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last Eden  作者: 久遠夏目
2010年
49/73

夢想家と科学者

 黒いカーテンが引かれた薄暗い部屋の中に、蠢く影が二つ。その二つの影――暗い部屋とは対照的に、白衣を着た二人の人間――は、先ほどからずっと同じ距離を保っていた。

 というのも、一人は顕微鏡をのぞいているためその場から動かなかったし、もう一人は試験管をカチャカチャと動かしながらメモを取り、やはり同じ場所に居座っていたからだ。


「夢想家だな」

「……」

「おい、シカトか?」

「え? ああ、ぼくに声をかけていたんですか?」

「当たり前だろう? ここにはわたしとお前しかいないんだから」

「すみません、ただの独り言かと思ったもので」


 にこり、顕微鏡から顔を上げた男は嫌味ともとれるセリフをさらりと吐いて、とてもさわやかに笑ってみせた。それを見て、試験管を持つ手を止めた女は肩をすくめ、大げさなくらいに盛大なため息をつく。


「まったく、お前はもう少し現実を見ろ」


 言いながらもう一度ため息をこぼし、彼女はまたカチャカチャと試験管を動かし始めた。


「何のことですか?」

「これからの時代、科学はもっと進歩する。そこでお前みたいに人間の尊厳がどうのこうのと言っているヒマはないってことだよ」

「ふむ、そんなヒマがあったら研究を進めろ、と」

「そういうことだ」


 彼も再び顕微鏡をのぞきこんでいたので、二人は互いの顔を見ずに会話をしている。それは、この部屋にあるたくさんの機械のように無機質だった。


「理想を持つのもほどほどにしておけ。そんなことだから上司ににらまれるんだ」

「おや、心配してくれているんですか? でも、あいにくぼくは優秀なので」


 ぐ、と彼女はそこで言葉に詰まった。何故なら、それが真実だったからだ。

 確かに彼女の言うとおり、彼は上司から目をつけられている。しかし、彼が自分で言ったように、彼は非常に優秀な人物だった。そのため、表面上は特に注意されることもなく、文字通り「にらまれている」だけなのだ。

 彼が飄々とした態度なのはいつものことだったが、彼女は三度ため息をついた。


「とにかく、理想と現実は違うんだ。くだらない考えは捨てろ」

「それは心外ですね。ぼくを注意するよりも前に、あなたたちこそ倫理を持って科学をすべきではないですか?」


 先ほどとは打って変わったような彼の鋭い視線が、彼女に向けられる。普段の温厚な彼なら絶対にこんな厳しいカオはしない。こういうカオをするのは、「こういう話題」のときだけだ。

 しかし、彼女はそれに慣れているのか、特にひるんだ様子もなく、逆に彼を嘲るように笑った。


「ははっ、本当に夢想家だな、お前は。科学に倫理なんていう『ブレーキ』はいらない。科学はただ発展するのみだ」

「じゃあ、科学は何をやってもいいというんですか? 倫理なしの科学など、兵器と同じです。それで人間に害を及ぼしたらどうするんです?」

「それをさらに研究することで、悪は善に変わる。人間はどうせあとで認めるんだ。あれは正しかった、あれをやっておいてよかった――ってね。善悪の評価は行為のあとにあるんだよ」

「そのためには、多少の犠牲も仕方がないとでも?」


 彼からの視線を遮るように、彼女は持っていた試験管をすっと目の前に差し出した。


「そうだ。それが科学者というものだろう?」


 にやり、彼女の口元が不吉に歪む。そんな彼女を、彼は先ほどよりも強くにらみつけた。


「それに、残念ながら世界の流れはもう止まらない。お前一人がそんなことを言ったところで、世界は何も変わらないんだよ」

「それは間違っています。世界は世界、ぼくの考えはぼくの考え? それでは人間はただの人形です」

「お前の考えはもう古い。科学に倫理は必要ないんだよ」

「いいえ。ぼくたちは何のための科学者ですか? 人間のための科学ですか? それとも、科学のための人間なんですか?」

「我々の存在意義を考えるのなら、後者が正しい。科学者は科学のための人間だ。しかし、科学は人間の幸福のためにある」

「ならば、ぼくたちは人間のことを、人間の尊厳を一番に考えるべきでしょう。人間は、『モノ』ではないのですよ」


 交錯する二人の視線。それは十秒にも満たない短い時間だったが、あきらめたようなため息とともに先に目をそらしたのは、彼女のほうだった。


「もういい。さっさと続きをやれ」

「酷いですねえ。話しかけてきたのはあなたじゃないですか」

「まったく、お前は本当に愚かな夢想家だよ。何でそんな理想ばかりを語る人間が、科学者になったんだか」


 やれやれ、と彼女が肩をすくめると、彼は普段のような穏やかな笑みを浮かべた。


「誰か一人だとしても、理想を持ってそれを実現させようとする人間がいなければ、この世界は崩壊してしまいますから」

「ふん。綺麗ごとだな」

「それでも、ぼくは理想を持ち続けますよ。それを実現させるためにね」


 彼女は返事をするのが面倒になったのか、そこで会話は途切れた。

 薄暗い部屋には、彼女が持つ試験管の無機質な音だけが響いていた。




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