幸せなサヨナラを
「わたしね、結婚するの」
「え」
澄み渡るような秋晴れのある日、ぼくは彼女に呼び出された。「彼女」といっても恋人ではなく、ただの高校時代の友人だ。男女間に友情が成立するのか、と問われると難しいところだが、一応そういうふうに付き合えていたと思う。
そして、久しぶりに会った今日、突然告げられた冒頭の一言。高校卒業後は進路が違っていたので、月に一、二回近況報告をする程度だったけれど、そんな話題はまったく出ていなかったので、驚きを隠せなかった。そんなふうに呆然とするぼくを見て、彼女は苦笑をこぼす。
「黙っていてごめんなさい。でも、あなたには直接伝えたかったの」
「いや、うん、確かに驚いた。けど、何かすごいね。おめでとう」
「ありがとう」
そう言って、にこ、とキレイな微笑みを浮かべる彼女からは、幸せがにじみ出ているように感じられた。
「ぼく、ちょっと飲み物買ってくるよ。何がいい?」
「じゃあ、紅茶をお願い。お金はあとで払うから」
「いいよ。安いけど、ぼくからの結婚祝いってことで。もちろんあとでちゃんとしたものも贈るけど、とりあえず」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん。すぐ買ってくるから、ちょっと待っててね」
ぼくは立ち上がり、駆け足で公園の入り口のほうにある自動販売機へと向かった。
高校時代、ぼくは毎日が生きづらくて仕方なかった。人付き合いが苦手のくせに八方美人で、頼まれたことは断れない。人付き合いなんて煩わしいだけだと心の中で毒づくくせに、独りになるのが嫌で、嫌われるのがこわいから、誰にでも気を遣う。
そんなことをしていたら、そのうちむなしくなってきた。こんな人生に何の意味があるのだろうか? 自分を偽り、他人に気を遣い、常に気を張って疲れて。こんなぼくに、何か価値はあるのだろうか? 生きる意味はあるのだろうか?
――いや、そんなものはない。人間は誰でもいつかは死ぬんだ。だったら、生きている意味なんてないし、さっさと死んだほうがましだ。いつか死ぬなら、今死んだって同じだ。
そうしていつしか希死念慮を持ち始めたある日、クラスで席替えが行われた。そのときトナリになったのが、彼女だった。ぼくと彼女が知り合うきっかけは、たったそれだけの理由からだった。誰にでもやさしい彼女は、ぼくにも当然のように話しかけてくれた。最初はあまり関わりを持ちたくないと思っていた反面、単純なぼくは「こんな自分に話しかけてくれるなんて」と少し嬉しくなったことを覚えている。
そんなふうに感じたあたりから、彼女に少しずつ心を開いていき、ついには自分の中の醜く絶望的な感情も話してしまったのだ。引くなら引けばいいし、軽蔑したければそれでいい。ぼくはまた独りに戻るだけだ。普通に幸せそうに生きている彼女に、ぼくの気持ちがわかるはずなんてない。――じゃあ、どうしてぼくはそんなことを彼女に話したのだろうか?
そんな重苦しい沈黙を破って口を開いたのは、彼女だった。
「そう。つらかったんだね」
たった一言、ただ、それだけだった。顔を上げれば、彼女はとてもやさしい微笑みを浮かべていた。
そうだ、ぼくはつらかったんだ。世の中には自分よりもつらい状況に置かれている人がたくさんいるから、それを簡単に比べることはできない。だけど、今ここにいる「ぼく」もつらかった、という気持ちを誰かにわかってほしかっただけなんだ。家に帰って泣いたのは、格好悪いから彼女には内緒だ。
そして、その日から彼女はぼくにとって特別な存在になった。それはきっと、
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
買ってきた紅茶を彼女に渡す。晴れているとはいえ、確実に冬が近づいてきていると思われる気温だ。彼女は缶で手をあたためたあと、ぷしゅ、と開けてそれを口に運んだ。
「相手は、どんな人なの?」
「年上なんだけど、少年みたいなところもあるかな。あとは、とにかくやさしいんだ」
「大人の余裕ってやつだね」
「ふふ、そうかもね」
そう応えて、彼女は嬉しそうに笑う。その口ぶりから、相手は本当に良い人なんだろうということがよくわかった。ぼくにそんなことを言われなくても、彼女が選んだ人だ、間違いないだろう。
だけど、それを直接ぼくに伝えてくれたことがとても嬉しい。だから、ぼくも誠意をもって返さなければならない。
「あの、さ」
「うん?」
くるり、こちらを向いた彼女から目をそらし、一度大きく深呼吸をする。そして、再び彼女のほうを向き、ぼくはその目を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「ぼくは、君に救われたんだ。絶望の淵にいたぼくに、君は救いの手を差しのべてくれた。どんなに重い話も、汚い言葉も、いつも黙って聞いてくれた。だから、ぼくは今こうやって生きていられる。君には感謝してもしきれないと思っているんだ」
ありきたりな言葉かもしれないけれど、それは全部本当の気持ちだった。ぼくは彼女に救われた。ぼくは彼女がいたから生きてこられたんだ。そして、
「だから、きっと君なら大丈夫だと思うけれど、どうか相手の人も生かしてあげて。本当の愛は人を生かすんだってさ。――あと、最後にもう一つ」
にこり、ぼくは精一杯の笑顔を浮かべてみせた。
「どうか、お幸せに」
ぼくは今、本当はどんなカオをして笑っているのだろうか。愛想笑いになっていないだろうか。哀しそうに眉を下げてはいないだろうか。
すると、高校時代にずっとそうしてもらっていたように、黙って話を聞いていた彼女が、にこ、とまた笑った。
「ありがとう」
「それはこっちのセリフだよ」
「話してくれて、ありがとう」
「うん」
「生きていてくれて、ありがとう」
「うん」
「あなたもどうかお幸せにね」
「うん」
「では」
「――うん」
「「さようなら」」
ぼくは、彼女がすきだった。友人だと言ったけれど、本音を言えば、恋人になりたかった。
だけど、彼女を心から祝福しているのも本当だった。だから、この気持ちを悟られてはいけない。ぼくは彼女の「よき友人」として、彼女の幸せを誰よりも願おう。
またいつか逢えたなら、どうかいつものようなやさしい笑みで話しかけてください。
ありがとう、そして、お幸せに。




