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last Eden  作者: 久遠夏目
2009年
38/73

願いは追憶の彼方

 本当の「死」とは、人の記憶から消えてしまうことである。だから、もし死んだとしても、誰かがその人のことを憶えていれば、その人は記憶の中で永遠に生き続けるのだ。


「――って、誰かが言っていたっけ。くだらないよね」


 吐き捨てるような口調で、彼はそれまで自分が紡いだ言葉を否定した。


「どうして?」

「人は忘れていく生き物だからさ。たとえ憶えていたとしても、その人が死んだら終わりだ。永遠に生き続けることは不可能だよ」

「君は、誰かに憶えていてほしいの?」

「まさか」


 彼は嘲けるように鼻で笑ったが、別に人を見下しているわけじゃない(と思う)。ただ、彼はそんな性格なだけなんだ(と思いたい)。


「ぼくはむしろ忘れてほしいね。人の記憶からキレイに消えて、この世界に存在しなかったことにしてほしい」

「どうして?」


 ぼくには、彼の言うことが理解できなかった。確かに人間は忘れていく生き物だけど、すぐに、それもキレイさっぱり忘れるなんて無理だと思う。ましてや、忘れられたからといって、自分が存在していなかったとこになるなんて有り得ない。

 心の中でそう反論していると、ぼくの質問に対しての答えを考えていたらしい彼がゆっくりと口を開いた。


「そうだな、ぼくは早く死にたいから、かな」

「どうして? 死んでどうするの?」

「どうもしない。ただ、在るべき場所に還るだけさ」


 そう言って肩をすくめた彼の表情は、とても穏やかだった。それが「死」について語る人のカオだろうか。彼はあまりにも達観しすぎているような気がする。


「でも、そんなの哀しいよ。むなしすぎる」

「むなしくないよ。だって、ぼくは初めから存在しなかったことになるんだから」

「だけど……」

「君ならわかるだろう? これはぼくの『願い』なんだ」


 ぼくには彼の「願い」がわからないし、理解できない。

 だけど、ぼくは彼の性格を知っているし、理解もしている。


「もしぼくが君より先に死んだら、そのときはキレイさっぱり忘れてぼくが存在しなかったことにしてほしい。これは、君にしか頼めないことだ」


 そして、それを飲みこんでしまう自分の性格も。


「……努力、してみるよ」

「ああ、よろしく」


 ぼくがうつむき加減に低くつぶやけば、彼は満足そうににこり、と笑った。

 彼は天涯孤独の身で、知り合いと呼べる人はおそらくぼくしかいない。ほとんど外にも出なかったし、写真も嫌いだったから、物質的な「記憶」――つまり「記録」は何もない。だから、彼が死んだときにぼくが彼を忘れるのならば、彼は完全にこの世界から消えてしまうのだ。

 でも、それは同時にぼくが独りになることを意味する。ぼくも彼と同じく天涯孤独で、親しい人間は彼しかいなかった。つまり、彼を忘れるということは、完全なる孤独だ。

 だけど、ぼくと彼には決定的な違いがある。だから、ぼくは。


「じゃあぼくはこれで帰――」

「うん。還って、いいよ」

「か、はっ」


 うめき声を上げながら、彼は膝を折って崩れ、床に倒れた。ぼくは、帰ろうとする彼を後ろから刺したのだ。彼の望みどおり、彼が在るべき場所へ還れるように。


「っ、君もなかなか荒っぽいな……」

「痛くして、ごめんね?」

「ははっ……イマサラ、だね……、っ」


 傷口からどくどくと血があふれ出す。そこが急所かどうかはわからないけれど、その出血量からして、彼はもうすぐ死ぬだろう。

 ――なのに、ねえ、どうして。


「どうして、君は笑っていられるの――?」


 加害者であるぼくが泣いていて、被害者である彼が笑っている。苦痛に顔を歪めながら、しかし確実に彼は笑っているのだ。ぼくには、到底理解できない。


「愚問だね、君。ぼくは死にたいから、って言っただろう?」

「ぼくには、理解できないよ……」

「ああ、君にはきっと、っ一生かかっても理解できないだろうね……っく」


 彼の声が次第に小さくなっていく。終わりの時が近づいているのだろう。


「……死は、こんなにも、痛いものだったんだね……」

「……」

「だけど、こわくはないよ。これでようやくぼくの願いが、叶うんだから……」

「もう、しゃべらないほうが……」

「……君は、やっぱりぼくの一番の理解者だよ」

「さっき言ってたことと矛盾してない?」

「気、のせ……、っ」


 彼は苦痛に顔を歪めると、最後にいつもの嘲笑を浮かべ、こちらを向いた。真っ直ぐな視線が、ぼくを射抜く。


「君は、ぼくの『願い』を叶えてくれるよね……?」

「――もちろん。ぼくは君の、一番の理解者だからね」


 涙でぐちゃぐちゃになった顔に精一杯の笑みを浮かべながらうなずくと、彼は少し困ったように微笑し、やがて息を引き取った。

 ぼくは、彼の一番の理解者だった。同時に、彼もぼくの一番の理解者だった。だから、


「ずっと、憶えていてあげるね」


 最後の困ったような微笑みは、こうなることを予想していたからだろう。ぼくが彼のことを忘れるなんて、できるわけがなかったんだ。

 ぼくと彼の決定的な違い。それは、彼はいつも死にたがっていたけれど、ぼくはまだまだ生きていたいということ。そうしてぼくは、生きて彼のことを憶えていたかったのだ。

 ぼくが死ぬまで、彼も本当に死ぬことはない。だから、彼の「願い」は叶わない。




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