多神論者の苦悩
「あのー」
「うん?」
「残念なお知らせがあります」
「えっ、何それ。聞きたくない」
「実はですね」
「シカト?」
「実はワタクシ」
「ちょっ、あーあーあーあー聞こえない!」
「浮気をしてしまいました」
「あああああ……あ? 何だって?」
怪訝そうなカオがこちらに向けられる。そのタイミングとセリフからして、一応わたしが何を言っていたのか、断片的にだとしても聞こえていたらしい。こちらの声をかき消すような大声で叫び、耳まで塞いでいたくせに、それは演技だったということか。
わたしはふぅ、と一つため息をついてから、彼女のリクエストに答えることにした。
「だから、浮気をしてしまいました」
「誰が?」
「わたしが」
「誰と?」
「先輩と」
「先輩って?」
「同じ部活で同じパートの先輩」
「それって女子じゃないの?」
「そうだよ?」
わたしがにこ、と笑って肯定すると、彼女は呆れたようなカオになり、はあー、と大きなため息をこぼした。そして、しまいにはぐでっと机に突っ伏してしまったではないか。何がそんなに気に入らなかったのだろうか。先ほどの食いつきの良さから一転して、あまりに露骨な興味の失せ方に哀しくなる。
すると、彼女はもぞもぞと頭だけを動かして、こちらを見つめてきた。
「女同士は浮気なんて言わないよ。ていうかあんた、そもそも彼氏がいないんだから、浮気のしようがないじゃん」
「いやいや、浮気っていうのは何も異性にだけ当てはまる言葉じゃないんだよ。心が浮ついて変わりやすいことだもん」
「はいはい。で、それがどうしたの?」
「うん。だから、ごめんね」
「は?」
「ごめん」
眉を下げてもう一度謝れば、浮気をしたと告白――いや、懺悔したときと同じように、わけがわからないというようなカオをされた。
余計意味がわからないんだけど、と表情に出ていた感情をそのまま言葉にした彼女が身体を起こす。わたしはイスから立ち上がり、すぐ横にあった窓から外を眺めた。もうすぐ、日が沈む。
「わたしさ、君に救われたって言ったこと、あったよね。わたしはあのとき、本当に嬉しくて、君のことを神様みたいだって思ったんだよ。この人なら、わたしのすべてを理解してくれる、ってね」
「大げさな。そんなのムリだよ」
「うん。ムリだった」
彼女の言葉を、素直に肯定する。もしかしたら、それはただの謙遜で、まずは否定すべきだったのかもしれないけれど、わたしははっきりとそれを肯定した。だって、それが真実だったのだから。
言えないのか、言わないのかはわからないけれど、無言は先を続けろと促しているのだと勝手に解釈して、わたしは再び言葉を紡いだ。
「君は、わたしのすべてを理解してくれるわけじゃなかった。だから、先輩に浮気したんだ。自分を理解してくれる人のところへ行った。だから、ごめん」
けれど、ねえ、これは悪いことなのかな?
三度目の謝罪を口にしながらも、心の中にはそんな疑問が浮かんでいた。ああ、きっとわたしは悪いだなんて本当は思っていないに違いない。だから、そんな疑問が出てくるんだ。
「どうして、謝るの?」
ぽつり、わずかな沈黙を挟んで投げかけられた質問に驚いて、振り向く。それは、ある意味わたしが望んでいた答えだったはずなのに、何故わたしは驚いているのだろうか。
彼女も同じことを思ったらしく、変なカオ、と言ってくすくすと笑った。
「そんなの、普通だよ。浮気なんて言わない。人には分相応? 適材適所? ってものがあるんだし」
「そう、かな」
「そうだよ。それに、あんたの言うとおりだよ。わたしは、あんたのすべてを理解することなんかできない。わたしは、神様なんかじゃないんだからさ」
人は、神様に憧れた。その正しさ、美しさ、善さ、そして、真理を欲し、そのすべてに倣い、追いつけるように努力した。
だけど、追いつくことは、同等になることを意味する。追いついてしまえば、こんなものかと見下すこともできる。いつかは追い抜くことも可能かもしれないだろう。人は、神様に近づけば近づくほど、神様への憧れを失ってしまうのだ。
きっと、わたしも同じだった。わたしを救ってくれた神様のような彼女と同等になることで、彼女は神様ではなくなった。だから、わたしは浮気をしてしまったのだ。先輩という、新しい神様を求めて。
――じゃあ、彼女は? 地に墜ちた、いや、落とされた神様は、どうなってしまうのだろうか?
「わたしは、神様じゃない」
「じゃあ君は、何なの?」
「わたしは、あんたの友達だよ」
そう告げた彼女の声はとても力強くて、どこまでもやさしかった。
ああ、そうか。彼女はわたしの上にも下にもいない。わたしと同じ目線に立って、対等に存在しているのだ。あの日、彼女に手を差しのべられた瞬間に、わたしが彼女と同じところまで引き上げられていたのだ。
――それなのに、わたしは。
「ごめん、ね」
「だから謝らなくていいって。今回はわたしが至らなかっただけだし。ていうか何? 浮気ってことは、わたしってあんたの恋人なわけ? いやあ、照れるなあ。……って、ちょっと、突っ込んでくれなきゃ困る――って、もう」
何泣いてんの、と呆れたようなつぶやきとともに、彼女の腕でごしごしと乱暴に顔を拭かれた。ちょっと痛い。
「バカだね、あんたは。人間なんだから、友達でも一つや二つくらい隠し事があってもいいじゃんか」
「うん」
「わたしなんかより頼れる人はいっぱいいるし、そういうときは素直にそっちを頼ればいいんだよ」
「うん」
「あんたが必要だと思ったときに、わたしを頼ってくれればそれでいいんだから」
「うん」
「はい、もうこれでオワリ」
「うん。あのさ、ごめんね」
「だから――」
「それから、ありがとう」
何回目かわからない謝罪のあとのお礼。それを聞いたときの彼女の照れくさそうなカオを、わたしはきっと忘れないだろう。そして彼女は、やっぱりわたしの神様だった。




