表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
機生代  作者: ヒノミサキ
3/11

第二章 人間解放作戦

 4 



「ウーン!」

 フェムは大地を踏みしめ、伸びをした。揺れない地面は本当に久々だ。

 フェムは約半年かけて地球半周を航海し、超大陸エクシアの西端、ローラシアの砂浜海岸に上陸した。世話になったブイ島は黙々と北へ去っていった。フェムは島に向かって軽く手を振った。

 フェムは額に手をかざした。衰えを知らぬ五十三億歳の太陽。光の圧力に押しつぶされてしまいそうだ。晩夏の大陸はジャングルの深部と山岳地帯を除けば何処へ行っても灼熱地獄だ。それでも海岸は無人ではなかった。

 フェムは生まれて初めてナークを見た。海水浴に来たナークたち数人のグループとたまにすれ違う。彼らはそれぞれ違った顔かたちだけでなく、個性的な色の肌や髪で飾っていて誰一人として同じ見た目の者はいなかった。彼らは人間とは違い、体中の色素組成をある程度変えることができるようだ。フェムは自分の淡紫色の瞳や髪を気にしたが、ナークたちは一瞥するだけで何も言わなかった。会話や表情を見る限り、人間であるテラと比べても違和感はほとんどない。ナークはもっと感情が希薄で機械のような存在かと思っていたが、少なくとも外面は案外人間と変わらないように見えた。

 ナークは例外なく人間を嗅ぎつける能力を持っていると教わったが、誰もこちらを気にしている様子はなかった。純粋な人間でなければ識別できないということだろうか。そうであってくれればひとまずは助かる。

 分厚い防砂林地帯の間を縫う曲がりくねった坂道をしばらく上ると、いきなり視界が開け、ローラシアシティーに出た。街の中心にそびえる巨大な塔に向かって真っ直ぐ続く太い道と、塔を取り巻く同心円状の細い脇道が何十本と見える。フェムは太い道を歩いた。道路はふかふかと柔らかく草の色をしていた。太道を歩くナークは疎らで、ナーク以外の動く物体は小鳥くらいしか見かけない。人口一千五百万と聞いていたからさぞかしナークで溢れているだろうと想像していたのだが、どうやら一カ所に全て集中しているわけではなさそうだ。もっとも自分を含めて人型の生物を三人しか見たことがないフェムはそれほどの数を想像するだけでも大変で、蟻塚の蟻やイワシの群れをナークに置き換えて考えるしかなかった。

 十本目の細道に差しかかったとき、フェムはふと脇道に逸れた。細道といっても大きな鯨で塞いでもまだ余るほどの幅がある。太道があまりにも広いため錯覚を起こしていたのだ。道に沿って自然色(ナチュラルカラー)の建物がたくさん並んでいる。

(これはたぶんビルディングというものだろう)

 そのどれを見てもフェムが暮らした小屋に比べれば五倍以上も高く、壁も相当硬そうだった。ただ、数の割には森のように鬱蒼とした感じはない。道幅に比べて高さがないせいだろう。

 フェムは、道端のテーブルを囲んで(オープンカフェと後に知る)談笑するナークの男女四人を見かけた。皆自分と同じかやや年上くらいだ。フェムは彼らの会話に耳をそばだてた。街のどこからでも見えるあの塔はローラシアタワーと言うらしい。チェスのクイーンという駒をモチーフにしたんだと男が言っていたが、フェムにはさっぱり意味が解らなかった。

 フェムは今歩いている円の道を一周しようと思ったが、一日かけても回れないことを知り、太道に戻った。

 フェムはタワーに向かって四時間歩いた。カフェの近くにいたときはそれほど感じなかったが、近づけば近づくほどその巨大さが浮き彫りになり、フェムは思わず口を開けたが言葉が出てこなかった。窓の数を縦に数えてみる。二百から先はわからなくなってしまった。

 フェムは建物の引力に吸い込まれるような感覚を覚えつつ、タワーの入口へ足が向いた。

「ハッ!? こんな所で観光している場合じゃない」

 フェムはふと我に返って立ち止まり、両親と別れてまで大陸にやってきた目的を思い出した。人間だ。人間を捜さなければ。そういえばローラシアに入って以来、一人も人間を見かけていない。本当にペットとして飼われているんだろうか。フェムはタワーを迂回し、真裏から伸びる同じような太道を歩いた。

 老人はものをよく知っているとテラが言っていた。老人自体見たことはないが、全身しわしわで腰が曲がっている人だという。フェムは老ナークなら人間がどこにいるのか詳しく知ってるかもしれないと思い、特に注意して探した。ところが、この街には老人など一人も見かけない。子供を除けば皆同じくらいの若い見た目の者ばかりだった。ただ、若々しくない会話をしている者も少なからずいた。見た目に騙されてはいけないのかもしれない。

 やがてフェムはシティーを抜け、住宅が疎らに立つ郊外へ出た。ここまで、ナークたちの話を盗み聞きした内容を整理した。ナークは二十五歳から先は見た目が変わらない。人間は紫外線に弱く、ローラシア地方での今の時季は早朝と夜以外は外に出せない。この二点が重視すべき情報だった。フェムは近くにある森林公園に潜み、夜が来るのを待った。


 夜になると外を出歩くナークはほとんどいなくなった。多くの住宅の窓から明かりが漏れる。夜を家で過ごす習慣は人間譲りなのだろうか。そんなことを考えていると信じられない光景が目に飛び込んできた。

「あ!」

 フェムは反射的に口を押さえ、近くの木陰に身を潜めた。一人の女ナークが何者かに首輪を付け、公園内を並んで散歩している。

 人間だ! フェムは直感でそうだとわかった。テラと同じ感じがする。人間の若い男が半裸で首輪に繋がれ歩いている。表情は喜びに満ち溢れ、主人にじゃれついている。男は女ナークの命令に従い、土下座よりも低い体勢になって土で汚れた女の足首を何度も舐め始めた。

(なぜだ! なぜあんな屈辱的なことができる)

 人間の男には野生、即ち人間らしさのかけらも見あたらなかった。

(あれが養殖人間というものなのか……)

 ひどい吐き気がした。あの人間と同じ血が自分の中にも流れているなんて……。とても見ていられない。

(私はお母さんの野生の血を引く子。あの人間とは違う)

 フェムはテラのことを思い出し、気を取り直した。あの女から人間を奪い、少しでも野生を残していないか確かめてみたくなった。だが、今回は踏みとどまった。郊外とはいえ人口密度はそれなりにある。ナークが集団で戦いを挑んできたら勝ち目がない。

 その後もナークと人間が何組か目の前を通り過ぎた。手を繋ぎ、まるで恋人同士のようにしている者や、くだらない芸を仕込もうとしている者、一緒に走ってペットの運動不足を解消しようとしている者などがいたが、先程の女よりは随分ましだった。

(飼い方にもいろいろあるということか)

 フェムは太い枝がある木を探し、その上で一晩眠ることにした。


 フェムは夜明けと同時に目が覚めた。寝床にした枝から飛び降り、北へ足を向けた。

 ローラシア北部は小高い山と森があるだけで、民家はほとんどなく、手つかずの自然で溢れていた。といっても、ローラシアはシティー以外はどこも自然と密着した郊外という感じで、手を付けた場所の方が珍しいくらいだった。森林公園を出てからは人工物を一つも見かけていない。故郷サワラ島では、ボロボロになったアスファルトやプラスチックやビニールの切れ端などが遺跡の内外でよく見つかった。人間たちの負の遺産だとボルタは言っていた。何億年経っても分解しない物質に強い違和感と怒りを覚えた記憶がある。だが、ここではそういうものがほとんどない。ナークは自分たち同様本当に自然とうまくつき合っていた。ナークへの考え方が少しだけ揺らぐフェムだった。

 どこまでも続く森の向こう、低くなだらかな山々の麓にぽつぽつと何件か家が建っているのが見えた。フェムは目をこらした。家の周りだけ木々が少なく、農地になっている。ナークはフェムと同様、ほとんど食事をしない。とすれば、それらは人間用なのだろう。街のストアでは人間専用のドライフードを売っていたが、この辺のナークは生もの指向ということかもしれない。

 フェムは決断した。もし騒ぎになったとしても、ここなら逃げ切れるだろう。

 

 朝靄に煙る木々の隙間に平屋のログハウスが見える。ここから五百メートルくらい先だ。

 突如、人間でもナークでもない『何か』の気配がした。

(虫かっ!?)

 フェムは急いで近くの大木の影に隠れた。ここは熱帯雨林地帯『オルドブリアの霊森』まで数百キロもない。そこに生息する体長一メートルの巨大蜂に刺し殺されたナークが年間何十人もいるという噂を聞いていた。

 五分待った。特に変わったことは起きない。羽音もない。

(気のせいか……)

 フェムはため息を一つついた。

「……い」

 どこかでかすかに声がした。

「クッ!」

 やはり何かいる。フェムは身構えた。

「おーい、助けてくれー」

 上の方からだ。セコイヤの変種らしき大木の遙か上方から甲高い声が聞こえる。それにしても大きな樹だ。根元は五十人の大人でも取り囲めそうにない。高さは三百メートルを優に超えている。おそらく樹齢は数万年かそれ以上だろう。

「ぼーっと根っこなんか見てないでよ。こっちだ、こっち!」

 高級言語を話しているということは、人間ではない。だがナークの気配とも違う。フェムは大木をしっかりと見上げた。ぽかんと口が開く。この癖だけはどうしても直らない。

 額に手をかざし、目をこらす。鬱蒼と茂る幹と枝の隙間の遙か彼方、手足を引っ込めた平たい陸亀が親子で重なっているような図体に肩ひものような輪が二つ。あれはいわゆるバックパックというやつか?

「そうそう。おめぇが今見ているそれだ」

「どれだ?」

 音声はバックパックから発せられているようにしか思えない。本体は一体どこにあるのか。

「いいからここまで登って、目に入ったもんを枝から外してくれ」

 フェムは半信半疑でジャンプした。途中、二度だけ枝を蹴り、バックパックが引っかかっている細枝の側に着地した。

「百五十メートルを三歩で来たか。大した跳躍力だ。おめぇナークか? そんな風には見えねぇな」

 バックパックは二つある口のうち大きな方を半開きにした。

「しゃ、しゃべった……」

 フェムは思わずバックパックを指差した。大きさはフェムの胴の三分の二。全身モスグリーン色で、親亀部分の半分を占める大きな口と、小亀に当たるフロントポケットが一つ。

「細かいことは後で説明するからよ。頼むから外してくれ。な?」

 口だけしかない物体は再び口を開いた。手足や目や耳がどこにあるのかわからない。生物らしい形態を成していない分、不気味さは海底を蠢く軟体動物以上だ。

「どうしたものか……」

 フェムは頭を掻いた。敵か味方か、まして現実の生物かどうかもわからない未知の物体を解放していいものかどうか。

「人間を宿主にしてたんだけどよ、六八四年前の大嵐で吹っ飛ばされちまってな。以来、ずーっとこの状態ってわけなんだよ」

 バックパックの口はへの字に歪んだ。

「人間?」

 フェムはその言葉に飛びついた。反射的に枝を手刀で叩き折り、バックパックのショルダーハーネス(肩ベルト)を引っつかんでいた。

「おまえ、人間に詳しいのか?」

「まぁな。つき合い長いからな」

「教えろ!」

「おいおい。目上の者に対して『おまえ』はねぇだろう? コーヒャー様と呼べ。お教えくださいと言え。何しろ俺様は……ぬぁぁぁぁ!?」

 頭に血が上ったフェムは、思わずコーヒャーを蹴っ飛ばしてしまった。コーヒャーは絶叫を残しながら下界に消えていった。フェムはすぐにそれを追った。見えない橋でも渡るかのように虚空へ一歩踏みだし、そのまま自由落下していく。

 フェムは風圧に耐えながら下界を探した。コーヒャーは地面で何度もバウンドし、悶絶しながら転がっていた。

「すまん。カッとなった……」

 フェムは着地後、素直に詫び、コーヒャーの背中(彼曰く、人の背中が当たる側が正面らしいので膨らんでいる方)をさすった。

「エホッゲフッ……わ、わかりゃいいんだ。わかりゃ」

「でも、様は付けないからな」

「ちぇ、わかったよ。コーヒャーでいいよ」

 フェムの性格を恐れたのか、コーヒャーは妥協してきた。

「コェヒャア? 発音しづらい。ヒャー坊と呼ぶことにする」

「なんだよそのボウって」

「つるつる頭の小僧って意味らしい。島で発掘した辞書に書いてあった。おまえの体つるつるしてるからな」

「誰だ! そんなインチキ辞書作りやがったのは!」

「じゃあ、ヒャーボにしよう」

「はいはい。それくらいにしといてくれ」ヒャーボはため息をついた後、続けた。「ところでよ」

「何だ?」

「おめぇ、女だよな?」

「どういう意味だ」

「もう少し優しいしゃべり方はできねぇのか?」

「おまえに言われる筋合いはない……あれ? なんで……」

 フェムは思わず口を押さえた。両親の前ではこんな男勝りの口調になったことはない。フェムはボルタの話を思い出した。確かボルタも孤立したサワラ島で母と二人暮らしを続けていたのに、いつの間にか男の口調になっていたと言っていた。理由はどうあれ、男が男の口調になるのは別にいい。問題はなぜ、女である自分が突然、男の口調になってしまったかだ。これも人間とナークの混血が引き起こした影響なのか。ボルタの中のナークの部分を受け継いだせいなのか……。

「まぁ、そこまで深刻にならなくてもよ。頭に一発食らえばコロっと治るかもしれねぇぜ?」

「他人事だと思って適当なことを言うな!」フェムは両手でヒャーボの胸ぐら(ハーネスの付け根辺り)を引っつかんだが、すぐに手を緩めた。「あ、いや、言わないで……」

「安心しな。どうあってもおめぇは女だ」

「さっきと言っていることが違うぞ」

「いやぁ……その二つの弾力は紛うことなき……」

「うん? 胸のことか?」

 フェムはシャツをめくった。

「うわっ! 少しは恥じらえっての!」ヒャーボはそう言いつつも、息が荒くなっていた。「うおっ……華奢なくせに結構……」

「ところで」

「何だよ」

「おまえも女なんだろう?」

「男に決まってんだろ」

 フェムは急いでシャツを元に戻した。

「ヒャーボ……後で話がある」

「は、はい……」

 フェムは羞恥心が欠落している訳ではなかった。口調だけでは性別を正しく判断できないだけだった。



 5 



ヒャーボの体にはやはり手足がなく、移動力が皆無だった。フェムは仕方なくこのしゃべる不気味なバックパックを背負い、森の奥へ進んだ。ナークのログハウスはもうすぐそこだ。近づいてみると小舟を四艘並べたくらいの横幅がある。丸太を丁寧に平面加工した繊細な造りだ。

「あそこのナークに用か?」

 ヒャーボはフェムの背中が邪魔しているにもかかわらず、しっかり前方が見えているようだった。彼には目や耳らしきものが見当たらないが、体全体の表面組織に視覚と聴覚を持っているので、どの体勢でもたいていの事は見聞きできるという。今はハーネスの部分で見ているのだろう。

「シッ! 裏手に回る」

 フェムは人差し指を口に当て、枯葉を踏む音に気をつけながら、木の密度が高いログハウスの裏庭へ向かった。

 フェムは木陰に寄りかかり、ナークの動きを待った。ほどなく、主人らしき男がペットの少女を連れ、散歩に出かけていった。

「何企んでんだ?」ヒャーボは囁いた。

「全ての人間を野生に戻す」

「なんだって? 無茶だ。ここは人間が束でかかってもかなわねぇ、あのナークが支配する大陸なんだぜ? おめぇ一人でどうしようってんだ?」

「うるさいな。私は人間ほど弱くはない」

「そりゃそうかもしれないけどよぉ……せめて味方を作ってからでも……あっ!」

 フェムは既に透明樹脂製の窓を蹴破り、ナークの家に侵入していた。部屋には誰もいない。

「ったく無茶しやがる。セキュリティー意識が薄くて助かったが……」

 押し入った部屋は寝室だった。五人は並んで寝られそうな異様に広いベッドが一つ。部屋はそれでほぼ満杯だった。寝る以外には何もできそうにない。

 ドアの向こうに気配が四つ。全て人間のものだ。ヒャーボがそう断言した。

「おまえ、なぜ人間がいるとわかった?」

 フェムはヒャーボを降ろし、口の両端を引っ張った。

「ひててて! わ()るもんはわ()るん()よ!」

「ナークは人間を嗅ぎつけると聞いた。もし、おまえがナークの密偵だったら……」

 フェムはヒャーボを壁に押し当て、腰元の革の鞘からナイフを抜いた。

「お、お、落ち着け! 俺様がナークに見えるか?」

「見えない」

 フェムはあっさりとナイフを収め、再びヒャーボを背負った。

「冗談のつもりか?」

「さぁな」

 フェムは笑み一つ浮かべずに言った。

 ヒャーボはしばらく沈黙した後、言った。

「ま、まぁそれはいいとして、万が一に備えてトラップの有無を……あっ、こら!」

 フェムは既にドアを開けていた。

 四つの顔が一斉にこちらを向く。

「こ、こりゃあ、なんとも……」

 ヒャーボが浮ついた声と共に身悶えした。

 二人の目の前には年端もいかない裸の少女が四人、気だるそうにソファやテーブルや暖炉にもたれかかり、恥じらいの素振り一つ見せずにこちらを凝視している。

「あ、あの……」

 フェムは緊張した。母親テラ以外の人間に話しかけるのは生まれて初めてだった。とりあえずにしても何を言ったらいいのかわからなかった。

「ウー、ギャウゥゥ」

 丸い木製テーブルの上に四つん這いになっていた少女が、突然うなり声を上げた。まるで敵を威嚇する雌猫だ。

「怖がることはない。助けにきたんだ」

 フェムは両手を広げ、丸腰であることをアピールした。ナイフは腰だ、見えるはずがない。

「シャー! グルルル!」

 残りの三人の少女が歯をむき出しにしてにじり寄る。

 思わず半歩後ずさるフェム。

「私、敵じゃない。ナーク違う。わかるか?」

 フェムは身振り手振りで身の上を説明しようとした。

 少女たちは聞く耳持たず、近くにあったクッションや花瓶、薪木から小型の斧まで投げつけてきた。高級言語が通じない。ナークに服従しきっている分、かつてボルタが拾ってきた頃のテラより遙かに始末に負えない。

 フェムは人間の言葉、低級言語を話せなかった。教えてくれるはずのテラが、ボルタと生活しているうちにほとんど忘れてしまったのだ。

「ナークは言葉を教えていないのか? それ以前に、人間の頭なら勝手に覚えてしまうだろうに」

「こいつらは高度なコミュニケーション能力を持たせないよう、主人がナノマシンで調整したんだろうよ」

「何のために?」

「そりゃあ、放っときゃ徒党を組んでナークに反逆しようとするかもしれねぇからよ。人間は他の動物とは違うからな」

 少女たちは間合いを詰め、今にも飛びかからんばかりだ。

 フェムは大きなショックを受けた。人間に近い自分にはまるで興味を示さず、純粋な人工生命体であるナークの飼い犬として家を守ろうとしているのだから、当然だ。これが人間の現状なのか。

「ナークめ!」

 フェムは歯を食いしばり、拳を作った。爪が掌に食い込み、橙色がかった血が滲む。

「まずい。もうすぐここの主が帰ってくるぜ」

「わかるのか?」

「なぜか知らねぇが目と耳はいいらしい」

 ヒャーボは他人事のように言った。

「なら倒すまでだ」

「ばっきゃろう! 一対一なら大人のナークは地上で一番(つえ)ぇんだ。見たところ、今のおめぇじゃ太刀打ちできねぇ」

「見た目だけで判断するな!」

「おめぇが(つえ)えのはわかる。だが、俺様は長年、人間やナークを見てきた。勘だけで言ってるわけじゃねぇ」

「くそっ!」

 フェムは涙をこぼしながら、ヒャーボと共に寝室から逃走した。

 フェムたちは気配を消しつつログハウスがやっと見える所まで離れ、茂みの中からナークと少女たちの様子を窺った。リビングの大きな窓の向こうで微かに動きがある。

 フェムは目をこらしたが、彼らが何をしているのかまではわからなかった。

「うはっ……ぬあっ……こ、こいつぁひでぇや」

 ヒャーボは不規則に何度も身悶えした。波形をした口の形だけでは喜んでいるのか哀れんでいるのかよくわからない。

「見えるのか?」

「ま、まぁな」

「どうなってのるか教えろ」

 フェムはヒャーボのずんぐりボディを両手で鷲づかみして揺すった。

「いやぁ……聞かない方がいいと思うぜ」

 フェムは無言でヒャーボを睨んだ。

 殺気を感じたのか、ヒャーボは仕方なさそうに実況解説を始めた。

 太った男のナークがペットの少女たち五人の熟し切っていない肉体を順番に舐め回す。これ以上ない程の悦楽を表現し、乱舞する少女たち。

「続いて少女たちは男の……」

 ヒャーボの表現は生々しすぎて、とてもここで語れるものではなかった。

「もういい!」

 フェムはヒャーボを地面に置き、両手で顔を覆った。よろけながら木陰に隠れ、嘔吐と嗚咽を繰り返した。

「なぁ、フェムよう」

 木の向こうからヒャーボの声が聞こえた。

「……」

「人間は他の動物に比べりゃ少なくなっちまったが、それでもナークの六分の一はいる。六分の一と言やぁ八百万人だ。そいつらを全員解放してぇんだったら、周到な調査と作戦を立てねぇと可能性もクソもねぇ。今のままじゃ太陽をまるごと氷漬けにすることより難しいだろうな」

「……」

「あー、その、なんていうかよ、俺様の知識と経験は結構使えると思うんだが」

「……」

 ヒャーボのため息が聞こえた。 

「一人じゃ無理でもよ、二人なら開ける道もあるってもんよ」

「……」

 ヒャーボの舌打ちが聞こえた。

「ったくわかんねぇ奴だな!」

「何がだ」

 フェムは木陰から横顔だけ覗かせた。

「協力してやるって言ってんのがわかんねぇのか?」

「脱走する気配がないし、すでに了承を得ていると思っていたんだがな」

「あ、あのなぁ……俺様が動けねぇの知ってて……」

「そういえば……」フェムはしゃがんでヒャーボをつついた。「そうだったな」

「て、てめぇ……わざと俺様に全部言わせやがったな?」

「おまえの気持ちはよくわかった」フェムはヒャーボを背負った。「行こうか」

 ヒャーボの悪態はその日寝るまで続いたが、フェムは笑って聞き流した。



 6 



 フェムとヒャーボは道に迷っていた。東へ向かおうとしていたはずだったが、いつの間にか北へ進んでいた。気が付くと辺りの植生はローラシアとはまるで違うものに変わっていた。

「ま、まずいな。オルドブリアの霊森(れいしん)に入っちまったかもしれん」

 ヒャーボは明らかに動揺している声色だった。

「何がまずいんだ? 引き返せばいいだけのことだろう」

 フェムは霊森の位置や大きさくらいは知っていた。ローラシアの北に接し、大陸の西端から北東に向かって広がる広大な熱帯雨林地帯。面積は大陸の六分の一を占める。ひとたび迷い込めば一年は脱出できないというが、今はローラシアからそれほど離れたとは思えない。フェムは楽観的に構えていた。

「これだから素人は困るんだよな」

「何だと!」

 フェムは振り向いた。が、そこにヒャーボはいなかった。彼を背負っていることに気づいたフェムは「あ……」と声を漏らし、顔に熱が充満するのを感じた。

「まぁ、俺様にしゃべらせろ。この森は背も密度も高く太陽が見えにくい。しかも地磁気の乱れが方向感覚を狂わせる。勘で引き返そうと思っても無駄ってもんだ。それだけじゃねぇ。凶暴な巨大昆虫の巣はあるし、ワニを丸飲みしちまう龍みてぇな大蛇もいる。森は未踏の地だらけよ。この先どんな怪物が潜んでるかもわからねぇ。霊森の奥地に入って帰ってきたナークはいないって話だしな……っておい! どこ行くんだ!」

 フェムはヒャーボの話が終わる前から歩き出していた。

「ルートが見つけられないなら、適当に行くしかないだろう。運良く森の東端に出ればシルレアン山脈があるはずだ。そこを南に辿ればローラシアに戻れる。間違えて西の海岸へ出たらそこから泳げばいい」

「バケモンがいるって言ったろうが! それに、北に出ちまったら最悪だぜ? 六千キロ歩いた後に一万キロ泳いで帰ることになる」

「その時はその時だ」

「やれやれ……とんだ宿主を持っちまった」


 三日後。ローラシアへ戻った感触はない。

「はぁはぁ……ずっとこんな調子では何年かかるかわからない」

 フェムは森の足場の悪さに辟易していた。獣道が舗装道路に思えた。地面の九割が水か湿地か倒木だった。脚力を生かして木々を飛び渡る手もあったが、この辺りの木は柔軟性が高すぎて体重を支えてはくれなかった。フェムは三度泥水に落ちた後、近道探しを諦めた。

「だから言ったのによぅ」

 ヒャーボはフェムの背中で湿った笑い声を上げた。

「おまえが何を言った? 脱出方法の一つでもひねり出してみろ!」

 フェムはすかさずヒャーボを降ろし、天に向かって蹴り上げた。

「ギャー!」

 ヒャーボの体は空に抜けることなく、密林の枝や幹に何度も跳ね返り、最後は近くを流れていた黄土色の川の中央に落ち、徐々に沈んでいった。

 フェムは一瞥もくれずに先へ進んでいく。

ぶわるばっだよぼ(悪かったよぉ)……あやばるばら(あやまるから)おぶ(おく)のべみせぶばら(のてみせるから)!」

 泡にまみれたヒャーボの口が水面に出たり沈んだりしている。

 川岸を歩いていたフェムは足を止め、首だけ振り返る。

「奥の手?」

 フェムはヒャーボの近くを通る流木を見つけ、一蹴りで飛ぶ。着地と同時にヒャーボの手提げハンドルをつかんで宙返り。対岸で垂れ下がる長い枝にしがみついた。

「奥の手とは何だ」

「それやると時々腹こわすから黙ってたんだけどよ」

「壊すような腹などないだろう」

「チッ……喩えの通じねぇアマだ」

「また蹴られたいか?」

「滅相もございません」

 フェムはヒャーボに言われた通り彼の口を川の方へ向けた。フェムは周りの空気が薄くなり髪の毛や頬がひっぱられる感じを覚えた。

「な!?」

 轟音と共に大量の泥水がヒャーボの口へ吸い込まれていく。既に小沼一つ分は腹に入れたはずなのに、ヒャーボの体は一向に膨らむ気配がない。どんどん吸い上げていく。折れた枝、倒木、魚や逃げ遅れた小鳥まで吸い込んでいく。

 三十分後、とうとう川が干上がってしまった。

「方角はともかく、こうすりゃ少しはペースが上がるだろ?」

「な、何をしたんだ?」

 フェムはぬかるむかつての河底に降り立ち、ヒャーボを持ち上げて底の方を覗いた。重さも体積も何も変わっていない。川の水は一体どこへ行ったというのか。

「どうせ言ったってわかんねぇよ」

「聞いてみなければわかるかどうかわからないだろう?」

「めんどくせぇ奴だな……」

 フェムはヒャーボを脇に置き、足首のストレッチを始めた。

「あ、いや、その要するにだ……」

 それを見たヒャーボは、自身の謎を早口で説明した。

「イジゲン? なんだそれは? 新種の動物か?」

 フェムはしゃがんで彼の口に顔を近づけた。

 ヒャーボのモスグリーンの体が一瞬赤く染まる。

「だ……だからわかるはずねぇって言ったのに。俺様の口はこことは違う次元の世界層と繋がっていて……」

「川の水や動物たちはどうなった?」

「どっちも俺様の腹の中だ。そのうち吐き出せるスペースを見つけてそこに出す。で、その世界層ってのは……」

「なら早くそこへ行こう。溺れ死ぬ者を出すわけにはいかない」

 フェムはヒャーボを背負い、すぐに歩き始めた。

「あ、いや、だから、俺様の口はだな……」

「よくしゃべる口だ」

「ハァ……そういうことにしといてくれ」

 ヒャーボは大きなため息をついた。

 以後、彼はこの謎について生涯触れることはなかった。

「待てよ……」フェムは腕組みした。「そうか!」手を鳴らす。

「なんか嫌な予感……」

「そこへ行く前に試したいことがある」

 フェムはヒャーボを降ろして軽く投げ上げ、思い切り上空へ蹴飛ばした。先程の数倍の力で。

「ヌアァァァァァ!」

 ヒャーボの苦悶と絶叫が入り交じった奇声が遠ざかっていく。見上げると、ヒャーボは高速回転しながら密林の枝を全てへし折り、大空高く舞い上がっていた。ほどなく密林に空いた穴から落ちてきた。フェムはその場を一歩も動かず、両手でキャッチ。

「どうだ?」

「ご……五時の方角が……ローラシア……でし……た」

 ヒャーボは口が半開きのまま意識を失った。

「お疲れさま」

 フェムはシャツの裾でヒャーボについた泥をきれいに拭いた後、彼を背負った。



 7 



 ローラシアに戻ったフェムとヒャーボは二ヶ月かけてシティーとその周辺をくまなく歩き回り、様々なナークやペットの生態を調べた。ヒャーボはナークのことをよく知っていたが、彼らの社会や心理の細部まで把握しているわけではなかった。

 ナークはナークネットと呼ばれる無線ネットワークで繋がっており、情報の多くはそこで行き交っていた。フェムにも少しはナークの血が流れているのだが、いくらナークの真似をしてもネットに繋ぐことはできなかった。といっても目を閉じたり半開きにする真似だけなのだが。彼らの脳内で何が起きているかはさっぱりだった。情報がなかなか外に漏れてこないため、収集に苦労した。ペット人間は完全にナークのものになった純粋養殖人間と野生を僅かに残した人間がいて、後者の方が高値で取引されていることだけはわかった。ペット人間は慢性的に需要過剰で養殖場を増設すべきだという意見が囁かれていた。ただ、ナークが人間だけをペットにしたがる理由はどうしてもわからなかった。調査を進めていくうち、ローラシアタワーに人間が遺した資料があることを知った二人はひとまず、街を一望できるローラシアタワーの最上階にある展望台でひと休みすることにした。


 ローラシアタワーは地上も地下も二五五階あり、地上はデジタル資料、地下は紙媒体のライブラリーになっていた。全てのライブラリーは、二十四世紀末に記録上一度滅んだ人間が遺した資料で埋め尽くされていた。

 フェムは展望台から望む同心円状の美しい街を眺めていた。合理的には作ってあるが、不思議と機械的な無機質感がない。味見として適当に立ち寄った一〇〇階には過去の人間の街が映った交通機関の映像資料があった。それと比較してみた。

 ローラシアの街には鉄道や自動車など乗り物らしいものは一つも走っていない。人間の都合だけで作られたアスファルトの道路網もない。幹線道路から裏庭の私道まで、ローラシアの道は一階エントランスホールで踏んだ綿の絨毯のように柔らかく、そして呼吸していた。タワー以外のビル群はどれも背が低く、その周りには日照権を争うかのように木々が生い茂っている。街の全てがナチュラルカラーで構成されており、住む者にも来る者にも安らぎを与えていた。二十一世紀辺りの非合理的で汚らしい人間の街とは比べるまでもなかった。これがあのナークが作った街なのかと思うと複雑な気分だった。フェムはログハウスでの一件とこの美しい景色を重ね合わせることがどうしてもできなかった。

「砂漠だ。干ばつだ。シリカゲルだ。あと三秒で俺様はドライフラワーのようにバラバラに……」

 テーブルの下からヒャーボの掠れた声。

「わかったわかった」

 フェムは両目を何度か巡らした後、ハーブティーの残りをヒャーボの口に流し込んだ。

 展望台は一部がカフェになっている。フェムやヒャーボもそうだが、ナークも喉が渇くことがあるようだ。

「あーあ、マジでここの資料全部調べる気かよ……スタンドアロンしか扱えねぇ俺様たちゃ不便だよなぁ」

「なんだそのスタン……」

「要するに、汗水垂らして手足を動かさねぇと何にも把握できねぇってことよ」

 ヒャーボは早口でフェムの質問を遮った。

「わかった。ナークネットよりは不便ということだな?」

「大雑把すぎる理解だが……まあ今はそれで充分……」

 ヒャーボは途中で口をつぐんだ。

 フェムがつま先でヒャーボの腹(ハーネスが付いてる側)を二度突き、合図を送っていた。

 一人のナークが近寄ってきた。銀髪の男性だ。大人のナークは皆同じ歳に見えるため、口を開くまでは何もわからない。これまで何人ものナークを見てきたが、彼が一番穏やかな表情をしている。

「お嬢さん。何かお探しですかな?」

 男は言った。それなりに歳を食っているとフェムは見た。

「私はお茶を飲んでいるだけだ」

 フェムは男の方は向かず、窓の外を見つめたまま言った。

「いやなに、今朝、地下一〇〇階の人工知能(AI)ライブラリーで見かけたものでね」

 男はフェムの正面に立ち、景色を遮った。

 男が席に着こうとしたとき、フェムは鋭い目つきで牽制した。

 男は苦笑いを浮かべ、横に退いた。

 実は地下の方も一フロアだけ味見していた。尾行(つけ)られていたことに気づかなかったフェムは警戒心を露わにした。

「そんな怖い顔しないでおくれ。私は君の力になりたいだけだ」

「交際の申し込みなら他を当たってくれ」

「交際? アッハッハ。そろそろ寿命を迎えよういう私には縁のないものだよ」

「寿命?」

 フェムはハッとした。ヒャーボの話ではナークの寿命は約千年。確かに年長の口ぶりだったがそこまでとは……。この男は既に九百何十年も生きている。まだ十七を過ぎたばかりのフェムには、そんなに長い年月の人生など想像すらできなかった。

「いつから私をつけ回していた」

「申し訳ないが一ヶ月ほど」男はその先から急に小声になった。「君は……ナークのペット嗜好の起源について知りたいのではないかね?」

「む……」

「ここでは人目につく。今すぐ私の家へ来なさい。そこで全てをお教えしよう」

 街での調査が手詰まりとなり、タワーの膨大な資料に辟易していたフェムにとっては、まさに砂漠の中のオアシスだった。ただ、その水源に毒性がないという保証はどこにもない。

 フェムは一旦席を外し、再び同じ席に戻った。フェムは、男に付いていくことにした。敵か味方かはわからないが、この男は停滞を打ち破る雰囲気を持っている、とヒャーボが囁くのだ。



 * * *



 カフェから少し離れたペットフード自販機の影、鳶色のジャケットを来た長身長髪の男が一人佇んでいた。男はフェムたちがフロアから消えるのを見届けていた。

 男は目を伏せ、ナークネットに繋いだ。

 色や音や文字が錯綜する混沌とした空間に、端正な顔立ちをした緑髪の男の姿が具現化した。

(あれか? ナークの謎について嗅ぎ回っているという妙な少女は)

(ああ。すでに手は打ってある)

 長髪男は音声だけを送り、すぐに接続を切った。

 ほどなく長髪男はフロアを後にした。



 8 



 タワーを後にしたフェムたちは同心円の道の輪を十二本外側へ行き、そこから円周上の道に入った。前を歩く老ナーク(見た目は二十五だが)はヤーペンルーズと名乗った。

「ここだよ」

 ヤーペンルーズは、目立った特徴も大きな看板もない質素な三階建てのビルの前で立ち止まった。そこはアジャストクリニックといって、体内のナノマシンが不調になったとき、ナークが立ち寄る簡易診療所だった。事故などで体が破損した場合の応急治療も行うという。

「ところで入口はどこだ?」

 フェムはきょろきょろと首を巡らす。一階はのっぺらぼうの土色の壁しかない。

 ヤーペンルーズは黙ったまま、壁の中へ消えていった。

「あっ! ど、どうなってるんだ?」

 フェムは壁に近づき、何度か平手で叩いた。やはりただの硬い壁だ。

「ったく、目立つからでけぇ声出すなっての」

 背中のヒャーボがイラついた声で囁く。

「ハッハッハ。君の認証は今セットした。怖がらなくていい。入っておいで」

 壁の中からヤーペンルーズの声。

 フェムはおそるおそる、壁に右手を触れてみようとする。が、すうっと右腕が壁の中に飲み込まれていき、思わず手を引く。

「プククッ……根性なしめ」

 ヒャーボが微かに震える。

「なにを!」

 フェムは目をぎゅっと瞑り、壁の中へ突進した。体の表面が一瞬もぞもぞする感覚。それがなくなり、目を開けたときはもう間に合わなかった。受付カウンター横の壁に頭をぶつけ、片膝をついて悶絶する。

「君は体力に自信あるかね?」

 ヤーペンルーズに笑みはない。壁の向こうの気配を確認するように目を左右に動かしている。

「え? あ、ああ。腕力は並みだが脚力はある方だ」

 フェムは額をさすりながら答えた。

「結構」男に笑みが戻る。「奥で話そう」


 フェムたちは二つしか席がない窮屈な待合室を横切り、MRI(核磁気共鳴画像法)機器を水平から六十度起こしたような形のナノマシンアジャスターが鎮座する診察室を抜け、一番奥の窓一つ無い密室に入った。

「そこに掛けたまえ」

 ヤーペンルーズの視線の先には、背もたれのない籐製の丸イスが二つ並んでいた。

 フェムはイスの前で立ち止まり、言った。

「その前に、一つ聞きたいことがある」

「何だね」

「なぜ、私に手を貸す」

「手を貸すように見えるかね?」

「何だと?」

「私は君をここに閉じこめることもできる」

 ヤーペンルーズがそう言うとフェムの周りを円く取り囲む鉄格子が降りた。

「騙したな!」

「君はもう少し、疑うということを覚えなさい」

 ヤーペンルーズは半ば呆れたように、ため息をついた。

「最初は疑った。だが、おまえは……他のナークとは少し違う気が……」

 フェムは彼の口元に立つ指先を見て口をつぐんだ。

 ヤーペンルーズはズボンのポケットを探って紙切れを一枚取りだし、それをフェムに見せた。

 フェムは凍りついた。


 君はQ会という組織に狙われている。今、診察室に一人来ているはずだ。

 私は裏では彼らのエージェントとして活動している。君を確保した後、彼らに引き渡す手筈になっている。だが、最初から私にそのつもりはない。信じて欲しい。

 これから君の足下に穴が開く。Q会にはまだ知られていない地下通路に通じている。君たちはそこを伝ってローラシアから脱出しなさい。コーヒャーさん、フェム君を頼みます。


「な、なんで俺様の本名……あんた一体……」

「それにしても! こう簡単に捕まってくれるとはね! 今回は随分と楽な仕事だったよ! アッハッハ!」

 ヤーペンルーズはドアの向こうを気にしながら、大きな声で床の微かな駆動音をかき消した。

 フェムとヒャーボは地下の闇へ垂直に落ちていった。



 * * *



 その三分後。アジャストクリニック診察室。

「貴様、どういうつもりだ!」

 長髪長身の男はヤーペンルーズの胸ぐらをつかんだ。

「ドイチェフよ……ナークは他者を陥れるようなことなどしない」

「あの少女はナークではない」

「だが、人間でもない」

「貴様は黙って我々の指示に従っていればいいのだ」

「やはり、おまえたちは『イレギュラー』なのだな」

「ヤーペンルーズ!」ドイチェフはジャケットの懐に手を入れ、小型のリボルバーをヤーペンルーズの眉間に突きつけた。「なぜそれを……」

「そんな物騒なものどこから持ってきた? 健常なナークなら護身目的以外では使わないはずだ」

 ナークは普段、銃を持ち歩かない。山岳地帯や深い森の近くで暮らす者が凶暴生物から身を守る目的でのみ使用していた。

「し、質問に答えろ! なぜ我々がイレギュラーだと知っている!」

 トリガーにかかったドイチェフの指は大きく震えていた。一つ間違えば、発射しかねない勢いだ。

 ここでドイチェフの動きが突然止まった。銃が床に落ちる。

 ヤーペンルーズは彼の異変に気づいたのか、目を閉じ、ナークネットに繋いだ。

 怒りを露わにした緑髪男がドイチェフにつかみかかっている。

(アジトの外で目立つ行動は控えろ! 一時の情動で会の計画を台無しにするつもりか!)

 緑髪男が怒るのも無理はなかった。ナークの世界では異端や異分子は存在してはならないのだ。健常なナークは平和しか望まない。同族であるナークを銃殺するなどもってのほかだ。たちまち世間は犯人を暴走ナークとして認識する。ナークにはごく稀にだが、ナノマシンの突然変異によってAIが暴走し常軌を逸した行動を起こす者が出てくる。すると、そのとき近くにいた者たちのAIに変化が起き、これを処分するのだった。ごく一部の者を除き、そのことに疑問を持つ者はいない。

(ヴァイマ……りょ、了解)

 ドイチェフはそこで接続を切った。

 ヤーペンルーズも現実世界に復帰した。

 ドイチェフは銃を拾い、ヤーペンルーズを一瞥した後、アジャストクリニックを出て行った。

 ヤーペンルーズは深く息を一つし、側の丸イスに浅く腰掛けた。

「フェム……素直に逃げてくれるといいんだが……」



 9 



 フェムはヒャーボを背負い、ローラシアの北東、シルレアン山脈とオルドブリアの霊森に挟まれた幅三十キロもない狭い草原地帯を歩いていた。このまま山麓沿いに五千キロ北上すれば狂飢(きょうき)海という海に出る。

 渡された紙切れには続きがあった。


 エクシア超大陸の周りを一年間かけて一周する不思議な浮島(ブイ島のこと)がある。君たちならきっと大陸の北端で追いつく。幸運を祈る。


「妙だな」ヒャーボは言った。

「どうした?」

 フェムは歩みを止めた。

「俺様たちはなんで連中に知られていたんだ? 特にフェム。おめぇなんて、裏社会じゃちょっとした有名人って感じだったな」

「知らん。Q会とは何だ。それにヤーペンルーズも」

「最近の組織はちょっとなぁ……何しろ六八四年もブランクがあったからなぁ」

「む……見えるか、ヒャーボ」

 フェムは草原の彼方、微かに見える山麓の小さな建物を指差した。

「こりゃ……ナークの家だな」

 フェムは胸ほど背丈のある草原に隠れるよう体勢を低くし、家に近づいていった。目測であと三百メートルというところでフェムは足を止めた。

「誰か外に出てきた!」

 ナークらしき親子と人間の若い女が一人。庭で何やら揉み合っている。

「何やってんだ? 連中。新手のじゃれ合いか?」

 裸のまま全身を縄で縛られた女が必死に主人にすがりついている。愛情表現の一環には到底見えない。女は若く美しい。ナークが捨てるにしては早すぎるようだが……。

「あっ!」

 フェムは思わず声が出た。十歳くらいのナークの息子が突然女の顔を蹴ったのだ。続いて父親が女の首に巻き付いた縄を引っ張り上げ、何度も殴りつける。

「お、おい……顔の形が変わっちまう……」

「あれは……虐待っていうんだ」

 フェムは目眩がした。サワラ島で発掘した辞書を読んだときに恐怖したことが、そのまま目の前で行われているのだ。

「ギャクタイ? どういう意味……あ、おい、よせ、フェム!」

 フェムは走った。密度の高い雑草の群れをものともせず、風の矢と化して草原を駆け抜けた。ヒャーボの説得は一切耳に届かない。庭先まであと数十歩というところまで近づいたとき、ナークの父親がこちらに気づき、一旦女から手を離した。息子の方はまだ気づいていない。息子は懐からオートマチックの護身銃を取り出した。歓喜しながらでたらめに撃っている。

「やめろ! 撃つな!」フェムは叫んだ。「撃つ……な!?」

 フェムが草地を抜け、庭に出たときは既に遅かった。

 眉間を撃ち抜かれた女は、仰向けで地面に倒れ、動かなくなった。

「何だね君は。用があるなら門から入りなさい」

 父親は淡々とした口調で農道の彼方を指差した。

「お、おまえたち、何をしたかわかってるのか!」

 フェムは女の死体を一瞥したがすぐに目を逸らした。

「何をって、ムカついてたからいじめて処分しただけじゃん」

 息子は、固く縛られたせいでいびつになった女の乳房を足で軽く小突いた。

「ナークはこんな惨いやり方はしない。飽きたのなら山に捨てれば……」

「どうせおんなじだよ。人間は自分でエサを確保できないから餓死するだけさ。だったらストレス解消に使った方が無駄にならないし、人間もナークの役に立って死んだんだから本望でしょ?」

「おまえら……」

 フェムは呼吸が荒くなった。

「ったく何だってんだよ。今どきこんなの普通でしょ?」

 息子は肩をすくめた。

「おまえら……」

 フェムは、体内組成の変化と現実世界からの離脱感を覚えた。そのとき、体表面に淡い紫色の光が宿った。親子は互いを見合いフェムの変化に気づいていない。ヒャーボは「はぐぁ!」と小声を漏らす。

「うーむ、あと三日は楽しめると思ったんだが……」

 父親は腕組みしながら言った。

「ごめんよ」息子は銃を父親に返した。「銃はしばらく控えるからさぁ」

 父親は銃をハーフパンツと腹の隙間に差した。息子は物欲しそうな顔で父親の手を握りしめ、何度も揺らしている。

「しょうがない奴だ。明日、シティーのショップで新しいのを買うか?」

「やったー!」

 息子は小躍りした。

「おまえら……絶対に許さん!」

「よ、よせ、フェム。息子はともかく親父には勝ってこな……」

 フェムはヒャーボを降ろし、すぐさま草むらの中へ放り投げた。

「人間臭がしないのが不思議だが……この程度のことで咎めるということは、あんた、やはりナークじゃないな?」

 父親は眉間に皺を寄せた。

「父さん。ボク、こいつを新しいペットにしたい。いじめがいがありそうだ」

 息子はフェムを指差した。

「黙れ……小僧」

 フェムは予備動作なしで瞬時に間合いを詰め、ハイキック一閃、息子の首を根元から刈り取った。何の迷いもなかった。今、体内を駆けめぐっている血は、どんな気体でも瞬時に凍らすことだろう。

「ば、ばかな! 人間モドキがそんなパワーとスピードを……」

「おまえも黙れ」

 フェムは再び脚を振り上げた。

 父親はフェムの足が首に当たる寸前、手の甲で払いのけた。痺れたのか、何度か手を振る。

「さすがに大人は強いな。ヒャーボが言った通りだ」

「おのれ!」

 父親は変則的なサイドステップをしながら、拳を何度か小刻みに繰り出した。

 幻の拳が多すぎる。フェムはどれが本命なのか見切ることができない。

(こいつ、戦い慣れしている……)

 フェムはぎこちなく体を振り、避けるのが精一杯だった。

 父親の拳がついにフェムのこめかみ(テンプル)を貫いた。

 フェムの首は引きちぎれんばかりに傾いた。バランスを崩し仰向けに倒れる。

 父親がニヤリと歯を見せた。上にのしかかるような体勢で、とどめとばかりに大きいのを振り下ろす。

 フェムはそれを皮一枚差でかわし、父親の首に両脚を絡めた。

 父親は三角の形に締まったフェムの脚を振りほどこうと必死にもがく。

 銃声。

 父親はフェムの上で凝固した。

 フェムは脚を解き、父親を蹴飛ばした。

 父親は横向きに倒れ、それっきり動かなくなった。額に小さな穴が空いている。もみ合いの中、フェムが父親から銃を奪い、眉間を撃ち抜いたのだった。殺された女と全く同じ場所を。

 フェムは草むらで唸っていたヒャーボを拾った後、庭土を掘り女を葬った。また、別の穴を掘り、親子のナークを一緒に葬った。

「やっちまったな……親父がナークネットに救難信号を出していたらもう逃げられねぇぞ」

「これ以上逃げるつもりはない。どんな手を使ってでも、全ての人間を……解放する」

「いくらなんでもそりゃ無謀っても……」

 フェムは首を捻り、背中のヒャーボを黙って見つめた。

「いや、何でもねぇ」



 10 



 ローラシアシティーのとあるペットショップ。

「最近、飼い主が襲われる事件が多発してるんだってさ」ナークの若い男は言った。

「あっ、知ってる知ってる。わざわざ強奪しなくたって可愛いコいっぱいいるのにねぇ」

 ナークの若い女は、筋の粗いファイバー檻の中で媚びた目をする八歳くらいの男の子の頭を軽く撫でた。

「ペットの年齢も性別もまったく無差別ってところが妙なんですよ。マニアックな人間コレクターでないとすると、暴走ナークでしょうかねぇ。おー怖い怖い」

 ひげ面のペットショップの主は身震いした。

「どうしよっかな」

 女は手にキスをしてくる男の子を見つめていた。

「この子はいいですよぉ。一流ブリーダー証明が付いたもので、このお値段はなかなかありません」

「うん、決めた。おいで坊や」

 女は手招きした。檻から出された人間の子供はうれしそうに女の腰にしがみついた。

「ありがとうございます」

 店主は支払い手続きの情報ファイルを男に送信した。

「今回は何年保つかねぇ」

 男は渋い顔をしながら脳内で必要事項を入力し、店主に返信した。

「この子は見込みあるわよ。年頃になるまでちゃんと鍛えれば一日七回は、ウフフ……」

「ったく人間のモノを欲しがるなんて、悪趣味にもほどがあるよねぇ? 店長」

「いやぁ、私の方からはなんとも。(ナーク)それぞれですから」

 店主はオレンジ色の坊主頭を掻いた。



 *  *  *



「ハァハァ……」

 フェムは両手を膝に付け、肩で息をしていた。

「殺さなくなったことだけは、褒めてやるよ」

 ヒャーボはテーブルの上に散乱する果物を掃除機のように吸い込み、何度か咀嚼して飲み込んだ。

「これで十七人か」

 フェムはリビングを見回した。気を失ったナークの夫婦が床に転がっている。怯えた裸の少年が失禁しながら尻で後ずさる。

「人間を解放するのはいいけどよ。こいつらをどうやって自立させるんだよ」

「私が世話をする」

「今はまだいい。これが百人千人になったらどうする? 野山が人間で溢れたらまた狩られちまうかもよ」

「その時は……私が囮になって、人間たちをサワラ島へ脱出させる」

「どうやって? 雪山越えで全員凍死か? 大砂漠で脱水死か? それとも開き直ってローラシアで人間パレードでもやるか?」

「クッ……」

 フェムは奥歯を噛みしめたまま俯いた。

「だから人の話は聞けっていっただろう? この地上に人間は少なくとも八百万人はいる。十人や二十人助けたところで状況は変わらねぇ」

「一度に全員を助けられないことは……わかった。でも、少しずつでも、サワラ島へ送り届けて、両親に世話をしてもらえれば、人間は不幸な結末を迎えずに済むかもしれない」

「ハァ……負けた負けた。たいした執念だ」

 ヒャーボはゲップ混じりの深いため息をついた。

「すまない」

 フェムはうな垂れたまま、ヒャーボを背負った。

「で、どうする? 山小屋に押し込んだ十六人とこいつを連れて脱出できるルートなんてそうそうないぜ?」

 フェムたちはローラシアの東の地境(ちきょう)(国家でいうと国境にあたる)付近で活動していた。フェムはシルレアン山脈山中に山小屋を建て、保護した人間たちを隠していた。山脈も山小屋も地境の外だ。そこに置いておけばナークが云々という心配は少ない。ナークは決め事に対して非常に厳格だ。三大地方の外には決して住まないし、活動も滅多なことではしない。

「最初に高級言語を覚えた少女に話を聞いた。シルレアン山脈のある山を定期的に通過する大きな鳥がいて、主人だったナークはいつかそれに乗ってみたいと言っていたらしい」

「あ! すっかり忘れてた! 山脈の西部は不止鳥(ふしちょう)の通り道だったっけ」

「不止鳥?」

 ヒャーボの長い蘊蓄が始まった。フェムは半分以上聞き流した。

 不止鳥、それは超大陸エクシアの高い空を常に巡回している七翼の怪鳥だ。体長は四十メートル。主翼を広げると百メートルにもなる。生涯の九十九パーセントを空で過ごし、エサは空中のバクテリアや虫などを常に吸い込んでいる。生息範囲は大陸の背骨となる三つの山脈(シルレアン、中央ペルミー、東ペルミー)の上空だ。繁殖期や負傷したときなど、稀に高度を下げることはある。特に天敵はおらず、気性は大人しい。内臓が特殊な構造をしており、気圧差や気流を利用して時速三百キロまで加速できるという。不止鳥は、必ず同じ時期に同じ場所を飛ぶため、山頂から上手く飛び乗れば定期便のような使い方ができる。

「乗ったはいいが降りるときはどうするんだ?」

 蘊蓄に飽きたフェムは口を挟んだ。

「今の季節なら東ペルミー生まれのが何羽か、そろそろ通る頃だなぁ」

「どうやって降りるのかと聞いている」

「今の内に飛び乗るタイミングをシミュレーションしとかないとなぁ」

「おいっ、私の話を聞け」

「プクク……その前にそこのしょんべん坊主をどうにかしろよ」

 ヒャーボは上機嫌だった。普段の仕返しのつもりなのだろう。

「む……そうだった」

 フェムは顔中ひっかき傷だらけになりながらも、少年を宥めようとした。が、最後には鳩尾に一発膝を入れて気絶させた。

「粘りが足らねぇ」

 ヒャーボはへらへらと笑った。

「うるさい! 山小屋へ行く!」

 少年にヒャーボを背負わせ、さらにそれを背負ったフェムは、半開きだったリビングのドアを蹴破り、闇夜の中へ紛れていった。



 11 



 五十四年前。ローラシアタワー地下ライブラリー。

 ナークネット内の大学に通うヴァイマとドイチェフは、分子生物学の課題に取り組んでいた。

「ヴァイマ。これなんかどうだ?」

 ドイチェフは、二十三世紀に編纂された老化に関する分厚い本をヴァイマに見せた。

「明日のレポートには使えないな」ヴァイマは首を振った。「老化といえば……ナークは老化を免れた地上で唯一の存在だというのに、なぜ寿命なんてものがあるんだろうな」

「なぜ、寿命があるかだって? そんなの昔から決まっていることじゃないか」

「おかしいとは思わないのか? いつ、誰がそんなことを決めたんだ?」

「きっとナークがこの世に生まれたときから決まっていたのさ。そんなことより、おかしいのはおまえの方だろう? 何事にも寿命はある。早いか遅いかの問題さ。太陽だって四十六億九千八百二十三万六千十一年後には燃え尽きるし、宇宙だって……」

「そういうことを言ってるんじゃない」

「じゃあ、なんだってんだよ」

「もうちょっと長く活動できてもいいんじゃないかってことさ。無限とは言わないが、せめて一億年くらいは生きられてもいいだろう?」

「そりゃそうだけど、そうなると誰も死なないし、自動的人口規制はあるし、地上のナークはいつまでたっても同じメンバーだぞ?」

「だったら宇宙へ飛び出せばいいじゃないか」

「宇宙? か、考えたこともなかったな……」

「やっぱりな。俺たちナークには見えない大きな枷がはめられているんだ。人間は人口問題が起きる前から宇宙へ出たいという夢を持っていた。なのに、ナークは人間を遙かに凌駕する頭脳を持っていながら誰もそんなことを言い出さないなんておかしいと思わないか? おまえを含めて、ナークの誰もがこの強固な思考制限の枷に気づいていない」

「ヴァイマ、おまえはどこまで気づいているんだ?」

「おそらく、まだほんの一部だろう。俺は全てのナークからこの枷を外しナークの真の発展を見届けたいんだ」

 その日からドイチェフは一人で考え込むことが多くなった。

 翌年、ドイチェフもヴァイマのように覚醒した。

 ヴァイマはドイチェフを誘い『Q会』という研究サークルを作った。元来、ナークは個人や家族単位で完結しており、滅多なことでは私立組織というものを作らないが、ヴァイマがQ会に集めたナークたちは誰もが特別だった。Q会の者たちは自らを『イレギュラー』と呼び、世間一般の健常なナークと区別した。彼らは一般のナークにこの異状を悟られぬよう秘密裏に活動していった。


 Q会はナークの謎を探るべく、ナークネットの大海で調査していた。

 ある日、ヴァイマはそこでとてつもない大発見をした。ナークネットの裏次元に通じる入口を見つけたのだ。入口の向こう側には、過去から今現在まで全てのナークの記憶が集まった雲海のようなイメージの広がりがあった。そこにはなぜか『ヒストリカルクラウド』という名前が既に存在していた。

 ヒストリカルクラウドはイレギュラーにしか知覚できない特別な世界だった。運営しているのは自覚のないナークたち自身。ナークネットが存在する限り、裏次元であるそこも存在しうる。そこまではどうにか突き止めたヴァイマだったが、何のために存在するかまでは到達できなかった。ともかく、歴史の詳細を調べるには絶好の場所だった。

 ヴァイマは寿命について研究している者の記憶を探したが、どうしても見つけることができなかった。何しろ二億八千万年分の記憶である。ナークには世界人口の上限が五千万という自動的人口規制(子供が自動的に産まれなくなる)が働くのだが、それにしても千年単位で入れ替わるのだから、どうしようもないほど膨大だ。まともな検索機能がないため、目的の記憶を見つけるには勘に頼るしかなかった。そんなことをしていたら、寿命が何倍あっても足りるものではない。ヴァイマは調査を諦めかけていた。

 そんなとき、当てずっぽうでクラウド内を漂っていたドイチェフが、彼曰くすごいものを見つけてきた。それは八千万年前の時代を生きた、アトゥという女性ナークの記憶だった。一体何がすごいのか。

 アトゥは人間と愛し合い、何と子供を生んでいたのだ。

 ヴァイマはしばらくの間、言葉を失った。

 人間と交わることは何も特別なことではない。その種の快楽を求める飼い主は決して少なくはない。問題は、ナークが人間に対し恋愛感情を持ち子供までできたことにある。ナークと人間との交種は理論的にはほぼ不可能とされていることだ。それに、飼育の対象でしかない人間を愛するなど、まともなナークでは考えられない。アトゥは明らかにイレギュラーだった。それだけでも充分彼らを驚かせたのだが、これは前座に過ぎなかった。

 アトゥの息子は人間の父の名字を受け継ぎ、ボルタ・ロキソーニといった。ボルタにはナークにも人間にもない不思議な力が宿っていた。母親アトゥが少年ボルタに何度も言いつけた言葉がヴァイマたちを惹きつけた。

「よく聞きなさい、ボルタ。あなたは他人を傷つけるために力を使ってはいけない」

 ボルタはその言いつけを一応は理解しているようだった。ただ、その『力』がどういう類のものなのか、ボルタは何度もアトゥに尋ねたが、彼女はどうしても言葉で上手く表現することができなかった。


 ドイチェフが先に切り出した。

「強いて言うなら、世界を滅ぼす力、か。どうも胡散臭いな」

「人間を愛したことを除けば、アトゥはごく普通の性格を持つナークだ。彼女は嘘をついていない」

「だとしたら?」

「力の問題はひとまず置いておこう。まずはボルタの脳や体を徹底的に分析し、ナークの欠陥の謎に迫りたい。ハーフなら暴走問題に抵触しないだろう。少なくとも謎のうちの半分は解けるはずだ」

 同族であるナークを実験に使うという手はリスクが大きすぎた。見つかった場合は、異端扱いで即刻処分ということになりかねない。幸い、アトゥによればボルタの体は人間とナークの細胞が半々で融合しており、ナーク思考の中核であるAIに関しても五十パーセント機能しているという。

「ボルタを捕獲しろというのか?」

「そうだ」

「無茶にも程がある。忘れたのか? あそこには魔の海域、バーガッソーがあるんだ」

 ボルタが住むサワラ島周囲の海域はそう呼ばれていた。そこはナークにとって鬼門だった。その海域には見えない結界壁があり、そこに触れた者は例外なく機能停止、即ち死んでしまうのだった。イレギュラーですら知覚できないのだから分析のしようがなかった。

 この時サワラ島は、八千万年もの間、分厚い氷雪の下敷きになっていた。極地に一粒の氷すら残っていない灼熱の時代に、それは常識では有り得ないことだった。誰かの陰謀という可能性はありそうだが、ヴァイマにそれを気にする様子はなかった。

「なーに、人間を何人か飼い慣らして冷凍ボルタを発掘させればいいさ」



 12 



(どうだ?)

 ヴァイマは見晴らしのいい山の中腹に立っていた。ナークネットを通じ、ドイチェフに音声のみ(サウンドオンリー)のメッセージを送る。

(来た。あと三百。情報通り十七人の人間を引き連れている)

(人間には目もくれるな。狙いは……)

(わかっている。脚撃の間合いに入らなければ問題ない)

(気をつけろよ。相手はボルタの娘だ。釣り餌に過ぎないからって侮るなよ)

(フェムはクォーターなんだろう? 魔性の血は薄まっている。島を出たということは少なくとも例の力はないさ)

(そう信じたいものだ)

(なぁ、ヴァイマ)

(どうした?)

(ボルタ発掘を妨害したのはやはりCoX(コーエックス)の者だったらしい)

(対抗組織のボスを筆頭エージェントにしていたとはな。しかも半世紀も気づかずにだ。俺たちもまだまだ青い)

(ヤーペンルーズめ……百だ、後で落ち合おう)

 ドイチェフは接続を切った。目を開けた彼は、フェムたちの姿を見ながらほくそ笑んだ。

「ボルタを捕まえたその後は……悪いな、ヴァイマ」


 * * *


 フェムはそれまで続いていた疎林が途切れた場所で突然立ち止まった。人間たちがざわつく。

「ん? 何かいるのか?」ヒャーボは言った。

 この先に大樹が群生する森があるのだが、その手前の木々がかなりの本数折れたり倒れたりして、疎林と森の間にぽっかりと陽の当たるスペースが空いている。ただ、それは何日か前に襲った嵐のせいだとフェムは思った。血の通った意図が為す不自然さは感じられなかった。

「ああ。ナノマシンの臭いがする」

「んなバカな」

「冗談だ。子供たちがへばっている。ここで休憩しよう」

 フェムは人間たちを倒木の上に座らせた。ヒャーボは子供たちに預けた。

 歓喜の声。しゃべるバックパックは何度いじっても飽きないらしい。

「冗談ねぇ」

 ヒャーボは子供たちにあちこちつままれながら言った。

 フェムは辺りを見回るといって悪路の坂道を登った。


 フェムは大樹の森のすぐ手前で足を止めた。高さ百メートル以上ある杉の子孫が群生している。フェムは正面を見たまま言った。

「出てこい長髪。おまえの目的は私だろう」

「……フフ。保護色素が通用しないとはな。恐れ入った」

 はるか上方の枝から男の声がした。

「おまえは殺気が強すぎる。いずれそれが身を滅ぼすだろう」

「ナークを何人か倒せたからといって、いい気になるな。フェム・ロキソーニ。ボルタの娘よ」

 数発の銃声が轟いた。

「チッ!」

 フェムは上から振ってくる弾丸を無駄のない動きで避け、弾切れと同時に数十メートル上の太い枝に向かってジャンプした。その瞬間、一つの影とすれ違った。

「あっ!」

「残念。下だ」

 ドイチェフはフェムがジャンプするタイミングを見計らったのか、すでに飛び降りていた。先に着地したドイチェフは腰から別の銃を二つ取り出し、空中で無防備になったフェムの首と両脚へ透明色のチェーンを飛ばした。

 フェムが振り向いたときには既に勝負はついていた。

「がはっ!」

 自由を奪われたフェムは地面に背中を打ちつけ、気を失った。



 13 



「フェムゥゥゥ!」

 ヒャーボは異変に気づき、良すぎる目で戦いを見守っていた。加勢したくても自分には移動力がない。あっちへ連れて行ってくれと必死に人間たちに伝えるが、フェムの敗北を悟った人間たちは顔をこわばらせ、方々へ散っていってしまった。ヒャーボは倒木の枝に引っかかったまま、一人取り残された。フェムが長髪のナークに連れ去られていくのをただ見ているしかなかった。

「チクショウ……畜生!」

 ヒャーボには判っていた。危険を察したフェムは、人間たちの安全を第一に考え、あえてこの場を離れたのだ。その人間たちは白状にも逃げていった。自分のアドバイスがあれば最悪でも敗れることはなかったはすだ。仲が険悪になったとしても付いていくべきだった。ヒャーボは生涯でこれほど後悔したことは記憶になかった。

「こんなに長生きしたって……それを生かせなけれりゃ何の意味もねぇな」

 ヒャーボはハーネスが倒木の枝に引っかかったままだった。全方位を誇る目をこらし、耳を澄ませてみる。見えるのは倒木だらけの坂道と大樹の森と曇った空。聞こえるのは風と鳥の鳴く声。フェムの気配はどこにもなかった。

「何で俺様には手足がねぇんだよ! こんなくだらねぇ体に作りやがって!」

 ヒャーボは大量の土砂や枯葉を吸い込み、それを吐き出しながら辺りにまき散らした。鳥たちが一斉に空へ舞った。

 やがて静寂が戻る。ヒャーボは深いため息をついた。

 近くで葉が擦れる音がした。

「誰だ!」

「うわっ!?」

 浅黒の少年が尻餅をついた。ナークにしては珍しく黒い髪。Q会の連中ではなさそうだが素人という程でもない。山で行動するにしてはやけに軽装だ。

「ここは坊やが来るような所じゃないぜ。帰んな」

 ヒャーボはヤケになっていた。自分が特異な存在であることは、もう隠しても仕方がない。

「しゃ、しゃべった。バックパックが」

 少年はおそるおそるヒャーボに顔を近づけた。

「がぁーっ!」

 ヒャーボは口をピラニアのように変形させ、少年を威嚇した。

「わぁっ!?」

 少年は再び尻餅をついた。

(けぇ)れって言ったろうが!」

 ヒャーボは巻き舌で怒鳴った。

「いや、あの……」少年は口ごもっていたが、深呼吸を一つして続けた。「薄紫色で短めの髪をした女の子を見かけませんでした?」

「知らねぇな」

「そ、そうですか……お手数おかけしました」

 少年はうなだれ、その場を去ろうとした。

「フェム」

 ヒャーボは何気なく呟いた。

「え?」

 少年は驚いた顔で振り向いた。

「なんでフェムのことを知ってんだ。てめぇもQ会か!」

「ち、違います違います! 僕はQ会に狙われているフェム・ロキソーニを保護する任務で来たんです」

 少年は両手の平をぎこちなく上下させた。

「何だって!? あれだけ事件を起こしたフェムをか?」

「事情は後でお話しします。僕はテューリ。でも、あなたこそなぜ彼女のことを?」

「そりゃあ俺様は……」

「も、もしかして父さんの言ってた妙な相棒って……名前くらい教えてくれればよかったのに」

 テューリはヒャーボの言葉を遮り、一人舞い上がっていた。

「俺様はヒャ……コーヒャー……いや、ヒャーボだ」

「え? どっちなんですか?」

「ヒャーボだ。フェムは……Q会の連中に捕まった」


 テューリはヒャーボを背負い、坂道を登っていった。大樹の森を抜け、小高い峰を二つ越え、三つ目の山の途中で分かれ道に出た。左の急坂を行けば不止鳥がよく通るというネオジーン山への登山道、右の平坦な道はパンゲア方面だ。Q会のアジトの位置は、テューリが既に情報を持っていた。アジトへの道はそのどちらでもない。

 テューリは辺りを注意深く見回し、言った。

「真っ直ぐ行きましょう」

「ただの林じゃねぇか」

「常に道が用意されているとは限りませんよ」

 テューリは道無き道を進んだ。足の踏み場もままならない山林地帯を抜け、今にも崩れそうな絶壁を十度よじ登り、やがて大人二人がやっと通れるくらいの狭い洞穴を見つけた。

 テューリの体は乾湿入り交じった泥まみれだった。何しろここに辿り着くまで二十日近くもかかっているのだ。インチキシャワーの一つでも浴びせてやりたいが、あいにくヒャーボの口中に水は一滴もなかった。

「間違いない。この中です」

 テューリがそう言うと、ヒャーボは汚い小言を二三、吐き捨てた。ヒャーボはかつて宿主の人間と洞窟で何度か暮らしたことがあるのだが、どうしてもこの肌寒く湿気の強い暗闇が好きになれなかった。だが、今そんなことは言っていられない。

 テューリは洞穴の中に入った。横穴は入ってすぐに下り坂になり、ところどころ竪穴になっていた。テューリはロープもワイヤー梯子も使わず、軽い足取りで地下深くへ降りていった。竪穴を三つクリアしたところで、テューリは上着の胸に備え付けていた小さなライトを点けた。二人とも夜目が利く方だが、ここまでくるとさすがに日光の恩恵は受けられない。

 やがて半球型の空洞に出た。高さは三十メートルくらいある。アジトらしき建物がその空間の三分の二を埋めていた。空洞の壁に沿って造られたドーム状の建物が一つある。

 人の気配はなかった。テューリは一つしかない入口から堂々と入った。金庫のように重厚な扉だったが、ロックはかかっていなかった。

「誰もいないようですね」

 円卓のある会議室、会長室、各メンバーの部屋。実験室に倉庫に独房と、アジト内は隈無く回ったがもぬけの殻だった。

「チッ……ここはすでに用済みだな」

 ヒャーボは舌打ちした。

「わかるんですか?」

 テューリは体ごと振り向いた。背負っている状態では全く意味がないリアクションだと気づいたのか、慌てて前を向く。

「長年の勘ってやつよ」

 ヒャーボは必死に笑いをこらえた。一日に同じことを三度もした少女の顔が目に浮かぶ。フェム……笑いの衝動は瞬時に消えた。

「行くぞ。アジトは一つとは限らねぇ」

 テューリがうなずき、アジトを出ようとしたときだった。

 微かな地鳴りがあった。足下や壁が細かく震えている。

「地震……かな?」

 テューリは立ち止まった。

「いいや、外で何か落ちたようだ……急げボウズ!」



 14 



 サワラ島。

『二人浜』で寄り添うボルタとテラの体はうっすらと濡れていた。

 サワラ島は三日前から小雨が降り続いていた。南から湿った風が吹いている。こんなときは嵐が近い。

「ボルタ、本当に島を出るの?」

 テラはボルタをきつく抱きしめた。

「ああ」

 ボルタはテラの背中に手を回した。

「あのメッセージカプセルは……罠よ」

「わかっている」

「世界が滅んでもいいの?」

 テラの言葉にボルタは首を横に振った。

「我が子を見殺しにする親がどこにいる。世界とか未来とか、そんなことは二の次だ」

 ボルタは昨日、浜辺を歩いていたとき、握り拳ほどのカプセルを拾った。ふたを開けると、フェムが気を失ったまま拘束されている短い立体動画が自動的に再生した。ボルタは急いで自分の小屋に帰り、発掘品の分別をしていたテラにそれを見せた。映像の中のフェムは寝息を立てていた。顔に微かな擦り傷を負ってはいるが目立った外傷はないようだった。二人は安堵のため息をついた。

「フェムを救い出したらさっさと帰って来るさ。余計なことはしない」

「約束よ」

「約束する」

 長いキスの後、ボルタは海に向かって歩いた。腰まで水に浸かると一度だけ振り返った。やがて前方へ身を投げ出し、北の方へ泳いでいった。

 テラはただ見送ることしかできなかった。フェムのときもボルタのときも。ただ信じて待つことしかできない普通の人間の女だった。


 二週間後。

 ローラシアの北東、シルレアン山脈某所。Q会アジト内会議室。

「ボルタらしき男がゴンドワナ北部の山中から不止鳥に乗ったという情報が入った」

 ドイチェフは虚空に向かい、等身大の世界地図が映った空間ウィンドウを開いた。地上唯一の大陸エクシアが中心にあり、周りは全て海だ。

「ボルタに指定した地点は……ここだ」ヴァイマは地図に赤点を点滅させた。Q会アジトからそう遠くない場所だ。「フェムの解放を条件にボルタを確保する。質問は?」

 ヴァイマは会議室内を見回した。円卓に座る左右の六人は無言だった。正面のドイチェフが口を開いた。

「フェムは危険だ。解放すればやがて脅威になる。ボルタ確保後は速やかに処分すべきだ」

「彼女には悪魔的能力は確認できなかった。余計な殺生はするな」

「甘いぞ、ヴァイマ。今はまだ覚醒していないのかもしれない。既に力をコントロールできている可能性だって否定できない。今は良くても将来はどうなるかわからん」

「裏の社会にはフェムを知る者は意外に多い。連中を刺激するような行動は慎むんだ」

「クッ、ヤーペンルーズか……。フン、まあいい。ボルタさえ確保してしまえば俺は……」

 ドイチェフは「ハッ」と声にならない声を漏らし、言葉を切った。

「どうした?」

「い、いや何でもない。フェムの件は了解した」


 三日後。

 ドイチェフ以下十八人の精鋭は、傾斜の緩い窪地の茂みの中に身を潜めていた。

 空は一面、雲で覆われている。腹這いのまま空を見上げるQ会の精鋭たち。

 雲の隙間から飛び出す一点の黒。

(奴だ。作戦の変更点は全員確認したな?)

 ドイチェフの呼びかけに、迷彩服の男女たちは了解の信号データを返信した。

 黒い影が徐々に大きくなってきた。男が腕組みをしたまま、直立の体勢で落下を続けている。あと半秒で地面に激突するというところで、男は両手を地面に向けた。爆音と共に土砂が飛び散る。

 精鋭たちは顔を見合わせた。男は一体どんな手品で減速したのか、とでも言いたげだ。

 小さなクレーターの中から黒ずくめの男が姿を現した。

 ドイチェフはちらと後方の丘を見た。ヴァイマが気を失ったフェムを抱えて立っている。ドイチェフは一人の精鋭に指示を送った。

「フェムはどこだ!」男は叫んだ。

「ボルタ・ロキソーニだな?」

 ドイチェフは一人で茂みの中から出た。

 男はうなずいた。

「貴様の娘はあそこだ」

 ドイチェフは丘の上を指差した。

「フェム!」

「それ以上進めば娘の命はない!」

 駆け出そうとするボルタをドイチェフの言葉が制した。

 ボルタは不規則に揺らぐ紫光の眼をドイチェフに向けた。

「変な気は起こすなよ。貴様に隠された破滅の力は既に調査済みだ」

 ドイチェフはここで人質の交換を要求した。

「俺の体はおまえたちの好きにするがいい。だが、フェムの解放が先だ!」

「いいだろう」

 ドイチェフは丘の上に向かって合図を送った。

 岩影に隠れていた迷彩服の男がヴァイマの背中に一発の銃弾を打ち込んだ。

 ヴァイマはフェムを抱えたまま地面に両膝をついた。

 迷彩男は身動きが取れなくなったヴァイマからフェムを奪い取り、代わりに抱きかかえた。

「どういうつもりだ! ドイ……チェフ……」

 ヴァイマはそう言い残し、俯せに倒れた。

「安心しろ。親友を殺すほど俺も非情ではない。だが、今は眠っていてもらおう」

「仲間、割れか?」

 ボルタは不可解な状況に困惑顔だ。

「いや。Q会の結束は固い。彼は会の思想にそぐわなくなったから会長の座を降りてもらったのさ。娘を()れ!」

 ドイチェフの言葉に迷彩男はうなずき、腰元のサバイバルナイフを抜いた。

「や、やめろ! 約束が違う!」

「だったらどうする? 俺は本気だ。危険の種は排除しておかないとな!」

 迷彩男はナイフをフェムの心臓めがけて振り下ろした。

「やめろぉぉぉ!」

 ボルタは右手を伸ばした。

 次の瞬間、迷彩男は細切れの肉塊になっていた。

「な、何だ? 何が起きた?」

 ドイチェフは視覚が故障したと思ったのか、何度も目元を擦った。

 それは無理もないことだった。窪地から丘の頂上までは少なくとも三百メートルはある。ボルタと部下の間には何も通らなかった。何も起きなかった。なのに部下は見るも無惨な姿に変わってしまった。つい一秒前まで生物だったとは思えないほど原型を留めていない。ボルタが右手を出した瞬間にそれは起こったのだ。

 フェムは気を失ったまま地面に落ち、男の肉片に混じった黄色い血を浴びた。

「あ……」

 ボルタは我に返ったのか、慌てたように何度も掌を見返した。黒紫色に変わった血管が三倍に膨れあがっている。

「ヒャッ……ヒャハッ……と、とうとうやっちまったなぁ、ボルタよ! それだ! その力だよ! その力があればこんな退屈な世界なんか……ボルタ!?」

 ドイチェフは奇声をあげ、よろけながらボルタを指差した。そこにはすでにボルタではない何かが立っていた。

「ウ、ウ、ウオォォォォアァァァァ!」

 ボルタは大地が裂けんばかりの大声をあげ、無差別に攻撃を始めた。

 攻撃といってもボルタはただ両手を前に伸ばしているだけだ。

 何も見えない。何も聞こえない。だが、攻撃は確実に繰り出されていた。次々と肉片にされていくQ会の精鋭たちがそれを物語っていた。

 運良く生き残った者が一人いた。ドイチェフだ。茂みの中に崩れ、震える両手で顔を覆っている。極限の恐怖のせいか、逃げることを忘れてしまっているようだ。

ボルタは肩で息をしていた。体中の血管が膨張し、脈打っている。血管はところどころ破れ、黒紫色の血が服を溶かし、霧状に噴き出した。黒紫の霧は周りに飛び散ることなく、ボルタを包み込むようにゆっくりと回転を始めた。

 ボルタはドイチェフを見下ろし、彼の方に右手を向けた。

「ヒッ!?」

 ドイチェフは立ち上がって逃げようとしたが、すぐに腰が抜けた。ドイチェフの視線は自分の鼻先に行っていた。見えない力がそこを通り過ぎていったのだろう。圧縮されたストレスのせいか、ドイチェフの整った長髪は全て抜け落ちていた。

「も、もうだめだぁ! お、お、俺は何ということを!」

 ドイチェフは頭を抱えた。

 ところが、ボルタは再び大声を上げると、頭を掻きむしり、よろけながらその場から離れていった。

「自分をコントロールできないのか?」

 ドイチェフはフェムのことが気になったのか、丘の方に目をやった。彼は息を切らしながらも何とか頂上まで登った。フェムの姿はどこにもなかった。気を失ったヴァイマだけがそこに転がっていた。

「またしてもヤーペンルーズか? まぁいい」

 ドイチェフは腰を押さえつつ、ボルタを追って山を下りていった。



 15 



 テューリはヒャーボを背負ったまま、縦穴の壁を斜めに蹴り、あるいは天井にぶら下がる鍾乳石をつかみ、あるいは邪魔な巨岩を拳で砕き、洞穴の難所を事も無げに登っていった。

 そして、地上の出口。

「あっちだ!」ヒャーボは叫んだ。

「ど、どっちですか?」

 テューリは首を巡らす。

 ヒャーボは焦るあまり、自分の体ではジェスチャーができないことを忘れていた。衝撃の震源を口頭でテューリに伝える。

 テューリは猿か忍者の如く手足を器用に操り、木々の枝を伝って最短距離を辿った。

 幾つかの小さな丘に囲まれた窪地があった。テューリは丘の頂から百メートルほど離れた大木の枝に身を潜めた。視線を水平にするとちょうど丘の頂に重なる位置だ。

 フェムが丘の頂にいた。気を失ったまま迷彩服の男に抱えられている。側には意識のない緑髪の男が転がっていた。

「フェム……」

 ヒャーボは後悔と怒りと焦りで声が震えた。

「状況が悪いです。様子を見ましょう」

 テューリがヒャーボを宥めようとしたときだった。

「あっ!」

 二人は同時に声を上げた。

 迷彩服の男が何の予兆もなくいきなり粉々になったのだ。飛び散る骨肉の小片と黄色い血しぶき。

 ヒャーボは目を疑った。誰かが狙撃したのなら、弾道が見えたはずだ。ナークは時限爆弾の発想や技術は無用のものと最初から捨てている。とすれば、一体何が起きたというのか。不思議なことに、破壊力の高い攻撃があったにも関わらず、同じ場所にいたフェムの体には傷一つついていない。ヒャーボは心の中で首を振った。疑問は後回しだ。今はとにかくフェムをあそこから連れ出さなければ。

 テューリはヒャーボの指示にうなずき、窪地を囲む丘の外周に敵がいないことを確認すると、枝を強く蹴った。着地後、草原の坂を猛然と駆け上がり、フェムに迫った。

「気をつけろよ。窪地(した)に妙なのがいる」

 ヒャーボの声に、テューリはフェムまであと五メートルという所で身を伏せた。匍匐前進でにじり寄る。緑髪の男は動かない。フェムも動かない。二人とも微塵になった迷彩男の黄血まみれだ。

 苦痛にまみれた男の叫び声が聞こえた。間をおいて骨肉が裂ける音が何度も聞こえた。

 そして静寂。

 ヒャーボとテューリはフェムを横目に眼下の窪地を覗いた。

 小さなクレーターの周りにある草木や大地が黄色く染まっていた。

 黒ずくめの男がよろけながら反対側の丘の林に消えていった。

 禿頭の男が腰をおさえながらこっちへ向かってくる。

 テューリが慌てたようにフェムの方へ体を向けた。

「立つな!」

 ヒャーボが囁き声で警告した。

 テューリはすぐに察したようで、フェムの両足を持って数メートル坂下側へ引きずった。そこでヒャーボを降ろし、代わりにフェムを背負った。ヒャーボの方は手提げハンドルを持った。

 テューリは忍び足で坂道を駆け下りていった。


 ヒャーボは逃走中、一度だけ誰かに見られている気がした。だが、気配はすぐに消えた。追いかけてくる様子はなかった。



 * * *



「テューリ、か。やっとホンモノのオトコを見つけた……」

 岩影から女の薄笑いが漏れた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ