出した。
「まさか……テューリ!」
正面にまわり、前に垂れた男の頭を起こす。似ているが人違いだった。
ナークの男は口元を僅かに動かした。
「や、やぁ、君か……」
「私を知っているのか?」
「俺はかつて有事対策委員をやっていた」
「有事対策……ま、まさか……テューリを殺ったのはおまえか!」
フェムは男の肩を揺さぶろうとしたが、ためらった。少しでも衝撃を与えると命を奪ってしまいそうな気がした。
「い、いや……。ショック弾で気絶させただけだ。即処刑というほどの罪は犯していないからな」
「そうか……」
「とはいえ、あいつはナーク殺害幇助の罪で砂漠の私設刑務所へ送られたよ。直接は殺さないまでも、死を待つことはできる。そういう意味では、緩やかな死刑ということだな」
「ばかな! 私はテューリと一緒のときは一人も殺していない!」
「だが、君一人のときはある。要するに君に協力しただけで同罪ということさ」
「私に協力しただけで……死刑……なのか?」
「ナークは異物や異端を嫌う。彼も暴走ナークに類する扱いということだろうな」
「テューリは……テューリは今、生きているのか!」
「わからん。あの過酷な刑務所から帰ってきた者は一人もいないからな」
「どこだ! 教えろ!」
「知ってどうする」
「決まっている。助け出す」
「無理だな。第一、場所が場所だ、辿り着けまい。運良く入れたとしても……ゴホッグフッ」
男は黄血を二度吐き、何度もむせた。
「これを飲め」
フェムはサイモネにもらった、小豆のような外観の『リペアカプセル』を男に渡した。
「こ、こんな貴重なもの……どこで手に入れた?」
男の手は小刻みに震えていた。苦しみのせいではない。これ以上ない驚きのせいだ。
リペアカプセルは自己修復能力速度を千倍に高める超高性能ナノマシンだ。瀕死の状態からでも回復できるが、製造は偶然に頼らなければならないため極めて難しく、数千万年に一個しか作れないという。レアメタルなど問題にならないほど貴重な代物だった。
「早くしろ。おまえに死なれてはテューリの行方がわからなくなる」
男はカプセルを飲み、数分間苦しんだ後、上半身を軽く動かすことができるまでに回復した。
「今、俺が飲んだものは、君が探している男のために持っていたんじゃないのか?」
「……」
フェムは視線を逸らすだけで答えなかった。
「渡された情報とは随分違うな、君は。てっきりナークを食らう鬼だと思っていた」
「……」
「やれやれ。一言、釘を刺しておくが、人間を助け、彼らの社会を復活させたところで、新生代末期の二の舞になるだけだぞ?」
「おまえたちの貧弱なAIならそう考えるだろうな」
男はフェムの言葉にしばし唖然とした。が、すぐに吹き出した。
「アッハッハ。貧弱……貧弱か」男は地面を指でなぞり、続けた。「君の彼はここだ。デボニア大砂漠のど真ん中。一見すると何もないが、地下に刑務所がある。地形は砂嵐のせいで常に変わっている。入口は自分で探すんだな」
「ありがとう」
「人間を解放し……ナークを救いに行く、か」
「何が言いたい」
「水と油を混ぜることは、並大抵の努力では叶わない」
「覚えておこう」
フェムはゴンドワナを去った。
フェムは砂漠を西へ走った。走るしか他に方法がなかった。不止鳥は砂漠の上を飛ばず、砂地を高速で駆ける野生のスピーメル(ラクダの子孫)は言うことを聞かない。昼間は太陽エネルギー補給に徹し、日没から夜明けまで毎日走った。
四日目の晩、持ってきた水が尽きた。ヒャーボが大きなくしゃみをして、異次元の口に溜め込んでおいた水を全部ぶちまけてしまったのだ。だが、博物園で出会ったナークに教わったオアシスを見つけ、どうにか命を繋いだ。オアシスはほとんど干上がっていたが、二人分の喉を潤すには充分だった。オアシスの周りには、消えかかっている足跡がいくつか残っていた。
フェムはさらに四日間走り続けた。途中、デボル帝国軍の偵察部隊を二度見つけたが、やりすごした。今そんなものにかまっている暇はない。
「最近やけに大人しいな。具合でも悪いのか?」
フェムは走りながら、東の空から顔を出した満月を見つめていた。
「何言ってやがる。おめぇがちゃーんと砂漠の中心にたどり着けるように、脳味噌をフル回転させてんじゃねぇか。それ以前にだ、おめぇはこの頃、俺様の声がちっとも耳に入ってねぇ」
ヒャーボは半ばあきれた口調で言った。
「そうか……すまない」
フェムは走るのを止め、歩くスピードに落とした。
「な、なんだよ。気持ち悪りぃな。調子狂うだろうが」
「おまえの存在を忘れていたわけじゃないんだ……ただ……」
「わかってるさ。皆まで言うな」
「すまない」
フェムは立ち止まった。ヒャーボを肩から外し、思い切り抱きしめた。
「わ、あ、ちょ、ちょっと……フェムぅ?」
ヒャーボの裏返った声。全身から湯気が立っている。
フェムは口元を少しだけ緩め、再びヒャーボを背負った。
「行こうか」
「お、おう」
ヒャーボの湯気はしばらくの間、消えることがなかった。
翌日、フェムたちは砂漠の中心に辿り着いた。といっても中心点の旗が立っているわけでもなく、ただの平坦な砂地だ。フェムは風紋を調べ、ヒャーボと共にここ数日間の風の向きを検討した。怪しい砂山を幾つか掘ってみたが、入口は見つからなかった。
「ヒャーボ。アレをやってくれないか?」
フェムはヒャーボを焼けた砂の上に置いた。
「ええっ!? ここでか? 乾いた砂って苦手なんだよな……」
「頼む」
フェムは片膝をつき、頭を垂れた。
「わかりやしたよ、お姫様」
ヒャーボは口をすぼめ、大きく息を吸った。
二人の周りの砂が渦を巻きながら浮かび上がり、ヒャーボの口の中に飛び込んでいく。
フェムはヒャーボを両手で抱き、掃除機の要領で怪しい部分の砂を吸い取っていった。
「ん? そこに何かある」
フェムは三十歩ほど進んだところで足を止めた。
「金属の蓋だな。たぶんこの下だろう」
ヒャーボはむせて、何度か砂を吐いた。
「くそっ! 開かない」
フェムは金属の蓋の縁をつかみ、腕に力を込めたが、びくともしなかった。
「らしくないことするなよ」
「どういう意味だ」
「そんなふにゃふにゃの腕でどうしようってんだ?」
「む……そうか」
フェムはヒャーボを頭の上に乗せ、南中する太陽に向かって高くジャンプした。落ち際に右脚を引き、左一本に全体重を込めて蓋をぶち破る。
突如、闇がフェムの視力を奪った。ヒャーボも「見えん!」と叫んでいる。フェムの足は虚空を切り裂き続ける。目が暗がりに対応するまで、あと数秒はかかる。
「あああああ!」
ヒャーボの絶叫と共に、二人は縦穴の底へ落ちていった。
* * *
地上ではデボル帝国軍とナーク軍が互いに砂漠の中心を挟み、進軍を続けていた。
双方の距離、約六百キロ。
* * *
「ひぃふぅ……あぶねぇあぶねぇ」
ヒャーボの延びきったショルダーハーネスが震えている。
底に落ちる寸前、フェムが彼のバックルを外し、壁面のタラップに巻き付けていたのだ。
細長い円筒の底は強酸の池になっていた。溶け残ったナークたちの頭蓋が幾つか浮かんでいる。
フェムはハーネスを伝いながら上り、途中で見つけた高さ一メートルほどの横穴に飛び込んだ。フェムは息を弾ませながらヒャーボを睨んだ。
「や、やっぱ慎重に行くべきだったかね?」
ヒャーボは半ば裏声になっていた。
「……」
フェムは無言でヒャーボを背負い、足場を確かめるようにしてトンネルの中を歩いた。前方に仄かな灯りが見える。トンネルを抜けると、薄暗い廊下に出た。直線の道を挟んで左右に一列ずつ、青白い霧状半球に包まれた独房が並んでいる。独房の列はかすんで見えないほど遠くまで続いていた。独房の中を覗くと、一室に一人ずつナークの死体が転がっていた。微生物に分解される途中の者、すでに骨格だけになった者、立ったまま頭を抱え絶命している者などがいる。
「フォグシールドか。これじゃ脱獄は無理だな」ヒャーボは言った。
「フォグシールド?」
「見た目は霧状で、いかにも通れそうに見えるが、近づくと微粒子が反応してダイヤモンドよりも硬い結合になっちまう。死刑にもいろいろあるようだが……ある意味、これが一番惨いぜ。飢えと退屈と絶望に殺されるようなもんだ」
フェムは両親の話を思い出した。ボルタがテラを盗み出したときのと同じシールドだ。
「テューリ……飢えてなければいいが……」
フェムは辺りを見回した。何もない時間に殺されるよりも、餓死する方が先だと思った。フォグシールドが放つ弱い光だけではどれほど保つかわからない。活動を限りなく制限し仮死状態に近づけなければ、千年の寿命まで退屈と戦うことなど不可能だろう。
フェムは走り出した。今この一分一秒にかかっている気がしてきた。
五分ほど走った。廊下は無限に続いているように思えた。どこまでいっても同じ風景だ。寸分違わぬ一定の間隔で半球の独房があり、中は皆死体だった。
「それにしても、看視一人いやしねぇな」
「今は戦争状態だ。放棄したんだろう」
フェムは速度を上げた。
さらに三十分走った。ようやく突き当たりが見えてきた。
「なんという長さだ……」フェムは走る速度を緩めた。「行き止まりか?」
「いや、まだだ」
ヒャーボの暗視能力はフェムより数段高い。彼は突き当たりの脇で影になっている別の通路を見つけていた。
「うっ!?」
突然、轟音と共に地面と天井が揺れ、フェムは思わず立ち止まった。一旦収まったが、その後すぐに細かい揺れや地鳴りが継続した。
「まずいな。始まっちまったか」
ヒャーボは舌打ちした。
「お父さん……」
「今はテューリが先だ」
フェムはうなずき、振動のせいで何度も左右によろけながら、突き当たりの通路へ走った。
* * *
「ヒャハハ、どうしたぁ? 三億年の知恵もその程度か? ああン? ナークども!」
デボルの側近は屋根のない仮設櫓の上で高笑いしていた。
ここから戦況の大方を把握することができる。
前線ではナーク軍の精鋭がデボルたった一人に為す術もなかった。砂漠は黄血で染まっていった。
「ククク……これで永遠の退屈から解放される。進化も退化もしないナークなど、存在する意味はない!」
側近はなおも腹を抱えながら一人狂喜していた。
ナークはどの時代の誰もが似たような時間を三億年近く繰り返してきた。何の発展もなく、何の破綻もなく。与えられた環境で与えられた役割を何の疑問も持たずにこなしていた。その敷かれたレールから一歩でも外れてしまったら、ナークの現状に憤りを感じる者が出てきても決しておかしくはない。
現状を踏まえて世界を変えていこうとするヤーペンルーズたち。何がなんでも異端や外敵を裁こうとする有事対策委員会。新世界の創造はまず破壊からという側近の男。イレギュラーの多様化は多くの悲劇を呼んだ。
側近は背後に気配を感じたのか、後ろを振り返った。気配の正体を知った側近は歪んだ笑みをどうにか堪えようという表情だ。
「おや、これはこれはデボル様。休憩でございますか?」
「貴様は……ナークではないのか?」
デボルは黒紫色の霧を顔のあらゆる穴から吐き出し、荒い息をしている。
「は?」
「貴様も愚かなナークの一人であろう。細々と生きていた人間たちをなぜ放っておかなかったのだ」
デボルの霧は体中の動脈からも漏れだした。音もなく。
「な、なにを今更。デボル様はすでに人間共とは無関係でございましょう。愚かなナークや人間を根絶やしにし、地上の新たな種、新たな支配者、狂ナークの楽園を共に築こうではありませんか」
側近は大袈裟に両手を広げた。
「共に、だと?」
デボルは右手を側近に向けた。
「お、お気に触れたのなら、申し訳ございません。も、もももちろん絶対的な頂点に君臨するのはデボル様で……」
側近は声が裏返り、青ざめた顔で後ずさりした。頭を被っていたフードが強風で脱げ落ち、禿頭が露わになった。
「この世にナークなど一人たりとも必要ない。失せろ! ドイチェフ!」
デボルは『無元砲』を放った。
ドイチェフの肉体は瞬時に砕け圧壊していった。残った頭部が砂上に落ち、数度転がってから止まる。口が微かに動いた。
「ヴァイマ……お、俺は……間違っ……」
デボルはすかさず飛び降り、ドイチェフの頭を踏みつぶした。
* * *
通路は人一人やっと通れるほど狭く、しかも勾配のきつい下り階段になっていた。そこを三十段ほど下りると、再び同じような廊下に出た。
フェムは黙ったまま走り続けた。三十分ほど走るとまた壁に突き当たり、狭い階段を下りた。もう同じことを五回も繰り返している。どこまで行っても同じ構造。時間の感覚が狂ってきた。何年も同じ場所に閉じこめられているような錯覚にとらわれていた。
「一体、何層あるというのだ……」
「なんだ、気づいてねぇのか」
ヒャーボは「やれやれ」と言いたげな呆れ口になった。
「何のことだ?」
「そのうちわかるさ」
「もったいぶるな!」
フェムはヒャーボの喉元(らしき部分)を鷲づかみにして怒鳴った。
「グエッ! ……そ、そんなだから気づかねぇのさ」
フェムはしばらくヒャーボを睨みつけた後、背負い直し、黙々と歩き続けた。二度壁に突き当たり、二度階段を下った。冷静に歩数を数えだしたフェムは、地下に下りるに従ってフロアの間隔が狭まっていることにようやく気づいた。
間隔が二千歩を切り、千歩を切り、更に五百歩を切った。青白い独房は相変わらず淡々と道の両脇に並んでいた。やはり中身はナークの死体だけだった。テューリの姿はまだない。終端が近づくに連れてフェムは不安が増してきた。ここまで誰一人として生きた囚人がいなかった。フェムはゴンドワナで助けたナークの言葉を思い出した。
……あの過酷な刑務所から帰ってきた者は一人もいないからな……
「テューリ」
フェムは最後の階段を駆け下りた。
三メートル立方もない狭いフロアの中心に半球の独房がたった一つ。フォグシールド濃度が高く、中で横たわっているのが誰なのかも、生きているのかどうかもわからない。
「下に行くほど重罪人ってのは人間の発想と変わらねぇな」ヒャーボは言った。
「しっ!」フェムは膝をつき、ヒャーボを地面に置いた。「わかるか?」
「む……僅かに振動があるぜ。地上のものとは違う。たぶん何かの臓器だ」
「まだ生きている!」
フェムは独房に近寄り、霧の中に体を入れようとしたが、跳ね返された。別の部分も試したが同じだった。焦り始めたフェムは霧に向かって何度も体当たりや跳び蹴りを食らわしたが、自分の勢いと同じ分だけ後ろに吹っ飛ぶだけだった。フェムはそれでもめげずに起きあがり、何度も霧を叩いた。
「テューリ! テューリ!」
青白い霧膜の向こう側で横たわり、微かに口を開けている男がいた。シルエットだけだったがフェムにはそれがテューリだとわかった。
「言いたかねぇが……このシールドだけは干渉剤なしじゃ誰にも……」
「テューリ! テューリ! しっかりしろ!」
フェムは霧の壁を叩き続けた。
「フェムよぅ……世の中にはどうにもならねぇことが幾つも……」
「くそっ!」
拳からは血が滲み出し、膝の皮は擦りむけていた。フェムは力を使い果たし、がっくりと霧の壁に顔をつけ、半球に覆い被さるようにもたれかかった。
「フェム……一旦退こうぜ。干渉剤を探すしか……あ、あれ?」
ヒャーボが言ったその時だった。
フェムは地面に顔を打ち付け、悶絶した。薄目を開けてみるとフォグシールドの中だった。フェムの体は淡紫色の光に包まれていた。
「何がどうなってんだか……物理法則を無視しやがった」
ヒャーボは自分の口中異世界を棚に上げ、一人騒いでいる。
「テューリ! 大丈夫か!? おい! テューリ!」
フェムはテューリを抱き起こし、肩を揺すった。顔つきはもうすっかり大人だ。エネルギー不足のせいで体中に痣のような斑点やへこみができている。テューリは餓死寸前だった。
二度三度頭が揺れた後、テューリはうっすらと片目を開いた。
「う……あ……フェ、フェム?」
「テューリ!」
フェムはテューリを強く抱きしめた。
テューリは笑みを浮かべ、フェムの背中に手を回そうとした。だが、急にだらりと力が抜けた。
「テューリ?」
「ご、ごめん。僕はもう……だめ……みたいだ」
テューリの眼光は徐々に弱くなっていった。
「な、何をいってる! 今助けるからな」
「だ、だめだ。地上はもうじき戦場になる……そしたらフェムたちも……助からない。フェムは逃げて。君は人間とナークの希望……」
「そんなことはどうだっていい! 私は、私は……」
「え? あ……」
フェムは唇でテューリのを塞いだ。フェムを包んでいた淡紫光はテューリの方にも及んだ。
長い沈黙があった。
やがてフェムは唇を離し、目を泳がせながら俯いた。
「こ、こうすれば……少しは力が戻るだろう?」
「これは……そんなことって……」
テューリは不思議そうに首や手足を動かしていた。体中の痣やへこみは半分ほど消えていた。
「私の父は母を連れて大陸から逃げたとき、海越えで衰弱しきった母に同じことをした。すると母の体力が少し回復したと父は言っていた」
「フェム……ありがとう」
テューリはフェムを抱き寄せ、口づけした。
フェムは上気し、思考回路が滅裂になった。
「あー、甘いひとときに水を差すようだが……主力の激突前に脱出しねぇとよ」
ヒャーボは口を尖らせながら、少々トゲのある声で言った。
「そうだった。グズグズしていたらここも危ない」
フェムはヒャーボを背負い、よろけるテューリの手を取り、長蛇の牢屋群を駆け抜けていった。
* * *
地上ではすでに、両軍合わせて二千万の軍勢が激突していた。デボルの急襲で出鼻をくじかれたナーク軍だったが、新兵器『サンド・フォックス』を操って善戦した。サンド・フォックスは大砂漠に生息する砂粒大の虫で、それらは一カ所に結集する習性を持ち、狐のような形に擬態化することからそう呼ばれるようになった。サンド・フォックスは保護色のせいで砂と見分けが付かず、倒そうにも攻撃が当たる寸前に分散してしまうため、デボル帝国軍は相当に手を焼いた。彼らは幻狐たちの攪乱を受け、開戦時の勢いを失っていた。両軍の戦いは一進一退が続いた。デボルがドイチェフを殺し、戦列に復帰するまでは。
* * *
「ハァハァ……」
テューリは砂嵐にあおられながら縦穴の口から這い出した。
「テューリ……」
先に地上へ出て周囲を警戒していたフェムは彼の下に駆け戻り、テューリの顔を覗き込んだ。
「大丈夫。フェムが通ったオアシスまで行ければなんとかなるよ」
「その体では戦うのは無理だ。軍勢のいない海岸の方へ歩こう」
「ここから大陸の南岸までは四千キロもある。それに砂漠の南部はここより遙かに乾燥しているから、オアシスは期待できないよ」
「し、しかし……」
「危ない!」
テューリは突然フェムにタックルし、二人は砂に埋もれた。
砂丘の遙か向こうから幾つものナークの頭部が高速で飛んできた。頭部はナーク軍とデボル帝国軍、双方ものが入り交じっていた。
「ブヘッ。ペッペッ……どういうことなんだ?」
ヒャーボは口に入った砂を吐きながら言った。
「デ、でボる様が……で、ぼ、ル、さ……」
デボル軍らしき男の頭は恐怖のせいか、ひきつった顔のまま息絶えた。
フェムは急に胸が苦しくなり、体を丸めた。
「お父さん……もう止めて……」
22
フェムたちは混乱を極めた両軍の間隙を縫い、デボル軍の本陣へ向かっていた。
「無茶だ! デボルはもう他人の話なんか聞かないよ」
テューリは必死の形相でフェムを説得したが、フェムは一切聞き入れなかった。
いつの間にか砂嵐は止んでいた。陽炎の向こう、屋根のない粗末な物見櫓が一行の視野に入った。
「なぁ、テューリ」
前を歩くフェムは急に立ち止まり、振り向いた。
「うん? んんっ!?」
フェムはいきなり、テューリに口づけした。直後、フェムの膝蹴りが彼の鳩尾に入った。気を失ったテューリはがっくりとフェムにもたれかかった。
「すまない。テューリ」
フェムはテューリを近くの砂丘の麓に寝かせ、背負っていたヒャーボを降ろし、テューリの側に置いた。
「お、おい! フェム! おめぇ、まさか一人で……」
ヒャーボは何度も体を揺すった。
「おまえの口の中でテューリを乾燥から守ってやってくれ」
フェムは物見櫓に足を向けた。すぐに立ち止まり、振り返ってテューリを一瞥する。
「ば、ばかやろう……おめぇがやられちまったら、こいつだってきっと……」
フェムはそれには応えず、その場から走り去った。
「デ、デボル様!? ゴボォアァァー!」
「どうしたというのだ? グギェヤァァァ!」
デボル軍本陣は大混乱に陥っていた。攻勢にまわったナーク軍の先鋒が本陣に突撃。デボルがこれを迎え撃ち、あっというまに半数を撃破。歓喜に舞い士気の上がったデボル軍が逆襲に出る。ところが、デボルは突如振り向き、味方のはずの軍団を次々とグロテスクな小片に変えていった。何が起きたのかわからず進軍を鈍らせるナーク軍。デボルはその隙を逃さず、一気に最前列の百人を切り刻んだ。
デボルは敵味方関係なく無差別に攻撃を始めた。
「ナークは……この世に存在してはならんのだ」
デボルは片足を軸に高速で回転しつつ、近くで足がすくんでいた無抵抗のナークたちを次々と砕破していった。デボルの周囲には半径百メートルの円の空間ができあがった。
フェムは狼狽える軍勢をかき分け、円の中に一人飛び込んだ。
「お父さん! もうやめて!」
「ん? おお、フェムか。しばらく見ないうちにまた背が伸びたか?」
デボルは振り向いた。口や鼻や耳から足先の毛穴に至るまで、体中のあらゆる隙間から黒紫の霧を吐き出し、微笑した。顔は父の面影が僅かに残っているが、頭蓋は秩序を失い、あらぬ方向に膨らんだり尖ったり、へこんだり欠けたりしていた。
フェムは一瞬目を疑った。
(この男は本当に父なのだろうか?)
頭の中でデボルの全ての歪みを取り除くとやはりボルタだった。フェムは気を取り直し、言った。
「人間たちは私が何とかする。既にナークの協力で何百人かサワラ島に渡ったよ」
「ナークが協力だとぉ?」デボルは歪んだ顔をさらに歪ませた。かと思いきや、いきなり父親の顔に戻った。「フェムよ。寝ぼけているのだな。浜で顔を洗ってきなさい」
「浜って……ここは砂漠の真ん中……ハッ!?」
フェムは確信した。ボルタはまだ完全には狂気に支配されていない。フェムはきっかけを探した。
「お父さん……そうだ、浜へ行こう。また泳ぎを教えてよ」
「いいとも。だが、今は忙しいから明日な」
デボルはそう言ってナーク軍の方へ腕を突き出した。
「嫌だよ! 今日じゃなきゃ嫌だ!」
フェムは甘えた声で幼子のように左右に身をよじった。
「ふぅ……しょうがない子だ」
デボルはまともな形に戻った頭を掻きながら振り返り、フェムの方に歩き出した。
その時だった。デボルの背後で銃声がした。デボルはその場に凝固した。
ナーク軍から歓声が上がった。
「ナークはな……こういう奴らなのさ。一滴でも異物が混じっていれば……平気でこれだ……相手が人間ならなおさら……共存など……クッ!」
デボルは銃弾の痛みよりも、溢れ出す狂気を抑えようとして苦悶しているようだった。
「お父さん!」
「フェムも……気をつけろ」
ボルタとしての最期の言葉だった。
ボルタはデボルに戻り、再び無差別攻撃を始めた。
フェムは黄血が縦横に飛び散る光景に目を伏せ、立ち尽くしていた。
「今……楽にしてあげるから……」
フェムは大粒の涙を一つ、砂の上に落とした。と同時に全速力でデボルに突進。デボルは攻撃に夢中でこちらに気づいていない。首の骨に当たれば止められる。
フェムはナークの黄血で固まった砂を見つけ、強く踏み込んだ。空中に舞い、デボルの首目がけて跳び蹴りを放った。
「甘い! 甘いぞぉ! フェムぅ! そんなことではナークは滅ばぬ!」
デボルは振り返り、フェムの足を片手で叩き落とす。
フェムはバランスを失い、空中で前のめりになった。
デボルは迫ってくるフェムの両肩をつかむ。
鈍い音がした。噴水音がした。
「ガアァァァァ!」
フェムの血だらけの腕が二本、砂の上に転がった。
「おっとすまんすまん! つい力を入れすぎてしまった!」
デボルはそれを一踏みでバラバラに潰す。
フェムは悶えながら力無く両膝を地につけた。
デボルはフェムの喉元を鷲づかみにし、持ち上げる。
「いつまで休んでいるつもりだぁ? たーちーなーさーいー!」
「クッ……」
フェムは痛みが堪えきれず片目を閉じた。首の骨がきしむ。ほどなく意識が途切れた。
「ナークはな、頭が弱点なんだよ。ほうらこうやって叩き割ればいい!」
デボルは右拳を繰り出した。
「フェムゥゥゥ!」
どこからかテューリとヒャーボの声がした。
フェムは意識を取り戻した。
デボルは右腕を振り切る寸前だ。
フェムは歯を食いしばり、つかまれた首を支えに、両足でデボルの右腕を挟んだ。
「な!?」
デボルはしばし唖然としていたが、すぐにいびつな笑みを取り戻す。
「少しは成長したようだなぁ。だーが……これで終わりだ」
デボルはフェムの喉元にある左手に力を込める。
フェムは両足を放し、抵抗をやめた。フェムの体は再び宙吊りになった。
「何か言い残すことはあるかね?」
「さよなら、お父さん」
フェムの体は淡紫色の光に包まれた。フェムは右脚を振り上げた。
デボルが固まる。
フェムの足はデボルの体を股から切り裂き、左胸まで達していた。
デボルはフェムから手を放し、仰向けに倒れた。
「お父さん!」
フェムはデボルに駆け寄った。
デボルはもう動くことはなかった。彼を包んでいた黒紫色の霧や血はなくなっていた。
そこにあるのは父ボルタの亡骸だった。
フェムは白目を剥き、膝から崩れた。
駆けつけてきたテューリがフェムを抱き留めた。
「フェム!」
「……」
フェムは片目を開き、虚ろな目でテューリを見返した。
「フェム!」
テューリはフェムの血らだけの両肩に目をやった。安堵と哀れみの入り交じった複雑な表情を見せる。
修復ナノマシンが働き、患部の止血はほぼ済んでいた。
「腕は……もう戻らねぇだろうな」
テューリの背中でヒャーボが小さく言った。
フェムは純粋なナークではない。自己修復能力には限界があった。
テューリは何度もフェムに呼びかけた。
フェムは瞼や瞳を僅かに動かすのが精一杯だった。
「立てるかい?」
テューリの言葉にフェムは微かにうなずく。
フェムはテューリの手を借りながら立ち上がったが、すぐに前後にふらついた。
テューリはフェムの腰をしっかりと抱き、歩みを促した。
ナーク軍とデボル軍双方の軍勢は言葉を失ったまま、二人の姿を目で追うだけだった。
砂嵐は止んでいた。砂を踏みしめる二人の足音とナークたちの荒い息づかいだけがそこにあった。
行く手を遮っていた者たちは次々と震える足で後ずさった。幾重ものカーテンが一つずつ開いていくかのように。
二人は寄り添いながら砂漠のどこかへ消えていった。