如月奏は触手を知る
奏が闇から目覚めると、そこは見慣れた我が家のリビングだった。
「あれ……」
奏はソファーに座っており、右隣には見た事のない黒いモヤモヤとして何かがいた。しかし奏はそれを不思議に思わず、ただそこにある何かとしか認知しなかった。
それから何分も奏と黒い何かはソファーに座りながら目前の電源の入っていないテレビを見つめる。
ここにきて漸く奏は得体の知れない恐怖を感じた。どうして自分はここに居るのかを考え、そして直前までの記憶がない事に気がついたのだ。そもそも見慣れたと思っていたこのリビングですら奏の記憶にはなく、どうしてそう感じていたのか分からない。
この得体のしれない感覚に恐怖を覚えると同時に、奏は右隣にいる黒いモヤモヤとした何かをチラリと見る。それはやっぱり何なのか分からず、奏は少しずつそれから離れるように移動を開始した。
奏がソファーから立ち上がろうとした瞬間、その黒い何かから黒い触手のようなものが数本出てきて奏の体に纏わりついた。
「うわ、何だこれ!」
奏はパニックに陥った。その触手を無理矢理引き剥がそうと試みるもそれは鰻のようにぬるぬると滑り掴む事すら困難だ。そして次第に黒い何かは触手の本数を増やし、確実に奏の自由を奪っていく。
「あっ…なに、これ……!こんなの知らない!」
喘ぐように言葉を口にする奏を無視して、触手は遠慮もなく奏の足に、手に、そして体に。奏が着ている服の隙間から侵入して、その柔肌に触手を這わせる。その触手の動きはまるで奏の体を楽しむかのように自在で、そしてその動きに奏は身を攀じる事でこれを回避しようとするがそれは無意味な行動に終わるのだった。
奏の呼吸は荒くなりお腹の奥が熱くなるような変な感覚を覚えたその瞬間に触手は察したようにすーっと黒い何かの中へと戻っていった。
取り残された奏は息を荒くしながら床に伏せ、その黒い何かを潤んだ瞳でじっと見つめた。生まれて初めての感覚を味わったが、まだ物足りないような心細い感情が渦巻いて、でもそれは絶対に求めてはいけないものだと本能的に感じる葛藤に奏の頭の中はぐるぐると回り続け、熱くなった体を冷ますように奏は微睡む。奏の寝顔を見つめながら黒い何かは満足そうにしてその場から消えていった。
そして突然の銃声に奏は飛び起きた。そこは先程までのリビングではなく、見たことも無い装置が沢山置かれているおかしな部屋だった。
「良い夢でも見られたかな?」
ベッド上で固定されている奏の顔を覗き込むように、最初に見た眼鏡の男がそこにいた。
夢……。男にそう言われて、あれが夢なのだと初めて分かった。夢にしてはあまりにもはっきりとしていたけれど。
そんな事よりも、どうして奏は見たことも無い装置が敷き詰められた部屋のベッド上で目を覚ましたのだろうか。
「あの、ここはどこですか?」
奏は少し怯えた表情をしながら男に質問した。やはり少し前に見せられたあの威圧するような目がトラウマになったようだ。
そんな奏とは正反対に、男は笑顔を浮かべてその質問に答えた。
「ここは君の為に作った休憩室だよ。ゆっくり眠れただろう?」
奏が薬を打たれてから実に5時間もの時間が過ぎていた。ここで奏はあの事態が起こる直前まで、楽しく話していた彼等のことを思い出した。
「あの、aさん達はどこへ……」
奏がそう聞くが、男は何も言わずに部屋を出ていった。奏はどうしていいか分からず、あの時何処かへ行った彼等を心配しながらベッドに身を預けるように横になった。
それから僅か数秒後に突然警報が鳴り響いた。何事かと奏は状態を起こし、ベッドから飛び降りて扉まで走る。そのまま扉を開こうと手を前へと突き出したが扉は開かない。
「あれ、開かない……」
扉は錠を掛けられているらしく、びくともしなかった。それから奏は自分が出来る事など何もない事を知り、扉を背に座り込んだ。
「本当に、ここはどこなんだ。何なんだよ……何で俺は幸せになれてないんだ」
本の女の子を思い出して、自分の状況を比べながら呟いた。彼女と同じように、同じ事をした。それなのに行き着いた先は全く異なっている事に奏は幸せになった女の子をひたすらに恨んだ。所詮は本の話、けれど奏にとっては自分の世界を色付けた、ある種の思い込みがあったのだ。
そんな奏の事など露知らず、事態は刻一刻と迫っていた。
扉が開き、背を預けていた奏は後ろに倒れ込んだ。
「うお、お前何してんだ」
男は突然足元に転がってきた奏に驚いた。そして奏はその声に聞き覚えがあり、すぐに顔を上げてその人物を確認した。
「a!会えて良かった……ってどうした?」
男の正体はaだった。奏はaと出会えた事に無邪気な笑みを浮かべたが、その本人の表情は一切弛む事なく奏の手を引っ張り唐突に走り出した。
「うわっ!ちょ、ちょっと待て!止まって!」
「うるせえ!いいから黙って足を動かせ!」
あの落ち着いて話をしていたaからは想像も出来ないような大きな声に奏は言葉を失った。
それから互いに無言で通路を走り回る。一体何処へ向かっているのか、そもそもどうして彼は私を連れて走っているのか。見当もつかない奏は、疑問を頭に浮かべては消していく。彼は黙って走れと言ったのだ。今はとりあえずそれに従おうと考えた。
「a、こっちだ!はやくしろ!」
通路を右に左にと走っている最中に大きな扉に辿り着いた。そこには見知らぬ男がaの名を叫んでいる姿が見える。恐らく彼の仲間か何かだろうと奏は考えた。しかしどうしてあの男は焦っているのだろうか、aの行動といい全く理解が追いつかない。
「a!後ろ!来てる!もっと速く走れ!」
後ろ、という言葉に奏はちらりと振り返る。そこには夢で見た黒い何かが、触手を伸ばしながら奏達を追ってきていた。
一瞬だけ、奏は走る速度を落とした。それを感じ取ったaは速度を上げ、無理矢理に奏を引っ張る。
そして二人は扉を潜り抜けた。
「おお……」
奏は目前に広がる世界に目を奪われた。そこには本で見た事のある翼竜と呼ばれていた生き物がいたのだ。
「乗れ!」
先程までaの名を叫んでいた男は翼竜に跨り叫ぶ。aは翼竜に見惚れている奏を男に放り投げた。その行動に驚いたのは奏だけではなく、その男自身も同じだった。
「何してやがる!早く乗れ!」
「俺はここに残る、お前はそいつを連れてさっさと飛べ」
aは奏達に背を向けて、彼等を追ってきた黒い何かと対峙するように歩みを進める。
ここまできて奏は状況を殆ど理解出来ていなかったが、aの行動には心当たりがあった。
「あれは……死亡フラグ!」
飛び立とうと羽を広げた翼竜から奏は飛び降りた。その突飛な行動に男は焦る。
「なんで降りたんだこの馬鹿!ああもう!これだから子供は嫌いなんだ!」
そう叫ぶ男を無視して奏は真っ直ぐaを目指して走り出した。aは何やら騒がしいなと思い後ろを振り返ると、放り投げたはずの奏が自分に向かい走ってきている姿に一瞬何が起きているのか理解出来なかった。
「ばっ、何してやがる!早く戻れ!」
もちろん奏はそれを無視して走る。あのままでは多分、aは死んでしまうだろう。そう思う根拠は本で見た展開と台詞が一致していたからだ。しかしそれだけで十分だった。
「はぁ、はぁ……a、今すぐ逃げて」
呼吸を整えながら奏はaの目を見て話した。
「何を」
aが疑問を口に出す前に、奏は真剣な表情で言葉を続けた。
「信じられないだろうけど、このままだとaは死んじゃう。俺が本で見た時と状況が同じだから、多分間違いない」
そう話す奏にaは呆れたように溜息を吐いた。
「本って、あの本か?」
そう、あの本である。しかし策もなしにこんな事を言うような奏ではなかった。
「あの黒い何か。あれ、一度だけ会った事がある。だから俺なら何とか出来ると思う」
夢の中でだけど、と付け加える奏にaは笑ってしまった。今までの奏の行動や言葉、何もかもaには新鮮に感じられた。
「でも、確かにお前なら出来るかもしれないな」
先程から黒い何かは奏達から数m離れた所で動かない。まるでこちらの行動を待つかのように、静かにそこに存在するだけ。それはきっと、奏がそこに居るからだろう。
「a、俺に任せて」
そう言って奏は黒い何かに向かって歩いて行く。
ここから始まるのは、如月奏と黒い何かの一対一の戦いである。
黒い何かを正面に迎え、そういえばと不意に奏は思い出した。夢の中で圧倒されていた事に。