第35話 七瀬さんの存在
七瀬さんは僕の家に入ると、玄関口まで出てきた母さんに対して深々と頭を下げた。
「あら、栞ちゃん。こんにちは」
「こんにちは。あの、この度はご愁傷様でした。今日は塔子さんにお線香をあげたくて」
「そう、ありがとね。栞ちゃんが来てくれたら、お婆ちゃんも喜ぶわ。さっ、早く入って」
七瀬さんは母さんに促されると、そのまま婆ちゃんの仏壇がある部屋へと案内された。
「残念ね」
線香をさし、拝んでいる七瀬さん後ろ姿を隣りの部屋から見つめていた母さんが、ぽつりと呟く。当然、僕は「なにが?」と聞き返す。
「お婆ちゃんね、最近、総が結婚式あげるまで生きたいって、よく言ってたのよ。あんた、婆ちゃんに結婚式のスピーチ頼んだでしょう。あれ、お婆ちゃん、凄く嬉しかったみたいでね。なんて話そうか、考えていたもの。全く気が早いわよね。大体、今、栞ちゃんが総の彼女だってことも、母さんは疑っているもの。あんなに可愛くていい子。こんなバカ息子より、もっといい男いただろうに」
なんて酷い。とても、母親の言葉とは思えない。まあ、言いたい気持ちはわかるけどね。
「総。あんた、栞ちゃんの事、大事にするのよ」
「なんだよ、急に」
いきなり、母さんが真剣な顔をするので、僕は戸惑ってしまう。
「あんた最近、危うい目してるのよ。お婆ちゃんが死んだ時も泣かなかったし」
母さんに鋭いところを突かれ、僕は気まずさから無意識に目を逸らす。
「あのね、父さんも母さんもあんたにいい高校行って欲しいとか、いい会社に入って欲しいとか思ってないからね」
「よく言うよ。人の顔見れば、勉強しろって言ってたくせに」
「馬鹿ね。それはあんたのためでしょ。別にいいのよ。あんたが将来、貧乏になって社会的地位が低くても。それでも幸せだと胸を張れるならいい。総が笑っていれば、お母さん、それが一番嬉しい」
「おお、格好良くまとめたね」
「格好良くなんてないわよ。当たり前でしょ。この世に我が子の不幸の望む親なんて、どこにいるのよ」
僕は七瀬さんを遠くから見つめていた母さんの横顔を見つめながら、なんともいえない複雑な気持ちを抱えていた。
その後、僕の部屋で七瀬さんと一緒に勉強した。
僕達はコタツに入り、黙々と問題集を解いていく。
ちなみに僕は七瀬さんと付き合って、三、四ヶ月経った。一緒にクリスマスを過ごし、初詣も行ったが、僕等は変なことをするのはもちろん、キスも一回しかしていない。あってもせいぜい、手を繋ぐくらいだ。
いや、あのキスも一回とカウントしていいか疑わしい。
「今は受験生だから、変なことはしちゃダメだよ」
付き合って最初の頃、七瀬さんにそう照れ臭そうに切り出された。僕は知らん顔で「変なことって?」と、聞き返すと、七瀬さんは顔を真っ赤にして、僕の肩を叩いてきた。
「変なことは、変なことだよ。名取君、変態だからわかるでしょ。キスもダメだからね」
「えっ。なんで、キスもダメなの?」
「当たり前でしょ」
「どうして?」
僕がショックを受けていると、いきなり七瀬さんは不意をつくタイミングで、僕にキスしてきた。
それはあまりにも突然の出来事。
七瀬さんは僕から離れると、恥ずかしそうに上目遣いする。
「ほら。こんな気持ちになっちゃう。これじゃ、勉強に専念できなくなるでしょ」
「そ、そうだね」
このように、大好きだった七瀬さんとのファーストキスは不意打ちという結果で終わってしまう。しかも、それを最後に後は受験が終わる三月までは、お預けなのだから悲しいことこの上ない。完全に生殺しだ。まあ、婆ちゃんが死んだ今は、そんな気持ちすら起きないから良いのだが。
「ねぇ。名取君。聞いている?」
過去の記憶を思い返していると、意識の外から入る声に僕は顔をあげた。
「ごめん。何か言った?」
慌てて返事するが、七瀬さんは眉を下げ、心配そうに僕を見つめていた。
「あのね、名取君。言いにくいんだけど、志望校変えた方がいいんじゃないかな」
「えっ、なんで?」
「だって今、勉強に集中出来ないでしょ。ごめんね、私が一緒にS高に行こうって、言わなければ良かったんだけど。名取君、凄い努力家だし、成績のあがり方も凄かったから私、我が儘言っちゃった。でも、もう無理しなくていいだよ」
「どうして? 一緒の高校に行きたくないの?」
僕はつい不機嫌な声を出してしまう。七瀬さんは悲しそうな目をして首を振った。
「ううん、行きたいよ。高校に一緒に通えたらいいなって私、今でも妄想してニヤけることだってある。でも、名取君、そこに落ちたら私立になっちゃうよ。私立って通うのに年間いくらかかるかわかる? 一緒の高校に生きたいっていう理由だけで、親に負担をかけていいとは私は思わない。一緒の高校じゃなくても、私達は変わらず恋人同士でしょ」
正論である七瀬さんの言葉に僕は俯いたまま、返す言葉が浮かばずにいた。
確かにその通りだ。僕だって、自分の我が儘で親に負担なんてかけたくない。こないだネットで調べたが、私立は公立に通うよりも費用が倍以上かかる。それは家族に大きな負担がかかるという事。
そう。ループがあれば、そんな心配に頭を悩ませる必要もない。
でも、僕は後、4日以内にループを使って、婆ちゃんの命を救わなければいけない。当たり前のことだが、受験か婆ちゃんの命かなんて、そんなもの天秤にかけていいものではない。
婆ちゃんの命を救わなければ、僕は七瀬さんと同じ高校に行ったとしても絶対に後悔する。
そう。頭ではわかっているのに、なんで僕はこんなにも迷っているのだろうか。
「名取君。大丈夫だよ。私の気持ちはずっと変わらない。だから、安心して」
なにを安心してというのだ。そんなこと言ったって、高校が別々になったら、七瀬さんは別の男に言い寄られる可能性だって高い。そんな時、七瀬さんの気持ちが傾く可能性だってある。
「そんな保証はどこにもないじゃないか。大体、僕みたいな何の取り柄もない人間が七瀬さんみたいな子と付き合っていることすら奇跡なんだ」
「名取君。なんでそんなこと言うの?」
「事実だろ」
言ってはならないと頭でわかっていながらも、僕は七瀬さんに悪態を付いてしまう。なんとも醜い姿だ。
ところが、七瀬さんはそんな僕を冷たい目で蔑むこともなく、むしろ僕の両肩を掴むと、真剣な表情で真っ直ぐ僕を見つめた。
「私、名取君じゃないと嫌だよ。他の男の子と付き合うなんてありえない。だから、そんなこと言わないで」
「……ごめん」
七瀬さんの汚れのない瞳を見ていられず、僕は目を逸らして謝った。
僕はなにをしているんだ。こんなのただの完全に八つ当たりじゃないか。
「私、今日はもう帰るよ。名取君、まだ塔子さんが死んだばかりで本調子じゃないんだよ。大好きなお婆ちゃんだったんだもん。簡単に立ち直れなくて当たり前だよ。だから、今は無理しないで、ゆっくり休んで。そして、ゆっくり立ち上がっていこう。私、傍にいるから」
寂しげに微笑みを浮かべた七瀬さんは最後、座っていた僕の頭を優しく撫でてくれた。




