プロローグ
2005年に別のペンネームで書いた作品です。
遙か遠い未来。七つあった大陸は気が遠くなるほどの時を経て、一つになった。
超大陸エクシア。現在、地上を支配する知的生命体はそう呼んでいた。
二十八年前。
ゴンドワナ人間博物園内、博物館。
薄闇と静寂に包まれた館内一階アトリウムホール。天窓から差す微かな星明かりと仄かに光る床の青色非常灯が大柄な男の影を一つ作りだしていた。
ボルタ・ロキソーニはホール入口の柱に張り付き、各フロアへ通ずる階段やゲートを注意深く確認している。
ボルタは博物園の入口からここまで何の苦労もなく進んできた。園内の警備員数やセキュリティーシステムは必要最低限しかなかった。リスクを冒してまで他人の、ましてや公共の展示物を盗もうなどという愚か者など、今の世界には皆無なのだ。
ボルタは前方約百メートル先、一見台座しか見えない奇妙な檻のやや上方に目をやった。巨大なプレートが宙に浮いている。特別な仕掛けがあるのだろうが、ボルタに気にする様子はない。
『特別天然記念物 ラスト・ワイルド展』
そして、今は展示最終日の前夜。
ボルタの顔に緊張が走る。まるでこれが最初で最後のチャンスとでも言いたげな顔だ。
ボルタは左右に目を配り、足音をたてないよう慎重な歩みで檻に近づいていく。
「おい、起きろ」
ボルタは檻の中に向かって囁いた。
檻は直径五メートル、透明度の高い半球型の霧がフェンスの代わりをしており、その中に人間の少女が一人、胎児のような体勢で眠っている。
檻の中の少女が両手で目をこする。と同時に台座の下半分が明るくなった。
ボルタは周囲を警戒した。何も起こらない。
少女がこっくりこっくりを繰り返す。その度に照明が明滅する。
間接照明の正体は少女の起臥に反応するものだった。
少女は何も纏っていなかった。膨らみかけた胸の感じや華奢な肉付きからして、まだ十一、二歳といったところだ。灼熱の時代にそぐわぬ白い肌、金色の長髪。
少女の美しさに時を奪われたのか、ボルタはしばらくその場に立ち尽くしていた。
少女は首を少し傾げながら、何度もまばたきをした。限りなく空の色に近いライトブルーの瞳。
少女は再び眠ろうとしていた。
ボルタは慌てて声を上げた。
「おいっ、寝るなっ」
うとうとしていた少女は、再び目を開いた。何度も首を巡らす。流動する霧の向こう、ボルタの姿にようやく気づく。
「ウッ……ウウッ!」
少女は警戒感に満ちた声を発した。檻のど真ん中で横になっていた少女は、急に立ち上がり、少しずつ後ずさりをはじめた。少女はボルタの顔ばかり凝視している。
ボルタの見た目はほとんど人間そのものだが、伸び放題になった乱れ髪や宝石のような奥行きを持つ瞳は紫色だった。少女はそこに違和感を感じているのだろう。人間には有り得ない配色なのだから当然だ。
「待て。俺は敵じゃない」
「ウー。ウガウ!」
少女は歯を見せてボルタを威嚇する。
「違うんだ。俺は奴らとは違う。安心しろ。助けにきたんだ」
「シロ、タスケ?」
少女は口を軽く尖らせ、首を傾げた。ボルタの言葉の一節を繰り返し、しきりに何か考え込んでいる。
少女の顔のこわばりは消えていた。ボルタに敵意がないことだけは伝わったようだが、互いに言葉が通じていない。ボルタの使う『高級言語』は人間には解らないようだ。一方、少女が発する人間の言葉は『低級言語』と呼ばれている。
ボルタは台座の上を覆っている霧に拳を当てた。すると、そこだけ霧の密度が濃くなり、拳を跳ね返した。思い切り叩いてみても同じだった。ボルタは痛みに顔を歪め手を振る。
「その粒子は対象のエネルギー量に呼応して結合力が増す、か。噂通りだな」
ボルタは一度大きく息を吸った。
「仕方ない。リスクはあるが……」
ボルタの体が紫色に淡く光る。
「ンワイラー!?」
少女は目を丸くし、ボルタを指差した。
ボルタがゆっくりと檻の中へ歩んでいく。紫光と霧状のフェンスが接触したとき、不思議なことが起こった。物理的に通過不能と言われている霧の壁を、まるでシャボン玉の膜を通り過ぎるように、あっさりと抜けたのだ。霧壁は通過前も後も変わらず、何事もなかったかのように流動している。
「ヤァグマ……」
少女は恐怖の表情を顔に浮かべ、再び後ずさった。
何しろ現実の時空的性質を無視したのだ、事情を知っている者が現場を見たらこの程度では済まない。
ボルタは少女を捕まえようとはせず、ただ微笑んだ。
少女は黙ったままボルタの目を何分も覗き込んでいた。
「ユルー」
安心したのか、少女はボルタに近づき、上目遣いで彼を見上げた。
ボルタは何度も身振り手振りで、これからここを脱出することを少女に伝えた。
少女はうれしそうに首を三回縦に振った。
ボルタが少女を抱え上げると、紫光のオーラが二人を包み込んだ。ボルタは何げなく足を踏み出す。無敵の霧壁にはやはり何も起こらない。檻を抜け出したボルタは少女を抱えたまま博物館を後にした。