魔女と魔獣(Ⅲ)
あの日イーガルが食い殺した魔族は、暴食王と呼ばれるこの地一帯の支配者であった。食うしか能のない野蛮な魔族ではあったが、その力によって他の魔族を抑え、最低限の秩序をもたらしていたことは否定できない。それが死んだことにより、魔族領の力の均衡は崩れ始めていた。
赤く染まった雪の上。人間に近い姿をした魔族の子供が口の周りをべっとりと血で汚しながら、狩ったばかりの魔物を生のまま貪り食らう。
彼は既に狩られることに怯える子供ではなくなっていた。どちらかと言えば、両親を殺した者と同じ、狩る側の存在だ。
だからといって狩りを楽しむ様なことはしなかった。ただ殺し、ただ食べる。そんな単純な割り切りが、暴力に支配されたこの地獄で何よりも尊いと感じられた。
――じーっ
そんなイーガルの食事風景を寡黙に見つめるものがあった。
(またか)
億劫に確認の目を向けたイーガルの視線の先には、一匹の魔族の姿があった。
特徴的な後ろに流れるように生えた二本の角に、白い体毛、角の付け根から左右に伸びる耳。黒い瞳孔は暗闇の中、丸く目一杯に広がっている。
ここ最近、何も言わずイーガルの背を追いかけるようになったヤギの魔族。いつだったか魔族に食われそうになっていた所をイーガルが助けて・・・・・・は、いないのだが、結果的に奴だけを食わずに置いたところ、何かにつけてイーガルの後ろを追いかけるようになった。
――じーっ。
今はイーガルが食べている魔物の肉塊を凝視している。
「ちっ」
物言わぬ視線に苛立ちを覚えたイーガルは、空腹が満たされたことを機に食事を終えると、アーリアへの土産だけをちぎり取って何も言わずに立ち去った。
その後ろで、イーガルがいなくなったのを見計らって続々と現れる魔族の子供。戦う力を持たない彼らは、イーガルの食べ残しを漁り始める。
強きのみを挫く。ただそれだけの乱暴な生き方で、イーガルは支配者として君臨していた。
ねぐらに帰る。小さな小屋だ。
「おかえり、イーガル」
「ただいま」
アーリアが迎える。家族四人で暮らしてきた家に、今は二人だけ。
「これ、とってきた」
狩ってきたばかりの魔物の肉をイーガルが差し出す。
アーリアは笑顔で受けとる。
「ありがとう」
「ん」
「お姉ちゃんが撫でてあげる」
「いらねー」
「いるー」
じゃれてくる姉をあしらいながら、そんな日常にイーガルは幸せを噛み締めていた。
殺しては殺し続けての暴力漬けの毎日だが、それでもアーリアがいてくれれば平穏と言えた。ありがとうの一言で、いくらでも戦えた。
平穏は崩れていく。
アーリアが体を壊した。衰弱がひどく、よく寝込むようになった。魔物の肉も魔族の肉も喉を通らないようで、口に含んだ途端に全て吐き出してしまう。
今までとは異なるアーリアの様子にイーガルは戸惑うばかりだった。
初めに試したのは食材の加工だった。生で食べていた肉を、食べやすいように焼いた、温めた、臭いをつけた、洗った、茹でた、切った、凍らせた、味をつけた。魔物の素材で創意工夫を凝らし、肉を美味しくした。
それだけの食料を得るために、たくさん殺した。
それでも、食料がアーリアの喉を通ることはなかった。
次にアーリアが食べられそうなものを探すことにした。食べられないのは魔族の肉と魔物の肉だけかも知れない。
そう思い付き探したところで何も見つからなかった。この雪の大地に、食べられるものなど何も無かった。
辺り一面雪ばかり。山はあれど川はあれど、そこに生物の気配はない。地中はどうかと地面を深く掘り進めてみるが、黒い土以外に何もない。土を食べられないかと口に含んでみると、じゃりじゃりした。食べられないことは無かった。
アーリアに食べさせようか長い間考えて、やめた。
アーリアはどんどん衰弱していった。何も食べてないのだから当然だ。ここしばらくありがとうの声も聞いていない。ねぐらでただ臥せているアーリアを見ていると、だんだん不安になってくる。
このまま死んでしまうのではないか。と。
嫌だった。アーリアだけは失いたくなかった。イーガルに残されたたった一人の家族だった。
だから、無理矢理食わせた。
魔物の肉をアーリアの口に詰め込み、その口を手で塞いで食べるように怒鳴り付けた。
アーリアは涙をうかべたまま苦しそうに飲み込んだ。
飲み込んだのを確認して手を離すと、辛そうに喘ぎながらもありがとうと言ってくれた。
嬉しくなかった。
同じことを繰り返す気にはなれなかった。
アーリアが回復することは無かった。
アーリアを助ける方法は無かった。あったとしてもイーガルが思い付けることはもう無かった。無力な自分を思い知った。
だからだろうか、誰かに聞く、という方法にようやく気づいたのは。身近に聞けそうな奴は居ないか、そう考えて初めていつも俺の後をついて来ていたヤギの奴の姿がないことに気付いた。魔族のガキどもも含めてここしばらく見た覚えがない。
鼻を頼りに探せばそいつらはすぐに見つかった。
皆くたばっていた。
幼い魔族が死体となって地面を埋め尽くしている。頭が溶けたようにぐずぐずにただれていたり、手や足が同様に欠けていたりする。
「あら?まだいたのねえ?」
その中心に、一体の魔族が立っていた。人型をしてはいるが六本の腕が胴体から生えていたり、普通の目の周囲に複眼が並んでいたりと、ある意味魔族らしい姿だ。
「・・・・・・・これ、お前がやったのか」
「そうだけど、あらあ、あなた随分可愛いわねえ。食べちゃいたいくらい」
「奇遇だな。俺もだ」
地面を蹴って真正面から正体不明の魔族に殴りかかる。が、それが届く前に魔族の正面に糸が張り巡らされた。
触れるべきではない。そう感じ、イーガルは一時停止し側面に回ろうとする。その足が、途中で何かにくっついたように動きを止めた。
「んまぁ!あてしの事を余すことなく食べたいだなんて、だ・い・た・ん!でも食べられるのは貴方なのよねえ!」
気が付けばこの空間の至る所に糸が張られていた。糸に貼りついたイーガルの足は、力を込めてもびくともしない。
「ちっ」
「自己紹介と行きましょう?あてしは、北の大地を治める女郎王、アラネ」
アラネと名乗った『男』が、子供を一人掴み上げ、その唇に口を重ねる。じゅぼぼぼと吸い上げる音を出しながら、溶かしながら子供の顎を呑み込んでいく。ひとしきり溶けたジュースを飲んだ後、アラネは艶やかな吐息をこぼす。
「こんな風にぃ、悪名だかき白狼君を愛でに来たのよん」
くだらない。結局、食べたいだけじゃねえか。
イーガルが糸に絡めとられた足を力強く踏み込む。すると、ずん、と地面が揺れた。
「暴食王をやったのはあなたよねえ。可愛い狼くぅん」
「知るかよ」
くだらないことに、俺たちを巻き込むな。
ずんずん。二度三度と地面が揺れる。
「実はねえ。あてし貴方のお尻にとても興味があるのよお。だからー、ちょっと味見させてくれないかしらあ!!」
「知ったこっちゃねえんだよ!」
アラネの足元から勢いよく突き出した氷槍が、その腹部をあっさりと貫いた。
「あら?」
続けて、二本目、三本目と、魔族の体を氷の槍が貫いていく。
「・・・おぶ、ごふ」
「俺の邪魔すんじゃねえ」
そして、イーガルから迸った冷気が、糸も、アラネも凍り付かせていく。器用に魔族の子供の死体だけは避けて、その空間すべてを氷の山と成す。
「砕け散れ」
その場を動かず、イーガルは氷の塊を殴りつける。そこから氷に亀裂が入り、粉々に砕けた。
中に埋まっていた魔族ごと。
別に、仲間だとは思っていなかった。助けられたと勘違いしてついてきて甘い汁をすすっていただけのガキどもだ。俺が助けられたことは一度もないし、興味を持つことも無かった。
そんなやつらが死んでも、思うことは何もない。
死体の山を歩いていく。全員死んでいるのか。
どの死体も体の一部が欠けているだけだ。体の欠損程度で死ぬことはそうそうない。死んだのには別の理由があったのだろう。
「・・・・・・・毒か」
思い当たったのは毒だった。そこから連想して、アーリアが弱っているのは毒の所為では無いかと考える。もしそうなら、アーリアに毒を盛った奴がいることになる。
――じーっ
気が付けば、覚えのある視線を向けられていた。弱々しくもねちっこさを感じるのは変わらない。
「なんだよ」
生き残っているものがいた。ヤギの魔族のガキ。
イーガルは歩み寄る。思えばここまで近づくのは初めてだ。こいつも近づいてこなかったし、俺も近づこうとはしなかった。
「龍爺って知ってる?」
「知るか」
会話したのもこれが初めてだ。
「ここから北東に、って、わかんないか。・・・あっちにずっと行ったところに龍爺の住む家があるんだって」
「だから、なんだよ」
「龍爺はとっても物知りで、知りたいこと、教えてくれる」
知りたいことと言われ、真っ先に思い浮かんだのがアーリアを助ける方法だった。
「ほんとか!?」
「うん」
頷きを見てとるとイーガルは即座に示された方向へ走り出そうとする。
「待って」
その矢先を、ヤギの一言が止めた。
「まだなんかあんのか」
「おなか、空いてない?」
「・・・・・そう言えば最近何も食ってない」
アーリアに気を向けていたため自分の管理を全くしていなかった。
「なら、食べて」
予想しなかった言葉にイーガルが目を見開く。
「・・・・・・いいのか」
「うん」
ヤギの奴が、魔族本来の姿になる。魔族は日常を人型で過ごすが、死が近づくと本来の姿に変わる。単純に生き残るために。だがそれは、それだけの力があるからだ。弱いものは人型のまま死んでいく。こいつは、そうならないだけの強さを隠していた。
どこかで見たその姿は、俺が最初に殺したあの魔族にとてもよく似ていた。
「やっと先に行ける」
イーガルは久しぶりの食事を、余すことなく完食した。
思えば、名前も知らなかった。
嫌な世界だ。
指を差された方へ四足で駆けていると妙な建物に出くわした。
祠、という表現を知らないイーガルは、住むには無駄にでかい家と、それを評する。
中に入ると、蛇のように体の長い生物が彫られている壁しかない。後は無駄な空間が広がっている。
龍爺とやらはどこか。
「わしの聖域に踏み入りし者よ、名を何という」
見回しているとどこからともなく声がした。怪しみながらもイーガルは答える。
「イーガル」
「ではイーガルよ、死する覚悟は出来ておるのか?」
「っ!?」
突如向けられる殺気。
正面に、よぼよぼの老人が立っていた。
獣としての嗅覚が告げる。逃げろと。
だが、それはできない。
「アーリアを救う方法を知りたい!頼む!教えてくれ!」
気付けば頭を下げていた。それまで頭を下げることが、謝罪や礼儀を表すことを知識としてすら知らなかったイーガルが、その行為を行っていた。
「おやおや、侵入者と思いきや、礼儀を知っておるようじゃな。ふむ、煎餅食うかの?」
「それを食えばアーリアは治るのか!?」
「無理じゃろな」
「ふざけんな!」
「最近の若いもんは性急じゃのう。そもそもアーリアとは誰ぞや。わしはそなたのことを名しか知らぬのじゃがな。茶でも飲むかの?」
先ほどからぽんぽんと煎餅や茶やらを出してくる。
「アーリアは俺の家族だ。何も食べられなくて、ずっと寝てるだけで、とにかく弱ってるんだ!どうすれば助けられる!?」
「大変じゃのう。しかしのう、わしに聞かれてものう」
「わからないのか」
「ふむー。このまま帰すのも気の毒じゃしのう。どうしたもんかのう」
「・・・・・・」
続きを聞こうと待つと、ああでもないこうでもないと長い間悩み出す龍爺らしき魔族。
「そう言えばこんな話があったのう。人踏み入れぬ雪頂に、一日のみ咲く花あり。その花弁は万傷に効き、その蜜は万病を治すという。名を、月下霊草」
「どこにある!」
「どこにもないのう」
「おい!」
「後、百日もすれば咲くかのう。むむ?今はいつなりや?」
「ぼけてんのか!」
「おーおー、軒昂じゃのう。じゃが急いてはことを仕損じるといってのう。そうさのう、一休みしてみてはいかがかな? 千年も眠れば世界も変わっていようて」
「寝てる暇はねえんだよ! いつアーリアが死ぬかも知れねえのに・・・・・くそっ、なんで、こんな」
会話を続けるうち、いつの間にかイーガルの目から涙が零れていた。自分でも不可解な現象にイーガルは慌てて涙を拭う。
「ほう、泣けるか」
「は?泣いてねえし」
ぐしぐしと目をこすって涙を拭う。涙は弱さの証だ。俺には必要ない。
「ほっほ、ならばよい。イーガルよ、げに家族の無事を願うのであれば、そのアーリアとやらを連れて北東へと歩きなされ」
「北東ってどっちだ!」
「北東はあっちじゃ」
「それで本当にアーリアを治せるんだな!?」
「うむ」
龍爺の力強い頷きにイーガルの表情が目に見えて明るくなる。
「わかった。信じるからな!嘘だったら殺すからな!」
そしてイーガルは祠を飛び出て、南西、アーリアのもとへと駆け出した。
「そこはありがとう、じゃろうて」
龍爺はそれを笑って見送った。
家に帰ると珍しく起きていたアーリアがイーガルを迎えた。「もういいよ」と言って笑った。「ごめんね」と謝った。そのまま崩れ落ちると、目を覚まさなくなった。
俺はアーリアを背負い、何かを求めて北東へ歩いた。ガキどもの死体を横切り、龍爺の家を通りすぎ、ひたすら北東へ歩いた。諦めたくなかった。
雪の中、闇の中をどれくらい歩いただろうか。どれくらい飲まず食わずで歩いただろうか。
背中のアーリアは、もう冷たくなっている気がした。
果物を知らなかった。魚を知らなかった。野菜を知らなかった。魔物と魔族以外の肉を知らなかった。卵を知らなかった。何も知らなかった。何も見つからなかった。
ずっとずっとずっと探したのに、何も見つからなかった。
そんな俺が最後に見つけたのが、人間だった。
「君、どうしたの?大丈夫?」
心配そうに窺いながら近づいてくる、水色の髪をしたガキ。暖かそうな服を着ている。
食べたら美味いだろうか。ようやく見つけられた他の食い物。何かを考える余裕もなく子供の首を飛ばそうとイーガルの手は動いた。けれど。
鋭い爪が子供の首に届く、その直前で・・・・・・止まっていた。
喉元に突き付けられた爪に驚いて、ガキは雪に覆われた地面に尻餅をつく。九死に一生を得たことに気づいていないのか、その瞳は敵対行動を取った魔族を生意気に睨み付けている。
「く・・・そ・・・・・」
イーガルは毒づく。最後の最後で躊躇ってしまった自分に。目の前のガキ一人殺せない自分に。
重ねてしまった。いつかの弱いままの自分達に。
今更手を止めてしまった自分を殴りたく思いながら、イーガルは前のめりに雪の上に崩れ落ちる。
体力の限界だった。それ以上に精神の限界だった。
諦めてしまったのだ。この世界で生きることを。家族を失った世界で生きていくことを。
もういいか。
諦めを抱きながらイーガルの体は傾いでいく。その体を。
「良いわけねえだろ!」
自分の手が、止めていた。
ガキの上で倒れた体を、腕を立てて無理矢理引き起こす。
諦めてたまるか。
そしてイーガルは、また、歩き始める。真っ直ぐ、真っ直ぐ、アーリアを助けるために。
「・・・・・」
目の前で行われたイーガルの奮発劇に、偶然出くわした女の子は呆然と見送る―――
「『スリープ』」
―――はずがなかった。
イーガルの背後で、催眠魔法が発動された。
「嘘だ」
そんなはずない。
シャルは自分が見ているものを否定する。
だってあの子は、あの女の子は。




