俺はこの場から立ち去ることしかできない
列車はゆっくりと着実にレールを軋ませながら、ホームへ入ってきた。列をなす人たちは各々荷物を持ち始める。
アラームとともに扉が開き、列車の中にいた人々はホームへ降りて、辺りを見回す。
振り向くとユイが俯いて立っている。彼女と俺に遠慮して、母と父は先に列に並んで俺たちの様子を見ている。
ユイに語りかける言葉が思い浮かばない。
「大阪までどのくらいかかるの?」
ユイから先に口を開いた。
「3時間くらいかな。ドラマが3本観れるよ。」
彼女は静かに俯きながら肩を震わせた。
俺はこの空気を紛らわそうとしたが、失敗に終わったようだ。
「3時間で着いちゃうんだもん、あっという間だよ。」
俺は畳み掛けるように言う。ユイはうんうんと首を振って頷く。そして顔を上げた。
目が合った。
目を真っ赤に腫らし、涙が溢れんばかり目に溜まっている。
その奥から静かに俺の目を捉えていた。
こういうとき、ドラマとか映画だったら抱きしめるんだろうなとか考えてしまう。俺もユイを今抱きしめたかった。
ユイはいよいよ抑えきれず、手で顔を伝う涙を拭い始める。
ユイの方へいざ手を伸ばそうとするが勇気がない。俺は傷つくことに怯えていた。手が震え始まる。
結局何もできない。ただ俺は言葉も発せず、彼女が落ち着くのを待っていた。
ホームの行き交う人々の声が固まりとなって意味をなさない音になり、俺の耳に入ってくる。
ユイはゆっくり呼吸をして、息を落ち着かせている。
俺はかける言葉も思い浮かばない。
ユイはまた顔を上げ、俺たちは目が合う。今度は彼女は目をそらさなかった。まっすぐと純粋に俺の方だけを見てくる。その目は寂しさと疑問、そして訴えを含んだ目だった。
俺にユイを泣かせた罪悪感が襲いかかり、思わず目をそらす。
時計を見る。発車時刻までわずかだ。振り返ると父と母が泣きながら手をこまねいている。
「行かなくちゃ。」
ふと、そう漏らした。その言葉がユイの耳に届いたのか、彼女も哀しげに頷く。
俺はもう一回ユイの目を見た。ユイの目から再び涙が溢れ出てくる。それと同時の俺の心の芯が抜けていって空虚になっていく。
俺は口を開いたが声にならなかった。そして、口をつぐむ。
「時間が…。」
ユイは振り絞るように声を出して言った。俺も頷く。
俺はユイの顔を見る勇気がなかった。
もう一度、俺は声に出して
「うん…。」
と頷いた。
恐る恐る、ユイのほうを見ると、ユイも俺を見て顔を縦に振っている。彼女の顔から涙が飛ぶ。
「じゃあ…」
俺はいつもの彼女との別れのように片手をあげ、ユイに別れを促す。別に考えてした行動ではなかった。自然と体が動いていた。
ユイは俯いて、頷く。肩を震わせながら。
俺はそんなユイに何をすることもできなかった。慰めることも、励ますことも。ただただ見ていることしかできなかった。
何かをすればするほど、ユイを傷つけてしまうことになる。そう考えると俺は今、この場から立ち去ることしかできない。
ユイに最後に触れたくなって、俺は彼女の頭を撫でる。この感触は俺の心をえぐった。
新幹線の搭乗口を見る。そして、一歩進んだ。
後ろからユイの嗚咽が聞こえる。しかし、俺は振り返らずにもう一歩進む。
もう一歩、一歩。
俺の耳には彼女の嗚咽が響いていた。
新幹線に乗り、夢遊病者のように、魂が抜けたように、気がふれたように、そこにあった席に着いた。
そのまま何も考えずにただ座っていた。
ふと突然気になって、窓の外を見た。
景色が流れていく。
車両内にアナウンスが流れる。安っぽいメロディーで始まった。
「いい日旅立ち」だと認識するのにしばらく時間がかかった。
その瞬間、体の奥が急に熱くなっていく。ユイとの別れが現実味を帯びてくる。
ああ、ユイと別れたのか、俺は。もう会えないのか、俺は。
顔を何かが伝っていく。俺は手で顔に触る。手は濡れていた。
その熱い俺の気持ちの片割れは次々にあふれ出てくる。
もう止まらなくなっていた。
俺は…。俺は…。ユイを傷つけることしかできなかった…。
息が苦しくなる。俺の気持ちが次から次へとあふれ出てきた。
声を上げた。言葉にならない、野性的な音にしかならなかった。
心が空っぽになっていく。無になっていく。俺が死んでいく。
ユイ、俺は君に何をしてあげただろう。
俺は君を幸せにできたろうか。
なぁ、ユイ。俺は君に一目で恋をした。君は美しさの表れだった。君の仕草の一つ一つが完璧だった。君の全ての部分が完全だった。
ユイ、君はそれほど美であるのに、他の人ではなく俺を選んでくれた。
もうそれだけで幸せだった。
ありがとうじゃ足りない。
今でも幸せだ。俺は君との思い出を忘れることはできないだろう。
だけど一つだけ君に言いたい。
どうか今だけは俺のことを忘れてくれ。
ユイ、君には幸せになってほしい。俺との記憶は君に悪い影響を与えてしまうだろう。
君に俺なんかは釣り合わない。君に見合う好青年を早く見つけてほしい。
俺が与えてやれなかった幸せを彼から受けて欲しい。
ユイ、そうしたら君は俺を思い出してくれ。
こんな奴がいたんだと。そして、今そいつと付き合ってたときよりずっと幸せだと。
ユイ、俺は遠く離れた場所でも今まで通り生き続ける。友達を作り、生活を築いていく。
正直今は不安でしかない。
けど、所詮地球で所詮日本だ。この距離だけが君との別れの原因なんだ。
この距離が不安を生む。
世界が変わるわけでもない。俺が死ぬわけでもないんだ。
だから、安心してくれ。
ユイ、好きだったよ。今でも好きだよ。
最後にもう一度抱きしめたかった。
最後にもう一度キスしたかった。
もう一度、もう一度あなたの存在を確認したかった。
いつまでも一緒にいたかった、いつまでも一緒に笑っていたかった。いつまでも一緒に…いつまでも一緒に…。
ユイ…。
ユイ…。
ユイ…。
ありがとう、さよなら。
久しぶりの投稿です。
1つの場面に絞って書いてみました。
最後まで読んでくださった方々、ありがとうございます。
引き続き、執筆していきます。