魔女と魔獣(Ⅱ)
脅威に背を向けて炎の道をひた駆けるイーガル。背後をちらりと窺い見れば。
「『炎撃』『フレイム』『フランベルジュ』!『業炎』『豪火』『大魔球』弾けろ吹っ飛べ灰塵と化せ!」
流石に逃げるしかない。避けるのは得意だがあの物量を前にここで戦うのはまずいことは分かる。周囲の障害物は牢屋ばかり、長い通路が交差するばかりで、側面に回ることも容易ではない。
イーガルは自分で判断して逃亡を選択する。いつもならこういうときアーリアの指示が飛んでくるのだが、生憎というか幸いというか、別件のためこちらに意識を向けていない。
そもそもイーガルは勝つためにここに来ていない。
「セラって人がシャルに殺されちゃうから止めてきて」
だそうだ。お前が行けよ、と言ったら、
「えー、本当に良いのー?シャルに会いたくてたまらないんじゃないのー?」
とかにやにやしながら言うので殴ろうとしたら、あしらうように背後をとられ瞬間移動で人間の町に飛ばされた。狼使いが荒いことこの上ない。酷いことにこんなやり取りがもう三度目だ。いい加減にしてほしいは俺のセリフだ。
まあ、そのうちオーマがこっちに来るらしいので、それまで適当に時間を稼ぐだけでいいらしい。
「『灼熱球』!」
何を怒っているのかは知らないが、これ以上鬼神のようなあいつと関わりたくない。ということでイーガルは全力で逃げているのだが。
(なんであいつ俺の脚に追い付けるんだよ)
魔力で強化するにしても限度がある。人の脚で、魔族の中でもトップクラスの足の速さを持つイーガルに敵う筈がないのだが、シャルは見事に追いすがって見せている。
どうもこの場所にかけられている魔法がシャルに味方しているっぽい。それが分かったところでどうにかする頭を持っていないので意味はない。
何度か目の前から現れるシャルに驚きもしたが、慣れてしまえば問題ない。
と、そうこうしているうちにオーマの足音が近づいてきた。鋭敏なイーガルの獣耳が、近づいてくる二人分の足音を壁の向こうに捉える。続いて壁を破壊するような音が、背後で起こる爆発に混じって聞き取れた。
じゃあ、逃げる。
今までも逃げていたのだが、今度は前ではなく真上に向かって地面を蹴る。そこにあるのは石造りの天井だが、それを拳一つで撃ち貫く。
岩盤ごと破壊したところで、一度着地し、再び勢いをつけて跳躍する。
「はあ!」
頭突き。
「逃がさないっすよ」
シャルが何か言っているが、既に遅い。イーガルの体は止まること無く地上への直通ルートを開通した。
イーガルは地上に到達したところで周囲の地盤をかかと落としで蹴り砕いて、今しがた開けた穴に落としていく。シャルやオーマが追いかけてくるのを防ぐためだ。
だが。そんなイーガルの丁寧な仕事を灰塵に帰そうとする詠唱が、今まさに完了しようとしていた。
「来たれ、真紅の豪炎」
それは遥か下にいるはずのシャルの声で。
「「「「生を贄とし、その身を灼熱の牢獄へと変えろ。出でよ!」」」」
四人の声で。
「・・・・なんでお前がそれ、使えるんだよ」
イーガルが驚愕の表情を隠しきれず、思ったことを素直に口に出す。
イーガルを囲む四人のシャルが、詠唱中の魔法を告げる。
「「「「『炎煌灼熱球』!!」」」」
それは、オーマしか使えないはずの究極魔法を詠唱する声だった。
イーガルの頭上が太陽のごとき巨大な燃える球によって塞がれ、周囲一帯に影がかかる。
地上の森一つ消し飛ばしかねない無差別広範囲攻撃を避ける術を、イーガルは持たない。
なら耐えるしかない。
そう言えばあいつは大丈夫なのか?
イーガルの視線が究極魔法を詠唱し終えたシャルに向けられる。分身は消滅し、わずかに疲労を見せていたシャルだが、イーガルからの視線を感じたのか勝ち誇った顔を見せて姿を消した。
瞬間移動、分身、そして究極魔法。まるで魔王と戦っている気分だ。
だからこそ、この状況は初めてではない。
イーガルは全身全霊を以て、炎煌灼熱球を防ぎにかかった。
防いだ。二つの足で地を踏みしめ、両腕を押し潰そうとする圧力に耐えた。あいつの使ったものより数段威力の落ちる、お粗末な一撃と言える。肩透かしもいいところだ。
「とった」
もっとも、それはその後の追撃が無ければの話である。背後に魔力を感じ、イーガルは振り返る。そこにいたのは先程までの黒いマント姿とは打って変わった、赤を基調とする派手なローブに身を包んだシャル。
その全身からは、目に見えるほどの赤い魔力が迸っていた。
「天地開闢。『ビッグバン』!」
そんなシャルの姿を捉えられたのも一瞬のこと、イーガルの世界が白で覆い尽くされた。
ずるずると、首の絞まる感覚と共に引きずられていく。
炎煌灼熱球を防いだところを更に追撃されたらもうどうしようもない。魔王以上に容赦のない性格だ。
負けた。
「なんでてめえが『分身』使えんだよ?」
敗因の一つとも言えるシャルが使えるはずのない魔法の数々。負けた機会に折角なので聞いておく。
「ラーニング・スキル。人族一なんて、うちが大層に評されている理由の一つっす。一度見た魔法は覚えちゃうんすよね」
イーガルの襟首を掴んで引きずっていくシャルが、前を向いたまま答える。
なんだそれ。そう思ったのを最後に、イーガルは意識を途切れさせる。
「・・・・・なんで言っちゃったんすかね。まあ言った以上は、逃がすつもりないっすけど」
少年によって乱暴に封鎖された縦穴から離れて、安全なところに少年を移動させる。荒っぽくその体を寝かせると、『バインド』によって拘束したのち、その腹部に跨がる。
「そろそろ教えてもらうっすよ。なんでうちにここまで構うのか」
シャルは少年の頭に手をかざし、目を閉じる。
リーナにされたことを、再現しようとする。しかし。
(うまく行かない)
あの時と違う条件があるとすれば。
(距離?)
シャルは膝立ちになって、ゆっくりと自分の額を、狼少年の額に近づけていった。
魔族の少年の精神世界に入り込む。
扉がいくつかある。どれから入ろうか。
(まあ、いいや。片っ端から入ろう)
シャルは無遠慮に、人の精神を土足で荒し始めた。
「イーガル、アーリア、父さん行ってくるから、母さんと一緒にいい子で待ってるんだよ」
「わかったー」
「わかったー」
父親らしき男が、別れ際に二人の子供の頭を撫でる。
「気をつけてくださいね。お父さん」
「ああ、行ってくるよ。母さん」
あの少年の幼少期、だろうか。父母二人に子供が二人。子供は双子なのだろう、見た目がそっくりだ。そして人間ではない証明に、四人とも耳と尻尾を生やしている。白い狼の魔族。
仕事に出掛けるのか、父親らしき男性は家を出ると、吹雪の舞う中で巨狼の姿となって駆けていく。
残った家族はそれを見送った。
場面が転換する。
一匹の狼が走っていた。
正確には母親が狼の姿となって、子供二人のぼろ衣の端をくわえて走っていた。何かから逃げているような焦燥感があった。
そして逃げきれないという絶望があった。後ろの何かは距離を離すでもなく近づけるでもなく、一定の距離を保ちながら追いかけて来る。
やがて母狼は双子を雪の上に下ろすと、人間に近い姿となって言葉を残す。
「ここからは二人で逃げなさい」
「お母さん・・・」
「なんで?一緒に行こうよ」
「アーリア。お姉さんとしてイーガルを守るのですよ」
「うん」
「母さん?」
「イーガルも、アーリアと強く生きなさい」
「なんで?どうして?」
「アーリア」
「うん。行こう、イーガル」
「なんで、なんで!母さんも一緒に!おい、アーリア!」
「行きなさい。私の可愛い子供たち」
もう抱き締める時間すら残されていないのか、名残惜しさも見せず母親は子供達に背を向ける。
「イーガル、行く」
「なんでだよ!やだよ!母さん!」
「行くの!」
「母さん!母さん!」
「大丈夫。二人を守るためならお母さん、一杯強くなるから」
子供たちに背を向けた母親の姿が、再び巨大な白狼に変化する。
その前に姿を現したのは、それより遥かに巨大な影であった。
吹雪と暗闇に紛れてその全貌を把握することは叶わないが、鋭利な牙を並べるその口が見える。
幼少のイーガルはアーリアに引きずられながら、その牙にべっとりとついた血と一緒に、白く美しい毛が絡み付いているのを目にした。
再び場面は転換する。
双子の前にあの影が立っていた。
彼の父を貪り、母を喰らったその口で、今度は姉を寄越せと言う。
そうすれば、弟だけは食べないでやると、笑いながら言った。
それは狩りですら無かった。腹を満たすついでに弱者を弄んでいるのだ。言うことを聞いたところでやがて食われるのは目に見えていた。
だから、その時姉が取った行動は正しかった。条件を飲み、自らの身を差し出すことで弟が逃げ出す時間を作ろうとした。それはどうしようもなく無力な選択で、けれどその場において最善の選択だった。
何故なら。
場面が転換する。
白狼が雄叫びをあげていた。
かつての二匹の巨狼に比べて小柄と言えるその白狼は、自身より遥かに巨大な肉塊を下に敷いていた。
父親を喪って、母親を喰われて、姉を奪われそうになって、ようやく覚醒した。ようやく、ようやく、力を手に入れた。
アーリアが尻餅をついて呆然と見上げる先で、イーガルは勝利の雄叫びをあげ続けた。
遅すぎた勝利の雄叫びは、泣いているように聞こえた。
「・・・・・・」
違う。これじゃない。
シャルは次の扉に入った。




