魔女と魔獣(Ⅵ)
目覚めたあの日からしばらく、イーガルは未だ眠り続けるアーリアと共に日々を安静にして過ごしていた。ここには襲い来る魔族も飢えもない。日ごとにそれを実感しつつ、アーリアを見守っているだけの時間がゆっくりと流れていく。
ここは今までいた世界とは少し違うらしい。太陽というものが存在し、朝に日が昇り、夜に沈む。雪の無い山や地面を、日の光がゆっくりと違う姿に変えていく。そんな別世界の光景を、アーリアに光が当たらないよう注意しながらカーテンの下から覗き込む。
それがここ最近のイーガルの日常。信じられないほどに平穏な時間だった。
しかし得てして平穏は続かない。
「イーガル起きてるか? あ、いた。またカーテンの下にいる」
「・・・出てけ」
部屋の扉を開けて入って来る厄災を、イーガルは不機嫌そうな背中で迎える。カーテンの下から尻尾だけがはみ出ているのをシャルが見つける。
「尻尾ー」
「触んな」
これが、ここしばらくイーガルの平穏を乱して止まない存在、シャル。イーガルの抵抗を無視しては、この部屋に入り浸り、人間とは違う耳と尻尾が珍しいのかイーガルの耳や尻尾を触りたがる。
それだけではない。朝昼晩と襲撃をかけては、魔族について聞かせろだとか、魔法を見せろだとか、風呂に入れだとか要求してくる。魔法を使うなとオッサンに言われているが、そうでなくても見世物になるつもりはなかった。風呂など以ての外だ。不承知を示すように無視を続けるイーガルだが、シャルはそんな反応に冷めることなく、いつまでたってもいなくならない。
半ば諦めるように存在自体を無視していると、シャルはしめたとばかりにイーガルの尻尾をつけ狙い始める。そっと手を伸ばしてくる背後の気配から尻尾を避けさせていると、それすら面白いようで動くものに反応する魔物のごとく尻尾で遊び始める。ガキかよと言いたくなるが、ガキだった。
そこまで来ると鬱陶しさも倍増で、尻尾をシャルから遠ざけるためにカーテンの下から出てくると、嬉しそうなしたり顔でこちらの顔を見返してくる。
そしてまた、聞いてもいないことを延々と聞かされることになる。
「第三回、犬でもわかる一般常識講座ー、わーパチパチパチー」
その両手には前回、前々回は無かった変な人形がつけられている。心なしか片方はシャルに似ていて、もう片方は犬、なのだろうか。俺の狼状態と似ている気がしないでもない。
「これは狼。パパに作ってもらった」
だそうだ。狼人形の口をぱくぱく開閉させながらわんわん言っている。その鳴き声に意味はないが、舐められていることだけはわかる。
「じゃあ今日は村について教えるっすよー」
一度これが始まると、俺がそっぽを向いていても茶番は続けられる。俺がアーリアの側を離れないことを知っているから、逃げないのをいいことに嫌がらせが続けられる。
太陽や日時に関する簡単な知識などはこれによって身に付いた。他にも、シャルたちが人族と分類される存在であること、俺とアーリアが魔族という存在であること、人族と魔族はとても仲が悪い事、など。最初のうちは俺も敬遠して聞き流していたのだが、次第に今まで生きてきた世界とは違う人間の世界に興味を持つようになっていた。それがばれてしまったのか、シャルはいよいよもって精力的に語り続けた。
シャルの一人芝居によって村の施設についての説明が行われていた。そもそも村とは何かの説明から、村長宅のベッドは誰でも自由に使っていいことや、武器屋や道具屋の商品を盗むとオヤジが即死攻撃を放ってくることなどが語られる。やはり人間は強いようだ。
「それで、ここはウィーチ診療所っていう医療機関をやってるっす」
続けてこの家の説明が始まる。口調が変わっている理由は知らない。
「いりょうきかんってなんだ」
イーガルの流れに乗った返答に、シャルは嬉しそうに答える。
「医療機関って言うのは病気やけがを治す施設で、戦闘不能や病気になった人を元に戻す場所っす。戦闘不能っていうのは、痛くて痛くて動けないって状態。病気は、辛くて辛くて動くと苦しいって状態。それを治すっす。利用する人は、その対価に治療費を払う。治療費って言うのはまあ、お金っすかね」
「おかねってなんだ」
「お金っていうのは物々交換の媒体っす。お金があればどんなものでも交換できるっす。便利っすね」
「ばいたいってなんだ」
「媒体は・・・・えっと、仲立ちとか仲介?」
「なかだち?ちゅうかい?」
「教えるって難しい」
一方的だったシャルの語りが、いつの間にかイーガルとの質疑応答に変わっている。それを嫌がる様子も無く、ずっと楽しそうにシャルは話し続ける。けれどイーガルが繰り出した次の質問に、シャルは表情を硬くした。
「アーリアは病気と戦闘不能、どっちだったんだ?」
「どっちも。最初は病気だったけど、悪化するにつれて体力が削られて戦闘不能になったんだと思う」
「アーリアは、痛くて辛くて苦しいのか」
「まあそうなる。でもここでなら治せるから心配しなくていい」
「俺のとこに、いりょうしせつは無かった」
「うん。そうだと思う」
「あったらアーリアは苦しまなくて済んだのか」
「あったら、そうだったかもしれない」
「でもなかった」
「・・・・・・・」
「苦しいのも辛いのも、食えば治ると思ってた」
「・・・・・・・治らない場合もある。たまたま・・・・・イーガルたちがその例に当たってしまった」
「たまたま?」
「運が悪かった。ううん。過ごした場所が悪かった。ここは良い場所だから。だから、しばらくはここで過ごして。そしたら良くなるから」
「その方がアーリアにとって良いなら」
「イーガルにとっても、良いことだから。イーガルもそう思ってるからここにいる」
確かにその通りだ。ここにいればいるほど、この場所の安全さがよくわかる。それを内心ではとっくに認めていた。
「お前がいなかったらもっと良い」
外向きには認めたくないが。
「またまたー私が来たとき尻尾振ってたくせにー」
「振ってたらなんだっつんだ」
「振ってた!?」
「?」
「今なら・・・・・。いける気がする!」
不意にシャルの手がイーガルの頭へと伸ばされる。
――ぱしっ。
すぐさま叩き落とされる。
「だから耳触んなつってんだろうが!!」
「駄目だった・・・。くっ、別にいいじゃないか!触り心地いいんだから!もふもふなんだから!」
「俺が触れられたくねえの!」
「私は触りたい!絶対気持ちいい!」
「知るか!」
「知れ!」
「表出やがれ!」
「望むところ!」
二人の空気は一変し喧嘩になる。
ウィーチ診療所、庭。
二人は庭で向かい合う。
イーガルは家の外に出るなと言われているし、激しい運動など以ての外である。だから。
「今日という今日は痛い目みせてや―――」
「今日という今日はその耳、触らせて―――」
「こらっ!」
ごん!
「いでっ」
「あだっ」
「喧嘩しないの」
母による鉄拳が下された。
「くそ」
「むう」
「喧嘩両成敗ってね。相手に謝るのとご飯抜きと、どっちがマシ?」
「ごめんイーガル」
「はやっ・・・!」
あまりにも早い喧嘩相手の屈伏にイーガルは怒るよりも先に虚しくなる。
「イーガルは?」
「・・・・俺は悪くねえし」
「そ。ならイーガルはご飯抜きね」
意地を通した結果、その日の晩は食卓に呼ばれなかった。
一食抜くくらいあの頃なら珍しい事ではなかった。だから気にしなかったのだが、毎日三食を続けていたイーガルの腹は盛大に鳴いていた。
だから嫌なんだ。あいつと話すのは。
その夜。
「イーガル開けろ」
いつもは勝手に開けて入るくせにシャルは扉の前で立ち止まってイーガルに開けるように言う。
「勝手に入ればいいだろ」
「手が塞がってるから」
「?」
カーテンの下で夜の月を眺めていたイーガルは、不思議に思いながら立ち上がって扉に歩み寄り、扉を開く。そこには盆を両手に持ったシャルがいた。
「ご飯持ってきた。私の分、半分こしよう」
シャルの持った盆の上には、一人分の食事が乗せられていた。
「感謝しろ」
シャルは偉そうに笑う。食事を分け与えて恩を売ろうというのだろう。
「お前のせいで食えなくねーんだけど」
「いらない?」
「いらねー」
「頑固者。そんなことじゃ立派な忠犬になれない」
「ちゅうけん?」
「四の五の言わず食え。そして恩を感じて忠誠を尽くせ」
イーガルに座るよう促しながらシャルは座って盆を置く。しばらくイーガルが生活しただけあって、ここの床は相当汚くなっている。そこに躊躇も無く座りながらシャルはイーガルの手を引く。
「押し付けかよ」
強引に隣に座らせられたイーガルは、いつものように文句を呟く。
「こういう時は押し売りという。食え、ほれほれ」
シャルがパンの欠片をちぎってイーガルの口に押し付けてくる。その態度は日に日に遠慮が無くなってきていた。それに最初の頃ならシャルはここまで汚い所で食事することは無かっただろう。だが、今となってはシャルはイーガルの隣に座ることを厭わない。二人の距離が数日の間に近づいたかと言えばそうではない。ただシャルが強引に近づけて来ているのだ。机の上から床の上に身を落としてイーガルの隣を選んだ。
「・・・・・お前はなんでそんなに俺に構うんだ」
「?」
「人間にとって魔族は敵だって、お前が言ったんだろ。なのに、初めからそうだ。なんであの時俺達を助けた。見殺しにするべきだったんじゃないのか」
「なんでって言われても。医者が人を助けるのに理由はいらない、とか」
「人じゃない」
同族なら守るという理屈はわかる。俺だって紛いなりにも同じことをしていた。だがこの場合は違う。敵だという前提がある。殺しかけた事実がある。敵であるなら殺す。くたばっているなら見捨てる。それ以外の選択肢はない。
なのに何故こいつは俺たちを殺さないのか。あまつさえ助けようとするのか。
「確かに、人を助ける、だと魔族は対象外か。イーガルは意外と理屈っぽい。んー・・・・・じゃあ、興味を持ったから。人は興味を持ったものに近づこうとする。興味の対象が死んでしまったら興味は満たされない。だから助ける」
「興味? 俺を助けて、それで自分が殺されるとは思わないのか?」
「うん、思わない」
「なんで」
「なんでって、現にイーガルは殺さなかった。私を殺そうと伸ばした手を、止めた」
「あの時は、気まぐれで殺さなかっただけだ」
「それでも私は生きてる。あの時も、そして今も。ここ数日でイーガルは自分の無害さを証明した」
「それは、お前が俺たちを助けたから様子見してただけだ」
「うん。だからそれが証明。イーガルは賢い。だから恩人になる私たちを殺さない。私はそれを信じた」
「分かってねえ」
「へ?」
否定すると同時に、イーガルの魔力がこの部屋を凍らせる。遠くない過去に開花した冷気を自在に操る氷狼の力。吹き荒んだ冷気がシャルの顔に叩きつけられる。
「これが・・・・イーガルの魔法? 凄い」
イーガルとシャルとアーリアと食事を避けて、部屋を氷が埋め尽くす。一瞬にしてその場所を支配できる力。その力を振るいながらイーガルは部屋に収まるサイズの白い狼へと姿を変えていた。
それを見せた後、イーガルは前脚で軽く床に触れる。それは凍り付いた地面に波紋のように伝播し、氷に亀裂を作って一斉に砕け散らせる。砕かれた氷の破片はその場に水の跡を残すことなく消え去った。その様をシャルは瞬き一つせずに目に納める。
その前でイーガルは元の人型に戻り、立ったままシャルを見下ろす。
「お前なんて簡単に殺せる。これでもお前は」
「信じる」
「俺がその気になればお前だけじゃなくおっさんや女だって」
「信じる」
「殺すぞ」
「殺さない」
言葉通りイーガルは殺さない。食料。安全な場所。アーリアの治療。ここでこいつを殺す利点が無さすぎる。有利不利を判断できるからイーガルは殺さない。
シャルはほら見ろとイーガルを見上げる。言い当てられて不貞腐れながらイーガルはまた座る。
「ちっ・・・・・・。ならそもそも興味ってなんだ。俺の何が知りたいんだよ」
「ああ、それなら。・・・・・・・・・・『アブソリュート・ゼロ』」
次の瞬間、再びこの部屋が凍り付く。イーガルの顔に冷気が襲い掛かる。
「!?」
それはイーガルのしたことの全くの再現だった。流石に狼の姿にはなっていないが、手で床に触れて氷を砕くところまで同じ。イーガルの余裕ごと、部屋の氷が砕けて散る。
「見せてくれてありがとう。これが興味を持った理由の一つ」
シャルが何をしたのか、理解が追いつかない。ただ分かるのは目の前の人間が、力を隠していたこと。
「でももう一つ理由がある。イーガルは特別だから」
「特別?」
「イーガルになら、私の力を見せても構わない。だって魔族だから」
「力?」
「魔法のこと。パパとママには隠すように言われた。二度と使わないようにって。でもイーガルになら見せても構わないと思った」
「なんで隠す必要があるんだ?」
「強い魔力を持つ人はこの村では嫌われる。だから隠さないといけない。ずっと隠してきて、物足りなかった。だから」
「・・・・・・・」
力を持てば弱者に恐れられる。それで、隠す必要のない強者を俺に見つけたのか。
「私がイーガルに構うのは、構って欲しいから。だから、その」
「はっきり言え」
「私と、友達になれ!」
ようやくシャルが口にしたその狙いは、まとめてみればたったの一言だった。
「・・・・それがお前の目的か」
「うん・・・・」
「分かった、断る。それで、そのともだちってのはなんだ」
「断ってから聞く!?」
「ともだちの意味を言え」
「そこから・・・・。えっと、友達は・・・・・友達で」
ともだちとやらは説明しにくい言葉のようでシャルは苦悶する。
「どうやってなるんだ?」
「なってくれるか?」
「嫌だ。よくわからないものにはなりたくない。せめてどんなものか説明してから言え」
「そうか・・・」
シャルが視線を落とす。そして友達をどう説明したものかと悩み始めた。
「長くなるなら俺は食っとく」
もともとはシャルの分だということは忘れてイーガルは盆の上の食事に手を付け始める。それを見てシャルにひらめきがもたらされる。
「友達っていうのは、一緒にご飯を食べ合う仲のこと!」
そう言うと、シャルはこれならどうだと言わんばかりに期待に満ちた表情でイーガルを見つめる。
「それなら俺達はもうともだちだな」
イーガルが思ったままにそう言うと、シャルが見る間に顔を綻ばせる。
「してやったり」
「?」
「そうか。もう友達か。ふっひっひ。いっひっひっひ」
「気持ち悪・・・」
「じゃあ明日から一緒に遊ぼう」
「嫌だ。お前の親もともだちだろ。そっちと遊んでろ」
「違う。友達はイーガルだけ。初めての友達」
「は?なんでだよ。一緒に飯食ったらともだちなんだろ」
「なんでもー。いひひー」
それから二人はいつもより半分少ない晩ごはんを食べ合った。
「・・・・・・・・・・なんすかこれ」
「なんなんすかこれ」




