魔女と魔獣(Ⅶ)
静寂の中、イーガルが微かな話し声を耳にとめたのは、妙に上機嫌だったシャルとの食事を終えて別々の寝床に収まったあとのことだった。
就寝時とはいえ、夜に眠るという習慣の無かったイーガルにとって、規則正しい生活習慣というものは寝台の上でじっとしているだけの無理矢理に押し付けられた空白の一時である。元来鋭い聴覚が、夜の静寂に伝わる音の波を正確に聞き取ったのは、その日に限った偶然ではなかった。
「あなた、大丈夫?」
二つ聞こえる声の一つは女のもの。
「さっきの冷え込みかい? いやあ、今年の寒波は凄いね。氷の精霊が遊びに来たのかと思ったよ」
もう一つはカドほにゃららのものだ。
イーガルの耳は、その会話を一言目から正しくリスニングする。しかし音を正しく聞き取っているからといって会話の意味まで把握できているわけではない。
「この前なんてあそこの山が雪に覆われていたぐらいだし」
「茶化さないで。どう考えてもあの子でしょう」
「だろうね。困ったものだ」
会話の内容によるとイーガルが魔法を使ったことに、二人が気づいていることがわかる。シャルが自室に戻る前「魔法を使ったことは内緒」と言っていたが、もうすでに二人の秘密は暴かれているらしい。
それから会話は聞こえなくなる。だがすぐに会話は再開された。
「・・・・・・・・あの二人を受け入れて本当に良かったの?」
それは多分に不安を含む声だった。
「なら、彼らを見捨てるのかい? それこそ私にとっては良くないことだよ。医者としても、父親としても」
一方は毅然としている。心に芯を持った者の声だ。
「いつまで置いておくつもりなの?」
「まずはもう一人の子が目覚めてから、二人そろって食生活を改善させて、何が原因で病気になったのかを理解させ再発を防止できるように指導する。それからだね」
「いつになるのよ」
「明日明後日というわけにはいかないだろう」
「それまで隠し通せると思う?」
「・・・・・・・・」
「一度禁を破ってしまえば、次も、また次もと次第に自制は緩くなっていく。シャーリィはまだ子供なの。これ以上あの子たちを見ていたら、いずれあちらに心惹かれてしまう」
「そうかもしれないね。幸いなのはイーガル君が良い子だったことか。シャーリィも随分気に入っているようだ。ゆくゆくは」
「そういう話じゃないの!!」
「はい、ごめんなさい」
「あの子は・・・、私たちの娘は、私たちが守らなきゃいけないの! 魔族からも、この村の人間からも!」
「・・・・・そうだね」
「・・・・・・・・・・だから、だからあの子たちを早く。情が移る前に」
「ああ、わかっているさ。けれどもう少し待とう。せめて二人が回復するまで。それが私たち医者の義務なのだから」
「――――――――――」
「――――――――」
「――――――」
「・・・・・・・ZZZ」
イーガルはいつの間にか眠りについていた。会話の大半を理解できないまま、理解しようとしないまま。
滔々と流れる意味不明な言葉は子守歌になることを知った。
翌日。
「じゃあかける。目を閉じて」
「おう」
ばしゃあー。
人肌程度のぬるい水がイーガルの頭の上から被せられる。
ウィーチ家の風呂場の床が一瞬で黒く染まる。
「そのままじっとしてて」
「ん」
椅子に腰かけて言われままじっとしているイーガル。シャルはその頭に白い固形物をこすり付けぶくぶくと泡を作りながらイーガルの全身を泡まみれにしていく。白いはずの泡は発生するそばから真っ黒に汚れていく。
「どんだけ汚いのか」
「今まで洗うとかしたことねーし、うわ、口に入った、ぺっぺ」
「口も閉じる」
「んー」
頭と耳をしばらくわしゃわしゃしていたシャルは、今度は柔らかいものを手に持ってイーガルの背中を擦っていく。
水に濡れたイーガルの、耳がある筈のあたりをさわさわと撫でつつシャルが分析を垂れ流す。
「頭部の側面にある筈の耳がなく、頭頂部の左右から犬の耳「んー!」もとい狼の耳が生えていて、臀部から尻尾が生えている。でも、魔族って言っても特徴的なのは耳と尻尾だけで、他は人と変わらない。体毛も人のものと変わらない。あ、色は白い」
「んーんー」
一人盛り上がるシャルに抗議するかのようにイーガルが唸る。
「はいはい手早く手早く」
イーガルに急かされ、シャルはイーガルの背中を洗ってしまう。背中がすんだら右腕、その次は左腕と、シャルは手際よくイーガルの体を洗っていく。その間イーガルは暴れそうになる手足を必死にじっとさせている。
「尻尾も洗うけど」
「ん」
言うが早いかシャルの手はイーガルの尻尾を撫でつけている。
「くすぐったい?」
「・・・・・・」
「こちょこちょこちょ」
「殺すぞ」
「わー怖い怖い」
決して怖がっていない舐めた物言いにイーガルは表情を険しくした。
決して気を許したわけではない。
昨日の経緯がなくとも、シャルたちが俺たちに危害を加えないことは明白だった。その上でともだちだとか、魔法のことを言われて、一先ずシャルの目的が俺たちを食うことではないと判断することにした。
だから次は、度々話題に出てくる村について知りたいと思った。魔法を嫌悪する感情はそのまま魔族に対する敵意となる可能性が高い。村について、人間についてよく知る必要があった。
それに、何かが、ひっかかった。
だから口に出した。
「村を見たい」
「なら外に出るか。となると耳と尻尾を隠さないと、それに体を洗わないと」
意外にもシャルは快諾する。
「いいのか? 外に出て?」
「これも内緒」
不思議に思って聞き返すイーガルに向けられたのは、一緒に悪戯を楽しもうという悪ガキの笑みだった。
「・・・・・・・」
またすぐにばれそうだった。
で、今洗われているというわけだ。必要なことなら我慢する。それだけのことだ。決して、心を許したとか、人の在り方に近づこうとかいう意図はない。
「前洗うからこっち向いて」
「ん」
頭の中でそんな言い訳を並べたてながら、されるがままに身を任せていると。
「おー。男の子」
「?」
イーガルは目を閉じているのにシャルの視線がどこかを注視しているのが感じられた。
「・・・・・・・あれ」
なんだ?
シャルの、イーガルの体を洗う動きがまた止まる。
「人と同じ生殖器。生殖器が同じなら、生殖行為も人と同じ? じゃあ人と魔族の交配も可能なんじゃ? もし交配出来るなら魔族の原初はもしかして・・・・・・・・人と同じ? でもこれは極論過ぎる。確証を得るためには実験しないと。・・・実験。 この場合の実験って、いやいや、流石にそれは」
「んー?」
「無理!それをするにはまだレベルが足りない!」
意味が分からなかった。
村に来た。
「ようこそ!ここがゼルド村っす!」
「家から出ただけだろ」
ウィーチ診療所の前に立つ二人の子供の姿。両方とも簡素な布の服を見にまとった、どこにでもいる子供の出で立ちだ。ただ、片方は物凄く目立つ、黒のとんがり帽子を頭にのっけっている。それだけで人口の少ない村の住人が、二人の子供にばかり視線を向けている。
「めっちゃ見られてんだけど」
「おかしいなー。なんでかなー」
「わざとか」
シャルの性癖を理解しつつあるイーガルは特段怒ることもせずにその衆目を受け入れることにする。今のところ殺気の類いは感じられない。単純に奇異の目だ。
「シャルロットちゃん、そちらの子はどなた・・・?」
そこへ恰幅のいいおばさんが、シャルにだけ声を向けて話しかけてくる。ちらちらと目線はイーガルにも向けられる。
「この子は、遠くからうちに来た患者さん。長丁場になるからうちに泊まってもらってる。イーガル、挨拶して」
「あいさつって何」
「復唱、よろしくお願いします」
「ふくしょうって何」
「こんな感じて言葉を知らない子」
シャルは普通の挨拶を諦めたらしくおばさんの方に理解を求める。
「わかったわ。よろしくね」
「・・・・・・」
交わされる会話も自分に向けられた挨拶も無視してイーガルは周囲に視線をさ迷わせる。
最初のおばさんを皮切りに、何人かがシャルのもとに集まりこの場にとどまり続けて会話を繋いでいく。終わる気配がない。
「井戸端会議が始まる。面倒だったら先に回ってても良い。耳と尻尾は隠さないと駄目」
押し寄せる人と言葉の間を縫ってシャルがイーガルに耳打ちする。
「ん」
視線も人混みも面倒なのは確かだったのでイーガルはシャルのもとを離れて歩き出す。目的の無いただの散歩だ。
まだシャルと挨拶をしていない村人がイーガルを珍しいものを見るような目で見るが、それも無視して適当に村の建物群を眺める。
イーガルだって小屋に住んでいた身だ。建物自体は珍しくはない。だが、それが建ち並ぶ様というのは見覚えのないものだった。それは、つまるところ人間という生き物がそれだけ群れているということである。
魔族同士の戦いで、イーガルは数の差というものを意識したことがない。あの世界で、ほとんどの魔族が自分の力を頼みに生きている。他者と協力するなどという考えはもとより、他者を守る余裕などありはしない。
人間の群れるという行動それ自体が、根底の強さの表れに見てとれた。
「おい、お前」
「・・・・・・」
「お前だお前! その変な帽子被ってるお前!」
「・・・・・・・・」
「てめえのことだよ、このお馬鹿!」
「?」
その時、なんの前触れもなく、理不尽な暴力がイーガルを襲った。しかし、ここが敵地だということをイーガルは当然忘れていない。
イーガルの胸ぐらを掴もうとした予想以上に小さな手を、イーガルの手が逆に掴み、ひねった。
「わっ! あだだだだだだ!?」
そうして初めて無作法を働いたその者の姿をイーガルは意識に入れた。
シャルとそう変わらない背丈のガキ。人間の子供。イーガルに手をひねられて痛みに涙を浮かべている。
「なんだ。戦えないのか」
この手の弱者をイーガルはたくさん見てきた。すぐに相手が雑魚であることを理解し、殺すことはしないで無力化するにとどめる。
「いでえよおおお、離せよおおお」
それだけでも相当な苦痛を感じているらしく、そのガキは鼻水まで垂れ流しながら泣きわめく。その声は大きく、小さな村の衆目を一気に集めた。
なるほど。戦えない代わりに大きな音を出して仲間に報せる役割を持っているのか。侮っていた。この音を聞いた村人が今にも襲い来るのだろう。
「こらあああああ」
案の定、凄い形相の女が微妙にとろい速さで走ってくる。
そして女はイーガルの前に立つと手を振り上げ。
パチン!!
ガキの頬を張った。
「またあんたは人様に迷惑かけて!! 謝りなさい!」
「びえーーん。かあちゃーーん」
捲し立てた女はばっと顔をこちらに向けると鬼の形相を和らげて、一転へりくだる。
「ごめんなさいね、この子見ての通り頭の足りないあんぽんたんで、そんな風に育てたあたいらも悪いんだけど。どうか許しくれないかね?」
「別に良い、けど」
イーガルが女の変わり身に呆気にとられているうちに漏らしていた許容の言葉を受けて、女は表情を輝かせる。
「まあ、なんて出来た子なんだい! うちの子とは大違いだよ!」
「ぶえーーーん、ぴぎゃーーーー」
「いい加減泣き止みな。うるさいよ!」
「ぴ」
女の一言で、警報は止まった。
「イーガル、どうしたか」
騒ぎを聞き付けたのかシャルがぞろぞろと村人を引き連れてやって来る。
「あらシャルロットちゃん、この子とはお知り合い?」
「そう。うちの患者さん」
「まあ!ってことは体調がよくないのよね! そんな人に、本当にこの子は」
「うっせえし、だいたい変な帽子被って歩いてるのが悪いんだし」
さっきまで泣きじゃくっていたガキが唐突に生意気になった。目の周りは赤く、声もひきつっているのが生意気の中に頑張りを窺わせる。
「こらっ」
しかし、情け容赦など一切存在しない無慈悲で冷酷な拳骨がごつんとガキの脳天を直撃する。
それでもガキは痛みに歯を食い縛りながら泣くのを止めていた。何故だろうか。
「そうか。変な帽子だったか。おかしいな」
「こ、この帽子ってもしかしてシャーリィが!?」
「そう」
「い、いやーなかなか良いんじゃね!カッコいいし!」
「・・・・・」
イーガルの頭の上の帽子が、何か物議を醸している。
「お世辞はいらない。私のセンスはまだまだ未熟」
「ぶっちゃけこの帽子は嫌だ」
本心を語ったイーガルを、ガキは先程見たような気のする鬼の形相で睨む。
「なんてこと言うんだてめーは!! つーかてめーはシャーリィのなんなんだよ!」
「なんなんだよって・・・。ともだち?」
「はあ!? まっじで!?」
ガキは鳥の糞が目の前に落下してきたような顔でシャルに目を向ける。
問いかけられたシャルはにやけながら頷く。
「ふひひ。友達ー」
「死ねーーー!!!俺だってまだ友達になれてねーのにー!!」
シャルの嬉しげな解答に、ガキは叫びながらどこか遠いところへ走り去って行った。
「良かった。あの子、イーガルと友達になりたいみたい」
「俺となのか?」
「そう。気になる子には突っかかってしまうやつ。今のがそーだよ」
「・・・・・俺は別に友達になりたくない」
「私もあの子ちょっと苦手。内緒ね」
(((((哀れ・・・)))))
一人の少年への同情が村人の心を一つにした。
なんだかんだでイーガルの初の外出は、村人との距離を大きく縮める結果となった。
そのあと、シャルの両親から二人で説教を受けることになり、晩御飯は二人揃って抜きになった。
「だめじゃん」
「駄目だった。おかしい。私の隠密は完璧なはずなのに」
「それを見破るぐらいあいつらにはわけないってことか」
それにしても家を出る前の行ってきますはなんの呪文だったのだろうか。




