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last Eden  作者: 久遠夏目
2012年
62/73

ささやかな天使の欲望

「きゃっ」


 小さな悲鳴に思わず振り向けば、そこにいたのは天使――のような女ノコだった。どうやらこの人ごみの中で誰かとぶつかって転んでしまったらしく、地面にへたりこんでいる。

 ぼくは何故か彼女から目が離せなくて――今思えば、きっと一目ぼれだったのだろう――気付けば自然と手を差し出していた。


「大丈夫かい?」


 そう問えば、ゆっくりと頭を上げた彼女のカオにキレイな笑みが咲く。


「ありがとうございます。やさしいのですね」


 そうしてぼくの手を取った彼女は、最近このあたりに引っ越してきたのだという。父親の仕事の都合で転勤族らしく、ここにもいつまでいられるかわからないということだった。

 確かにその制服は近くの女子高のもので、ぼくの通っている男子校とはご近所だった。そういえば、この前クラスメイトがそこの女生徒と付き合うことになったとはしゃいでいたっけ。

 途中で別れるとき、ぼくが思い切ってまた会えないかと尋ねてみると、彼女はやわらかく微笑み、「わたしでよければ、よろしくお願いします」と言って頭を下げた。


       * * *


 それから、ぼくたちは放課後に公園で会うようになり、色んな話をした。この街のこと、ぼくの学校のこと、ぼく自身のこと、彼女自身のこと、彼女の今までの学校のこと――挙げればきりがないくらい、とにかくたくさんの話をした。

 会話を交わすうちに気付いたことは――いや、最初に出逢ったときからの印象でもあったのだが――彼女はとても純粋で、欲のない人間だということ。だから、ある日ぼくは、それを誉め言葉として彼女に伝えてみた。


「君は欲がないね」


 すると、彼女は何故か眉を下げて、少し困ったような微妙な笑みを浮かべた。


「そう、かもしれません。わたしは、こうやって生きているだけで幸せですから」

「今どき珍しいね」

「でも、それが面白くない人もいるでしょう? わたしはつまらない人間なのですよ」


 どうやら彼女は「欲がない」ということを、良い意味として受け取らなかったようだ。ぼくは、そんなことはない、とすぐに言いたかったけれど、言えなかった。そんなことを言えるほど、ぼくは彼女のことを知らない。

 だけどきっと、そう言ってあげるのが正しかったのだ。ぐ、と黙りこんでしまったぼくを、彼女はまた困ったような笑みで見つめていた。


       * * *


 それから数日後、いつもなら待ち合わせの時間よりも早く来ている彼女がいなくて、ぼくはとても焦った。もしかして、引っ越してしまったのだろうか。あのことが原因でぼくに愛想を尽かし、何も言わずに去ってしまったのではないだろうか――嫌な予感がぐるぐると頭をめぐる。

 と、そのとき。


「こんにちは。遅くなってしまってごめんなさい」


 その声に顔を上げると、息を乱しながら彼女がこちらに駆け寄ってきた。何だ、ただ遅刻しただけか、と安堵したが、ぼくの胸はまだざわついている。


「大丈夫かい?」

「ええ、お見苦しいところを見せてしまってすみません」

「君も遅れることがあるんだね」

「あら、わたしだって人間ですよ。遅刻くらいします」

「そうだよね。とりあえず、座ったらどうだい?」

「はい、ありがとうございます。でもその前に、今日はあなたにお伝えすることがあるのです」

「……何?」


 沈黙が訪れる一方で、ぼくの心臓はうるさいくらいに逸っていた。ダメだ、嫌な予感がする。いや、嫌な予感しか、しない。

 ぼくがごくり、とつばを飲んだ次の瞬間、彼女が口を開いた。


「また父の転勤が決まりました。だから、もうすぐこの街とも、あなたとも、お別れです。今まで、こんなつまらない人間に付き合ってくださって、ありがとうございました。短かったけれど、あなたと過ごした時間はとても楽しかったです」


 また会ってくれるか、とぼくが尋ねた日と同じように、深々と頭を下げてお辞儀をする彼女。それはどこまでも美しく、彼女の律儀な性格をよく表していた。

 そして、その頭をゆっくりと上げたかと思うと、彼女はにこ、と微笑んだ。それはやっぱりキレイだったけれど、どこか泣き出しそうにも見えて、反対にぼくが泣きそうになってしまった。

 だけど、それを我慢して、ぼくは声を絞り出す。


「君は、つまらなくなんかない」


 あのとき、すぐにそう言えなくてごめん。そう謝りたいのに、のどがつかえて言葉が出てこない。

 すると、そんなぼくを見た彼女はふ、と眉を下げて薄く微笑んだ。


「ありがとうございます。お世辞でもそう言ってもらえて嬉しいです」


 違う、お世辞なんかじゃない。ぼくは本当にそう思っているんだ。そして、ぼくはそんな彼女のことが、


「では、お世話になりました。またいつかお会いできたらいい――」

「いつか、なんてぼくは嫌だ」

「え?」

「ぼくは君のことがすきだから、これで終わりになんかしたくない」


 先ほどまでとは打って変わって、ぼくの口からは自分でも意図しないうちにすらすらと言葉が紡がれていた。だけど、それがウソだというわけではなく、むしろ、すべて本音だった。


「君はつまらなくなんかない。純粋で、やさしくて。欲がないのは悪いことじゃないだろう? ぼくは君がうらやましいくらいだよ」

「わたしには、本当に何もないのですよ」

「君という存在があるじゃないか」

「……あなたは、こんなわたしをすきだと言ってくれるのですか? こんなわたしでも――愛して、くれますか?」

「ああ、もちろん。それにね」


 それを欲って言うんだよ。そんな欲なら、大歓迎だけどね。

 そう言うと、彼女はまた泣き出しそうなカオで、しかし、今度はどこか嬉しそうなカオで微笑んでいた。




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