第36話 最低最悪の選択
玄関から外に出ると、七瀬さんは花壇に足を止める。
「そういえば、塔子さんの花の世話、名取君のお母さんが引き継いだの?」
唐突に七瀬さんは心配そうな顔で尋ねてきた。
「ああ、僕がやってるよ」
「僕って名取君のこと?」
「そうだよ」
それ以外に僕って、誰がいるというのだ?
七瀬さんは一瞬、意外そうに目を丸くしていたが、すぐに吹き出したように笑う。
「へぇ、名取君がねぇ……ちょっと安心したよ」
今日、初めて見せてくれた七瀬さんの笑顔に僕はホッとしたが、笑われる意味がわからなかった。
「やっぱり、名取君だね。でも、名取君。花に興味あったんだ」
「ないよ。でも、婆ちゃんが大事にしていた花だし。もともと自分の花には水をやってたから、ついでだよ」
「えっ、自分の花なんてあったの?」
「うん」
「なんで、今まで教えてくれなかったの?」
「なんでって、教えるほどのことでもないでしょ」
見てご覧、七瀬さん。僕、花を育ててるんだ。なんて、恥ずかしくて言えない。偏見になるかもしれないが、毎日、花に水をあげている男なんて、女っぽいと思われそうで嫌だ。
「ねぇ。どの花が名取君の?」
興味津々に七瀬さんは花を嗜めるように見つめていた。
先程まで暗かった僕達の空気に少し穏やかな空気が流れたので、僕も戸惑いながらも「あれだよ」と、自分の花を指差す。
植木鉢にある僕の花を七瀬さんはしゃがみ込んで見つめると「へぇ。なにこれ。コスモス?」と聞かれる。
「いや、アネモネって花みたい」
「アネモネ。へぇ、初めて聞く名前だね。なんでこの花を?」
「あっ……うん。ある人に勧められて」
「ある人って誰?」
「えっと……水樹さん」
「紅葉?」
僕は一瞬、その名前を出していいか迷った。
しかし、嘘をついたら、まるで後ろめたさがあるようで嫌だった。この事実を七瀬さんが知らないとも言い切れない。一番マズいのは、もし、七瀬さんがこの事実を知っていて、わざと僕にカマをかけてきた場合。
付き合い始めて知ったが、七瀬さんは嫉妬心が強い。他の女の子にもそうだが、水樹さんに対しては相当、警戒している感じにも見える。露骨にそれを見せることはせず、水樹さんとは仲が良いままだが、僕と水樹さんが仲良く会話をしていると、無茶苦茶、僕の横顔をガン見していることが多い。厄介なのは七瀬さん自身、その事に気付いていない事だ。
「そっか。確かに紅葉の家にも花がたくさんあったね。園芸が趣味だったみたいだけど、まさか名取君を取り組んでいたとはね」
花を睨みつけ、七瀬さんは思いに耽ったような顔をする。
「いやいや、取り組むって言い方はよそうよ。そもそも、その花を勧めてくれたの、一年くらい前だし。その時は婆ちゃんも一緒にいて。流れで僕も花を買うようになっただけで」
「一年前。そっか、そんな前から」
七瀬さんは絶望的。そう、まるで泣きじゃくった後のような遠い目をしていた。
何故、そんな顔をするんだろう? と、僕が考えていたのも束の間、その場をゆっくり立ち上がった七瀬さんは突然、僕にキスをしてきた。
驚いて一瞬にして終わったファーストキスとは違い、ディープといっていいほど、長いキスだった。
柔らかな七瀬さんの舌が僕の舌に絡み、唇が離れた途端、目を潤わせていた七瀬さんは呼吸を乱し、僕を睨みつけていた。そして、次の瞬間、僕に抱きついてくる。
「七瀬さん?」
僕はわけがわからず、抱きしめられた状態のまま、呆然としてしまう。
「ごめん、名取君。やっぱり、一緒にS高受けよう」
どういう心境の変化だろうか? 七瀬さんは泣きじゃくったような声でそう言った。
状況が理解出来ないまま、僕は「うん」と頷き、七瀬さんの肩を抱く。
「ああ、私って本当に汚くて……最低な人間だ」
小さく囁くように七瀬さんが呟く。
七瀬さんはどういった思いで、その言葉を口にしたのかはわからない。
ただ、この温もりだけは、絶対に失いたくないと思った。
時間は残酷にも刻々と過ぎていく。
婆ちゃんが死んで十日というタイムリミットま後僅か。
僕はこの時、学校に行っても勉強に集中出来る状況じゃなかった。しかし、ここで休んでしまえば、親にも心配かけてしまう。それだけはどうしても避けたかった。
誰かに頼まれたわけでもないのだが、婆ちゃんが死んでから、玄関にある花に水をあげるのが僕の役割になっていた。
花は人の心を癒す。その言葉が今の僕に適するかどうかはわからないが、無心で考え事をするには、ちょうどいい習慣だった。
だけど、無心で考える時間があっても、僕は今だ結論を出せず、もがき続ける。
結局、僕はループの力に依存していた。
今、ループの力が無くなってしまえば、七瀬さんと同じ高校に行けるかわかなくなる。それだけじゃない。これからの長い人生、僕はいくつもの苦難を自分の力だけで乗り越えなければいけなくなる。
そんなの当たり前。と、批判されるのもわかる。
人は皆、ループの力なしで生きている。だから、僕も他の人達と同じ、元にいたレールに戻ればいいことだ。
でも、その勇気がない。人は一度、大きな力を手にしてしまうと、それを手放すことに対し、恐怖心が重く圧し掛かてしまう。
紫色に輝くアネモネを見つめたまま、僕は背筋を凍らせながら、頭を抱えていた。
そして、遂に婆ちゃんが死んでから、十日が過ぎた。
結果を話そう。
僕はループを手放さなかった。それはなにを意味するか、君ならわかるだろう。
僕は婆ちゃんを助けなかった。そう、助けられた大事な人の命を助けなかったのだ。
でも、これからもループがあるから幸せ。そうなると思ったが、この先の人生は幸せにはほぼ遠いものになる。
結局、この時から僕の心は少しずつ壊れていく。




