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last Eden  作者: 久遠夏目
2012年
66/73

最後の快楽はまだ向こう

「死ぬの?」

「ああ」


 背後から突然聞こえた声。驚かなかったわけではないし、その質問もこの状況も異常だったけれど、ぼくは冷静に、さもそれが当然であるかのようにさらりと答えた。

 すると、その声の主も焦るわけではなく、普通に会話を続けてきた。


「じゃあ、これも一応聞いておいたほうがいいのかな。どうしてだい?」

「それは、何故死のうとしているのか、という意味か?」

「うん、そうだね」

「理由なんて特にないさ。死にたいから死ぬ。それじゃあダメか?」


 本当に、特別な理由なんてなかった。しいて言うなら、自分が生きている意味がわからないからだ。自分はここに存在しなくてもいいはずなのに、こうやって存在している。それは何故だろうか。

 いくら考えても、その答えは見つからなかった。見つからなかったということは、理由なんてないということだろう。つまり、自分はここに存在する必要なんてないのだ。だったら、こうやって生きている意味はない。それなら、死んでしまおう。そうやって、あるべき状態に戻ろう。そうしてぼくは、今から死のうとしているのだ。

 すると、今度はくすくすという笑い声が背後から聞こえてきた。


「いいね、君。とても面白いよ。ぼくはいいと思うよ。理由がないから死んじゃいけないなんて理由も、どこにもないからね」

「じゃあ、止めないのか?」

「君が止めてほしいって言うなら話は別だけれど、君はそんなことを望んでいないだろう?」


 ぼくの思考を見透かしたような口調に、つい数分前に初めて会った人物に自分の何がわかるのだろうか、と思ったけれど、当たっていたから反論できなかった。それに、別にわかってほしかったわけでもないのだから、勝手にわかってくれたことは、むしろ好都合なのかもしれない。


「でも、少しだけぼくの話を聞いてもらってもいいかな? 別に君の自殺を止めようと思っているわけじゃないから、ただの独り言だと思ってくれればいいし、つまらないと思えば途中で飛び降りても構わない」


 その飄々としたセリフから、彼は本当にぼくを止める気などないのだということがわかる。だったら何故わざわざ話しかけたのか、とも思ったけれど、それが独り言だというのなら、彼の話が終わってから死ぬのも遅くはないだろう。


「何だ」


 そう話を振れば、彼はありがとう、とお礼を言ったあと、一呼吸置いて話し始めた。


「シェイクスピアは言った。人間、一度しか死ぬことはできない、と」

「当たり前だろう」

「またある人はこう言った。天国はすごくいいところらしい。だって、行った人が誰一人帰ってこないのだから、と」

「……何が言いたい?」


 気付けば振り向いて、心の中で思ったことをそっくりそのまま声に出していた。そもそも、何故自分は独り言に対して合いの手を入れているのだろうか。

 そんなことを考えて眉間にシワが寄り、相当訝しげなカオをしているであろうぼくを見て、彼はにこ、と微笑む。


「つまりさ、『死』は一度しかない、とても良いものだ、ってぼくは解釈したんだ。だから、ぼくはまだ死なない。楽しみは最後にとっておきたいからね。もしくは、苦しんで苦しんで、そして最後に楽になりたいんだ」

「今すぐ楽になりたいとは思わないのか」

「どうやらぼくにはマゾの気があるらしくてね。苦しみを味わうのも悪くないかなって思うんだよね」


 やれやれ、と自分の性癖に呆れたように、肩をすくめて首を振る彼。どうやらぼくが最後に出くわしたのは、とんでもない変人だったらしい。

 でも、もしも彼が言うように、「死」が「良いもの」であるのなら、今ここで死んでしまうのはもったいないような気もしてきた。何故なら、ぼくも楽しみは最後にとっておきたい性格だからだ。ただし、ぼくは彼のようにマゾではないので、苦しみを味わいたいとは思わないけれど。


「君は、死にたいから死ぬんだよね」

「そうだ」

「じゃあ、人生が苦しいとか、嫌になったとか、そう思っているわけじゃないんだよね」

「まあ、そういうことになるな」


 そう、ぼくが死のうと思ったのは、本当に「何となく」なのだ。だけど、さっき彼も賛同してくれたように、それで死んではいけないという決まりはない。


「じゃあ、ぼくと一緒に生きてみない?」

「は?」

「死にたいと思うから死にたいのであって、生きたいと思えば生きたくなるかもしれないだろう?」

「そういうものだろうか」

「そういうものだよ。君は死にたいと言っているけれど、『死』に何か希望を持っているわけではないし、かといって『生』に絶望しているわけでもない。それなら、どちらにも希望を持つことは可能なはずだ。生きたいと思って生きて、最後にとっておきの『楽しみ』である『死』を迎えればいい。まだ死ぬには早いよ」


 にこり、と無邪気な笑みを浮かべる彼の言うことは、正論だった。ぼくは確かに死にたいと思ってはいるけれど、そこには「何もない」のだ。だって、あくまで「何となく」死にたいだけなのだから。

 何度も言うように、理由がなければ死んではいけないということはない。だけど、何かをするなら、そこに何か意味がほしいと思うのは当たり前ではないだろうか。何もないなんて、嫌だ。

 ――ああ、そうだ。ぼくはまさに「意味」がほしかったんじゃないか。


「人生に、意味はあるだろうか」

「さあ、それは生きてみなくちゃわからないよ」

「死ぬ意味は、あるだろうか」

「それはきっと、『死』がとても良いものだからだろうね」

「だったら、死んだほうがよくないか?」

「そうかもね。でも、ぼくは」

「苦しんで苦しんで、最後に死にたいんだろう?」


 彼の言葉を遮って続きを言えば、彼は驚いたように瞠目したが、すぐににこ、と満面の笑みを浮かべた。


「そう。楽しみは最後にとっておく主義なんだ」

「奇遇だな、ぼくもだ。だから、ぼくは生きる道を選択することにした」

「うん、とてもいい選択だと思うよ。それじゃあ」


 これからよろしくね。

 こちらに近づいてきた彼がす、と手を差し出す。ぼくはこの手を取って、生きることに決めた。




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